視界を灼きつくす稲光にわずかに遅れ、耳朶を打ち据えるような轟音が響き渡る。
大友軍本陣からほど近い陣屋から悲鳴にも似た声があがった。
夜半から大友軍を襲った嵐は、まるで雷神と風神が競って猛り狂っているかのようで、どれほど時が経っても一向に収まる気配を見せない。
軍律の厳しさにおいては九国一とも言える大友軍の将兵である。敵軍の襲撃であればかくも混乱を見せることはなかったであろうが、時ならぬ自然の猛威の前では、さしもの精鋭も、嵐が過ぎ去るのをただ待つことしか出来ないと思われた。
だが、現在の戦況は漫然と時を過ごすことを許さぬほどに切迫している。焦りを覚えながら、じりじりと嵐の静まる時を待っている大友軍将兵のもとに、凶報は容赦なく訪れる。
「な、なんと、高橋殿までが離反したと申すのかッ?!」
大友軍の陣中にあって、驚愕の声をあげる僚将を横目で見やりながら、小野鎮幸(おの しげゆき)は無言で腕組みをして、眉間に皺を寄せる。
大友軍筑前方面軍の主力である戸次勢。鎮幸はその戸次勢を率いる将の一人である。
年齢は三十代半ばというところか。彫り深く、精気のあふれる容貌の持ち主で、顔といわず身体といわず無数の戦傷が刻まれており、大友家中でも屈指の猛将として知られている。
その容貌や言動はときに粗暴に映る時もあるが、見かけだけのことである。兵書に親しみ、政にも長じ、部下を思う心も厚い。豪放磊落な気性は目上からも、また目下の者からも好かれ、近年では智勇兼備の将帥としての令名を確立しつつある人物であった。
「立花殿に続き、高橋殿までが――これも元就公の策ですか。さすがは陶晴賢を打ち破り、大内家を滅ぼし、尼子を圧して中国地方の覇者となっただけはある。『有情の謀将』の名は伊達ではありませんね」
鎮幸の隣にあって、どこか感心したようにうなずいたのは由比惟信(ゆふ これのぶ)、鎮幸と同じく戸次家の将の一人であり、鎮幸が猛将であるならば惟信は知将と目される。
年齢は惟信の方が、鎮幸より十以上も若いが、鎮幸曰く「とてもそうは思えん」というほどに思慮に富み、沈着な為人で、その冷静さは彼ら二人の主君からも高く評価されていた。
豊かな黒髪を無造作に背に流し、惟信が陣中を歩けば、荒くれ者の兵でさえ姿勢を正す。女性らしい優美な曲線を描く肢体は、鎧甲冑を身に着けていても衆目を惹きつけるに足るものだった。
もっとも、惟信は一度戦場に立つと、鎮幸も顔色ないほどの勇戦を示すことがしばしばあり、その際は日ごろの穏やかさをかなぐり捨てて敵陣を疾駆する。鎮幸などは、その変わり様は幾度見ても慣れることがない、と嘆息することしきりであった。
鎮幸と惟信の二人を、大友家中では『戸次の双璧』と呼び習わす。
常は戸次家当主に付き従い、その手足となって動く二人であるが、作戦上、独立した行動をとる際は鎮幸が主将となり、その補佐を惟信が行うというのが戸次勢の通例であった。今のように。
それまで無言でいた鎮幸が、ここで口を開く。
「高橋殿が離反したということは、岩屋城と宝満城が敵にまわったということだな。我が軍が立花山城に迫りつつあるこの時に、高橋殿が離反したこと、これは偶然ではあるまい」
「ええ、おそらく。このままでは休松城の道雪様との連絡は絶たれ、互いに孤立するは必定です。敵がこの嵐さえ計算に入れていたのだとしたら――いえ、おそらくは計算の内なのでしょうね。高橋勢、立花勢、共に嵐をついて出撃しているものと考えるべきでしょう」
その惟信の言葉に周囲からざわめきが起き、諸将は動揺した視線をかわしあった。
この嵐の中、敵勢に挟撃を受けようものなら壊滅は必至である。動揺するな、というのは酷な話であったろう。
