過日のこと。
真田幸村は、主である武田晴信の口からこんな言葉を聞いた。
「一将、功成りて、万骨枯る……戦世の理は無常なものです」
耳慣れない言葉を聞き、幸村は首を傾げつつ問いを向ける。
「将の栄達の影には、将兵の死屍がある、ということでございましょうか?」
「ええ、その通りです。斜陽の時を迎えた大唐の詩人が遺したものですよ」
晴信は手元の書物をめくりながら、幸村に応えた。
「どれだけの功名をうちたてようと、それは無名の兵たちの死を積み重ねて得たものにすぎません。一将の武功のため、万の兵が犠牲となる――真の将とはその理をわきまえ、常日頃から兵を慈しむ者でなければならないのです。それが出来て、はじめて名将たるの資格を得るのですよ」
その晴信に、幸村は満腔の自信をこめて断言する。
「武田の将兵、一人として御館様のために死ぬことを恐れる者はおりませぬ。我らが死屍の上に御館様の御名が輝くのならば、これに過ぎたるはなし。御館様は、紛れもなく名将であらせられます」
その幸村の言葉に対し、晴信は深みのある視線を向けることで応えた。
咎められたわけではない。にも関わらず、主君の視線を受けた幸村は、何故か息がつまるのを感じた。
「あ、あの、御館様、何か無礼を申しましたでしょうか……?」
「……いいえ、幸村の忠誠、嬉しく思いますよ。願わくば――」
「は、はい」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、晴信の一言一句を聞き漏らすまいと身構える幸村に、晴信は小さくため息を吐いた。そして呟くように言う。
「千軍は得易く、一将は求め難し。死んだ馬に五百金を投じることから始めるのに比べれば、名将の器を備えた者を引き上げるなど、大した手間ではありません。遠からず、それに数倍する福をもたらしてくれるのですから」
「……お、御館様?」
唐突な晴信の物言いに、幸村は戸惑いをあらわにする。
「ふふ、戯言です。気にしないでください」
そんな幸村の様子をみて、晴信は小さく微笑んだ。
幸村は顔に疑問符を浮かべつつ、しかし問うべき言葉も見つからず、内心で首を捻るに留まったのであった。
◆◆
思えば、晴信は常に将とはどうあるべきかを幸村に教え諭してくれていた。
無論、幸村は主君から向けられる期待に気付いていたし、それに応えるために努めてきたつもりである。自分が無様を晒せば、真田の家名に瑕がつき、主君の顔に泥を塗ることになってしまうのだから、文字通りの意味で懸命であった。
しかし、この戦そのものが幸村の克目を促すためだけの意味しかないなどと考えてはいなかった。考えるはずはなかった。
当然である。戦とは、家を挙げての大事。兵の命、民の安寧、家の誇り、それらすべてを賭して行われるものだ。重臣とはいえ、一人の臣下に過ぎない幸村のために戦を引き起こすような真似を、明哲な晴信がなすはずがない。目的の一つに組み込むことはあるかもしれない。しかし、それ自体を目的として戦を行うなど――
(……ありえない)
胸中でうめき声をあげながら、しかし幸村は言葉とは裏腹に、天城の言葉を半ば以上受け入れている自分に気付いていた。
何故なら、天城の言葉は、今回の戦における晴信の行動の多くを的確に言い当てているからである。
幸村も、疑問に思わなかったわけではない。そもそも、武田の命運を決する戦の指揮を幸村に任せ、自身は躑躅ヶ崎館の奥で漫然としているなど、これまでの晴信であれば考えられなかったことだ。
しかし、幸村は、自身がそれほどの信頼を受けていると考え、感奮して事にあたるだけで、それ以上深く考えようとはしなかった。
自身に重任を授けてくれたことに感謝し、全力をもってそれに応える。臣下として考えるべきはそこまでで良い。そう言い聞かせて。
(ありえない)
信虎の口から語られた、乱の詳細。祖父幸隆と、父昌幸が信虎に与して動いていたという言葉。
それが事実であるか否かは、この際、措こう。確かめようもないことである。
