※現在「小説家になろう」にて聖将記の改訂版を発表しております
※なろうでの作者名は「玉兎」になります
※別個にお知らせの記事をつくろうとしたのですが「英文のみの投稿はうけつけておりません」と出てしまうため、既存の記事でお知らせする形になりました
「や、やああぁぁぁ……」
気合の声、というにはいささかならず迫力が足らない掛け声と共に、繊弱な容姿の少年が打ちかかってくる。
稽古がはじまっておよそ半刻あまり。未だ少年の木刀は俺の身体に一度たりとも触れておらず、反対に俺の木刀は容赦なく少年を打ち据えている。そのため、少年の姿は控えめにいってもぼろぼろだった。
それでも諦める素振りすら見せないこの幼馴染の姿勢は見上げたものだ、とお世辞ではなくそう思う。日頃、貧弱な体格や自信のない言動から、家臣や領民からひそかに『姫若子』――お姫様みたいな若殿――などと囁かれてはいるものの、時折垣間見せる心性の強さは、疑いなく土佐七雄の一、長宗我部家の跡継ぎたるに相応しいものであろう。
ただ――
(惜しむらくは、この熱意がさっぱり実力に反映されないことなんだよなあ……)
振り下ろされた木刀をこともなげにはじき返しながら、俺は胸中でそう呟いた。
俺の視線の先にいる少年の名を長宗我部元親という。いずれは長宗我部家当主となるであろう人物である。
しかし、その外見は柔和を通り越して繊細ですらあった。初対面で、元親の性別を見分けるのはなかなかに難しいことだろう。
稽古の邪魔にならないように頭の後ろで結わえている黒髪は、ほどけば長く膝元まで伸びている。これが見事な漆黒で、城の女中衆が冗談まじりに嫉妬の言葉を口にするほどだった。
女と見まがう端整な顔立ち。その円らな瞳に浮かぶ玉のような雫は、先刻からの打突の痛みゆえか、それとも自らの無力を嘆くゆえだろうか。
そして、これまた城の女中衆が冗談まじりに嫉視する白磁の肌には、そこかしこに赤い痣が浮かびあがっていた。
これだけ痛めつけられ、なお向かってくる気概は称賛に足るものだ。
だがあいにくと、俺と元親の力量差は気概だけで覆せるものではなかった。俺が長宗我部家随一の使い手である、というわけでは無論ない。たんに元親が弱すぎるのである。
剣筋を乱したまま、再び闇雲に打ちかかって来る元親に対し、俺は無造作に一歩前へ踏み込み、相手の力を利して鳩尾部分に木刀を突き立てる。
「――が、ぁッ?!」
苦痛の呻きを宙に残したまま、元親の身体は比喩ではなく宙を飛んだ。
凍りついたような数秒の後、元親は地面に打ち付けられ、それでもなお勢いは止まらず、そのまま後ろに転がっていく。
三度、転がった後、ようやく元親の身体はとまったが、立ち上がることはおろか、顔をあげることさえできず、その口からはひゅうひゅうとか細い呼吸の音が漏れるのみであった。
一応、胴具をつけた上での稽古とはいえ、鳩尾部分への衝撃は相当の苦痛だろう。くわえて、胴具はあくまで万一に備えて着ているだけで、先刻からの稽古では俺は遠慮も容赦も一切せず、胴以外の部位を幾度も打ち据えている。下手すると骨の一本も折れているかもしれない。
実のところ、周囲の見物人たちから俺に向けられる視線は、すでに非難や危惧を通り越して殺意に近いものに変じており、幾人かが刀の柄に手をかけているのが見てとれた。
とはいえ、彼らが面と向かって俺を詰問してくることはない。なぜといって、これは元親自身が望んだものだからだ。この稽古が終わる条件は三つ。元親が俺から一本取るか、それとも元親が「参った」と口にするか、あるいは時間切れになるか、だった。このいずれかにならない限り、この稽古は終わらないのである。
今日に関して言えば、俺は岡豊城に泊まる予定なので、時間切れはない。したがって、まだしばらくは稽古を続けねばならないと考えていたのだが。
「まったく、懲りないわね、元親も」
その声が周囲の人垣を割って飛び込んできたとき、正直、俺はほっとした。無論、表情には出さないように注意したが。
その人物――久武家の息女である久武親直は、やや釣り目がちな顔に呆れた表情を浮かべ、元親に声をかけた。
「あんた、これで無様に地面に転がったの、何度目よ? いい加減、颯馬から一本とるだなんて諦めたら?」
「…………う、ち、チカちゃん」
その声を聞き、元親はふらつきながらもかろうじて立ち上がった。ようやく痛みが引いた、というのもあるだろうが、好きな娘の前で格好悪いところを見られたくなかったのだろう。
もっともそんな男の意地に感心するような親直でないことを、俺はよく知っていた。元親同様、親直とも幼い頃からの馴染みなのである。
「まったく情けないったらないわね。かなわないにしても、せめて一度くらいは意地を見せてみなさいよ。いい年した男がやられっぱなしで恥ずかしくないわけ? 今のあんたに比べたら、案山子の方がまだ役に立つわよ」
「……う、ぅ……」
親直の言葉に、元親は反論することも出来ずに押し黙るだけだった。
相変わらず元親には容赦がない、と俺は苦笑する。これでも侍女や小姓らに優しい言葉をかけたりする一面もあるのだが――まあ、いつもというわけではないんだけど。