「そ、それならば急ぎとって返すべきでは? 我らが主力を率いている今、休松城の兵は少ない。強襲されれば、道雪様とてただではすみませぬぞ」
「この嵐の中、進むことさえ難しいのに、退却などしては、それこそ敵の思う壺であろう。追撃をうければ、戦うことも出来ずに壊滅してしまうわい」
「だからと申して、ここでじっとしているわけにもいくまい。いっそ、急ぎ立花山城を陥とすべきではないか」
「立花山城は筑前の要ともいうべき城。兵力では我が方が勝っているが、しかしあの堅城がそう易々と陥ちるとは思えぬ。城攻めにてこずっている間に、後背を高橋殿の兵に衝かれたらどうする。敗れるとは言わんが、被害は無視できぬものとなるぞ」
「では、どうしろというのだ。このまま手をつかねて漫然と時を過ごせとでも言う気かッ」
戦の方途を巡り、軍議は喧々諤々の騒ぎに包まれた。
それらの意見に耳を傾けながら、主将である鎮幸、副将である惟信、共に意見を口にすることはない。
彼ら二人をもってしても即断できないほどに、戦況は混沌としているのだと思われた。
◆◆
時は九州筑前をめぐり、大友、龍造寺、毛利、秋月らの諸勢力が激闘を繰り広げている最中である。
当初、大友軍は戦況を有利に押し進め、立花城、宝満城、岩屋城等の堅城を拠点として勢力を拡大し、商都である博多津を押さえ、筑前全域を制圧するのも時間の問題だと思われていた。
だが、北九州における大友勢力の伸張に脅威を覚えた中国地方の有力大名毛利元就の参戦によって、戦況は一変する。
『有情の謀将』とあだ名される元就は、先年大友勢に滅ぼされた秋月文種の子、種実を援助することで大友家の伸張を阻もうとした。
そして、毛利の助勢を受けた種実は元就の目論見どおり、秋月氏の居城である筑前古処山城を大友軍から奪還したのである。
この報告を受けた大友フランシス宗麟はただちに軍を派遣する。博多津を擁する筑前は、地理的にも、また経済的にも北九州の要である。これを他家に奪われることの害は言を俟たない。
先年、足利幕府より九州探題の職を授かった大友家の威信を保つ意味でも、筑前の確保は大友家の至上命題だったのである。
大友家の威信をかけたこの戦において、大友軍二万を率いることとなったのが、大友家加判衆筆頭、戸次家当主たる人物――すなわち『鬼道雪』こと戸次道雪である。
遠く東国にまでその武名を響かせる道雪率いる二万の大友軍は、秋月勢の必死の防戦をことごとく粉砕し、たちまち古処山城を重囲の下に置く。
城内の兵は千に満たず。また、秋月勢が頼りとする毛利の援軍も、道雪の進撃速度があまりに速かったために、いまだ九州にさえたどり着いていなかった。
この戦は大友家の勝利。誰もがそう考えた時。
ひとつの報告が、大友軍を震撼させる。
筑前の要、立花山城主立花鑑載が、大友家からの離反を表明したのである。
立花山城は立花(りっか)城とも呼ばれ、九国最大の商都である博多津を見下ろす山城である。
北は遠く壱岐島を望み、東の豊前、西の肥前に睨みをきかす、文字通り筑前の要といえる城が敵にまわったのだ。この報を聞いた際の諸将の驚愕は押して知るべしであった。
また叛旗を翻した立花鑑載という人物が、凡庸な臣下ではなかった。
立花家は大友家の分家である。大友家は分家の数が多いことで知られ、立花、高橋、戸次、吉弘などの家々が大友家の膝下に居並んでいる。それら分家には、本家と同じく杏葉紋が授けられており、これをもって『同紋衆』と称する。
同紋衆は大友家の中で大きな権力を有しているが、その中でも、立花家は『西の大友』とも呼ばれる大家、その影響力は大友家当主でさえ無視できないほどに強大なものだった。
