「……来たか」
遠雷の轟きの如き馬蹄を耳にして、俺は小さく呟いた。
俺や弥太郎を含めた襲撃部隊が、用意していた軽舟をつなげた橋を使って、関川を渡り終えて、しばらく経ってからのことである。
この柿崎の追撃速度からいって、東岸でまごまごしていれば、敵に捕捉されていた可能性がある。橋を用意するように命じておいた自分の判断が正しかったことを知り、俺は安堵の息を吐いた。
だが、安堵ばかりしてはいられない。最も重大な堰作りに関しては、どうやら上手く運ばなかったようだ。いまだ、関川の水量は多く、勢いは激しい。勢いに乗る柿崎勢といえど、現状の関川を強引に渡河することにためらいを覚えてしまうだろう。
このあたりの舟は、すでに先の橋作りでかき集めてあったから、これから柿崎が同じことをしようとしても、すぐには無理である。
とはいえ、時間さえかければ、仮の橋をつくることは可能であろうし、何より騎馬の機動力を駆使すれば、渡河地点を移すことはたやすい筈だ。川の上流を渡られ、そちらから攻められてしまえば、今の長尾軍では苦戦は免れない。
「――だからといって、退くことなんて、出来ないけどな」
俺は戦況を分析しながら、がりがりと頭を掻く。
先刻、弥太郎から聞いた言葉が、脳裏をよぎる。
「守護代様を頼む」
それが、俺たちを逃がすため、時間を稼いでくれた越後の勇士たちの最後の願い。その言葉に背くことは許されない。
そして、その言葉を俺に伝えた弥太郎の、ぼろぼろになった甲冑姿を思い起こす。
少なからぬ痛手を与えたとはいえ、柿崎の黒備えは、まだ半数以上が健在である。当然、逃げる俺たちを急追してきたに違いない。
徒歩で逃げる俺たちと、追撃部隊の足の差は誰の目にも明らかであったが、結果的に俺たちは追撃をかわしきった。
そして、関川を渡る寸前、ようやく合流してきた弥太郎の痛々しい姿を見て、俺はそれが天の与えた幸運などではなく、一人の少女の献身による結果であったことを知ったのである。
その弥太郎は、負傷と何より疲労がはなはだしく、すでに春日山に退却させている。先の襲撃で、戦えないほどの手傷を負った者たちも同様である。
あくまで戦うと言い張る彼らに対し、俺は笑みさえ浮かべながら言ってきかせた。
「その傷では戦えないだろう。皆がここで出来ることは何もないが、春日山にはある。そちらをやってほしいから、帰ってもらうんだよ」
「それは、あの、何でしょうか、天城様?」
弥太郎が口惜しげに問いかける。
多分、俺がおためごかしを言っていると思っているのだろう。
実際、その通りではあった。戦場で誇り高く死ぬのは、あの人たちだけで十分。そんな死に場所を与えるくらいなら、生きて帰らせた方が良い。たとえ、彼らがそれを望まないとしても、俺が嫌なのだ。この気持ちは、おためごかし以外の何物でもないだろう。
だが、晴景様より采配を託されたのは俺である。指揮官には、従ってもらおう。
「勝利した後は、宴がつきものだろう。帰ってから準備するのは面倒だからな。先に帰って、準備しといてくれ。そうそう、晴景様が先に酒樽を空にしないように注意してくれ。これは重大きわまりない任務だ。よろしくたのむぞ、小島弥太郎殿ッ!」
「は、はいィッ! ……って、え? はあ……え、あの、天城様、ええッ?!」
俺の言葉に反射的に返事をしつつ、そのあまりの内容に目を白黒させる弥太郎。傷の痛みも、戦の疲労も、一時的に吹き飛んでしまったらしい。
そんな弥太郎を見て、周囲の兵士たちからも、楽しげな笑い声が沸き起こる。それが自分に向けられていることを知り、さらに弥太郎は顔を赤くする。俺よりも大柄な体躯が、穴があったら入りたいとばかりに縮こまっている姿は、どこか微笑を誘われる愛らしさがあった。
結局、俺は弥太郎をだしにして、兵士たちを納得させた。彼らと別れた先刻の光景を思い起こし、俺は口の端を吊り上げた。負けられない理由というのは、探せば結構あるものだ。
その時。
「申し上げますッ! 対岸に蕪の旗印ッ! 柿崎和泉の軍勢ですッ」