親直はやや釣り目がちながら、まず秀麗といってよい容姿の持ち主であり、当人もそれを自覚して振舞っている。勝気な表情が良く似合う美少女の存在は、女っけの少ない長宗我部家における紅一点として、家中の人気をほしいままにできる――はずだった。実際、それなりに若衆からはちやほやされているようだ。
しかし、長宗我部家には親直を越える人気の持ち主がおり、親直がどれだけ頑張っても一番になることは出来なかった。
自分の容姿に自信を持つ親直にとって、これは屈辱である。しかも、その相手が同性ですらないとあっては尚更だ。
まあ要するに元親の人気に及ばないから嫉妬してるのである。なんというか、実に大人気ない。
とはいえ、親直が元親に対してひねくれた対応をしてしまうのもわからないではない。
男のくせに自分より人気があり、その上、当の元親が自分に好意を向けてくるのである。意地の悪い言動も、多少は理解できようというものだった。
とはいえ。
「ほれ、部外者は黙って見学してろ、親直」
好きな娘に悪し様に罵られるのは稽古の範疇に入らないだろう。俺は割り込んできた親直に下がるように口にした。
すると親直は自分がのけ者にされたことに腹を立てたようで、不機嫌そうに俺を睨みつけてきた。
「なに、まだ元親のこと苛め足りないわけ? こんな女みたいなやつを苛めて喜ぶなんて、うちの兄貴とは反対方向に変な奴ね、あんたも」
「勝手に人を変態扱いすな。まだ稽古が終わってないってだけだ。元親はまだ一本とってないし、参ったとも言ってないからな」
そう言って俺は元親に向かって木刀を構えた。
本音を言えば、さっきの一撃で気絶させるつもりだったのだが、度重なる稽古の成果なのだろうか、どうも最近の元親は、徐々にではあるが打たれ強くなっている気がする。
少なくとも、この稽古をはじめたばかりの頃の元親ならば、とうの昔に意識を手放していただろう。
そして、意識がある以上、元親は決して参ったとは言わないことを俺は知っていた。
女子と見まがう繊弱な容姿や、おどおどとはきつかない態度などから誤解されがちだが、元親はひとたびこうと決めたら、意地でもそれを貫こうとする芯の強さを持っている。それは、今の元親の姿を見れば明らかだろう――などと俺が考えた時だった。
「このようなところで何を騒いでおる?」
そんな声と共に姿を現したのは俺たちが良く知る人物だった。ついでに言えば、ついさきほど口にしていた人物でもある。
俺より頭一つ高い長身、思慮の深さを感じさせる理知的な眼差し、端整でありながら男らしさを湛える容貌は家中随一との呼び声も高く、城の女中衆の憧憬の視線を一身に集める人物である。
その姿に気づいた見物人(男)の中には、あからさまに顔をしかめる者もいた。それも結構な数。
この涼しげな色男が、金も力もないならまだ世の男(俺含む)にとって慰めがあるのだが、あいにく天は寵愛する人間には二物も三物も与えるようで、若くして久武家の家督を継ぎ、文武両道、長宗我部家当主の信頼厚い重臣だというのだから、まったく世に平等などありえないということが良くわかる。
久武親信――それがこの青年の名前である。その姓からわかるように、親直の兄でもあった。
で、世の不平等を具現化したようなこの青年、実のところ、一つ困った欠点があった。いや、欠点と言っては言いすぎかもしれないが、少なくとも美点や長所にはなりえないだろう。
俺がしかめ面でそう考えていると、親信が俺に気づいたようで、かすかに眉をひそめた。
「む、颯馬ではないか……ということは、まさか……も、元親様ッ?!」
俺を捉えた視線は、即座に少し離れたところにいる元親を捕捉したようだった。端整な顔立ちが面白いほどに豹変し、その身体は瞬く間に(そうとしか見えなかった)元親の傍らに姿を現す。
「も、元親様、体中傷だらけではございませんか、なんとおいたわしい……玉のような肌が打ち身で赤く腫れ上がっておりますぞッ! く、元親様にこのような無礼を働くのは――」
そう言うや、親信の鋭い眼差しが射るように俺に向けられる。
「ええい、颯馬、また貴様かッ?!」
それは詰問というよりは断定であった。だから俺は頷くかわりに軽く肩をすくめることで応じる。
すると、それを見た親信が顔を怒りで朱に染めた。
親信の口から叱声がほとばしる寸前、それまで口を閉ざしていた元親が苦しげに声を押し出す。
「ち、親信、颯馬は悪くないよ、ぼ、ぼくが手加減しないでって頼んだんだから……」
「常のことゆえ、それは承知しておりもうす。されどこの親信、元親様の御身を第一とする臣として、言わずにはおれぬのですッ」
きっぱりと断言すると、親信は顔の朱をそのままに、俺をびしっと指差して告げた。
「元親様は土佐の至宝。いかに貴様が元親様の竹馬の友とはいえ、なんということをしてくれたのか?! 白磁の肌に走る痛々しい赤い傷、うちしおれたそのお顔、今なお苦痛の吐息をこぼすそのお姿は望んだとて見られるものではないぞ、本当によくやった、颯馬ッ!」
「褒められた?!」