その立花家が叛いたのだ。一報を聞いた宗麟が、顔色を失ったのは当然のことであった。
秋月家追討の命を受け、古処山城を囲んでいた道雪のもとに、主君宗麟よりの急使が到着したのはまもなくのこと。使者は、立花家追討の命を道雪に伝えた。
これを受け、道雪はただちに古処山城の攻囲を解き、全軍を二手に分ける。
道雪は、古処山城の押さえとしてわずか二千の兵を残すのみで、余の全軍を立花山城へと向けた。
大友軍の猛攻をかろうじて耐え凌いでいた秋月種実に、すでに追撃の余力は残っていないと判断した道雪の決断に、配下の諸将も異論を唱えることはなかった。
それでも道雪は万全を期し、腹心である鎮幸、惟信らに先陣をゆだね、自身は殿となって休松城に残ったのである。
休松城はもともと古処山城の出城であった。道雪は緒戦でこの城を陥とし、以後、本営として用いてきた。
道雪が休松城を選んだのは、古処山城の押さえとしての役割はもちろん、他の筑前国人衆に睨みをきかせる上で、休松城の立地がきわめて都合が良かったからである。それは、立花氏が叛いた後でも同様であるはずだった。
――しかし、戦況は一夜にして一変する。
大友家加判衆の一、立花家に並ぶ大家である高橋氏までが、大友家から離反したのである。
高橋家が領する宝満、岩屋の両城は、休松城と立花山城を結ぶ道の半ばに位置する。
つまり、小野鎮幸、由布惟信らの率いる大友軍本隊を通過させた高橋家は、労せずして大友軍の主力と、道雪の本営を分断してしまったことになる。
高橋家は立花家と同じく同紋衆に名を連ね、立花家に勝るとも劣らぬ威勢を示す大家である。その祖は、遠く大陸にあり、漢王朝を創建した劉氏の流れをくむという異色の名門であり、立花家に続き、高橋家までが叛いたことは、すなわち大友家にとって、両の腕をもがれたに等しい出来事であると思われた。
しかも、なお凶報は続く。
後方の休松城にあって、高橋家離反の報を受け取った道雪の元に、東の豊前からの急使が駆け込んできたのだ。
使者は息せき切って急報を告げ、それを聞いた者たちは等しく背筋を凍らせる。
――毛利水軍、豊前に上陸。率いるは毛利元就が頼みとする一族中の勇将吉川元春ならびに小早川隆景。両将は上陸後、速やかに軍を展開し、大友軍の後背に圧力をかけるように進軍を開始せり。
この毛利の動きに呼応し、それまで大友家に従ってきた筑前の国人衆までが反大友の動きを見せ始め、さらにさらに西方肥前の龍造寺氏までが筑前戦線に大兵力を投入する動きを見せつつあると聞こえてきた。
戦況は転げ落ちるように大友家に不利なものとなっていったのである。
◆◆
筑前休松城。
反大友の旗幟を明らかにした筑前国人衆の軍勢によって包囲された城中を、戸次道雪はゆっくりと進んでいた。
道雪が進むにつれ、カタカタと鳴るのは、道雪が身を預ける車椅子の車軸の音である。幼少の頃、雷をその身に受けて以後、道雪は下肢の自由を失ってしまった。自身では城中の移動もままならない道雪に、父の親家が与えたのが、古く漢の時代にうまれたとされるこの車椅子であった。
「城を囲む敵方は八千、御味方は二千。なかなかに厳しい状況になってしまいましたね」
車椅子を進めながら、道雪は声を発する。
いささかの緊張もなく、気負いもなく。詩を吟じるような、趣き深い声音であった。
――豊後を本拠として、九国最大の勢力を誇る大友家。戸次氏はその大友家の臣であり、同時に庶流のひとつでもあって、代々の当主は加判衆(家老格の重臣)の一角として大友の治世に重きをなしてきた。
しかし、栄枯盛衰は世の常である。大友氏が他国に勢力を伸ばすにつれ、大友家内部でも新興の者たちが力を揮い始め、戸次氏の先代当主親家の頃には、戸次家の権勢は明らかな衰えを見せていた。
