このSSの半分はネタで出来ています
ネタ元 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 『最上義光』
◆◆◆
尾浦城をわずか四百の軍勢で陥落させ、さらには大宝寺義氏を討って瞬く間に庄内を制圧した最上軍の鮮やかな侵攻は、瞬く間に出羽国の内外に広まっていった。
大宝寺家は出羽国人衆の中でも雄なる一つ。その勢力が一朝に滅び去ったのである。それも実質的に五百にも満たない軍勢によって。
はじめは報告の真偽を疑った国人衆――ことに最上八楯をはじめとした、現在の最上家に敵対的な立場を貫いてきた国人衆たちは、その報告が真実であると知るや表情を凍らせ、対応に苦慮することになる。
一方の最上軍は、といえば。
最上義守は庄内地方を自領に組み込むため、当面の間、尾浦城を拠点としていた。
武力での制圧は終わったものの、大宝寺家恩顧の旧臣たちの叛乱に備え、同時に酒田港をはじめとした新領地の統治の詳細を詰める――そんなあれやこれやは一朝一夕では終わらないためである。山形城に戻ることも出来なくはなかったが、征服間もない領土であるため、危急の際に備えるのは当然の用心であったろう。
また、最上家の庄内制圧が知れ渡ってからこちら、尾浦城には出羽の内外を問わず幾人もの大名や国人衆の使者が訪れ、最上義守や氏家定直などは内治に外交にとてんてこ舞いの状況に陥っていた。
……だがその一方で、そういった騒動とは無縁の者たちもいる。それはたとえば、尾浦城の一画でこそこそとうごめいている狐耳の少女と、それに付き従う軍師であったりした。
◆◆◆
「軍師よ、鮭の集まり具合はどうじゃ」
「は、順調でござる。やはり最上家は無類の鮭好きであると噂をばらまいたのが功を奏したようで、新しい領主の歓心を買いたい者たちから献上される鮭は、今や蔵一つに収まりきらぬほどになっております」
「見事な知略じゃ、ほめてつかわすぞ」
「有難きお言葉」
「当然、今日の夕餉も鮭尽くしで決まりじゃろうな?」
「申すまでもなきこと。すでに庄内各地に高札を立て、破格の報酬で集めた料理人たちが仕込みにとりかかっておりまする」
その言葉に喜色を浮かべた少女は、しかしすぐに表情に憂いを見せた。
「返す返すも見事な策じゃ……しかしのう、颯馬」
「いかがなさいました、義光様?」
「わらわのために要らぬ出費を強いるのは、出来れば避けたいのじゃ。今の最上は金がいくらあっても足りぬじゃろ?」
「ご心配めさるな。これでもそれがし、上杉においてそれなりの地位を有しております。料理人の十や二十、新たに雇い入れたところで懐は痛みませぬ」
「おお……颯馬よ、わらわは今はじめて母者以外の人間に感謝の念をおぼえたぞよ」
「恐れ入ります――そういえば義光様」
「なんじゃ?」
「先刻、その料理人たちから義守様と義光様にお出しする膳の味見を頼まれまして……なんでも鮭を秘伝の味噌に漬け込み、それを焼き上げるのだとか。義守様や義光様の口にあうかどうかを確認してほしいとのことでござった。少々、席をはずしてもよろしゅうございましょうや?」
「待て、颯馬よッ」
「は、いかがなさいました?」
「それはつまり、美味な鮭を、わらわよりも母者よりも先におぬしが口にする、ということではないのか?!」
「む、確かにそうとも申せましょう。したが毒見役も兼ねておりますゆえ、なにとぞご容赦たまわりたく」
「ええい、ならん、ならんぞ。この地に産する鮭はすべからくわらわの口に入らねばならぬのじゃッ。たとえ軍師といえど、この律を曲げることは許されぬッ!」
「かしこまりました。ならば義光様もご一緒に食される、ということでご納得いただけませぬか? 無論、料理人たちには身分を伏せたままで。それゆえ、たとえ味が気に入らなかったとしても、お怒りはしずめていただかねばなりませぬが」
「ふむ、それならば良かろう。母者の膳を守るも娘であるわらわの務め。少々待っておれ。頭巾を取ってくるゆえ……」
そう言って義光が踵を返そうとした、その途端。
とたとた、といやに軽い足音が廊下の向こうから一直線に義光たちの方に向かってくる。
