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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/12/19 21:25

 ようやく、と言うべきだろうか。
 東国を揺らす動乱の引き金を引いた人物と相対することになった俺は、とりあえず越後から持ってきた塩をぶつけた。
 貴重品である上に、すでに武田家に送った後のものなので後で文句を言われそうだが、すべてが終わってから謝るとしよう。
「ぐ、ぬ、貴様、何者じゃ?!」
 俺が信虎に投じたのは、それこそ何の変哲もない塩の塊である。信虎は咄嗟にそれを払おうとして砕いてしまい、必然的に塩は四散し、信虎の身体に降り注ぐ。そう、幸村に傷つけられた顔の傷口にも。
 傷口に塩を塗りこむ、という表現があるが、なるほど、実際にその立場に立たされた信虎の怒り様は凄まじいものであった。
 もっとも、その信虎の声は、俺にとって遠い。
 俺の視界に映るのは、顔を血で染め、半裸となった晴信と、地面に倒れ、襤褸のようになっている幸村の姿だった。


 怒りを示すことはしない。その資格もない。何しろ俺は、一連の出来事、その全てを見ていたのだから。
 止めることも、庇うこともせず、ただ物陰に隠れていた俺が、どうして信虎を非難できるのか。
 とはいえ。
「さすがに、これ以上は無理だ」
 俺はもう一度繰り返す。
 構えた九曜巴の鉄扇が、俺の感情を映して、かすかに揺れた。



 無事である左の目をも怒りで充血させながら、信虎が闖入者である俺を睨みつける。
「己を道化とわきまえておるなら、黙ってみていればいいものを。うぬ如き若造が、何の故を持ってしゃしゃりでてきおった?」
 そういって、憎悪を滾らせる武田信虎という男、率直に言って思い描いていた通りの人物で、俺は苦々しい思いを禁じ得ない。
 他者を蹂躙することに喜びを覚える人間なんぞろくなものではない。ましてや、今の俺は、ある意味で信虎と同じ立場に立たざるを得ないのだから、なおさら嬉しくない。この地に来て一年と半分ほど。ここまで不本意な立場に立たされたことが、かつてあっただろうか。
 そう考え、あることに思い至った俺の顔に、今度は自然と苦笑が浮かんだ。晴景様に仕え、謙信様と戦っていた時、自身の立場に随分と思うところがあったのだが、今思えば、あの時はあの時で充実していたのだ。それが、こんな時にまざまざと思い出された。


「――何を笑っておる。道化めが」
 憎憎しげな声が、耳を刺す。俺は構えた鉄扇を揺らしながら返答した。
「これは失礼いたしました。貴殿と私と、道化同士が語り合う不毛さに思いを及ばせただけですよ、武田信虎殿」
 信虎の眉が訝しげにゆがむ。
「ほう、わしも道化と申すか?」
「左様、もっとも、あらかじめ道化という役割が振られている分、貴殿は私よりは随分とましな立場ではありましょうが――」
 言いながら、信虎の射るような眼光を感じた俺は、咄嗟に鉄扇を顔の前に広げた。腕に強い衝撃が伝わってくる。足元に落ちたのは信虎が投じた懐剣であろう。
 そうと知りながら、俺は何事もなかったかのように言葉を続けた。
「しかし、それと知らぬ貴殿の姿は、やはりただの道化に過ぎず、場をわきまえずにしゃしゃりでた私と大差はありませぬな」 


 信虎が懐剣を扱うのは、幸村との対峙を見てわかっていたこと。
 幸村でさえ完全には防げなかったのだ。俺がそれを叩き落すなど出来るわけがない。しかし、来るとわかっていれば、致命傷になる部位だけかばっておけば良いのである。
 不意打ちとは少し意味が異なるが、いつ来るともしれない攻撃を防ぐのは、ここ数ヶ月の秀綱との稽古で嫌というほど経験している。多少は慣れようというものだった。
 もっとも、幸村の与えた傷が無ければ、どうなっていたかわかったものではないが。