それに、それが事実であれ、偽りであれ、過ぎたことである。現在の真田家当主は幸村であり、たとえば信虎の言葉が偽りでなかったとしても、今の真田家がかつてと同じ決断を下さなければならない理由はない。
そして、現在の真田家の決断――幸村の答えは一つしかない。
確かに幸村は、真田家を取り潰さず、自身に家督を継がせてくれた晴信に恩を感じている。しかし、晴信に忠誠を捧げる理由が、それだけであるはずはなかった。
采配をとっては万の軍勢を縦横に操り、内治に転ずれば荒れ狂う河川さえ鎮めてのける。人の深奥を見抜く目は幾多の良臣を見出し、家臣を登用して誤ることはない。
智勇仁義いずれにも欠けることなきその統治を、幸村は、晴信に仕えた決して短くない年月、目の当たりにしてきた。胸中に育まれた忠義と尊崇の大樹は、今や身体の隅々にまで根を張り、真田幸村という一個の人格を根底から支える誇りとなっているのである。
晴信は以前言っていた。必要であれば、計略も策謀も自分は用いる、と。しかし、それは策謀を弄び、人の誇りを踏みにじることを意味しない。幸村を真田の家督に据えた晴信の狙いが、信虎の言うとおりであったとしても、そこには必ず相応の理由がある。
これまで、晴信がその真意を秘していたのならば、その理由はただ一つ。幸村が、それを受け入れるだけの器量を持っていなかったからである。主君の期待に、失望をもってしか応えられなかったこれまでの自分を、幸村はこの時はっきりと認識する。
隣国の主のように、ただ正義のみを追い求めるだけでは乱世は終わらない。清濁併せて飲み干す、衆に優れたその器量――乱世を治める方は、この方を措いて他になし。この方につき従うことこそ、自分の天命であると、そう信じていたはずなのに。
……どうして、先刻までの自分は、ああも主君の言葉を欲したのだろう。
そのことを思うと、血の気を失ったはずの顔が、羞恥で熱くなるのを感じる幸村だった。
かつての乱の真実など知ったことではない。
祖父が、父が、姉が、何を考え、どうして散ったのか。そんなことを考えている暇はない。
あるいは、幸村の主君は、幸村にそこまで考えた上で動ける将になってほしいのかもしれないとも思う。
しかし、そこまで急に変わることはできない。
もとより、幸村は自身の資質に『慎重』やら『巧遅』やらを据えてはいない。
真田幸村という将に、美質というものがあるのだとすれば、それは行動によってのみ示されるものであるはずだった。
守るべき主君は目の前にいる。
倒すべき敵は目の前にいる。
ならば、真田幸村が果たすべき役割は明らかで――
「真田幸村。まだ寝ていたいならば止めはしないが――この下衆の首は、俺がとってしまってかまわんのだな?」
にも関わらず、その役割を他者の手に委ねるなどと――
(――ありえるものかッ!)
そんなことは、決してあってはならないことであったのだ。
◆◆
立っているのも苦しい状況で、言い放つ姿は、我ながら滑稽であったろう。
俺の視線の先で、信虎が口元を歪めているところを見るに、信虎が俺の長広舌を遮ろうとしなかったのは、最後の足掻きを見るためであったのかもしれない。
あるいは、先に俺が語った晴信の思惑を聞き、それを砕くことに愉悦を覚えたのか。
信虎にしてみれば、ここで散々痛めつけた幸村が立ち上がったところで、脅威になるはずもないのだから。
「……つッ」
胸奥からせりあがってきた痛みと吐き気をこらえかね、ぐらり、と俺の身体が傾いた。
意地でも膝はつきたくない。その一念だけで、なんとか倒れるのはこらえようとするが、踏ん張りきれなかった身体がたたらを踏む。
あやうく、後方に倒れこみそうになった俺の身体が――
「……いつから、貴様は私を呼び捨てることが出来るようになったのだ?」
俺に劣らず苦しそうな、しかしそれでいてどこか張りを感じさせる声と共に、後ろから柔らかく支えられた。
それが誰なのか。わざわざ後ろを向いて確かめる必要を、俺は認めなかった。
「無礼は、お詫びします。貴殿を発奮させるための……苦肉の策で、ございました」