それに気づいた義光は、喜色に満ちていた顔色を一変させた。
「む、いかん、この足音は母者――!」
「義光様、ここはそれがしが! 急ぎ退かれよ!」
「く、すまぬ颯馬。そなたの犠牲は忘れぬぞッ」
そう言って立ち去りかけた義光だったが、迫り来る足音は思った以上に早く襲来した。そうせざるを得ないほどの憤りを感じていたのかもしんない。
「ああー、こんなところにいたんですね、白寿! 兄様!!」
小さな最上家当主は、逃げ腰になっている俺たちを視界に捉えるや、常は優しげな表情を浮かべる相貌に、紛れもない怒りを滲ませながら駆け寄ってきたのである……
◆◆◆
「――つまり、二人して遊んでいたんですね?」
二人して正座しながら、これまでの状況を説明申し上げたら、義守様は一言で総括してくださった。
「い、いや、母者。わらわはこの上なく真剣に今夜の鮭尽くしに思いを馳せておったのじゃ」
「さようでございます。途中から、ちと悪ふざけに走ったのは否定できませんが……」
義光と俺の抗弁など聞く耳持たぬ、と言いたげに義守はむすっと俺たちを見下ろしている――というか、よく考えたら抗弁でもなんでもないわけで、義守が怒りをしずめる理由になるはずもなかった。
「昼から姿が見えないと思ったら、こんな隅っこで二人きりで。わたしも爺も猫の手も借りたいほど忙しかったんですよ?」
「しかしじゃの、わらわは戦うことしか出来ぬで、母者たちを手伝おうとしても何も出来ぬのじゃ……こっちの軍師と違って」
容易に義守の怒りが静まらぬと見て取ったのか、義光が掌を翻して俺を生贄に差し出そうとする。く、さすがは羽州の狐、侮れん。だが、俺もだまってやられるほど甘くはないのだッ。
「それがしは上杉家の者ですので、内政や外交に関してはあまり口出しせぬ方がよろしいのです……こっちのご息女と違って」
「む、颯馬、貴様、わらわを贄にするつもりか?!」
「ふ、笑止。最初にそれがしを見捨てたのは義光様でしょう!」
「だまりゃ! ついさきほどは己に構わず先にゆけというたではないかッ! それに、そもそもおぬしが鮭でわらわを釣ったから、こんなことになったのであろうッ」
「それがしとて好きで釣ったわけではござらぬ。そもそも、鮭はまだか鮭はどうした鮭はいずこじゃ、とそれがしの耳元で念仏のごとく囁き続けたのは義光様でしょうが! 鮭好きもほどほどになさいませッ」
「……言うたな、颯馬。言うてはならんことを言うたなッ! 鮭に何の罪があろうぞ。己の不徳と無能を鮭のせいにするなど、なんと見下げ果てた男じゃ!」
「然り、たしかに鮭に罪はございませぬ。罪あるとすれば、鮭を好むあまり己が責務を放擲した義光様でありましょうぞッ」
「――よう言うた。そこまで言うたからには覚悟は出来ておろうッ!」
そう叫びつつ、鉄棒を振りかざす義光。
「この天城筑前、覚悟もなく言辞は弄しませぬッ!」
応じて俺は懐から鉄扇を取り出してみせる。
そして、俺と義光が互いに構えをとり、いざ激突せんと足を踏み出しかけた、その途端。
「いい加減にしなさい、二人ともッ!」
義守の拳が同時に俺と義光の脳天を直撃した。
「そもそもなんで兄様が厨房の差配までしてるんですか、他にやるべきお仕事はいくらでもありますよねッ」
義守の言葉は正論で、俺は一言もなく頭を下げるしかなかった。
義光はそんな俺を小気味良さそうに眺めている。
「くふ、良い気味じゃな、そう――」
「……はーくーじゅー」
「は、母者、どうしてそのように鬼のような形相をされておられるのじゃ?!」
「皆さんが働いているのに、どうして白寿だけが遊んでいるのッ! やらなきゃいけないことがあるのは、白寿も同じなんですからね。これ以上、だだをこねるなら、今日は白寿だけ鮭抜きご飯にしてもらいますッ!」
「はうあッ?! 母者、そんな殺生なッ」
「それが嫌ならちゃんと働くのッ。この前も言ったけど、これまでみたいに戦うだけじゃだめですからね。爺には言っておいたから、白寿もきちんとお仕事が出来るようになりなさい。働かざるもの、食べるべからずです。特に鮭ッ」