 信虎の無事な左目が、それとわからないくらいかすかに細まった。
 防いだ俺に驚いたというより、防がれた自分に舌打ちを禁じ得ない様子である。
 そうして、信虎はその不快の源を断ち切るために、無言で進み出る。傲然とこちらを睥睨する姿は、俺など相手にもしていないことを言外に物語っていた。砂利が敷き詰めてある中庭を進んでいるにも関わらず、足音がまったくしない――あたかも、獲物に狙いを定めた肉食獣のごとき歩み。
 一刀のもとに斬り捨てる、その意思もあらわに近づいてくる信虎に対し、俺もまた歩を進めた。
「ほう、みずから首を差し出すとは殊勝じゃの」
 前へと足を踏み出した俺を、信虎が嘲笑う。嘲りながら、滑るような足取りで距離を詰めた信虎は、両の手で、刀を振り上げ――そう見えた次の瞬間には、刃は凶暴な輝きを宿したまま勢い良く振り下ろされていた。
 黙って立っていれば、俺は左の肩から右の腰にかけて、ほとんど身体を両断されていたであろう。そう確信してしまうほどに、片目を失ってなお信虎の斬撃は致命的なものであった。武人としての信虎が、卓越した使い手であることは疑いようがない。




 だが、黙って立っている義理など、俺にはなかった。
 鉄と鉄とが絡み合い、音高くぶつかりあう。
「ほう、やはり鉄扇か。女子でもあるまいに、大の男が妙な武器を使う」
 懐剣を弾かれた時から気付いていたのだろう。鉄扇を用いて斬撃を受け止めた俺の耳に、至近から信虎の囁きが届く。幸村に傷つけられ、俺が塩を浴びせた右目の苦痛、いまだに消えた筈もないだろうに、その声からはすでに影響が感じられない。
 一方で、その信虎に応えるだけの余裕が俺にはなかった。鉄塊を叩きつけるような信虎の強打の衝撃で、腕がしびれ、態勢が大きく崩れている。
「甲冑もまとわず、大小もささず、のこのこと出てくる増上慢。わしを道化と呼んだ先刻の無礼もある。うぬのような輩にはもったいない名誉、わしが手ずから誅してやろう。感謝するが良いわ」


 言うや、信虎の刀が弧を描いて襲い掛かってくる。
 嵐のような斬舞の始まりであった。
 斬る、斬る、切る、払う、突く、斬る、突く、斬る斬る切る。
 息つく間もない攻撃に、俺は反撃に転じることもできず、ひたすら鉄扇で敵の刀を受け止め続ける。耳が焦げてしまいそうな、連鎖する金属音。信虎は一刀一撃が重く、鋭く、防戦に徹していてさえ、その攻撃は俺を傷つけていく。あるいは幸村がつけた傷がなければ、俺はここであっさりと信虎に討ち取られてしまったかもしれない。
「ほう、思ったよりやりおる。ならば……」
 言うや、信虎の刀が魔法のように鮮やかに翻り、左の肩口を狙っていた筈の斬撃が、今度は一転してなぎ払うような横なぐりの一撃に変じて、俺の胴を両断せんと迫ってくる。


「これでどう――なに?」
 避けられない。そう思った俺は信虎の前に無防備に腹を見せたまま、鉄扇を信虎の左目に向かって突き出した。両目を傷つけることが出来れば、相手の脅威は激減する。
 そう考えて繰り出した一撃だが、それでも、信虎の勢いは止まらない。これも当然といえば当然で、どう考えても、俺の鉄扇が信虎に達するより、信虎の一撃で俺が腰斬される方が早いからだ。
 刀が吸い込まれるように俺の胴に達するのを見て、信虎の目には残酷なまでに猛々しい勝利への確信が浮かびあがり――
「ぬッ?!」
 次の瞬間。
 鉄が幾重にも軋るような音と共に、繰り出した刃が俺の肉体に達することなく止められたのを見て、信虎は唸る。
「着込みか、小癪なッ」
 その信虎の目に、俺の鉄扇がまっすぐに突き出され――



