「おのれッ、島津の小娘どもがッ!」
勝利の確信と共に出陣したはずが、今や手勢のほとんどを失って惨めに落ち延びようとしている。
頴娃兼堅は、その現実を認めることが出来ずにいた。
口惜しげに雑言を吐き散らすのは、絶えず湧き上がる屈辱感を押さえかねるゆえである。
城を出た時は八百を数える将兵を指揮していたはずなのに、今、周囲を見渡せば、従う兵は片手で数えられるほどの数しかいない。改めてそのことを思い知り、兼堅はみずからの凋落ぶりに愕然とせざるを得なかった。
実のところ、もともと兼堅は頴娃家にあって親島津派として知られていた。島津忠良(日新斎)、貴久の二代に仕え、その信任を受けて頴娃家の勢力拡大に努めてきたのである。
先代貴久が亡くなった折、兼堅は日新斎の復位を望んだ。島津宗家にはめぼしい男児はおらず、それ以外に選択の余地はないと思えたからだ。
しかし、実際に島津の当主の座に座ったのは、貴久の長女である島津義久であった。このことが兼堅の逆鱗に触れる。女如きを主として臣従するなど、誇り高き頴娃家の当主には出来かねると考えたのだろう、以後、兼堅は明確な離反の意思を示すことこそしなかったが、明らかに島津家と距離を置くようになったのである。
この両者の不和は必然的に他勢力の知るところとなり、兼堅の下には隣国大隈の肝付家からの使者がひっきりなしに訪れるようになった。
肝付家としては、元々自分たちに近しかった頴娃家を、島津の麾下に誘った兼堅個人に対し不審の念を持ってはいたが、島津の後背を扼す意味で獅子城の存在は無視できない。兼堅の前には、その歓心を買うために財貨と甘言が山のように積まれ、ついには島津を討った暁には薩摩南部を与えるとの誓紙まで与えられたことで、兼堅は反島津に与することを決断したのである。
とはいえ、兼堅としても、この一戦で島津家を滅ぼせると考えていたわけではない。仮に戦況が拮抗し、両者が和睦すれば、最も困難な対場に置かれるのが頴娃家であることは明らかである。
それゆえ、兼堅としては島津家と肝付家との間で起きた今回の戦では漁夫の利を狙いつつ、慎重に事を進めるつもりであった。
無論、島津を滅ぼすことが可能であると見たならば、容赦するつもりはない。
それは、女の分際で島津の家政を我が物顔で取り仕切る姫たちに、現実というものを教えてやるためであり、加えて言えば、孫かわいさで目が眩んでいるとしか思えない日新斎への手痛い諫言のつもりでもあった。
事実、此度、居城をがら空きにした島津の動きを見た頴娃家の当主は、これを千載一遇の好機と見て出陣した。おそらく内城に残る兵力は二百に満たず、頴娃家の全軍をもってすれば、これを陥とすことは難しくない。そして、島津家の居城を陥とせば、頴娃家は一躍薩摩に覇を唱えることも可能である――そのはずであった。
しかし、現実は兼堅の目論見をことごとく裏切って進む。
後方の荷駄隊への襲撃を知った時は、山賊の仕業と信じて疑わなかったが、その部隊が高らかに掲げるのは『丸に十字』の島津の家紋。
島津軍はこちらの陽動につられて、全戦力を大隈との国境へ貼り付けたはず、と兼堅は愕然としたが、そうしている間にも襲撃者たちは、こちらの後方部隊を壊乱させていく。
妖術でも使ったか、と舌打ちしつつ、兼堅は全軍に反転を指示する。敵の所属や兵力は不明だが、こちらより多いということは有り得ない。本隊が赴けば、おのずと敵は四散する。そう考えたのである。
しかし、狭い山道に八百もの兵がひしめきあっているのだ。全軍に指示を伝えることさえ容易ではない。加えて、先鋒部隊は後方の混乱に気付いておらず、今も内城にむけて進軍を続けている最中であった。
命令に従って引き返す者。状況を知らず進む者。様子を見ようと立ち止まる者。たちまち頴娃勢は混乱し、彼らは互いにぶつかりあって、罵りの声をあげた。
この時まで、頴娃勢の士気は高く、将兵は勝利の確信を持って意気軒昂であった。それは彼らの当主の必勝の念が、末端まで染みていたからである。
だが、一刻も早い勝利をと逸るその心が、予期せぬ奇襲に遭って想像以上の混乱を生んでしまう。
そして。
まさにその瞬間を見計らい、敵は第二の襲撃をかけてきた。
混乱の中心、全軍の要たる本陣へ。
兼堅は咄嗟に迎撃を命じたが、それは混乱を助長することしか出来ず、奇襲部隊は易々と頴娃勢のただ中に突っ込んでくる。
兼堅が、ようやく自らが策に落ちたことを悟ったのは、この時であった。
小柄な身体に不敵な表情を浮かべ、本陣に突っ込んでくる姫武将の顔を兼堅は幾度も見たことがあったのである。