「わ、わかった、わかったゆえ、鮭抜きだけは勘弁してたもれーッ」
そう言うや、義光はすごい勢いで走り去った。
これ以上、余計なことを口にすると、本当に鮭が食べられなくなると思ったのかもしれない。
「ん、これで白寿は大丈夫そうですね――兄様は、まだ何か仰ることがおありですか?」
「謹んで、誠心誠意、身を粉にして働かせていただきます」
「はい、結構です」
◆◆
というわけで、夜半である。
件の鮭尽くしは大変美味であったが、生憎と仕事は今になっても終わっていない。
まあ戦で本当に大変なのは、始まる前でも、戦っている最中でもなく、終わった後であるのは重々承知していた。
なら最初から働けと言われそうだが、なにしろ最上の家臣ではない身としては、どこまで手を付けて良いかわからなかったのだ。上杉の方が大家であるため、そのあたりは微妙な問題をはらむのである。先刻、義守に言ったことは決してその場かぎりの言い訳ではなかった。
しかし、そんな俺の配慮は無用のものであったらしく、渡されたのは兵力の配備や年貢の徴収などの一国の施政に関わる重要な案件ばかり。無論、決定ではなく、俺の意見を付記してほしいという感じのものだったが、それでも他家に仕える俺が関わっていいのかしらと首を傾げざるをえない。もっとも、その一方で信頼に感謝する自分がいるのも確かであった。
ともあれ、遠慮が無用とわかれば、後は能力の限りを尽くすだけである。それにこの手の仕事は決して嫌いではなかった。
そして、気づけば月が中天にかかる時刻になっていたのである。
「……ふぁ……」
妙に気の抜けた義守の声が耳朶を揺らす。
そちらを見れば、眠そうに目を瞬かせた義守が一生懸命に机と向かい合っていた。
「義守様、そろそろ筆を置かれては?」
ちなみに、この問いかけは本日五度目である。
その度に義守は「もう少し」と言い続けてきた。だが、さすがにそろそろ限界だろうと思われる。まあ、もっとも――
「でも、あと少し……」
義守が、俺が予期していたのとまったく同じ台詞を口にしたので、俺は思わず苦笑してしまった。
「明日以降も時間はあるのですから、根をつめすぎてはいけませんよ。まだ風呂にも入っていないのでしょう? 女の子として、風呂抜きはどうかと思いますが」
個人的に言えば、別に風呂の有無など気にもしないが、こうでも言わないと義守の「あと少し」は日付が変わるまで続いてしまいそうだったのだ――しかし冷静に考えて見ると、これ、思いっきりセクハラではなかろーか?
「う……も、もしかして何かにおいます?」
密かに思い悩む俺をよそに、義守はなにやら焦ったように自分の身体を見下ろしている。
「い、いえ、そんなことは全然さっぱりないんですが、ほら、あれです。あまり遅くなると、眠気に負けて湯船の中でおぼれてしまうかも、と心配になって……」
俺は慌てて口早にそう言った。
こう言えば、おそらく『そこまで子供じゃありませんッ』といういつもの言葉がかえってくるだろう。そうすれば、失言を有耶無耶に出来る、と一瞬で計算したのだが――
あにはからんや、もがみん様は頬どころか首すじまで真っ赤にそめてこう仰っいました。
「に、兄様、も、もしかして昨日見てたんですかッ?!」
「そう来るか?!」
思わず正面から叫び返してしまいました。
その後、あくまで口からでまかせを言っただけだと納得してもらうまで、少し時間がかかってしまったのは不可抗力であると信じたかった。
義守を風呂へと送り出した後、俺は残っていた案件に筆を走らせた。
庄内を制したことによる最も大きな利益は鮭の独占――ではなく、酒田港の奪取である。
この利を上手く活かせれば、最上家の財政をおおいに潤すことが可能となるだろう。今回の戦でおおいに武功を誇った義守直属の軍勢――銀魚鱗札の甲冑と、桜染めの軍旗で統一した親衛隊は、ゆくゆくは最上軍の主力となるべき軍勢であり、その拡充のためには潤沢な資金が不可欠であった。
「なるべく早く有力な商人たちと顔をあわせておくべきだろうなあ。とはいえ、いまだに向こうが出向いてこないってことは、こっちを警戒しているか軽んじてるか、どっちかだろうし」