兵士の報告に、俺は視線を対岸へと向けた。報告のとおり、一度、目の当たりにした蕪の旗印が翩翻と風になびいている。
一方の俺が掲げるのは長尾家の九曜巴。両家の家紋が、関川をはさんで対峙する。
柿崎勢は、先の戦いの死傷者をのぞいた、およそ二百騎。こちらは、人数だけは同じ足軽二百人である。堰作りに出していた兵士たちは、俺たちが関川につくや呼び戻す使者を出したのだが、柿崎の追撃が急すぎて、間に合わなかったのだ。
まさに、戦端が開かれようとする寸前、それまで曇天に包まれていた上空から、梅雨空を割って、暖かい日の光が両軍に向かって降り注いだ。
一際強い風が、彼方から吹き付けてくる。その風の動きに押され、上空で滞っていた薄い雨雲が一時的に移動を余儀なくされたらしい。
あるいは、上流の方では、もっと早くから天候が回復していたのかもしれない。見れば、先刻まで荒れていた川面が、いつのまにか、随分と穏やかな流れになっている。これならば、強引に渡河を試みても良いのではないか。そう考えてしまうくらいに。
そして。
「全軍、突撃せよッ! 春日山の弱兵どもに、身の程を知らしめるのだッ!!」
柿崎景家の、吠え猛る号令が、こちらにまで響き渡ってくる。
その号令に従い、柿崎勢は馬をあおって、一斉に河中に馬ごと飛び込んできた。
水深は、馬の胴体が沈みきるには、やや足りないといったところだ。当然、騎馬の機動力は減殺され、身軽に動くことは出来ない。
「放てェッ!!」
俺の号令と共に、柿崎勢に向けて、猛然と弓を射掛ける長尾軍。
弓弦の音が連鎖し、矢羽が宙を裂く音が響き渡る。矢の雨は、渡河中の柿崎勢に容赦なく襲い掛かっていった。
だが、当然、柿崎勢もその程度は予期していたようだった。
馬上の武者たちは、兜を深くかぶり、小手をかざして矢を退ける。さらに柿崎勢は、馬体にも鉄甲を装着しており、鉄甲の隙間にでも当たらないかぎり、弓撃の効果は出なかったのである。
矢の雨の中、粛々と川を渡ってくる柿崎の黒備え。それは、敵軍にとっては、息の詰まるような光景であり、事実、俺たちは少しずつではあるが、柿崎勢の武威に押されたように、後退しつつあった。
やがて。
先頭の数騎が、対岸に到着する。川面から、水しぶきと共に馬体があらわになり、彼らはたちまちのうちに戦闘態勢を整えていく。はや、勝敗は決したか、と考える者さえいたかもしれない。
次々に川から姿を現す柿崎勢。俺の眼前で、彼らの数は三〇騎を越そうとしていた。
彼らの後方を見れば、柿崎景家率いる本隊もいよいよ川面に侵入しようとしているようだった。
頃はよし。
俺はそう判断し、後方の兵士の一人に命令を下した。
「狼煙をあげろッ」
即座に、兵士は命令に従い、関川の川岸に狼煙があがる。
それを確認するや、俺は再び敵兵に向き直り、その場にいる兵士全てに届けとばかりに、声を張り上げた。
「我が策、成れりッ!!」
その声に応じて、退きつつあった長尾勢の足が止まる。
「天も照覧あれッ、謀反人を討ち果たすべく、長尾晴景が軍が、ここに正義の鉄槌を下すッ! 全員、弓を捨て、槍を取れッ、柿崎勢を迎え撃つッ!!」
穏やかになった川面は、自然の賜物なのか、あるいはようやく堰が完成したからなのか。こたえは俺自身にもわからない。
だが、もし勝機があるとしたら、ここしかない、と俺は判断した。このまま敗走してしまえば、計が発動したころには、敵は全軍が渡河を終えているかもしれない。この川岸で、敵を食い止め、計略の実効性を確実なものにする必要があったのである。
そして、そんな俺の叫びに、真っ先に応じたのは――
「応ッ! 小島弥太郎、参るッ!」
そう言って、俺のすぐ傍らを駆け抜けていったのは、春日山に向かっている筈の弥太郎であった。なんでここにいる。
「……ええと……ええい、まあ良いやッ!! 全員、弥太郎に続けェッ!!」
次の瞬間。
迷いなく、躊躇なく、敵兵に踊りかかっていく弥太郎の姿と、俺の号令の下、長尾軍から爆発するような喊声があがったのであった。
◆◆
柿崎景家にとって、今回の戦は、戦と呼ぶにも値しないものである筈だった。