「くッ」
 次に呻き声をあげたのは俺だった。
 段蔵手製の着込みで信虎の一撃を防いだとはいえ、その衝撃まで緩和できたわけではない。
 実際、身体が浮き上がり、腹を断ち割られたかと思うような猛烈な一撃で、骨の一本や二本は折れたかもしれない。腹から駆け上ってくる痛みに、俺はたまらず奥歯をかみ締めた。
 そして、必然的に、俺の繰り出した攻撃も正確性を欠き、信虎の左目のすぐ外側を強く突いただけに終わってしまった。
 かすかに頭を揺らした信虎が、舌打ちと共に後退する。
 膝をつきたいほどの痛苦に襲われている俺に、追撃をくわえるだけの余力がある筈もなかった。


 
「着込みとは考えたものよ。じゃが相打ち――というには、少々足らぬな、若造。肋の二、三本は砕けたであろう」
 顔に流れる血を拭いながら、信虎が耳障りな声を発する。
 だが、俺はそれに答えることはなかった。
 着込みを利しての一撃は、武技で劣る俺の唯一の切り札だった。相手に気付かれてしまえば、二度は通じない。一度かぎりの奥の手。
 だが、気付かれてしまった以上、相手は、次は首なり、頭なり、あるいは手足なり、確実に斬れるところを狙ってくるだろう。 
 対する俺に、それを完璧に防げるだけの技量はない。今ので多少なりとも敵の視界を奪えれば、また違う答えが出せたかもしれないが……


 信虎はそんな俺の内心を見抜いているのか、鮮血に染まった半面を歪めた。ただそれだけの表情の変化が凄みを感じさせるのは、信虎の持つ威ゆえなのか。
「とはいえ、わしの身体に触れるをえたは見事よ。おしむらくは運が足りなんだか。さて――」
 そう言って、信虎はこちらに見せ付けるように、刀を大きく一振りして、ゆっくりと告げた。
「――覚悟は良いな」
 血まみれの哄笑と共に、再度、鉄血の嵐が吹き荒れた。
 
   



 上衣が裂け、衝撃が胸を詰まらせる。
 額が真一文字に斬られ、鮮血が飛んだ。
 暴風のように荒れ狂う信虎の斬撃を前に、俺は再び防戦一方に追い込まれる。反撃に移る余裕は微塵もなく、ひたすら防御に徹するが、それでも敵の刀は幾度も俺の身体を捉え、傷を与え続けた。
 そこまでは先刻と同じであったが。
「く、ぐッ」
 脇腹からせりあがってくる痛みに、俺は歯をくいしばって耐えるが、そのために信虎の攻撃に対する意識がわずかに削がれてしまうことは避けられなかった。
 武芸に熟達した信虎が、その隙を見逃す筈はない。振るわれた一撃を、俺は咄嗟に身をのけぞらせるようにかわしたが、完全に避けることは出来なかった。
 左の瞼から、弾けるように血があふれ出した。あと一瞬、避けるのが遅れていれば、眼窩を貫かれていただろう。
 だが、ほっと安堵の息をつく暇もない。傷口から流れ出した血が目に入り、激痛が襲ってきた。
 反射的に左目を閉じ、それ以上の血の流入はかろうじて食い止めたが、腹からの痛みに加え、目からもたえず苦痛が襲ってくる。
 目に関しては、条件は信虎と対等ともいえるが、元々、武芸の腕がかけはなれているのだ。同じ条件で戦えば、勝敗がより明らかになってしまうだけのことだった。
 さらに時が進むにつれ、信虎は刀以外の手段も用いてくるようになった。秘していた懐剣が、鋼のような拳が、丸太のような脚が、俺を冥府に突き落とさんと襲い掛かってくる。
 その全てを避けることなど到底できぬ。
 数秒後とも、数分後とも知れない乱撃の後、腹といわず、目といわず、四肢といわず、全身から伝わってくる痛みに苦悶し、流れ落ちた血で、視界の半ばを紅く染めながら――