訂正。親信が顔を赤くしていたのは、単に傷だらけの元親に興奮していただけらしい。この変態め。
もっとも、と俺は深いため息を吐いて思う。
親信のこれは今に始まったことではないし、さらに言えば親信だけが特別というわけでもなかった。姫武将がめずらしくない昨今とはいえ、衆道が廃れたというわけでもないのである――いや、それでも親信ほど行き過ぎた者は確かに少ないのだけどな。
俺はそちらの方面にはかけらも興味がないので、元親に血道を上げる連中の気持ちはさっぱり理解できんが、元親人気は実は城の侍衆だけにとどまらず、城下の男たちにまでおよんでいた。
土佐の長宗我部家が誇る剛武の将兵『一領具足』――これは半農半武の武装した農民集団なのだが、彼らなどは元親が使っていた、あるいは身につけていた物などをまるで天からの贈り物のように尊び、肌身離さず持ち歩くような者ばかりだった。
以前、とある戦で大将首をとった一領具足の兵士に対し、当主である国親様が褒美として士分に取り立てようとしたら、その兵士が「それはいいから元親様の服をください」と言ったのは有名な話である。
これでいいのか長宗我部。
まあ確かに元親は男とは信じられないほど色白だし、たおやかだし、妙に保護欲を誘う為人である。また、上下を問わない家中の元親への情愛が、長宗我部家の一助となっていることも否定できない事実なのだが……
だからといって、元親愛用の筆や脇差あるいは髪留め、はては演習で着ていた鎧下(ようは肌着)などが高額で取引されている現状はどんなもんかと思うのである。
ちなみに彼らの間に出回る品々の幾つかは、俺の懐具合を豊かにしてくれたが、それはまた別の話である――いや、もちろん肌着を売り払ったのは俺ではないですが。
◆◆◆
かつて、土佐は流刑地の一つであったという。
視線を北に転じれば、この国を塞ぐかのように広がる峻険な四国山脈が広がり、反対に南の方角を眺めれば、うってかわって広々とした大海が視界に飛び込んでくる。
あまりにも広すぎて、彼方へ踏み出そうなどという考えさえ浮かばない広漠とした波濤の連なりを眺めていると、この地で埋もれていった人たちの悲哀が、わずかではあるが感じ取れるような気がした。
過去、この地に流されてきた者たちの諦観と寂寞を今に伝える陸の孤島。
だが、そんな土佐にも時代の潮流は確実に押し寄せていた。
元来、この国は国司の一条氏によって統治されていたのだが、それはほとんど名目だけのことで、実際は幾つかの有力な国人衆が権力を握っている状態であった。
この国人衆を『土佐七雄』と呼び、彼らは現在進行形で土佐の覇権をめぐってぶつかりあっている。
その中でも、近年目覚しい躍進を遂げているのが七雄の一つ、長宗我部家であった。
その当主――『野の虎』と渾名される武略をもって土佐統一へと邁進する方の名を長宗我部国親こそ、今現在の俺の主君であった。
ただ、主君とはいっても、我が天城家は名前こそ立派だが(遠祖は地位の高い流刑人とかいう話だが証拠はない)一握りの土地さえ持たない小作人であり、城の中の出来事などはるか天上の世界のそれに等しいものでしかないはずだった。
士分ですらなかった天城家が、どうして国親様の嫡子である元親と竹馬の友などと呼ばれるようになったのか。そこには当然、様々な理由や紆余曲折があるのだが、あえて一言で言えば……
「姉さんが玉の輿に乗った、というあたりか」
「どうした、颯馬、唐突に?」
不思議そうな声を向けられ、俺ははっと我に返る。
気がつけば、周囲から幾つもの奇異の視線が向けられていた。それらの視線の主は、吉田孝頼、同重俊兄弟や福留親政、そして先刻ひと悶着あった久武親信など、いずれも長宗我部家の重臣ばかりである。
そんな彼らを従えるのは強面(こわもて)の顔、強面の髭、強面の声、強面の身体――と、なんでもかんでも強面と付ければ形容できてしまう我が主君、長宗我部国親様である。どうやったらこの人物から元親ができるのか、俺はいまだに首をひねりたくなる。
ちなみに長宗我部家には姫武将というやつはおらず、今のように重臣たちを集めると、きわめて男くさくなる。親直? あれは重臣ではないので除外。それに親直がいても、場がぎすぎすすることはあっても、華やぐことはないだろう――本人に聞かれたらひっかかれそうだが。
隣国の伊予の河野家や、あるいは阿波、讃岐を統べる三好家などは、将どころか当主が女性であるというが、どういう風に国を治めているのか、興味は尽きない俺だった。
ともあれ、俺は慌てて頭を下げ、国親様に詫びた。
「申し訳ございません、少々酒が過ぎましたようで」
「ふむ、香宗我部の名代殿は、まだ酔うほど飲んではおらんと思うがの」
そう言うと国親様はぐわっはっは、と豪快に笑った。
こういった場に出ても、俺は自分の身分や出自をわきまえて基本的には何も口にしないことにしている。が、そんな俺に対して「香宗我部の名代殿はどう思う?」などとしつこく話しかけ、俺が困じはてるのを見て楽しむのが国親様の悪癖の一つだった。えらい迷惑な話である。