名門戸次氏も、戦国の世の理にならい、凋落の一途をたどるのみか。
大友家中で囁かれていたその声は、戸次氏の今代当主が家督を継いだ頃に一際大きくなり、半ば公然と語られるようになっていた。
その理由は、戸次氏の家督を継いだ戸次親家の娘鑑連(あきつら)にあった。
若くして戸次氏の当主におさまったこの少女、幼き頃、落雷に遭って両の足を雷神に奪われていたのである。
家運の傾き甚だしく、勢力減退著しい今この時、人もあろうに、よりにもよって不具の娘に家督を継がせるとは。
そんな声がそこかしこから聞こえる中、戸次家を継いだ鑑連は、しかし焦りも怒りも見せることなく、むしろ悠然とした面持ちで当主としての道を歩き始めたのである。
そして、それから数年。
戸次氏は往時を上回る勢いでその勢力を増大させており、豊後大友家の躍進に不可欠な存在となりおおせていた。
傾きかけた戸次の家運を建て直し、主家の隆盛をも導いた戸次鑑連の名は九国中に鳴り響き、その勇名を慕う者は数知れず、輿に乗って戦場で采配を揮う姿は凛々しさと猛々しさを兼ね備え、時として雅にさえ映る。そんな鑑連に大友家の将兵は尊敬と憧憬に満ちた視線を送るのであった。
向かい合う者の内奥を見通してしまいそうな澄んだ眼差しに、穏やかでありながら威を感じさせる佇まい。たおやかな容貌に微笑みを浮かべれば、士卒に末端に至るまで感奮せざるはなく、一度号令を発すれば、その軍勢は怒涛となって敵陣を覆い尽くす。
それが戸次鑑連という人物であった。その鑑連は、先年、名を改め、戸次鑑連改め戸次道雪と名乗っている。その武威を恐れた周辺諸国は、昨今、道雪を指して『鬼道雪』とよびならわし、他国の将士はその雷名を恐れること甚だしかった。
すでに休松城が囲まれていることでもわかるとおり、今回の筑前方面における反大友の軍勢は非常に組織だった動きを見せていた。それは敵軍がいかに道雪を脅威としているかの証左ともいえる。
戸次勢といえば大友軍最強の呼び声高き精鋭部隊。それを率いる戸次道雪の勇名はつとに名高い。これを討ち取ることが出来れば、筑前における大友勢力を駆逐することさえ不可能ではなくなろう。
あるいは、今回の離反劇の筋書きを書いた者は、自分の命を主目的としているのかもしれない。
あまりに素早い敵軍の動きをみるにつけ、道雪はそんな推測を胸中で育んでいた。
「道雪様」
そんなことを考えつつ、廊下を進む道雪に声をかける者がいた。
そちらを向いた道雪の視界にまずはじめに移ったのは、女子と見間違えるような深みのある黒髪であった。
一見したところ、柔和な顔立ちで、ともすれば女性に見間違われることも少なくないが、眼前の子供がれっきとした男児であることを道雪は知っている。
なにしろこの人物、戸次道雪の養子なのだから。
「誾(ぎん)ではありませんか。夜番の後はきちんと休むようにと申し付けていたはずですが」
「申し訳ありません。しかし、敵勢が城を包囲している今この時、のんきに眠ることは難しゅうございます」
生真面目な表情で、生真面目な返答を返す息子を見て、道雪はたおやかに微笑む。
「ふふ、共に番を勤めていたお人は、今も高いびきの真っ最中だと思いますけれど」
誾と呼ばれた少年は、かすかに顔をしかめた。
「あいにく、この状況で、ああものんきに横になれる胆力は持ち合わせておりませぬ。道雪様の下で幾度も戦陣に臨みましたが、此度のごとき御味方に不利な戦は初めてでございます。しかるにあの者の悠然たる様子、到底ただの浪人や軍配者とは思われません。やはり、名を質すくらいはしておくべきなのではありませんか?」