途中、咳き込みながらも、俺はそう言った。ひそかに胸をなでおろしたのは内緒である。
いや、『任せた』とか言われた日にはどうしようかと思っていたのだ。
「……ふん。何なら任せても良い――と言いたいところだが」
台詞の前半に、ぎくりと身体が揺れる。多分、俺の身体を支えてくれていた人物は、それに気付いたのだろう。発する声が、笑みを含んでわずかに柔らかくなる。
「あれを討つは私の役目だ。貴様は下がって傷の手当てでもしているが良い」
そう言ってその人物は――真田幸村は、紫紺の衣を翻らせて、俺の前へと歩を進めた。
衣は破れ、肌は傷つき、傷口から流れる血潮は今なお地にこぼれている。見る者が、痛ましいと目を伏せても不思議ではない、凄惨なその姿。
しかし、何故だろう。
そんな幸村を見ている俺は、痛ましさなど感じない。凄惨などと思わない。
血と埃に塗れていようとも、その姿は威風辺りを払う。
月を隠していた厚い雲が晴れ、躑躅ヶ崎館を包むように、天頂より月光が降り注ぐ。
明度が増した中庭のただ中にあって、真田幸村の姿は燦然と輝いているようにさえ、俺の目には映っていた。
あるいは。
俺はようやく、武田の誇る雷の将をこの目で見ることが出来たのかもしれない。
しかし、そんな真摯な感情に浸っていることを、いつまでも許してくれる相手ではなかった。
次の瞬間、あざとい拍手の音が中庭に木霊し、俺は反射的に眉をしかめた。拍手の音など誰が打ってもかわりないはずだが、この音には明確な悪意が感じられるように思われてならない。そして、事実その通りでもあったろう。
「……ふむ、なかなかに面白い見物であった。三文芝居にしては、じゃがの」
そう言うと、信虎は口元に嘲笑を浮かべ、こちらの神経をすり減らすような毒気交じりの声を発する。
「で? 死にぞこないが一人から二人に増えたところで、何がどう変わるのじゃ?」
確かに信虎の言う通り、俺は無論のこと、幸村も深い傷を負っている。何かが確かに取り除かれたことは間違いないにせよ、それで彼我の形勢が逆転するわけではない。
信虎の余裕ともとれる態度は、その認識に裏打ちされたものなのだろう。
無論、違う答えを出す者もいた。
「何が変わるのかは、その目で確かめろ、下郎」
言いながら、幸村はさらに前に出ようとする。そこに先刻まで感じられた迷いは微塵もなく、その眼差しはどこまでも真っ直ぐに信虎に――自身で見出した敵に向けられていた。
信虎が、表情をわずかだが改めたのは、その幸村の変化に気付いたゆえか。
ぼろぼろの幸村がここまで毅然と地を踏みしめているのだ。
後は任せました、などと言えようはずもない。さすがにこれ以上戦うのは無理だが。
「……同意」
俺は一言だけ口にすると、精々余裕ありげにその場で鉄扇を構えてみせる。
やせ我慢以外の何物でもないが、多少なりとも信虎の注意をこちらに割ければ。そう思ってとった行動だったのだが――
いつのまにやら、道化の出番は終了していたらしい。
次の瞬間、その場に響いた静かすぎるほどに静かな声を聞き、俺はそのことを悟る。
澄明な声と共に、小柄な身体が進み出た。
「――聞くに堪えず。見るに堪えず。そして、語るに足らず。御身はかりそめにも甲斐源氏、武田宗家の血が流れる身、堕ちたとはいえ、守るべき節はあるでしょうに」
苛烈な眼差し。
清冽な語調。
「その程度のことすら、忘れ果ててしまわれたのか。我が父とはいえ、是非もない」
顔に塗られた血化粧などでは、覆うことかなわぬその威厳。
纏う衣を裂こうとも、傷つけることあたわぬその誇り。
敵と味方、全ての視線を注がれて――否、先刻現われ出でた月と星の眼差しをも総身に浴びながら。
武田信濃守晴信は、彼女が主役を務めるべき舞台にその姿を現したのである。
◆◆
つかの間の静寂は、弾けるような笑声で破られた。
「くく、ふ、はは、はははははッ!! いつ以来であろうな、晴信よ、うぬがこの身を父と呼ぶのは。わしの種であること、まだ覚えておったのか」