その姫将の名を、島津歳久といった――
「おのれ、島津め、小細工を弄しおって。この屈辱、必ず晴らしてやる! 日新斎殿と先代殿には恩義があったゆえ、命まではとらずにいてやろうと思うたが、最早我慢ならんわッ」
道さえない山中を、雑兵のように徒歩で踏破していく兼堅。
すでに味方の部隊は壊滅状態であり、徴兵した農民のほとんどは討ち死するか、あるいは島津家に降伏したであろう。
頴娃家直属の将兵は、今の兼堅のように山中を抜けて逃がれようとしているが、それも果たして何人が無事に城までたどり着けることか。敵の追撃は激しく、戦況を悟った周辺の農民たちの落ち武者狩りが始まっている気配もある。
島津が、何としても兼堅の首級を取ろうとしていることは明らかであった。
しかし、その事実は、兼堅にとって不利なことばかりではなかった。
敵が何としてもこちらの首級を、と考えているのは、こちらが生きていては困る理由が敵にあるからである。
「……つまり、わしが逃げ延びれば、まだ挽回の目はあるということ。肝付殿の軍勢が動いた以上、島津とていつまでもこちらに兵力を張り付かせているわけにもいくまい。城までたどり着けば、再生の時を得ることがかなう。さすれば、いずれ小娘どもに懲罰の鞭をくれてやることもできようよ」
兼堅がそう呟いた時であった。
変化は急激だった。不意に目の前の草むらが揺れるや、竹槍が突き出されてきたのだ。
「ぬッ?!」
「殿ッ!」
兼堅は身を捻るように竹槍を回避すると、配下の兵が慌ててその周囲を固めていく。
敗残の主従の前にあらわれたのは、粗末な身なりで竹槍や木の農具を構える男たちであった。おそらくはこのあたりの農民たちなのだろう。
「かぶと首だ、逃がすなよ」
「おうさ、島津に引き渡せば、向こう何年かは楽に暮らせるじゃろ」
じりじりと距離を詰めながら、口々に言い立てる農民たちの姿に腹をたてたのか、兼堅の部下の一人が声高に叫ぶ。
「下民どもがッ、控えろ! 車裂きにされたいのか」
――もし、ここが獅子城であれば、侍の一喝を受けて農民たちは言葉もなく平伏したであろう。だが、今この時、どちらの立場が上なのかを彼らは知っていた。
「はん、敗残の落ち武者が何を威張ってるんだか」
「相手にするな。さっさと首級をとっちまおう。他の村の連中がこないとも限らんで」
「そうだな、おら、とっとと死にくされッ!」
両手に余る数の男たちが一斉に躍りかかって来る。
それに応じて動き出す頴娃家の兵士たち。
「殿、ここはそれがしらが引き受けまする。はようお逃げくだされィッ!」
「……すまぬ。頼むぞ」
そう言うや兼堅は身を翻し、駆け出した。
背後から響く怒声と、それを遮る雄叫びを聞きながら、兼堅は足を止めない。
徐々に遠ざかる刀争の音。部下たちの献身によって、兼堅はこの場からの離脱を果たすかに見えた。
だが。
不意に、兼堅の前方の草むらが大きく揺れた。
それは兼堅の脳裏に、竹槍が突き出されたつい先刻の光景を否応無しに思い出させるもので、咄嗟に足を止めてしまう。
その逡巡が、兼堅にとって生涯最後の不覚となった。
頴娃家の兵はよく敵を食い止めていたが、絶対数が違う以上、どうしても押さえきれない敵が出てきてしまう。一人の若者が、命知らずにも竹槍を両手で構え、混戦を突っ切って兼堅の背後まで迫っていたのだ。
力任せに突き出された竹槍では、鉄の甲冑は貫けない。だが、穂先は吸い込まれるように甲冑の隙間を縫って、兼堅の右脇腹に深々と突き刺さる。
「……と、殿ッ?!」
異変に気付いた配下の、悲鳴にも似た声が兼堅の耳朶を震わす。
彼らは慌てて主のもとに駆けつけようとするが、追いすがる農民たちはそれを許さない。逆に、その無防備な背に次々と竹槍が突き立てられ、たまらず倒れたところを、今度は農具で滅多打ちにされてしまう。
苦痛の声はすぐに途絶え、しばらくの間、興奮した農民たちの叫びと、肉と骨が潰れる音があたりに響きわたった。
これは必ずしも残酷さゆえのことではない。農民たちの行動は、恐怖に根ざすものであった。ここで下手に情けをかけ、一人でも逃がしてしまえば、後日、武士たちによって復讐されることを彼らは知っており、だからこそ、確実にその息の根を止めるまで、手を休めるわけにはいかなかったのである。
……やがて、落ち着きを取り戻した農民たちは、血と泥に塗れた竹槍を放り出すと、かぶと首である兼堅の周囲に群がり、その首級を奪う。
かくて、島津家に叛した頴娃兼堅の首級は、農民たちの手によって、島津家のもとにもたらされることになったのである。