景家は、騒乱の絶えない越後の現状を憂いていた。これは偽りではない。景家は、戦に臨む際の昂揚感を愛していたが、だからといって戦狂いというわけではない。領内の整備や、治安の維持など、人並みに領主としての政務もとっている。
そんな柿崎は、このまま越後の戦乱が長引けば、他国の勢力の侵入を招くは必定であると考えていた。何より、守護代たる晴景の惰弱と愚昧が、景家には気に食わなかったということもある。だからこそ、先年の黒田秀忠の謀反にも与したのである。
だが、黒田は新鋭の長尾景虎に敗れ、黒滝城は陥落してしまう。
その黒田家に与し、長尾家と敵対した柿崎は、本来であれば家を取り潰されてもおかしくはなかったが、柿崎の図抜けた戦働きを惜しんだ晴景は、柿崎に寛大な処遇を与え、ほとんど無傷で長尾家の下に戻ることを許したのである。
それは、ただ甘いというだけではない。下手に処罰を加えて、柿崎に再び叛乱を起こされることを、晴景は恐れたのである。
だが、この守護代の寛大な処遇にも、柿崎は苦々しい思いを禁じえなかった。我がことながら、謀反に与した人間を、易々と麾下に加えてどうするというのか。謀反の罪さえ許されるとあらば、今後、春日山の律令に従う者は一人もいなくなるのは明白なことではないか、と。
そう考えた柿崎は、越後の勢力の変化を見据え、誰が勝者となりえるかを考えた。そして、柿崎が選んだのは、栃尾城の長尾景虎である。
景虎が黒田を攻めた際、自らの居城にいた景家は、景虎と直接矛を交えることはなかったが、あとで伝え聞いた景虎の見事な戦ぶりには感心しきりだったのである。
自分よりはるかに年少、しかも女子の身でありながら、見事なものよと考えていた景家は、越後と自らの将来を景虎に委ねようと考え、秘密裏に使者を出した。
幾度かの使者の往復の末、景家は自室で考え込む。
それとなくすすめた春日山への謀反を、景虎ははっきりと拒絶してきたのである。
長尾景虎の為人が、噂よりもさらに厄介なものであるらしいとわかった景家は、酒盃をあおりながら、考えに沈んだ。
義を重んじ、不正を憎むのは結構なことだが、大名ともなれば、奇麗事ばかり言ってはいられない。時に清濁あわせ飲む器量が必要となることもあろう。
だが、今の景虎は、若年ゆえに理想に引っ張られているらしい。あるいは、本人の元々の性質が、そうなのかもしれないが、いずれにせよ、このままでは景虎はあくまで春日山にしたがって、越後の戦乱を治めるという立場を崩すまい。
だが、それは柿崎にとって、あまりに歯がゆいことであった。このまま、春日山の恣意に任せていては、越後は遠からず立ち行かなくなるだろうことは明らかではないか。
他人の目にどう映るか知らず、景家は景家なりに、越後の将来を考えていたのである。
結果、景家は強引に長尾景虎を舞台に上げるために動き出し――その策謀は成功したかと思われた。
今や、春日山と栃尾は、明確な宣言こそないが、戦闘状態になったと言って良い。後は、実際に戦火を交えるだけで、事は終わる。
景虎の不興は免れないだろうが、その景虎とて、景家の勲功を無視することは出来ないだろう。柿崎家は、越後の雄なる一族となり、当主である自分の武名はさらに高まるに違いない。それこそ、景家が望む越後の未来であった。
景家にとって、この戦いは、そこに到るための雑事に等しい。
春日山の弱兵ごとき、蹴散らすことは造作もない。
そう考えていた柿崎家当主にとって、今回の春日山勢の戦い方は、苛立ちを禁じえないものであった。
まさか、相手に倍する軍に向かって、川を越えて進軍してくるとは。しかも、稚拙な罠をまじえた奇襲にしてやられた挙句、その敵を取り逃がしてしまったことは、景家の自尊心を突き崩すには十分すぎる出来事であった。
そして、景家の苛立ちはそれだけにとどまらない。
今、景家の右の腕には血止めの布が巻かれている。殿をつとめた春日山勢の雑兵の槍につけられた傷だった。その兵士は、柿崎自らの手で斬り捨てたが、雑兵に手傷を負わされた不快さは拭いがたい。
将として、してやられ。武人として、してやられ。