「無論です。忘れる必要もありません。その事実は、私の尊厳を何一つ傷つけることはないのですから」
「たしかにの。甲斐源氏の血を与えてやったこと、感謝されこそすれ、恨まれるいわれはないわ。しかし、父に対するに、うぬの先刻までの態度はほめられたものではないのではないか」
信虎自身、みずからの行いを棚に上げていることを承知しているのだろう。その顔には薄笑いが浮かんでいた。晴信の反論を予期し――というよりも心待ちにしているといった様子である。
先刻までの言動を振り返ってみても、信虎が晴信に抱く執着は尋常ならざるものを感じさせた。
傍で聞いているだけでもそう感じるのだ。実際にその感情をぶつけられている晴信の心中はいかばかりか。
しかし、信虎の嘲弄に対し、晴信は憤ることなく、平静を保ったまま口を開いた。
「父、父たれば子も子たり。翻って父が父たらざるとき、子が孝養を尽くす必要はないでしょう。親愛の情は無論のこと、たとえそれが軽侮であれ、あるいは憎悪であれ、私と御身が理解しあうことは決してありません。なれば、罵詈を浴びせるも、雑言で報いるも、無益なことでしょう」
寒風に晒されていた肌を、裂かれた上衣で覆いつつ、そう語る晴信の口調は澄んだ湖面のごとく穏やかで――そして、その穏やかさは、信虎がもっとも望まぬ返答の形であったのだろう。
信虎の顔が奇妙なゆがみを帯びた。
「……ならば、なにゆえ口を開く? 語りたくないというなら、最後まで黙っていればよかろうに。それにの、言葉によらずとも通じることは出来るのじゃぞ、男と女であればな。そのこと、すぐにうぬにも教えてやろうぞ――日月を忘れるほどに、じっくりと、じゃ」
下卑た顔で、下卑た言葉を口にし、信虎は心地良さげに笑う。
人の尊厳に泥を塗ることに、喜びを覚える者の、醜い嘲弄と粘つく視線を浴びせられた晴信の目に、恒星のような煌きが躍った。
これが、父が娘に言う言葉なのか。悪寒を禁じ得ない濃密な悪意に、俺は知らず背を震わせる。
そして、俺以上にその嘲りに大きな反応を示したのは、真田幸村であった。
信虎の無礼な放言を聞いた瞬間、幸村の長い髪がざわりと揺らめき、その口からは鮮烈な叱咤が迸る。
「下郎めがッ!!」
幸村の声は怒りに満ちていたが、繰り出された斬撃は感情に溺れてはいなかった。
踏み込みと斬撃。この二つの動作が、まったく同時に行われたとしか見えない神速の一撃は、幸村の技量が余すことなく発揮された会心の一刀でもあった。
俺が幸村の前に立っていたとすれば、避ける暇もなく体を左右に両断されていたであろう。
それだけの威と力が込められた一撃を、しかし信虎はかわしてのける。
それでもさすがに完璧に、とはいかず、その右の腕から鮮血が飛び散った。幸村にこれだけの余力があったことが意外だったのか、信虎は数歩後退する。
一方の幸村の口からは痛烈な舌打ちの音がもれたが、追い討ちをかけようとしないのは、やはり負傷が響いているせいなのだろう。
「……ほとほと頑丈な奴よ。あれだけ痛めつけてやったのに、まだこれだけ動けるとは。智恵はともかく、武芸では親を越えたか」
その信虎の言葉に、しかし幸村は反応せず、射るような視線を信虎に注ぎ続けた。
信虎はいささかわずらわしそうにその視線を払うと、幸村と、そして晴信の方を眺めやる。
晴信は先刻までと異なり、凛とした戦意を放って信虎に対している。その手に武器はなかったが、不用意に近づけば危険であることを信虎は悟ったようだ。
最後に、信虎の視線が俺にも向けられたが、脅威とするに足りないとすぐに結論づけたのだろう。その視線がとどまったのはわずかの間だけだった。
再びにらみ合いが始まるかと思われたのだが、不利を悟ったのか、あるいは別の目論みがあったのか、信虎はさらに数歩下がり、幸村、晴信双方から距離を置く。
信虎の口から、奇妙に楽しげな声がもれた。
「今宵こそと思うたが……犬と道化のせいで、少々興がそがれたわ。まあ予測しておらなんだわけでもなし、長く愉しめるという点では、この方が望ましくはあるか」