とはいえ、それも俺に期待をしてくれているゆえとわかるため、感謝もしているのだが。
◆◆
では、なんで俺が香宗我部家――土佐七雄の一たる名家の名代として、こんな場にいるのかというと。
簡単に言えば、香宗我部の先代である通長様の後妻として、俺の姉が見初められたのである。
通長様は世の人いわく「武事を構え、戦備に怠りなく、動作は礼にかない、政治は筋を通し、領民は大いに安んじた」というほどの優れた人物だったが、なにしろ通長様と姉さんの年の差は三十を越え、おまけにこちらはただの農民である。話が来たときはこれから一体どうなるんだ、と俺は幼心に戦々恐々としたものだった。
幼少のこととて俺は詳しいことは知らなかったが、まあひととおりの混乱はあったようである。それでも子宝こそ恵まれなかったが、今なお姉さんと通長様の仲はきわめて良い――というか、良すぎるほどで、俺を含めて香宗我部家の家人たちが目のやり場に困ることも多々あった。
まあそれはともかく、子がいないといっても、それは姉さんとの間でのこと。通長様には前妻との間に設けたれっきとした嫡子がおり、その嫡子にも子供がいたから、跡継ぎでもめる要素は皆無だった。
そして実際、通長様の跡は嫡男の親秀様が継がれ、つつがなく代替わりは済んだ――と思われた。
香宗我部家の悲劇の発端となったのは、親秀様の嫡子である秀義様が戦死されたことである。
当時、香宗我部家は東を安芸家に、西を長宗我部家に挟まれる形で、両家と抗争を繰り広げていた。
当初、香宗我部家は東の安芸家に対して優勢に戦局を進めていたのだが、秀義様が討ち死にされたことで戦局は瞬く間に悪化してしまう。もっともこの時は通長様自身が出馬し、また通長様の次子――つまりは親秀様の弟である秀通様を親秀様の養子とすることで、家中の動揺を最小限に抑えることに成功、さらに長宗我部家と和睦を結ぶことで当面の危機は脱したかに思われた。
問題が起こったのはその後である。
和睦を結んだとはいえ、長宗我部家の勢力伸張はとどまるところを知らず、遠からず香宗我部家にも臣従を強いてくることは疑いないと考えた親秀様は、それに先んじてみずから長宗我部家の麾下に加わろうとした。
元々、両氏は名前からもわかるように浅からぬ関係がある。親秀様の行動は、彼我の状況を鑑みれば、一概に否定できるものではなかった。問題は臣従そのものではなく、臣従にともなう要請にあった。親秀様は跡継ぎとして、国親様の長男である元親を望んだのである。
これには親秀様なりの思慮もあったのだろうと思う。
当時(というか今もなのだが)元親は繊弱な為人のため『姫若子』などと呼ばれ、武士としては到底物の役に立たないと思われていた。国親様もそのことを気に病んでおり、元親の弟である親貞、親泰らの方に期待をかけている節があった。
だが、元親はれっきとした長子。長子をさしおいて、弟を立てようとすれば必ず家中が割れるだろう――国親様がそう案じていると察した親秀様は、そこを衝いて元親を香宗我部家の後継者に請うたのである。
一に長宗我部との結びつきを強め、二に国親様に恩を売る。ひいては元親が去った跡の長宗我部家を継ぐであろう親貞(はまだ幼いため、その側近)にも良い印象を与えることが出来る。親秀様なりに会心の策であったのかもしれない。
だが、当然のごとく、この案はすんなりと運ばなかった。
なにより養子となった秀通様が大反対したのである。これはまあ、当然といえば当然のことだろう。
今、思い出しても、あの頃の家中は尋常な雰囲気ではなく、通長様は一時的に俺と姉さんを遠方に隠したほどである。それほど険悪な空気だったのだ。
その後も幾つかの出来事が相次いだのだが、要は骨肉相食む戦いの連続だった。直接的な継承権など持たない俺や姉さんにまで危険が迫ったといえば、どの程度の混乱だったかは察することが出来るのではないだろうか。
結論だけを言えば、秀通様は兄であり、義父である親秀様に討たれ、その親秀様は騒擾に乗じて攻め込んできた安芸国虎に討ち取られた。
近隣に敵を抱えた上で同士討ちしてれば、この結末は必然か。当主を失った香宗我部家を支えられるのはもはや隠居した通長様しかおらず、通長様は老骨に鞭打って安芸国虎と対峙する。さらに臣従を条件として長宗我部家に援軍を請い、かろうじて敵の撃退に成功したのである……
◆◆
その後、しばらくは政治と軍事の第一線で働き続けていた通長様だったが、さすがに近年では寄る年波に勝てず(本人談)、外戚の俺にいろいろと押し付けてくるようになっていた。
ちなみにこの前はとうとうこんなことを言い出した。
『なんだったら颯馬、わしの養子になって我が家を継いでくれぬか? 香宗我部颯馬、うむ、雅に香る好き名ではないか』
『あら素敵、「香」宗我部に「香る」をかけてらっしゃるのね』
『うむ、良き出来であろう』
『はい、さすがはお前さま。わたくし、惚れ直してしまいます』
『ふはは、これでお前にほれられたのは百五十九回目だな』
『目指せ二百回ですわ』
『なんの、三百どころか四百、五百と重ねようぞ』
『はい、お前さま……ぽ』