ただ一戦で当主を討ち取られ、その兵力のほとんどを失った頴娃家。
これ以上の抗戦は不可能であることは万人の目に明らかであり、この戦は島津の勝利で終わるかと思われた。
しかし――
◆◆◆
薩摩南部、獅子城。
天嶮を利して建てられた堅牢な山城はを仰ぎ見つつ、城内へつかわした使者の帰りを待っていた俺たちは、使者が携えてきた城主の返書を見て眉根を寄せる。
「頴娃久虎か。藪をつついて蛇を出してしまったかな」
俺が小さく嘆息しながら呟くと、家久が頬に人差し指をあてて困ったように首を傾げた。
「うーん、ここまで叩けば、素直に降伏してくれると思ったんだけど」
「破れかぶれになったのか、それとも今の戦況を認識した上で、私たちがこちらに長居できないと踏んだのか。いずれにせよ、厄介なことには違いありませんね」
歳久もまた、決断の難しさを示すように、しかめ面を隠さなかった。
先の戦の後、兼堅の首級を確認した俺たちは休むことなく兵を獅子城に進め、獅子城の周辺一帯をたちまちのうちに制圧、すぐさま城に降伏を促す使者を遣わした。これを受け入れれば、兼堅の首級は丁重に送り返すという条件をつけた上でのことである。
城外で兼堅の首級を晒し、敵の士気を挫くことも出来たのだが、仮にも島津の家臣であった者の首級である。要らぬ敵愾心を買うような方法は避け、死者への敬意を示した方が良いと考えたのだ。
そんなこちらの厚意を察したか、獅子城は抗戦の不可を悟り、こちらの要求を受諾するかに見えた。しかし、新たに頴娃家の主となった頴娃久虎は、そのために一つの条件を出してきたのである。
『父の首級を島津のご一族自らがお持ちくださいますように』
さすれば頴娃家は、島津家の威と情誼に厚いその家風に跪くでありましょう。
こちらが差し向けた使者に対し、頴娃家の若き当主はそう返答してきたのである。
頴娃兼堅はいまだ五十路にも達せぬ若さであり、その子である久虎もまたようやく二十歳になるかならぬかであろう。年齢だけ見れば、俺と大してかわらない若者である。当主が健在であったため、後継者たる久虎自身の戦ぶりや為人には、未だ目立った評はたっていない。
暗愚との噂は流れてきていないが、だからといってその将来を期待するような風評を聞いたこともなかった。そのため、俺はてっきり頴娃久虎なる男、平凡な地方豪族の跡取り息子に過ぎないと考えていたのだが。
兼堅が討死し、兵力のほとんどを失って、獅子城は混乱の極みに達してもおかしくはない状況であった。にも関わらず、城を訪れた使者が言うには、獅子城内に動揺を示す兆候はなく、新たに当主に立った久虎がしっかりと家中を統御しているように見えたという。
もしこれが真であれば、その一事だけでも頴娃久虎の尋常ならざる手腕が見て取れる。そして、使者の観察が正鵠を射ていた場合、そんな人物が、城内に入った島津の姫に対してどのような行動をとるのかは計り知れない面がある。豹変して使者を人質に取る挙に出ることもありえよう。
それゆえ、俺は断固反対の立場をとった――と言いたいのだが、それを口にすることは出来なかった。何故なら。
「降伏すると言う相手に対し、罠を疑って逡巡するなど島津の名折れ。少なくとも敵はそう言いたてるでしょうし、そのことが知られれば、此度の勝利の意義が損なわれることにもなりかねません」
歳久の言葉どおり、ここでの対応は今回の戦のみならず、今後、島津が他国を相手とした戦に望む際にも影響を与えるであろう。いかに兵略に長けようと、胆力に欠けた臆病者と思われては島津の名がすたるというものだ。
そのことが、この場にいる者にはわかっていた。それゆえ、歳久は続けてこう言ったのである。
「ここは私が出向くのが得策でしょう。ばか颯馬と家久はこのまま陣に留まり、異変に備えてください」
あっさりと言い切る歳久に、家久がかぶりを振って答える。
「総大将が使者になるなんて聞いたことないよ、歳ねえ。ここは私が行くべきでしょ」
「私が総大将というのはあくまで名目の上でのこと。実質的には家久、あなたも此度の戦、大将といえる立場にいるのです。使者に赴くに相応しからずというのであれば、私もあなたも似たようなものでしょう」
「それはそうだけど、その理屈で言うなら歳ねえも私も駄目ってことになっちゃうよ。島津の一族っていうのが、私たち二人を指す以上、そんなこと言っていられないでしょう」
家久の反論に、歳久がさらに口を開いて言い募ろうとする。
その時、それまで黙っていたキクゴローが、不意に口を開き、こんなことを言った。
「ねえねえ、この場合、乳兄弟っていうのは一族に当たるのかな?」