 ――しかし、それでも俺は信虎の前に立っていた。
 ――この男の前で、膝を屈さないくらいの意地の持ち合わせはあったから。



◆◆



 鋭い舌打ちの音がした。
「真田の小娘ならばともかく、うぬのような若造、嬲ったところで面白くもない。さっさと地を舐めれば、それ以上苦しまずともよくなろうに」
 刀の峰で、右の肩を叩きながら、信虎は吐き捨てるように言う。
「それとも、待っておれば援軍でも来ると思うておるのか? 無駄よ無駄よ。この躑躅ヶ崎の館、そして甲斐の国の基を開いたのはわしぞ。それを突き崩すのは赤子の手をひねるより容易い。うぬがここで命を代償として時間を稼ごうと、結果は何一つかわらぬわ」
「……その通り」


 答える声は、我ながらおかしいくらいにかすれていた。それでも、俺はあえて口を開く。
「私や貴殿が何をしようと、結果はかわらない。たとえば、そう、貴殿が甲府の町で何やら騒ぎを起こそうと企てたとしても――」
 信虎の眉が、視認できないくらいに小さく動いたことを、俺は何故か確信した。
「……我らがそれを阻止したとしても、結局のところ、何も変わらない。言っただろう、互いに道化、と」
「ならば、そこまで意地を張る必要もあるまいが。道化なら道化らしく、おとなしゅう隅で転がっておれ」
「……あいにくと、そういうわけにもいかない」


 ――オンベイシラマンダヤソワカ、と毘沙門天の真言を胸中で紡ぐ。
 胸中に鮮やかに浮かび上がる主の姿。それだけで、苦痛がわずかに遠ざかった。
「この身は軍神の麾下にあって――」
 鉄扇を握る手に力を込める。
 次に浮かんだのは、刀を正眼に構え、こちらを見据える佳人の姿。
「――剣聖の練成を受けた者。貴殿のごとき不義の輩に、膝を屈するなどありえない」



 俺の言葉に、信虎の顔が訝しげにゆがんだ。
「軍神に、剣聖、じゃと……?」
 だが、すぐに何事かに思い至ったようで、信虎の顔に理解と、そして嘲りの色が浮かんだ。
「なるほど、越後はわしではなく、晴信についた、とそういうわけか。ふん、愚かよな。軍神だの剣聖だのとおだてられた小娘どもと、その麾下に従う玉無しの腑抜けごときが、どうしてわしを止められるものか。何やら小細工を弄して騒擾を食い止めた気でいるようじゃが、くく、良いのか、一手止めただけで安堵していて。わしが次手を用意しておらぬとでも思っておるのか。だとすれば――」
 その思いあがりを悔いることになろう。
 そう言って笑う信虎の両眼は、正視しがたい光を放って、俺を威圧するように猛っていた。





◆◆◆




 決着はついた。
 そのことを男は確信する――半ば、呆然としながら。
 周囲に倒れ付すは、十を越える配下たち。
 この甲府の町を混乱に導き、ことによっては焼き尽くすことさえ辞さぬ任務を帯びた男は、配下たちと共に密やかに蠢動してきた。
 与えられた時間は決して十分とはいえなかったが、それでも今宵の挙には間に合った。また、間に合わねば自身の命が失われるであろうことも、男は承知していた。
 あの鬼人に仕えるということは、そういうことなのだと、武田信虎に仕える者たちは皆、承知していたのだ。 だからこそ、今回もかなう限りの準備をととのえたのであり、実際に難民たちの扇動には成功した。
 先刻――暴徒と化した難民たちの中に潜んだ男は、後は武家屋敷の女子供を踏みにじり、その叫喚をもって躑躅ヶ崎館を陥とすのみ、と小さく哂ってさえいたのである。