どうしたものか、と俺は床に寝転がりながら、今後のことに思いを及ばせる。まあ海千山千の商人たちとのやりとりは、定直殿あたりに丸投げすれば良いだろう。こういう時こそ生きるのが年の功である――多分。
そうすると、あと考えるべきは何だろうか。
今、風呂に入っているもがみんの裸身に思いを馳せるのも悪くはないが、さすがにここで風呂場に赴くほどの蛮勇は持っていない。なので妙な期待はせぬが良い。
「……もう寝るか」
自分の思考に疲労を感じ取り、俺は小さくあくびする。
そうしておもむろに立ち上がると、軽く肩をまわしながら障子を開け――
「……は?」
そこに、薄布を巻いた(つまりは半裸の)義守を見つけ、俺は目を瞬かせた。
◆◆◆
あ、ありのまま(以下略
結論だけ言えば、湯殿でゴキブリが出たそうな。
「……だからといって、未婚の女性が半裸で駆け回るというのもどうかと思うのですよ」
時間が時間だけに、すでに侍女や小姓には下がって休むように伝えてあったため、誰にも見られずに済んだのは不幸中の幸いと言えるだろう。
ここが山形城であれば、下がれと言われても、義守が働いている以上誰かしら傍についていただろうが、幸か不幸かここは尾浦城だった。
黒の使者(サイズ特大)と出会った義守は、悲鳴をあげることさえ出来ずにその場を駆け出し、部屋まで戻ってきた、という顛末らしい。それを聞き出すまでに、またさらに時間がかかってしまった。
『ご、ごめんなさい……』
湯殿の壁を通して、力ない声が返ってくる。いまだ驚きがさめやらない――だけでなく、俺に半裸を見られたことがかなりショックだったらしい。我に返った義守が悲鳴をあげかけたので、俺は慌ててその口を手で押さえ込まねばならなかった。
この時代の女性からすれば、ほとんど全裸を見られたようなものだから、義守の動揺も仕方ないとは思うが、さすがにあの状況で他の人間に踏み込まれたら、俺の命が危ない。義光が昼間の定直殿の特訓で疲れ果て、とうの昔に寝ていることを感謝せずにはいられなかった。
とりあえず義守には俺の上着を着せ、湯殿に戻ってみたものの、すでに件の油虫は姿を消した後だった。
もう大丈夫だとは思うが、またいつどこから出てくるか知れたものではない。義守のすがるような眼差しに屈した俺は、一応ひととおりあたりを確認することにした。
結果、一応問題はないだろうという結論に達したのだが、義守はどうしても気になるらしかった。そもそも山に取り囲まれた出羽の国では、別に油虫などめずらしくも何ともないのだが――まあだからといって慣れるというものでもないのかな。
ともあれ、いつまでも油虫を探し続けるわけにもいかない。それにいい加減、義守の身体も冷えてしまっているだろうし、このままではそれこそ風邪をひいてしまいかねない。
……そうして義守を説得した結果が、今のこの状況である。
『に、兄様、いらっしゃいます、よね……?』
「はい、ここに」
風呂には入りたい。けど、一人は嫌。
なら俺がすぐ近くで控えていれば良い――と、まあそんな結論になったわけだが。
それこそ侍女なり義光なり、誰か女性を連れてくれば済むと思うのだが、義守としてはこんなことで迷惑をかけたくないとのことだった。
なら俺は良いのか、とは思っても口にしない程度の分別は持っている。
「……まあ、怯えた妹をほうっておくわけにもいかないからな」
俺はそう呟いて自分を納得させることにしたのである。
すでに秋も深い山国である。日が落ちれば、気温は驚くほどに急激に下がってくる。
さすがにまだ雪が降るほどではないが、夜が更けるにつれ、寒気はますます厳しくなってきていた。
まさかこんな状況になるとは思わなかったから、今の俺は火鉢の置かれた政務部屋と同じ服装なわけで、必然的に――
「くしゅッ!」
小さくクシャミが出てしまう。
慌てて口をおさえたが、あたりが静まりかえっているため、些細な音でもよく通ってしまう。
『兄様……あの、お寒いですか?』
「ああ、大丈夫ですよ」