続いて発された言葉は、隔意と警戒で満ち満ちており、誾がその人物をいかに疎んじているかがよくわかる、と道雪はひそかに考えた。
「雲居筑前(くもい ちくぜん)。しっかと名乗っているではありませんか。誾も聞いているでしょう?」
道雪の言葉に、誾は口をへの字に結ぶ。
「確かに聞いてはおりますが、明らかに偽名ではありませんか。大谷の娘も、彼の御仁の素性を詳しく知らぬと申しておりました」
「いかように名乗ろうと、それはその者の自由。名によって、行いの価値が変わるわけではないでしょう。名乗らぬのか、名乗れぬのか、それはわかりませんが、その言動を見ればおおよその人柄も知れます。私は信頼に足る御仁だと判断しました。そして、その策は採るに値した。ゆえに、大友の軍配を預けたのです」
「――それはその通りでありましょうが……」
少しためらう素振りを見せた後、少年は意を決したように口を開く。
「しかし、やはり私には、名を秘める者を信用することは難しく――」
「誾」
言葉の半ばで、道雪の声がその続きを塞き止める。
声に険があらわれたわけではなかったが、その威に打たれた誾は、はっとして口を噤まざるをえなかった。
「あなたが雲居殿に信を置けないのは承知しています。疑念を質したいというならば、それも良いでしょう。しかし、それを口にするべき時宜はわきまえなさい。府内からこちら、質すだけの時も場所もあったはず。そのときに口を閉ざし、敵が至近に迫った今この時、あえて城内に不和をまくような言動をするは、大友に仕える者にあるまじきこと、我が子といえど看過できません」
さらに道雪の言葉は続く。
道雪の眼差しに宿る厳しさ、その中にいたわりが込められていることに、果たして誾は気づいたであろうか。
「大切なものを守る。そのために強くなると決めたのでしょう。ならば、まず何に打ち克つべきか、あなたは重々承知しているはず。しかし、私の目に、今のあなたがそれを為せているとは映りませんよ?」
森厳とした言葉に、誾は一言もなく俯き、押し黙る。
省みてみれば、今の発言が現状への不満と苛立ちから発されていたことは明らかであったからだ。
忽然と大友家の前に現れた、一人の人物。
誾にとっては遥か遠い超克の対象である鬼道雪の信頼をあっさりと勝ち取り、此度の大戦の絵図面を委ねられた男――雲居筑前。
描いた戦絵図は精緻にして、無辺。采配をとっては巧妙に兵を指揮し、刀をとっても果敢の一語。
道雪にからかわれて慌てている姿しか知らず、心ひそかに彼の人物を侮っていた誾の蔑みは、この戦で完膚なきまでに打ち砕かれた。
否、打ち砕くつもりなど先方にはあるまい。誾の隔意を察しながら、気に掛ける素振りすら見せずに接してきたことからもそれは明らかだった。
義理の母たる戸次道雪と、姉と慕う吉弘紹運が、なぜ新参者にあれほどの信を置いていたのか。そのことが、ようやく理解できた誾であった。
――そして、そのすべてが気に入らぬ。
誾が顔を伏せたのは、唇をかみ締める姿を道雪から隠すためだった。だが、それゆえ、誾は自分を見つめる道雪の憂いにも気づくことが出来ず、ひとり、暗く重い気持ちを抱え込んでしまう。
そんな誾に、道雪が声をかけようとした時だった。
不意にその場に第三者の声が割って入ってきた。
「……戸次様」
その声が、低く、くぐもっている理由は簡単だった。
その人物の顔が白布で覆われていたからである。
頭部のほぼすべてが布地で覆われており、外気に触れているのは、目と思われる部位のみ。それもかすかに穴が開いている程度で、その中を覗くことは容易ではない。
かすかに丸みを帯びた身体から女性であることは察しがつくが、背格好は、決して大柄とは言えない誾よりもさらに小柄で、体格だけみれば子供と言っても差し支えないであろう。