そして、次にその口から発された言葉は、晴信でも幸村でもなく、はじめてこの場にいる配下に向けられたものであった。その命令はごく短く、そして明確であった。すなわち、信虎はこう言ったのである。
「……わしは退く。うぬらはここで死ね」
そう言って、実際に身を翻す信虎を見て、幸村は呆気にとられたようだった。
それも無理からぬことだろう。心術の是非はともかく、信虎が文武に秀でた尋常ならぬ人物であることは間違いない。その信虎が、あれだけ執着を見せていた目的を前にして、いきなり退いてしまったのだから。
「な、ま、待てッ、逃すか!」
それでも咄嗟に追おうと動きかけた幸村であったが、ここまで凝然としていた信虎配下の兵たちがその前に立ち塞がる。
「このッ」
強引に押し通ろうと幸村が得物を揮おうとするが、その幸村に制止の声がかかる。晴信の声だった。
「幸村、よい。追うには及びません」
「は! ……は、は? 御館様?」
勢いよく頷いた後、自分が予期していた言葉とまったく反対の命令であったことに気付いたのだろう。幸村の顔が驚きに染まる。
だが、のんびりと問答している暇があるわけもなく。
斬りかかってきた敵兵と刃を交える幸村は、信虎を追う機を逃し、否応なく乱戦に巻き込まれてしまったのである。
◆◆
短くも激しい戦いが終わった後、中庭に立っているのは武田の当主と真田の将兵、そして上杉の家臣だけになっていた。侵入者たちは一人として武器を捨てず、皆、朱に染まるまで戦い続け、果てていったのである。
むせかえるような血臭のただ中で、幸村は今度こそ姿を消した信虎を追おうとするが、再度晴信に止められ、困惑を隠せないでいた。
「よいのですよ。目的は果たせました。瑣末なことを気にせず、あなたは早く傷の手当てをなさい。ここであなたを喪うようなことがあれば、それこそ此度の戦が無意味なものになってしまうのですから」
はからずも、その一言でこの戦における晴信の思惑を知った幸村であったが、それに関しては瞳をわずかに揺らすだけにとどめ、あくまで信虎を討ち取るべきであると主張する。
「し、しかし、御館様、あの者の目論見が判然としないままに取り逃がせば、武田にとって大患となるは必定ではございませんか。是が非でもここで討ち取っておくべきと愚考します」
その幸村の真摯な提言に、晴信はかすかに目を細め、どこか遠くを見るような眼差しをした。
「お、御館様?」
何故か、寂寞とした色を浮かべる晴信に、幸村は戸惑ったように声をかける。
すると、晴信はすぐに常と同じ泰然とした様子を取り戻し、幸村に応えた。
「目論みに関して言えば察しはついています。元々、父の狙いは私を屈服させること。この襲撃はそのための手段に過ぎません。私を虜にするか、それがかなわなくとも当主としての私を貶めることが出来る……そう考えたのでしょう」
「御館様を貶める、でございますか?」
「そうです。勝敗は兵家の常といいますが、それでも少数の兵に本拠地を蹂躙されたとなれば、当主として大いなる恥辱でしょう。まして、家重代の宝器を奪われでもしたら――」
「宝器、と仰いますと――ま、まさかッ?!」
幸村が青ざめる。晴信の言わんとしていることを察したのだろう。
幸村は祠廟に真田の手勢を割いていない。
いるのは祠廟を掃き清める侍女や小者だけであり、武装した敵兵に襲撃されればひとたまりもあるまい。
敵が館内に入ってくる可能性を承知していたとはいえ、戦術的に何らの価値もない祠廟を守備する必要を幸村は認めず、またそれは間違った判断ではなかっただろう。実質的に兵を割く余裕もなかったのだからなおさらだ。
しかし信虎の狙いが躑躅ヶ崎館を陥とすことよりも、宝器――甲斐源氏の始祖新羅三郎義光由来の二つの宝器――御旗と楯無に向けられているのだとすれば、幸村の判断は致命的な失策に変じる可能性があった。
たとえ躑躅ヶ崎館を守りきったとしても、家重代の宝器を奪われたとなれば、武田家の威信は大きく失墜するだろう。四方の大名は武田家を嘲り、軽んじるようになることは必定だった。