『……駄目だこいつら、早くなんとかしないと』
誰がどの台詞を言ったのか、一々言う必要も感じない。それでも一応いっておくと、俺の台詞は最後だけで、あとは通長様と姉さんの会話だ。もうすこし年を考えろ、おしどり夫婦めがッ。
まあ、それはさておき。
さすがに香宗我部を継ぐなど出来ないが(俺の意思、というより家中が納得しないだろう)老いた義兄に労を強いるのも忍びない。そんなわけで俺は国親様いうところの「香宗我部の名代殿」として、この場にいるわけである。
酒が出ているところからもわかるだろうが、今日のところは差し迫った話はなかった。一条館の困ったさん(一条パウロのこと、詳細はそのうちに)の対応と、安芸、本山といった国内の敵対勢力の動向、そして三好、河野といった他国の状況を確認しただけである。
もっともこれだって十分に重要な事柄ではあった。
国内に関して言えば、安芸家はともかく本山家は長宗我部家を凌駕する勢力を保持しており、当主の茂宗は土佐随一の傑物とも言われている。もっとも今は一条家と対立しているため、こちら側に構っている暇はないようで、ここ数年、両家の関係は穏やかなものであった――互いに刃を秘して笑顔を向ける関係を穏やかと評してよいものならば、だが。
国外に目を向ければ、問題はより大きくなる。ことに三好家は近畿で猛烈な勢いで勢力を広めているだけに注意を怠ることができない。阿波の三好義賢は政戦両略に通じる驍将である上に、噂に聞く謀将松永久秀などがこちらに目を向ければ、今の土佐などかき回し放題だろうから。
まあ近畿に比べれば、土佐は魅力に乏しい土地だから、わざわざこちらに目を向けることもないとは思うが、だからといって警戒を解いてよいものではないのである。
ただ幸い、いずれの勢力にも大きな動きはないようなので、その点は一安心というところか。
ならば、俺としては問題はあと一つ――国親様の酒癖の悪さをいかにして凌ぐか、ということだった。
酒を飲んだ国親様の行動は、いつも大体同じものとなる。
最初は機嫌よく鯨飲し、配下の日ごろの働きをねぎらったり、あるいは俺にするように誰彼問わずにからかったりする。このあたりは、いかにも豪胆な国親様らしいのだが、そのうち段々言葉数が少なくなっていくと要注意となる。
なぜといって、国親様はここから一気に愚痴、絡み、泣き言を並べ立てる厄介きわまりない酔っ払いになり果てるのだ。
その語る内容は主に今後――とくに自分が死んだ後の長宗我部家を案じるものであった。国親様はまだ五十前の年齢だし、世継ぎには元親がいる。死後を案じるには時期尚早だと思うが、国親様の目には、元親ははなはだ頼りなく映っているようで、家臣たちの前でその将来を案じることが度々あった。
かつて香宗我部家で騒乱が起きた再、親秀様がそこに付け入ろうとしたように、こういった言動は一国の安寧にひびを入れかねない。そのため通長様をはじめ他の重臣たちからは、人前での世継ぎに関する放言は慎むように幾度も進言しているのだが、国親様は素面の時はともかく、酒が入ると自制がきかなくなってしまうようだった。
「……で、颯馬よ。元親に稽古をつけてくれているそうだが、少しはものになりそうか?」
国親様が、とろんとした目つきで問いを向けてくる。ぬ、回想している間に、結構酒が進んでいたらしい。
「ち、父上ッ」
国親様の隣にいた元親が慌てたように制止をうながすが、それで気を変える国親様ではなかった。
ちなみに世継ぎとして元親はこの場に座っているが、俺に輪をかけて発言は少ない。また発言を求めようとする者もほとんどいない。
それはともかく、主君の問いとあれば正直にお答え申し上げねばなるまい。
「武芸の面で申し上げれば、全く成果はございません」
「……ぅぅ」
正直な俺の答えに、国親様は露骨に悲しそうな表情をし、元親は力なくうなだれている。すまないとは思うが、実際、それ以外に答えようがないのである。
「まったく、誰に似たのやら。まあ武がからっきしであっても文に優れている分、まだしもじゃがなあ」
嘆息にも似たその国親様の慨嘆に、別の場所から応じる声があがった。
「……将たるもの、必ずしも武に長じている必要はござらぬ。向かぬものを強いるより、適したものを伸ばす方がよろしいのではござらんか」
重臣の一人、吉田孝頼である。国親様の懐刀として、長宗我部家ではいわゆる軍師の役割をしている。
そしてもう一人。
「さよう。戦場にて刀槍を振るうは我ら家臣の役目でありましょうッ!」
そういって大笑したのは福留親政である。
この人物、長宗我部家随一の豪傑として広く知られており、国親様より感状を受け取った回数は数しれず、過去、ひとつの戦場で敵兵二十人以上を一人で斬り捨てたこともある。
実際、俺はその戦場にいたのだが、鬼武将というのはこういう人のことかと思い、この人物が敵でなかったことを天に感謝したほどだった。
実はこの二人、家中でも元親に好意的な方なのだが、それでも元親が武士として役に立たないという点は否定していない。