 だが、上杉謙信と名乗る女武士によって策謀は水泡に帰し、元々多くなかった男の配下も、少なからぬ人数が失われてしまった。
 男が難民の中に潜んだままであったのは、あの場であれ以上、どう声をあげようとも無意味だと悟った――悟らされてしまったからである。それほどに、あの女の清冽とした気組みは凄まじく、男が醸成した狂気など微塵も残らず破却されてしまったのだ。
 何故、あんな場所に、あんな女が。
 そう歯軋りしながらも、男はなお諦めたわけではなかった。
 初手が防がれたならば、次手を繰り出すまでのこと。なに、燃え上がるのが、武家屋敷から、甲府の街並みにかわるだけのことだ、と男は再び昏い笑みを浮かべる。
 常に保険をかけておくことを当然と考える男は、この時のために各処に潜ませていた配下をかきあつめ、甲斐最大の町を炎で埋めようと命令を下し――


「――ここまで、読みきってしまうのですか……軍師殿を、敵には、したくないものです」  


 そんな声と共に、その場に現われた女性に、目を奪われることとなる。




 一瞬、先刻のあの女かと思ったが、すぐにそうではないことに男は気付く。
 黒髪を結っていたあの女と異なり、目の雨の女性は直ぐに垂らしている。腰まで伸びた髪から立ち上る薫香は、邪気と殺気が入り混じるこの場では明らかに異質であった。
 町人が迷い込んできたのかとも思われたが、しかし、女性の涼しげな双眸に戸惑いはなく、何よりも腰に差した大小と、それをためらいなく抜き放つその動作が、女性の立場を雄弁に物語っていた。
 はっと我に返った男は、素早く、そして断固として命令を下した。
「殺せッ」
 ここで大声で騒がれてしまえば面倒なことになる。
 そう判断したゆえの命令であり、それは男の立場からすれば至当な命令でもあった。
 寡は衆に勝てない。どれほどの武人であれ、これは共通する原則である。もっとも、それを覆す輩に、つい先刻でくわしたばかりなのだが、まさかあのような化け物がそうそういる筈もなかった。少なくとも、男はそう考えた。


 それを油断と責めるのは酷であろう。
 ここは戦場の只中というわけではない。行おうとしているのも、状況によっては用いることなく終わった策である。それに備えるために、達人級の人物を据えておくような軍配者がいるなどと誰が思おうか。
 ましてや――剣聖を、据えるなどと。


「ぐああッ?!」
「か、ああああ、おのれ、女ァァッ!!」
 はじめに襲い掛かった二人は、瞬く間に手首を断ち切られた。重い音と共に、男たちの刀が、柄を握っていた手ごと地面に落ちる。
「手ごわいぞ、甘くみるなッ」
「囲め、押し包んで討ち取れ!」 
「応ッ!」
 いずれも手錬の者らしく、女性の剣技が尋常でないことに気付いたのだろう。
 囲みこんで女性を討ち取ろうとする。二人を無力化しても、いまだ彼我の人数差は隔絶している。すぐに女性は斬り捨てられる、そう思われたのだが。


 あがるのは苦悶と絶鳴。いずれも男たちのものばかり。
 女性の剣技は、ただ相手を斬るだけではない。周囲の敵兵に向け、時に舞うように揺らめき、脅すように閃き、幻惑するように翻る。
 初手で恐るべき実力を見せ付けられた相手は、その動きに惑い、自らが鋭鋒の矢面に立たされることを恐れてためらった。
 その敵の心理をさえ読み取って、女性は相手の連携を寸断し、巧妙に包囲を突き崩していく。何も必ずしも斬り殺す必要はない。首をとらずとも、腕の一本が失われれば、その兵は無力となるのである。
 ことに、この女性は打ち込んできた相手の手首を捉えることが巧みであった。動いた相手に、即座に応じて反撃する――いわゆる後の先である。