たかが物、ということは出来ない。人が名誉に命を賭すことが当然の時代である。ましてや家の尊厳の象徴ともいうべき品を奪われでもしたら、以後、甲斐源氏武田家の名は侮蔑と嘲笑の代名詞になりかねぬ。
そのことに気付いて顔を青ざめさせた幸村は、同時にもう一つのことにも思い至る。
「まさか、あやつの長広舌は……」
「時を稼ぐ意味も、あったのでしょうね。無論、己の嗜虐を満足させることを何よりも優先させていたのは間違いないでしょうが」
その言葉を聞き、咄嗟に動きかけた幸村に対し、三度、晴信の口から制止の言葉が発された。
「待ちなさい。幸村が行く必要はありません」
「し、しかし、まだ間に合うやもしれませぬ。内の兵が見咎めている可能性もあるかとッ」
「間に合わない、とは言っていません。行く必要がない、とそう言ったのです」
「……は?」
晴信の言葉の意味がわからず、幸村はぽかんとした顔を見せる。
対する晴信は、どこか呆れたような、小さな苦笑を浮かべて言った。
どうやら、この館には頼まれもしない影働きをする数寄者たちがいるようですね、と。
◆◆◆
時をわずかに遡る。
搦め手門の厳重な警戒を目にした男は、かすかに目を細めた。
その男――信虎麾下の忍びである出浦盛清の手勢は片手の数に満たなかったが、館外で待機している信虎の手勢は百を越える。外と内で示し合わせて挟撃すれば、少数の真田の守備兵など簡単に蹴散らすことが出来るはずであった。
しかし、どうやら事はそう簡単に運ばないようだ。
「……真田め。かように内側を固めているとは、こちらの動き、予期していたのか」
盛清は小さく舌打ちの音をたてる。
躑躅ヶ崎館を守備する真田の兵の大半は、南に姿を現した騎馬隊の撃退に向かっている。残っている兵の数は限られており、館外からの襲撃に対応するだけで手一杯であろう。
盛清が率いているのは直属の忍四名だけであるが、搦め手門を開くには、これでも多すぎるくらいであると盛清は考えていたのである。
だが、盛清の視界に映る搦め手門は煌々と篝火が焚かれ、館外に対する備えはもとより、内側に対しても警戒の目を光らせる徹底振りであった。盛清が闇に潜んで機を窺うことさえ容易ではない。
信虎から受けた命令は搦め手門の占拠と、祠廟に安置されている御旗楯無の奪取である。無能とみれば、長年仕えた部下であろうと容赦なく処断する信虎の性格を知悉している盛清は、何としても搦め手門を陥とさなければならないのだが……
「急がねばならぬ、か」
盛清はそう呟くと、盛清は背後の部下たちに合図を送り、あっさりと身を翻した。搦め手門に見切りをつけ、すぐに祠廟へと向かったのである。
甲斐守護時代から信虎につき従っている盛清らであったが、駿府城において、一度、曲者の侵入と離脱を許して以来、信虎から冷めた眼差しを向けられていることを、彼らは承知していた。
戦に限らず、情報の収集分析は人を率いる者にとって欠かせないことである。信虎もそれをわきまえているからこそ、これまで忍集団を率いて落ち度のなかった盛清らを生かしておいたのだろうが、それにも限度はある。失敗を二度重ねれば、間違いなく盛清らの首は宙を飛ぶであろう。
盛清は部下のかすかな動揺をかぎとったが、あえてそれを鎮めようとはしなかった。
その暇がない、ということもあるし、その必要もないと考えたからである。
盛清は信虎から今回の襲撃の狙いの全てを聞いているわけではない。もっともそれは盛清に限った話ではなく、他の誰であっても、信虎が内奥をさらけ出すことなど決してないと断言できる。
それでも、推測することくらいは出来た。
これまで信虎が執着を示し続けてきたのは、甲斐という土地や、躑躅ヶ崎館という家屋敷ではなく、現当主武田晴信ただ一人。
この襲撃で晴信を虜にすることが出来ればよし。仮に出来なくても、それは行き着くまでの過程を愉しめるということでもある。