俺はそう言って小さく笑った。寒くない、とは言わない。実際、結構冷えるのだ。とはいえ、それを口にしたところで義守に気を遣わせるだけである。中途半端に湯からあがらせて、義守が湯冷めでもしたら、それこそ大事である。
義守の身体は義守だけのものではないのだ。あの小さな身体には、最上家と、それに連なる多くの人々の命と未来がかかっているのである。
ゆえに、こんなところで、わずかなりと損なってよいものではない。代わりに明日、俺が体調を崩したところで安い代償だろう。もっとも、そんなことになれば誰よりも義守が気にしてしまうから、俺もこの後は身体を暖めて、なるべく早く床に就かねばなるまい。
そんな風に考えていると――
『……あの、兄様』
「ん、どうかされました?」
『あの、ですね……』
「はい?」
『よろしければ、なんですけど……あの、兄様が体調を崩されては大変ですし、だから、その……』
「はい??」
義守の言わんとしていることがわからず、俺は首を傾げる。
すると、しばしの沈黙の後、意を決した義守の硬い声音が俺の耳に届いた。
『………………一緒に入りませんか?』
「……なん……だと?」
◆◆
と、驚いてはみたものの。
俺もそれなりに年をくっている。十以上も年の離れた女の子の肌を見たからといっていまさら興奮することもなく、欲望をおさえる必要もなかった。
それよりも、自分から言い出したことなのに照れまくっているもがみんの慌てぶりに吹き出しそうになるのを堪える方がよほど大変だったとさ。
「……ふ……あ、ぁ……」
俺の手が動く都度、なんかやたらと艶かしい声をあげる義守。
字だけで記すと、何してんだこの野郎と思われそうだが、単に髪を洗っているだけである。
普段は結い上げている義守の髪は、おろすと腰どころか膝下にまで届くため、これを一人で洗うのはなかなかに大変だろう、などと考えながら手を動かす。
「に、兄様、なんでこんなに髪を洗うの上手なんですか……?」
心地よげに目を閉じていた義守が、不思議そうな声で問いかけてきた。
「妹に仕込まれました」
問いに応じつつ、俺は義守の髪を傷めないように丹念に洗い流していく。一応、視界には瑞々しい少女の肢体も映っているのだが、今、この時は完全に思考から切り離されていた。
『女子の髪は、その一本一本が絹糸に優る価値がある』とは何事も完璧主義の妹様からの有難い教えであり、それを手の中におさめている以上、邪まな想像など入り込む余地はないのである。
自慢ではないが、今やこっちの方面でも金をとれる自信がある――かりそめにも一国の将として、それもどんなものかと思わないでもないが。
俺が真剣に髪に意識を集中しているとわかったのだろう。はじめこそ羞恥に耐えかね、俺の視界からなんとか肌を隠そうとあたふたしていた義守も、今は大人しく身を任せていた。
それでも、やはり落ち着くにはほどとおい心境であるらしく、俺の邪魔にならないように気をつけつつも、ちらちらと後ろを窺う仕草を見せるあたりが実に可愛いらしい。
そんな義守の気を紛らわせるために、こちらから話題を向けることにする。
ただ互いの立場や状況から、いささか殺伐な話題になってしまったあたりは不可抗力であろう。
「新しい軍装、評判は上々のようです」
俺が口にしたのは、今回の最上軍が用いた銀魚鱗札の甲冑と、桜染めの軍旗のことである。
これまでの最上軍は統一した軍装というのを用いてはいなかった。そんな手間をかけるだけの費用はなく、時間もなく、くわえて言えばあえてそうするだけの利点もないと考えられていたからである。
しかし、近年になって勢力を拡大させている大名の多くが、自家の力を強めるために軍制改革に力を入れ、同時に自家の武威を際立たせるために特徴的な軍装を用いるようになっていることも事実だった。
有名なところでは武田の赤備え、北条の五色備え、あるいは隣国伊達の黒備えなどである。
最上家は旧くからの軍制を改め、戦国大名への第一歩を踏み出したところ。その覚悟と決意を示すため、これぞ最上軍、という特徴を持たせることは、一に外への示威となり、二に内の結束を固めるための役に立つ。