元親の家中における人望は前述したとおりだが、さすがにこの場にいる重臣たちの中には元親に熱をあげているような者は(一人を除いて)おらず、この話題になるといささか空気が微妙になる。
やはり戦場で命をかける将兵としては、武に長じた大将を頭に戴きたいというのが正直なところなのだろう。まして昨今の土佐は戦が絶えない動乱真っ只中にあるのだから尚更だ。
そして空気が微妙になる理由がもう一つ。
国親様が昨今稟質を見せ始めている次男親貞、三男親泰に期待をかけているのを知る者たちが、ここぞとばかりに追従を口にし始めるのである。
今もまた、二、三の家臣が口を開いて親泰らへの賛辞を述べ立てている。
たしかに、まだ十にもならぬとはいえ、親貞や親泰は将来が楽しみになる子供たちである。元親との兄弟仲も良く、その賛辞のすべてが追従であるとは言いたくない。
しかし意図しようがしまいが、弟たちへの賞賛は必然的に元親への誹謗に繋がる。ことにこんな場で意図せずにその手の発言をするやつは少数だろう。
(こうなるから、名代なんぞ嫌なんだけどなあ)
俺はうんざりした気分が顔に出ないよう注意しつつ、酒盃をあおる。さすがに城で扱っているだけあって家にある酒より良い品なのだが、楽しく酔える雰囲気ではないため味が半減している。
まあそれでも元親に比べれば、断然ましだろう。そちらを見れば、いつものように黙然と俯いたまま弁解も反論もしない。元親は下戸というわけではないが、ほとんど酒を嗜まないので、俺のように酒を飲んでやりすごすこともできず、時が来るまでじっと耐えるしかないのである。
こういった態度がまた柔弱だの何だのと陰口を叩かれる原因になっているのだが、そうと知っていても俺は助け舟を出すことができない。
俺がここにいるのは、あくまで香宗我部の名代としてであり、俺の発言は家の発言となる。ここで下手に元親をかばおうとすると、香宗我部家が元親に取り入ろうとしているだの何だのと邪推されてしまう。それでなくても、過去、香宗我部家は元親を跡継ぎに、という話を持ち出しているだけに、発言一つでも慎重にならざるを得ない。俺のことはさておくとしても、通長様や香宗我部の家臣、ひいては領民にまで害が及びかねないのである。
こういう時、真っ先に元親を擁護しそうな久武親信が、先刻からずっと黙っているのも俺と同じような理由なのだろう――と思ったが。
日陰の花のようにひっそりと座り込む元親を陶然と眺めている様を見るに、単に恥辱にたえる元親に夢中なだけかもしれん。元親が助けてといえば即座に行動するだろうが、そうでなければいつまでも元親を見続けていそうだった。ある意味で純粋な奴である。
俺としてはいささか忸怩たるものがあるのだが、かといって別にそのことで元親から薄情だと責められたり、あるいは自身をかばってほしいといったことを言われたことは一度もない。元親は、こういう家臣たちの発言は自分の不徳のいたすところだと甘受しており、よほど礼を失した発言があったとしても騒ぎ立てることはないのである。
俺が名代として岡豊城に来るようになってからまだ何年も経っていない。元親は俺の何倍もの時間、この場所に居続けているわけで、俺などはこのあたりが元親の真価だと思うのだが、生憎と同じ見解を持っている人は見当たらなかった――
「……颯馬よ」
「は?」
不意に話しかけられ、俺は我にかえる。
見れば親貞の勇敢さを讃えていた重臣の一人が、なにやら意味ありげに俺を見ていた。
前後の話を聞き流していた俺が目を瞬かせていると、その重臣はじれたように先を続けた。
「どうだ、元親様だけでなく、親貞様にも武芸の手ほどきをしては? 通長殿の薫陶を受けたそなたの教えであれば、親貞様も得るところは多かろう」
そういうと、重臣は酒盃を呷ってからなおも続ける。
「あるいは元親様は筆のことに専念していただき、親貞様の教えに専心するも良いかもしれんな。さきほどそなたが申した言葉を聞けば、このまま元親様を鍛え続けたところで御家のために益するところはないであろうしな。そうすれば元親様はいらぬ怪我をなさる心配はなくなるし、そなたも親貞様の御信頼を得られる。良いことづくめではないか」
語尾を笑いで彩ったのは、酒の席での冗談だとでも言いたいのか。だが、その目を見れば、今の言葉が真実冗談なのかどうかは子供でもわかるだろう。
当然、俺も理解した。
というより、直接、間接を問わず、この手の誘いは結構頻繁にあるのだ。
長宗我部家に臣従したとはいえ、香宗我部家は土佐七雄の一。かつての混乱で影響力は大分薄れたとはいえ、それでも凡百の家に優ること遙かである。
当然のように腹に一物ある連中がほうって置くはずがない。ことに――何度も言うが――香宗我部家はかつて元親を跡継ぎに迎えようとした経緯があるため、野心のある家と思われがちなのである。
重臣の言葉を聞いた元親がはっとしたように顔をあげ、俺の方を見る。自分のことはともかく、それに他者が巻き込まれることを、元親は極端に嫌っているのだ。