甲斐源氏、武田家の宝器『御旗』『楯無』。あれを奪えば、当主である晴信の面目は潰れ、武田の家の名誉は甚だしく損なわれる。晴信の心を挫くための有意な一手となるだろう。
それゆえ、宝器さえ押さえれば、たとえ躑躅ヶ崎館を陥とすことが出来なくても、自分たちが罰されることはあるまい。盛清はそう考えていた。
御旗楯無が安置されている祠廟には、それ以外にも武田家の累代に渡る宝物が保管されている。たとえ武田宗家の人間であろうとも滅多に入ることの出来ない武田家の聖域でもあるのだ。
常は厳重な警戒がなされている場所だが、今、この時に限ってはおそらく警備はかなり薄いと盛清は予測していた。真田とて、この事態の最中、祠廟に何十もの兵士をつけておく余裕はあるまい。祠廟を守って、館を陥とされました、などとなっては本末転倒も良いところだからだ。
そう予測した盛清であったが、しかし、だからといって油断はしていなかった。
今の手勢だけで祠廟を押さえるつもりは毛頭ない。
躑躅ヶ崎館には、信虎や盛清が用いた武田当主秘匿の抜け道以外にも、抜け道は存在する。忍として信虎に仕え、この館で起居していた盛清がそれらについて無知であるはずはなく、配下の多くはそちらから抜けさせていたのである。
その別働隊には、真っ先に祠廟を押さえるように命じている。
ことによってはすでに制圧している可能性もあり、その時は別働隊をともなって搦め手門にとって返すか。そんな風に算段を働かせていた盛清の目に、武田家の宝器が眠る祠廟の建物が映し出されようとしていた。
「……一人」
小さく呟いた盛清は走る速度を緩めず、手で後方の部下に合図を送る。
祠廟の前にいる兵士は一人。篝火に照らされ、地面に伸びたその人物の影はいやに細長かった。
その兵士、身長自体は高いのだが、体つきがいやに細く、まとっている鎧甲冑はいかにも重たげである。だが、自分の身長を越える長さの剛槍を抱えて微動だにしていないところを見れば、それなりの腕はあるのだろう。
もっとも、そうでなくては一人で祠廟の警護を任される筈もない。
しかし、先行していたはずの配下はどうしたのか。この場に戦闘の痕跡は見受けられず、兵士のもつ槍も血に濡れている様子はない。
気にはなるが――しかし、拘泥している暇はなかった。
どれだけの使い手であっても、所詮は一人。始末することは難しくない。
それでも騒がれれば厄介なことになるし、あるいはもっと内に他の兵士がいないとも限らない。
ゆえに、一瞬で終わらせる。
盛清と、背後の忍たちの手に、投擲の刃が光った。
「……ッ」
声なき声と共に、五つの剣刃が宙を駆ける。
その刃が、篝火の傍らで佇むその人物に吸い込まれるように消えていくところを見た盛清が、一気に祠廟の中に踏み込もうと更に駆ける速さを増した、その瞬間。
「――はァッ!」
ただ一息の間に、鉄が弾かれる音が連続した。その数、都合五度。
盛清の鋭敏な聴覚ははっきりとそれを捉えた。それが意味するものは明らかで――
「曲者めッ!」
自身に向けて揮われる横なぎの槍の一閃を、かろうじて避けた盛清は驚愕を禁じ得なかった。
一つは敵の力量。
完全に不意を衝いたはずの投擲をことごとく弾き飛ばすとは。くわえて、槍が風を裂く音を間近に聞けば、眼前の兵の腕がそれなりどころではないことは明らかだった。見るからに重量のある槍を、この兵士はまるで小枝のように振り回す。膂力一つとってもただ者ではありえない。
そしてもう一つ。
篝火に照らされたその尋常ならぬ敵手の顔が、煌くような生気に満ちた少女のそれであったことである。
真田幸村以外に、このような鬼女がいようとは。
内心でそう思いながら、盛清はそれを表には出さなかった。盛清は忍である。一対一で勝つのは難しい相手にはそれ相応の対処の仕方がある。正々堂々の一騎打ちをするつもりはなく、どれだけの使い手であろうと、五対一であれば、こちらの勝利は揺るがない。その確信を以って兵士に打ちかかろうとした盛清であったが、その計算はすぐに成り立たなくなる。
「――くッ?!」
「がはッ!」
暗闇に刃の煌きが躍る。鋭く、二度。