 向き合えば必敗、囲めば寸断、致すことかなわず、ただ致されるのみ。
 さして広くもない甲府の町の一隅に、男の配下が倒れ付すまで、かかった時間はごくわずかであった。
 歯軋りの音と共に、男の口からうめくような声がもれる。
「……何者だ、貴様」
「――大胡秀綱」
 静かに耳に届いたその名前に、男はわずかにいぶかしげな表情を浮かべた後、すぐに驚愕をあらわにする。同時に、悪夢にも似たこれまでの剣劇が、はじめて現実のものだと認識できた。
 この相手を前にすれば、それも当然のことだと納得できた。
「大胡、秀綱、だと……? な、何故、剣聖がこんなところにいるのだッ?!」
 だが、驚きに顔を歪める男とは対照的に、秀綱は静かであった。十を越える敵を斬った後とは思えないほどに。
「……甲府の町と、そこに住まう人を守ってほしいと請われたゆえ」
「請われた、だと。何故。貴様は、たしか今、越後にいた筈。越後と武田は不倶戴天。なぜ武田家を守るような真似をする必要があるッ?! 何故、貴様ほどの戦力を躑躅ヶ崎館に置いておかないのだッ?! 何を考えているのだ、貴様らはッ?!」
 男は激怒していた。
 このような暗闇で火付け略奪を妨げるなど、名高き剣聖にとって、あまりにも役不足。暗闇にうごめく者たちにとっては、場違いな闖入者に等しい。人には各々領分というものがあるではないか、と。
 おかしな話だが、男は本気で怒っていたのである。
 自分たちが狼に挑みかかった野良犬だと知って。その役どころを振った、顔も知らぬ何者かに向けて。


 そして、男は不意に、今の今まで考えもしなかったことに思い至った。
「待て……待てッ! 越後にいる貴様がここにいるということは、まさか、謙信とかいったあの女……あの武烈、あの気組み、まさか、あやつは……ッ」
 うなるように声を絞り出す男。
 そんな惑乱する男を見る秀綱の目に浮かんだのは、憐憫であったかもしれない。秀綱の目から見ても、この配置は無茶と映るものであった。まして、それで目的を阻まれれば、呪詛の一つも吐きたくなろう。あらゆる意味で、この男は、あまりにも相手が悪かった。
 だが、秀綱は余計なことを口にすることなく、手に持った刀を振り上げる。
「……罪なき民人を蹂躙しようとした報いは、受けてもらいます――覚悟」
 夜空の明りを映した刀がわずかに煌き――それが、男が見た最後の光景となったのである。





◆◆◆




 
「――思い上がっているつもりはないが」
 俺は信虎の言葉に対し、小さく肩をすくめた。ただそれだけの動作で、全身から締め付けるような痛みが襲ってくる。
 甲府の町には謙信様と、秀綱と、そして段蔵配下の軒猿が数名いる。そちらに関して、心配はしていない。
 心配しなければならないのは、俺自身の方だった。
 さすがに、そろそろ限界だ。時間稼ぎ一つでここまでぼろぼろというのも情けない話だが、ここまでよく頑張った、俺。
 その時間稼ぎにしたところで、晴信にとっては余計なお世話もいいところだとわかってはいるが、そうとしって、それでもよく頑張った、俺。


「……しかし、場違いな道化としては、いいかげん、主役に戻ってきてもらいたいものなんだが――真田、幸村殿?」
 俺は、先刻から声を発していない幸村に向けて呼びかけた。
 視線を向けないのは、信虎に対する警戒のためだったが、正直、次に攻撃をくらえば、たとえ備えたとしても、もう避けることは難しいだろう。
 視線を向けていないため、今、幸村がこちらを見ているのか、うつむいているのか、そもそも意識を保っているのかさえ判然としない。
 それでも、俺は呼びかけを続けた。斬り合いが終わったことで、かえって気が緩んでしまったのか、不意に意識がとぎれそうになる。あまり長いことしゃべってはいられなさそうだった。
「何故、御館様は何も仰ってくれないのか。そんな風に考えているのなら――」
 だから、核心だけを口にする。
 かすかな物音は、はたして誰がたてた音なのだろう。
「それはすべて、真田殿のためですよ。躑躅ヶ崎の乱で起きた出来事、それをあなたが受け入れ、そして自分自身で判断が下せるように。そう考えられたのでしょう」