そんな子供が頭巾で顔を覆っているのだ。誾の容姿とは異なる意味で、人目を集めるのは必然といえた。
もっとも、今、この休松城にいる者で、この少女の名を知らない者はいない。もちろん、道雪も誾も例外ではなかった。
だが、知ってはいても、抱く感情がそれぞれに異なるのは当然である。道雪が微笑み、誾がかすかに顔をしかめる。その反応は、先に語られていた人物に対するそれと、ほぼ等しい。
その一事で、二人の内心を推し量ることが出来たであろう。
ただ、白布を巻いた人物は、そのことに気づかぬのか、あるいは気づきはしても気にしていないのか、これといった素振りを示すことはしなかった。
「これは吉継殿、どうなさったのです?」
道雪は白頭巾の娘の名を口にした。
吉継――道雪の父の代に一時、戸次家に仕えていた大谷吉房の娘、大谷吉継の名を。
「……は。父より言伝です」
「雲居殿から、ですか。伺いましょう」
「敵軍の兵気を見るに、城を囲む敵軍が総攻めに出てくるは間もなく。くれぐれもご油断なきように、と」
その言葉に、道雪は心得たようにゆっくりと頷いたが、誾は不審をあらわに口を開いく。
「何を根拠にそのようなことを申されるのか。立花、高橋両家が反旗を翻し、毛利勢がこの城に迫っている今、あえて筑前衆のみで総攻めを行う理由があるとは思えない。時をかければかけるほどに、彼らは有利になっていくではないか」
「……それゆえに、と父は申していました」
誾の言葉に、吉継は言葉すくなに答えるが、それは説明と言うにはあまりに短すぎた。
それに気づかない吉継ではないはずだったが、雲居を父と呼ぶ娘は、あえてそれ以上語ろうとはしない。
その吉継を見据える誾の目に雷光が煌いたと見えた、その時。
言葉を発したのは、その二人の様子を見守っていた道雪であった。
ゆっくりと、聞くものの脳裏に戦況をしみ込ませるかのように柔らかく、明晰な声が、あたりに響く。
「おそらくは元就殿の主導のもと、敵軍は対大友の盟約を結びました。とはいえ、確固たる信頼関係を築くには、少々時が足りません。なにより此度、兵を挙げた秋月家、毛利家、そして……立花鑑連殿、高橋鑑種殿らは、それぞれに望むものが異なります。戦局が押し詰まってきた今、これまでのように、一糸乱れずに兵を動かすことは至難の業でしょう」
苛立ちをあらわにしていた誾であったが、義理の母の言葉、そしてそこに込められた説得力に、ただ聞き入るしかなくなる。
「中でも、今、城を囲む秋月種実殿の目的は、父を討ち取った私への報復と、そしてそれ以上に秋月の家名を復すること。誾の言うとおり、時間をかければ我らをより不利な状況に追いつめることはできますが、それでは功の大半は立花、高橋の両家、そして毛利家のものとなるは必定です。それでは、たとえ秋月の復興が成ったとしても、戦が終われば、これらの家の下風に立たされることになってしまう。そして、それは種実殿のよしとするところではないでしょう」
だからこそ、秋月種実は待つという選択肢をとることが出来ない。
まして、今現在の情勢でも兵力は自軍がはるかに勝るのである。大友軍の分断が成った今、これ以上、時を費やす必要を、秋月種実が認めることはないだろう。
立花道雪はそう言った。
「――そして、それを知るからこそ、敵の総攻めが間近であると雲居殿は申されたのです。おそらくは今宵が此度の戦の山となりましょう。あなたも、今のうちに英気を養っておきなさい」
「……は、承知いたしました」
戸次誾は、主にして母たる人物に静かにこうべを垂れる。ゆえに、誾が唇をかみ締めていることを道雪が知りえたのは、視覚ではなく、洞察力によるものであった。
◆◆