ただそれだけで、盛清の配下の内、もっとも後方にいた二人が地面に倒れてしまったのである。振り返ってその光景を目の当たりにした盛清らは咄嗟に声も出ない。
無論、篝火近くにいた兵士の仕業ではない。この場にもう一人の敵が潜んでいた。それはすぐに理解できた。
だが、闇に紛れることを生業とする忍が、あろうことか背後を取られ、しかもそれに気付くことすら出来なかったのだ。盛清が最も信頼する手練の忍であるにも関わらず、である。
一瞬の自失。
だが、それは敵にとって好機以外の何物でもない。
「……ヤァッ!」
鋭い掛け声と共に、猛然と穂先が突き出され、盛清の胸を貫かんとする。
突風の如きその一撃を、盛清は咄嗟に横に飛んでかわす。相手はさらに盛清との距離を詰めようと踏み込んでくるが――
「――ッ!」
不意に立ち止まると、何もないはずの前方の空間を払うように槍を揮った。すると、奇妙に澄んだ金属音がその場にこだまする。
攻撃をかわしざま、盛清の口から飛んだ細針が弾かれたのだ。
それを見た盛清は、目の前の少女が容易ならざる敵だと改めて認識した。
後背の敵も気になるが、そちらは二人の部下が相手をしている。不意さえ衝かれなければ、そうそうやられることはない――そう考えた盛清が、本格的に眼前の敵に注意を向けようとした、その時。
それはむしろ柔らかいとさえ言える音だった。
何かが地面に落ちる音。誰かが地面に崩れる音。あっさりと討たれてしまった、音。
盛清の全身が総毛立つ。
もはや物理的な圧迫感さえともなって後背から押し寄せる死の気配に、今度は暗器を用いる暇さえなく、身体を投げ出すようにして、その場から飛んだ。
間髪をいれず、それまで盛清の首があった空間を、空恐ろしいほどの正確さで横なぎの一閃が通過するところを、盛清は確かに見た。
その刃が血塗られていることも。刃を揮う者が、槍を持った兵士とさほどかわらぬ娘であることも。
素早く態勢を立て直した盛清の前に、二人の少女は並んで立つ。
槍を持った少女は射るような視線を。盛清と同種と思われる少女は凍るような視線を、それぞれ盛清に向けながら。
二人の腕前は、今の短い攻防で理解できた。素早く視線を走らせれば、地には四人の配下――盛清にとっては最精鋭と言える配下が倒れ付している。
この状況を理解できない盛清ではなかったが、その口をついて出たのは自身驚いたことに、小さな笑いだった。
「……ふ、いつからこの館は鬼女の棲家になったのだ?」
「戯言を吐く暇があるのなら、辞世の句でも詠みなさい」
盛清の言葉を、忍とおぼしき少女が一刀両断する。脇差を構えて盛清を見据える眼差しは、時間稼ぎなどさせないと言外に告げていた。
「――さすがは真田、というべきか。この戦況で、祠廟にこれほどの戦力を割くとはな」
それでも盛清が言葉を続けたのは、別働隊の到着にわずかながら期待をかけた為であった。
もっとも、今の時点で着いていないということは、おそらくもう生きてはいまいと察してはいたが。真田勢の動きを見るに、今回の信虎側の動きはほとんど読まれていたのであろう。
だが、あるいは生き残りがいるかもしれぬ。極小の可能性であれ、盛清は賭けるしかなかった。どの道、このままでは手詰まりなのだ。
「しかし、当代の真田当主は武に傾く性質と聞いていたが、搦め手門といい、ここといい、こうも見事にこちらの動きを予見するとはな」
その言葉には、わずかながら真実の響きがこもっていた。
しかし。
「一つだけ、訂正しておきましょう。私も、こちらの武者も、真田の麾下ではない」
「なに?」
怪訝そうな顔は、あながち演技というわけでもなかった。
そんな盛清に、少女たちは短く名乗りをあげ――それを聞いた盛清の脳裏に、不意に何処かで聞いた囃しの一節がよぎった。
今正成に股肱あり
鬼の小島に飛び加藤
「……なるほど、つまり敵は甲斐だけではなかった、ということか」
奇妙に得心のこもった呟きをもらした盛清は、はっきりと悟る。
此度の目論見、そのことごとくが潰えたことを。