自らの武に絶対の自信を持つ景家にとって、目を覆わんばかりの失態が続いていたのである。
それゆえ、この戦いでは、何としてもこしゃくな春日山勢を打ち砕く。
その一念が、あるいは景家の判断に微妙な曇りをもたらしてしまったのかもしれない。
常の柿崎和泉守景家であれば、ここまで策を用いて来た敵と戦うにあたって、当然、水を用いた策を警戒したであろう。
だが、眼前の川の水量と水勢を見て、押し渡れると判断した景家は、一気に敵に肉薄することを決断してしまう。もっとも、その決断には、下手に逡巡して、再び敵に策を弄する時間を与えることを避けるという意味合いもあったであろうが、しかし、柿崎が奔騰する戦意を抑え切れなかったことは事実であった。
とはいえ。
これまでも、柿崎勢は策を弄する敵の軍勢を、力で押し破ってきた実績がある。柿崎が越後国内で恐れる策士といえば、宇佐美定満ただ一人。それ以外の小物など、柿崎勢の猛勇をもってすれば、こしゃくな策ごと踏み潰してやるという自負と自信が、景家にはあり、それは今日この時まで、確かな戦績に支えられた事実であった。
自ら、川の半ばまでたどり着いた景家は、春日山勢が最後の反撃に出てきた姿をとらえ、にやりと笑った。
春日山勢が、ここで柿崎勢を食い止めようとするからには、もはや春日山までの道のりに罠がないことは明らかだ。すなわち、眼前の敵兵を殲滅すれば、春日山城は、景家の掌のうちにあるということである。
「はっははッ、先代が生きていた頃は、まさか春日山を陥とす日が来ようとは思わなんだがな。くだらぬ悪あがきをしたこと、悔いながら地獄に落ちるが良い、長尾晴景ッ!」
景家の怒号を聞いた馬廻りの兵士たちが、主の檄に応じて声を高めた、まさにその瞬間。
それまで、川向こうの敵兵の姿のみを捉えていた柿崎の視界に、ようやく、その敵兵の後方で立ち上る不審な煙をとらえた。
「狼煙……か?」
知らず。
柿崎の声が低くなる。体を浸す川の水温によらない寒気が、柿崎の身体を震わせた。
あれは、何を知らせる狼煙なのか。
柿崎勢の襲来か? しかし、そんなもの、とっくに斥候で把握しているだろう。
では、援軍を求める知らせだろうか? 否、今の春日山に従うような酔狂な国人がいる筈はない。
ならば、あれは何だ……?
そして――まるで遠雷の轟くにも似た、身体を震撼させるこの轟音は、何処から響いてくるのだッ?!
「か、景家様ッ!? み、水です、上流より、水がッ!!」
「ぬゥッ?!」
配下の者が指差した先。陽光に照らされた白い波頭が先を競うように連なり、下流に向けて押し寄せてきつつある。それが、堰きとめられていた川水を解放してつくりだした人為的な海嘯であることを、景家は瞬時に悟った。
「――奔流の計かッ! おのれ、こしゃくなッ!!」
景家は一声叫ぶや、愛馬をあおって脚を速めようとする。だが、今、景家がいるのは川の中央。もっとも水深が深いところでもある。川面から首だけを出した状態では、いかに駿馬といえど、速度をあげられる筈がない。それは、柿崎勢の最精鋭である景家の馬廻りの者たちも同様であった。
そして、そんな彼らに向け、容赦なく波濤は襲い掛かっていく。辞世の句を読むことさえ許さずに。
「おのれ、馬鹿な、何故、俺がこんなところでッ――?!」
越後七郡随一の武勇を誇り、生きてあれば隣国の大名を震撼させ、遠く九州にまでその武名を伝えたに違いない稀代の猛将、柿崎和泉守景家。
そんな、ありえた筈の可能性を、轟然たる響きと共に海嘯が飲み干していく。
時間にすれば、ほんの数秒。
波濤が過ぎ去りし後、景家の姿も、またその側近であった馬廻りの精鋭の姿も、関川の川面から姿を消していた。
あとに残るのは、ただ滔々と流れる関川の河水のみであった……
やがて、川岸から、ようやく状況を理解した長尾軍の歓喜の雄たけびが響き渡る。
一方の柿崎軍は、眼前の光景の意味が、今もって理解できず、呆けたようにその場に立ち尽くすだけであった……
◆◆
「何とか、勝った、か……」