戸次家の母子のもとを離れた大谷吉継は、城内で割り当てられた部屋へと戻る。
吉継の父は、近畿から九州に下った折、一時的にではあるが戸次家に仕えていた時期がある。ただ、吉継の父は下野して久しく、大谷家と戸次家の主従の関係は途絶えたままである。今の吉継と戸次家には繋がりらしい繋がりはないといってよい。
ゆえに、今、この休松城で一室を与えられていることが、自分以外の人の力によるものであることは、吉継にもよくわかっていた。
そして、それがどれほど稀なことであるかということも。
その人物は、吉継の眼下で寝息をたて、健やかな寝顔をさらしている。それは昨夜、獅子奮迅の戦ぶりを見せた人物とは思えないほどに穏やかで、もっといえばのん気とも言えるくらい緊張感に欠けるものであった。
幾たびも攻め寄せてきた寄せ手に対し、ひるむことなく持ち場を守りきったその戦いぶりは、数奇な出会いを経て、この人物を父と呼ぶようになった吉継から見ても意外なものと映った。かなりの腕前であろうとは考えていたが、旺盛な覇気をもって敵兵を圧していく戦いぶりは、吉継に己が見る目の無さを思い知らせるものであったのである。
「……ふう」
とりとめもない思考の波に、自身の疲れを感じ取った吉継は、小さく息を吐くと、座り込んで頭を包む白布を取り外していく。
顔が崩れる業病。吉継は周囲にその病に冒されていると思われていた。近畿の出である大谷家が、九国までやってきたのはその療養のためである、と。
だが。
かすかな布ずれの音と共に、吉継の顔を包んでいた布がはがれ落ちる。
皮膚の張り、艶、造作、いずれも欠けることのない端整な顔立ちがあらわになる。誰であれ、そこに病の痕跡を見出すことは不可能であったにちがいない。
それもそのはず。吉継は業病に冒されてはいないのだから。
しかし、もし、この場に他者がいたとしたら、その者の口からは驚愕と嫌悪の声がほとばしったであろう。
病に冒されていない吉継が、なぜ病と見紛う姿をとるのか。とらねばならないのか。その理由は、そうしなければ、より強い迫害に晒されるからであった。あるいは、真実、病に冒されているよりもなお。
その瞳は紅の色。血が滴りし赤の玉。
流れる髪の色は白。雪山仰ぎ見る如く。
紅も白も、さして珍しい色ではない。白髪の老婆など探せばいくらでもいるだろう。
だが、にもかかわらず、吉継のそれは異様であった。その若さゆえか、あるいは瞳の色との相乗ゆえか。吉継の素顔を見た者は、まず息を呑み、驚きに目を瞠り、嫌悪に顔をゆがめるのが常であった。少なくとも、吉継の記憶の中ではそれが普通の人間の反応だったのである。
吉継の父が九国に下ってきた理由は、異国の知恵がより早く伝わる地を選んだためであった。吉継のそれが病によるものであると考え、異国の医術によって治せぬものかと考えたのだ。同時に、異国の多様な風貌の中にあれば、吉継のそれも違和感のないものとなるのではないかとの期待もあった。
――結果として、その期待は最悪の事態をうむことになるのだが、神ならぬ身に、それがわかるはずもなかった。
……吉継は小さくかぶりを振った。
思い出しても、過去が変わるわけではない。
ただ、それを言えば、今ここに吉継がいることで、何かが変わるわけでもないし、何かの意味があるわけでもないと、そう思う。
それでも、吉継がこの戦に加わっている理由は――
「……あなたのせい、ということになるのでしょうか」
そう呟き、吉継は傍らで眠る男の顔に視線を落とし、その頬にそっと触れた。というか、つねった。
眠りながらも、痛みを感じているのか、なにやらうんうんうなっている義理の父に柔らかい視線を注ぎながら、吉継は口元に小さな微笑を浮かべるのだった……