 幸村の、晴信への心酔ぶりは、傍で見ていても明らかだった。それはそれで美質の一つであり、幸村の忠誠と献身は武田の家臣として相応しいものであったろう。
 だが、それが出来る将は、幸村のほかにも多くいる。武田家のように優れた人材が数多く集う家であれば、その数は決して少なくあるまい。だからこそ、晴信にとって今に不足を覚えない幸村はいささかならず物足りないのだろう。能力の多寡ではなく、拠って立つべき将の格――真田幸村は、もう一段、上にあがれる将であるという確信があればこそ、なおさらにそう思えたに違いない。
 虎綱に聞いた話では、これまでの戦の多くで、実際に矛を交える時を除き、晴信は幸村を傍近くに控えさせていたらしい。これは主君を尊敬する幸村の望みでもあったのだろうが、同時に幸村を教導しようとする晴信の意思でもあったのだろう。
「与えられた戦場で矛を揮うは匹夫でも出来ること。そうではなく、自ら戦場をつくることの出来る、真の意味での将になってほしかった。武田の家を支えることの出来る重臣となってほしかった。けれど、晴信様の答えを己が答えとして受け入れてしまう今の真田殿では、それは難しい」


 そう。簡単に言えば、それは武田晴信とて一人の人間であるとわきまえること。
 主君を絶対視すれば、なるほど、自分で考える必要はなく、ただ主君の言葉を遵守していれば良い。だが、それではもし主君が家の舵取りを誤った時、とりかえしがつかなくなってしまう。
 武田という大舟を誤り無く漕いで行くための、一つの櫂。
 無論、並の配下にそこまでは望まない。並の器量の者にそんなことは望めない。
 だが――
「あなたならば、望めると、そう晴信様は考えられた。けれど、あなたの忠誠と尊崇はあまりに強固で、言葉で教え諭すことは難しい。何故なら、つまるところそれは主君である晴信様を疑うところから始めなければならないからです」


 この考えが確信として浮かび上がったのは、実のところつい先刻のことだ。
 黙然と佇み続ける晴信の姿を見て、そうに違いないと確信した。
 晴信にとって――この戦いは、真田幸村を克目させるための場。おそらく、それ以上の意味を持たない。
 同時に、あまりにも長く暴虐に耐え続ける晴信を見て、もう一つの事実にも俺は気がついたように思えたのだ。
 それは――


「だから、晴信様は口を開かなかった。躑躅ヶ崎の乱で何があったのか、一言でも何かを口にすれば、それがあなたの判断を縛ってしまうからです。晴信様を信じるなら、それも良い。疑いを持つならばそれも良し。万に一つ、信虎を信じ、刃向かってこようとも問題はなかったのでしょう。それが、あなた自身の判断でさえあれば」
 そのためにこそ、晴信は信虎に何をされても動じなかった。おそらく、あの時、俺が動かず……あの場で陵辱の憂き目を見ようとも、晴信はその態度を貫いたであろう。むしろ、その惨劇によって幸村が克目することさえ計算に入れていたのではないか。
 俺には、そう思えてならなかったのだ。




 凍りついたような静寂の中、俺の耳に届いた声は、俺以上にかすれていた。
「……………………ばか、な」
「確かに、馬鹿なことです。俺がここに出なくとも、そんな事になる前に、真田殿は立ち上がったに違いないですから。ですからこれは、俺の馬鹿な推測です。それとしってここにいる俺は、間抜けな道化です。せめて、真田殿が休むための時間を少しでも稼げたのなら、望外の成果といわねばなりませんね。もっとも、道化でいるのもいささか飽いてきたところではあります」
 そう言って、俺は内心の苦悶を押し隠すために、無理やりに笑みを浮かべ、それまで続けていたいささかあざとい口調を平素のものに改め、背後の人物に最後の呼びかけを行った。


 
「真田幸村。まだ寝ていたいなら止めはしないが――この下衆の首、俺がとってしまってかまわんのだな?」




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