ちなみに軍旗に使っている桜染めの布地は、山形城と、その周辺の桜の木を使用したものである。桜染めの布地はそうそう目にするものではなく、どうせなら特産にして交易を、などとこっそり皮算用をしていたのだが、聞けば桜染めといっても用いるのは花びらではなく桜の枝であり、しかもどの枝でも良いというわけでもないらしい。要するに桜の木をたくさん植えれば、それで量産が可能になるものではない、ということである。残念。
一方の甲冑の方だが、こちらの配色についてはとある人物の強い希望でこうなった。
黒や赤といった色彩と異なり、銀色の甲冑というのはかなり珍しい。少なくとも「銀備え」なる兵団を有している大名家を俺は知らない。何故といって、銀の色彩を出すには、銀箔を用いたり、胴部分を磨きあげたりと、手間も費用も桁違いにかかるためである。
現状では、兵力そのものが少ないからまだ余裕はあるが、これから兵を増やすに連れ、最上家の軍事費は増大の一途を辿ることだろう。
おれも一応は銀色を主張する人物――義光のことだが――に注意を促したのだが、聞く耳をもってもらえなかった。
そうしてうまれた新たな最上の軍装だが、今、口にしたとおり、思いの外将兵に評判が良い。
「なんといっても綺麗で、おまけに目立ちますからね。この甲冑をまとって恥ずかしい戦いはできぬと、皆が奮いたっているそうです」
「それは良かったです。白寿はどうしてもあの色が良いって駄々を捏ねてましたけど、そこまで考えていたのかな……?」
「……う」
義守の声に、俺は思わず押し黙る。
当然、その不自然な沈黙は、義守の不審を誘った。
「兄様、どうかなさいました?」
「い、いえ別に何でもないです、はい」
上ずった俺の声に、義守は不思議そうに首を傾げようとするが――髪を洗う俺の邪魔をしないように、慌ててその動きを途中で止めた。
ふう、危ない危ない。
まさか義光が銀備えにこだわった理由が別にあり、しかもそれは俺が吹き込んだものだ、などと知られたら大変だ。いや、具体的な実害があるわけではないが、だからといって知られて良いわけではない――最上家の軍装を決める発端となったのが俺の冗談だったのだ、などと。
以下、回想である。
『黒は論外じゃ。伊達の鬼姫どもと同じ装いなど、耐えられるものではないわ』
『そうすると、あとは赤、青、白、黄……金や銀の甲冑もありますが、値が張りますからね。軍将だけでなく、麾下の将兵まで同じ装いにするのであれば、避けた方が無難かもしれません。もっとも銀に関しては延沢の銀山がありますから、他国よりは揃えやすいでしょうが……』
俺はそう言ったが、実際は延沢銀山は最上八楯の一つである延沢家が確保している。将来は知らず、現時点においては敵の領土であったから、最上家は銀山の恩恵を受けることは出来ない。
だが、そこはそれ、ここで最上家が銀備えを実際に用いれば、あれやこれやと敵陣営に不和をもたらす一手になりえるのである。
俺の内心を察したか、義光は呆れたように低く笑う。
『まったく、ようもそう次々と悪知恵が湧いて出るのう。わらわとそち、腹を断ち割って、どちらがより中身が黒いのかを確かめてみたいわ』
『それはご勘弁を。ただ、銀備えに関して言えば義光様にとっても佳良な装いなのですよ?』
『なに? それはどういう意味じゃ』
『ふふ、銀の甲冑をまとって敵城を攻め上る最上の精鋭は、たとえて言えば己が責務を果たさんと川を遡る鮭のごとく――』
『決定じゃ』
『……は?』
『考えてみれば、軍旗の桜染めも、鮭の肉を思わせる甘美な色合いじゃ。これに銀備えの甲冑を併せれば、あれぞ最上の鮭備えと近隣の者どもも震え上がるであろうよッ、颯馬よくぞ申してくれたッ!!』
『お褒めにあずかり恐縮……って、鮭備え?』
『こうしてはおれぬ。早速母者に申して、今日のうちにも取り掛からねばッ』
以上、回想終了。
後に最上家の人々は誇らしげに語る。
武田に赤備えがあるように。
伊達に黒備えがあるように。
最上に鮭備えあり、と。
「それはねーわ」
「兄様??」
◆◆
埒も無いことを話しているうちに洗髪終了。