俺は戦いの後始末を眺めながら、ほうっとため息を吐いた。
俺の視線の先では、まだ呆然自失から立ち直れない柿崎の黒備えの武者たちが、捕虜として捕らえられている。
主である柿崎景家を失った後の彼らは、反撃の素振りさえ見せず、呆然としたままだった。
それだけを見ても、いかに景家が配下の士心を得ていたかがわかる。
その景家を、この地で討ち取ってしまったことに、俺はいくらかの危惧を覚えずにはいられなかった。なんと言っても、俺はこの時代にあって、異分子であることは間違いない。
歴史に名を残すような武将を、こんな早い段階で退場させてしまえば、この後の展開に大きな影響を及ぼさずにはおくまい。
「まあ、自分の命には代えられないんだけどな」
胸にきざした不安に、俺はあえて蓋をする。実際、だからといって、逃げるとか、自分が討たれるとかいう選択を選ぶことも出来ないのだ。やるべきことをやって、それに成功した。今は、そう考えていれば良い。それが許されるくらいの働きは、して見せた筈だ。
「――ま、ほとんど弥太郎たちのお手柄なわけだが」
「は、はい? 何でしょう、天城様?」
突然、俺の口から自分の名前が出たので、弥太郎はびっくりしたようだ。
弥太郎は、その顔といわず、身体といわず、血止めの布から赤い染みが浮かび上がっており、今回の一連の戦で、弥太郎がどれだけ奮戦したかは、その姿を見れば一目瞭然であった。
その弥太郎の頭、は無理だったので、二の腕を軽く叩く。
「なに、弥太郎のお陰で助かった、ありがとうと言いたかっただけだよ」
「ふえッ?! と、とと、とんでもないですッ、私は、ただ天城様の家臣として、その命令に従っただけでして、そんな、お褒めいただくようなことは、何にも――ッ?!」
俺が褒めると、瞬時に頬を赤くして縮こまる鬼小島さん。いかん、この子の反応を楽しんでいる自分がいる。自重、自重。
とはいえ、弥太郎自身、これだけの規模の戦で、敵味方、多くの死に触れたのだ。平静ではいられまい。どれだけ大柄でも、この子の心は、少女のものだ。表面上ではあっても、普段どおりの振る舞いをすることで、傷ついた心を癒す役に立てれば良いのだが。
ところで。
「――いつから、俺の家臣になったの? 晴景様の家臣、の間違いかい?」
「え゛、い、いえ、そんなこと言いましったけ?」
なんだか妙な声をもらす弥太郎。ついでに、語尾も変だった。
まあ、かりそめとはいえ、鬼小島弥太郎の上で采配をふるったのは、俺としては名誉なことだが、晴景様が聞いたら、機嫌を悪くするだろうから、あまり間違えないように。
俺がそう言うと、弥太郎は顔を紅潮させたまま、コクコクと素直に頷いた。
この頃には、堰作りに向かっていた半数とも合流し、勢ぞろいした長尾勢は、意気揚々と春日山城へ凱旋するために歩を進めていた。
いずれの顔も明るく、誇らしい表情ばかりだった。
それも無理からぬことであろう。相手は、越後最強とも謳われる柿崎景家。ほとんど勝ち目などなかった筈の戦で、その景家を討ち取る大功をたてたのであるから。
この勝利が越後に知れ渡れば、失墜していた春日山の権威も戻る筈。晴景様の虚栄心も、幾分かは満たされよう。
それに、今回、栃尾城の景虎様との間に直接の戦火は交えていないから、お二人を和解させることは、不可能ではあるまい。
何とか、晴景様と景虎様の仲を回復させ、姉妹で越後の戦乱に当たるという体制を築きあげたかった。
そして、晴景様を説得することは、少なくとも柿崎勢と矛を交えるよりも容易い筈。この戦いを経て、俺はそんな余裕も持てるようになっていたのである。
この時。俺は気づいていなかった。
柿崎景家を討ち取ったことにより、俺自身の価値が、これまでとは大きく変貌していることに。
越後随一の猛将を討ち取った者、それすなわち真の越後随一の将である。そんな風に目されることになる自分の立場に。
そして、そんな配下を抱えた晴景様が、目の上の瘤たる景虎様に対して、どのような態度をとるのかは明白である。にも関わらず、この時の俺は、まだお二人が手を携える越後の姿を夢見ていたのである……