こちらを見る元親の頬にはしる傷は昼間の稽古でついたものだろう。それでも元親の鮮麗な容姿(男の顔を形容する言葉じゃないような気もするが)はいささかも損なわれていない。そんな元親の不安げにゆれる黒い瞳を見ていると、まるでその中に吸い込まれてしまうような、そんな錯覚に陥りそうになる。
まったく、と俺は内心でため息を吐いた。
(男だからいいようなものの……これが女だったら確実に惚れてるぞ)
そして一国の姫君を娶るため、農民から名だたる武士を目指す俺の立志伝が始まっていた――かもしれない。
まあ元親は男だからして、そんな心配は不要。今は重臣の方に応じねば。
「それがしの武芸など知れたものです。親貞様のご年齢なれば、下手にそれがしのような者が相手をすれば、後々よからぬ影響が出るかもしれません。親貞様が衆に優れた方ならば、なおのこと師は慎重に選んだ方がよろしいでしょう」
「そこまで大仰に考えることもあるまい。ただの稽古ではないか。それに親貞様はいずれ御館様の虎の名を継ぐ猛将となられることは必定、その師とあらばそなたも鼻が高いのではないか?」
「はは、これはご冗談を」
俺が失笑すると、重臣は気色ばんでこちらを睨みつけてきた。
それを見て、俺はさらに言葉を続ける。
「虎は何ゆえ強いのか。それは虎が虎であるゆえに、でございましょう。なれば誰が育てたかなど些細なこと、それを我が手柄として誇るなど小人の業でござろうよ」
その俺の言葉を聞いた重臣が鼻白んだように口を閉ざす。
すると、次に口を開いたのは国親様だった。とはいえ、それは半ば独り言のようなものだったのかもしれない。
「……虎は虎であるがゆえに強し、か。なるほどの。虎の子は必ず虎、したが人は必ずしもそうではない。位人臣を極めた者とて、寿命と世継ぎは思いのままにならぬもの。一生とはままならぬものよな、、颯馬」
「御意にございます。しかし――」
「しかし? なんだ、意味ありげに言葉を切るのう?」
「仰せのとおり、鳶が鷹を生むこともあれば、逆に虎から猫が生まれることがあるのも人というもの。それは確かでございましょうが……」
そう言いつつ、俺は元親に視線を向ける。
俺の言葉が自分を指すことに気づいたのだろう。その顔が曇り、俺を見る目に深い悲哀が宿る――その寸前。
「――しかし、幼き虎と猫の区別をつけられる慧眼の者が、世にどれだけおりましょうや。まして人は虎と異なり、成長できる生き物なれば、晩年になって才が花開く者とて珍しいものではございません。それがし、虎の児を見ぬく慧敏さは持ち合わせておりませぬが、さりとて虎を猫と侮る愚者に堕したくはございませぬゆえ、無用の言辞を弄さぬことにしております」
◆◆◆
長宗我部国親は酒宴が果てた後も、城の一室で月を肴に酒盃を掲げていた。
その傍らには二つの人影がある。一人は腹心の吉田孝頼。もう一人は――
国親は、その人物に向けてからからと笑ってみせた。
「颯馬のやつも、なかなか言うようになりおった。これも翁の教育の賜物か?」
「さて、それはどうでござろう?」
そう言って首をかしげて見せたのは、本来ここにいるはずのない人物――香宗我部通長だった。国親が密かに岡豊城に招き寄せていたのである。
「あれでは先に口を開いた者を侮辱したも同然。いらぬ恨みをかうは、褒められたものではなかろうと存ずる」
通長は首を振りつつ、そう口にする。
すると、それまで黙って国親と通長の会話に耳を傾けていた孝頼が、ここでようやく口を開いた。
「……若殿を侮られ黙っておれなかった、というところでござろう」
「ふむ、幼き頃よりの馴染みとはいえ、あの姫若子に何を見出してくれたのか。まさか恋情でもあるまいが」
国親の呟きに、通長は低声で笑った。
「殿がそれをあやつに告げれば、面白いことになりますぞ」
「……同時に久武が暴れそうですな」
「そして若子が二人の間でおろおろする、か。ふむ、目に見えるようだ」
三人はそんな会話を交わしつつ、かわるがわる酒盃を呷る。
岡豊城にはかつて見事な楠があったのだが、とある事情ですでに切り倒されていた。そのほかに城で目を楽しませるような景観といえば、頭上に広がる星空か、彼方に広がる大海の二択しかないのだが、さすがにそれだけでは味気ない。
そんなわけでこの三人、若い者たちを肴に酒を飲んでいるのである。
やがてひそやかな酒宴も終わりを迎えようかという頃、国親が不意にこんなことを口にした。
「ところで翁よ、香宗我部は颯馬に継がせるのか?」
「それがしは出来ればそうしたいのですが、先ごろ切り出したところ、一笑に付されましてな。どうしたものかと妻と相談しているところでござる」
「くはは、継ぎたい者など掃いて捨てるほどおろうに、継がせたい者にその気はなしか。まこと、この世はままならぬことばかりよな」
そういって笑う国親を、通長はやや目を細めて見やった。何気ない風を装っていても、これが国親が自分を呼んだ本題だと察したのだ。
「しかし殿、何故にそのようなことを問いなさる?」
「なに、元親を押し付けようというのではないさ。むしろ逆か。いっそ親貞か親泰を香宗我部に譲れば、元親の周りの雑音も多少おさまるのでは、とな。それについて、翁の意向を聞こうと思ったのだ。無論、翁の意が颯馬にあるなら、強いるつもりなどないぞ?」