一仕事終えた充実感にひたりつつ、今度は自分の身体の汚れを落とす。
一方の義守は自分で身体を洗い、今は湯船につかっている。物理的に俺の視線を遮断できた安心感からか、先刻よりもやや落ち着いた様子で、あれやこれやと問いを放ってきた。
中でも義守が聞きたがったのが、件の妹様の話である。
別に隠す必要もないので、印象的なエピソードなどを話して聞かせていたのだが、その途中で不意に義守がこんなことを言ってきた。
「……その方が、ちょっと羨ましいです」
「なんでまた?」
義守の呟きに不思議に思って問い返す。すると義守は微妙に俺から視線をそらしつつ――
「だって、兄様が遠慮してないのがわかりますから……そういう意味でいえば、白寿も羨ましいんですけどね」
そう言って、義守は小さく頬を膨らませる。
「昼間も二人で仲良さそうでしたもんね。わたしも爺もてんてこ舞いだったのに」
「それについては重ね重ねお詫びいたします……」
あれを仲が良いと形容して良いものかどうかはわからんかったが。そう言って謝る俺の顔をみて、義守はくすくすと笑った。
「そういえば兄様、最初から白寿のことを良く知っていましたよね? 鮭が大好き、とか」
義守が言うのは、俺が最上家への救援に赴くため、はじめて山形城を訪れたときの話だろう。俺は、これでもか、というくらいの鮭を献上用に持ってきていたのである。
無論、それは義光の狷介な性格を噂で聞いていた俺が、義光を懐柔するために用意したものだった。あの時点では、鮭好きという話は俺の耳に入っていなかったのだが、まあ駄目で元々、と用意しておいたのである。かりに好物でなかったとしても、兵糧の足しにするだけだから、こちらは別に損をしないし。
結果として、この案は大成功だった。その成果が、俺と義光の今の関係に繋がるのである。
とはいえ、歴史知識から義光の好物を推測した、などとは言えないので、義守の問いには口をにごして答える。
「情報収集はすべての基本ですので、その成果ですね。それに遠慮してないという意味なら、義守様にだってしてませんよ?」
「そ、そうですか? でも……」
「というか、遠慮してたら一緒に風呂はいって髪を洗ったりはしませんでしょう?」
「はうッ?!」
我ながら説得力に満ちた台詞である。義守も反論の余地がないようだ。
「そ、それじゃあ、ですね」
しばしの沈黙の後、義守はなにやら思い切った様子で口を開く。両の手は顔の前で力強く握られていた。
「ここ、今度、わ、わ、わ……」
「義守様、まずは深呼吸からはじめましょう」
「は、はいッ」
そういって本当に深呼吸するもがみん。ああ、なにをしても癒される。なんだこの可愛い生き物は。
「そ、それではあらためまして」
「はい、どうぞ」
「今度、私と一緒に雪見をしませんかッ?! 山形の城から、千歳山がとても綺麗に見える場所があるんですッ」
それは喜んで――と一も二もなく応じようとしたが、ふとあることを思いついた。
「それは是非ともお招きにあずかりたいですが、千歳山を見るというからには、それにちなみたいところですね」
「千歳山にちなむ、ですか?」
不思議そうな顔をする義守に、俺はにやりと笑ってみせる。
「千歳山の名前の由来となった阿古耶姫は、詩歌管弦のいずれにも通じた姫だったとか。ここは義守様から詩歌で誘ってほしいものです。氏家様から、最近の義守様はそちらの方もがんばって学んでおられるとうかがっていますよ?」
「そ、それは、たしかにそうですけど、まだ誰かに聞いてもらえるようなものじゃ……も、もう爺ったらッ」
思いもよらない提案だったのだろう。先刻にもまして慌てる義守に俺はもう一度笑みを向けた。
「雪が降るまで、まだしばらくはありましょう。義守様の奮起に期待しております」
「うぅぅ……精進します……」
その後、義守はああでもない、こうでもないと詩歌の作成に頭を悩ませていたので、ろくに会話もせずに風呂は終了となった。
俺は内心でしくじったと苦笑しながらも、一生懸命な様子のもがみんを見て密かに思う。
これは雪見の会までに、出来るかぎり出羽の情勢をまとめておかねばならないな、と。