「そういうことでござるか。しかし……」
通長はそこで言葉を切ると、傍らの孝頼と視線をあわせた。国親の言い方が、まるで元親に当主の座を譲るための準備のようだったからだ。
しかし、国親が元親の繊弱さを危惧し、世継ぎの座を弟のいずれかに出来ないものかと悩んでいるのは周知の事実。その迷いが家中の混乱を醸成しているため、彼ら二人も事あるごとに諌めているのだが、国親はその場では頷きつつも、迷いそのものを消すには至っていなかったはずなのだ。
それがここにきて、急に元親に当主の座を譲ろうとしているかのようなことを口にする。長宗我部家でも屈指の智者たちにとって、座視できる事態ではなかった。
二人の知恵袋の姿を見た国親は、彼らの言いたいことを察したのだろう。次にその口から出た言葉は、半ばため息に近かった。
「わしはそなたらや、あるいは颯馬ほどに元親の才を信じきれぬ。いや、才を信じぬ、というよりは、あの優しすぎる為人が案じられてならぬと言ったほうが良いか。あれは容姿だけでなく、人柄さえ母の生き写しよ。この戦国の世を生き延びるには、あまりにも頼りない……」
だが、と国親は続けた。
「そうも言っておられぬことになりそうでな」
「……何事かございましたのか?」
「先日、諜者より知らせが参った。本山と一条との間で講和が成立しそうだとのことだ」
なんでもないことのように告げる国親だったが、その言葉は通長と孝頼、二人の老練な武将の顔色を変えさせるに足る重みを持っていた。
「……これほどに早いとは。一条は伊予や豊後の助勢も得ていたはずですが?」
「伊予には毛利が矛先を向け、豊後は国内でなにやら揉め事が起きたようだな。いずれも土佐の内乱に関わっている余裕はなかろうよ」
「なるほど、これも本山茂宗殿の策の一環ですか。無論、講和と申しても対等のそれではございますまい?」
通長の問いに、国親は当然のように頷く。
「であろうな。さすがに和議の詳細まではまだつかめておらんが、一条は領土が半減で済めば御の字ではないか」
「……これで本山は後顧の憂いなく、東に目を向けることが出来ますか。となれば例の件を蒸し返してくるのは必定」
「うむ、明日、使者がおとずれても不思議ではあるまいよ」
今を遡ること一年前。本山家から長宗我部家に使者がやってきたことがあった。
それは本山茂宗の息女と元親を娶わせ、両家の仲をより親密にしたい、という友好の使者だったのだが、これを鵜呑みにするようでは戦国の世を生き延びることはできない。
しかも娶わせるといっても、本山家の息女が輿入れするのではなく、元親を本山家の居城である朝倉城に婿入りさせるというもので――要は長宗我部家に従属を強い、人質を要求してきたのである。
当時のことを思い出し、国親は思い切り唇をゆがめた。
「おとといきやがれ、と使者を蹴飛ばしてやりたかったがなあ」
「それをすれば即日開戦ですからな。むしろ、向こうはそれをこそ狙ったのでしょうし」
あの時の国親の憤激を思い起こし、通長は苦笑する。
結局、当時はあれやこれやと言を左右しつつ、一条らに働きかけて本山家の狙いをそらすことに成功した。その上で徐々に勢力を広げ、やがて必ず訪れるであろう再度の侵攻に備えてきたのだが。
「まさか一年ももたぬとは、さすがは本山茂宗といったところか。ともあれ、再び元親を婿に請われたとき、それを断る口実が必要だろう。あれを他家にやったりしたら良くて傀儡、悪くて毒殺、いずれにせよ、ろくなものではない」
「……たしかに、ほどなく宗家を継ぐ者を婿にとは申しますまいが、それでは弟君らは?」
「うむ、それで香宗我部の翁を呼んだのよ。一人を、形だけでも良い、香宗我部に預け、もう一人は……そうだな、吉良家を継がせるのも手か」
――国親の言葉に、通長は奇妙にゆっくりとした口調で問いを向ける。
「殿、今更申すまでもござらぬが、吉良家は土佐の名族なれど、すでに本山に滅ぼされて久しく、茂宗殿の嫡子茂達殿が名跡を継がれておりまする。長宗我部が跡目を継ぐなどと口にすれば――」
それこそ即座に戦端が開かれるだろう。通長の見立てでは、今の長宗我部家の力では、本山家と本格的にぶつかれば七割方敗北する。その分析は国親や孝頼のそれと大差はなかった。だが、それと承知してなお国親は頷いて見せた。
「いずれはぶつからねばならぬ相手だ。これ以上、時をおいたとしても、こちらが力をつける以上の勢いで敵は勢力を拡大させてしまう」
「……たしかに本山が一条を降した以上、時を経れば経るほどに不利になるのは当家でございますな」
そう考えれば、今こそ長宗我部家にとって本山と矛を交える最良の時なのだ、という国親の考えはあながち間違いではない。無論、不利は否めないにしても。智者二人もそう考えた。
それを見て、国親はあらためて口を開く。
「無論、本山の使者が来ていない以上、今のは机上の案だ。だが、遠からずそうなるであろうことも事実。二人ともそれを承知しておいてくれい」
主君の言葉に、二人は同時に頭を下げた。彼方より響く兵火の音を総身で感じ取りながら。