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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/12/06 22:32


 先の甲斐守護職武田信虎。
 その名は真田幸村にとって少なからぬ意味を持つ。主君晴信の実の父であり、幸村にとっても主筋にあたる人物であり。同時に、真田の一族の多くを冥府へと追いやった怨敵でもある。
 もっとも、幸村自身の心情はいささかの乱れもない。信虎が主筋であろうがあるまいが、主君晴信の敵であるというただ一事をもって、それ以外のすべてのしがらみを振り切ることが出来るからであった。
 まして、信虎の狙いが甲斐の奪取と晴信の身命である以上、幸村にとって、信虎はただひたすらに倒すべき敵であるに過ぎぬ。
 これを討ち取ることに躊躇する筈はなかった。


 躑躅ヶ崎館を知悉する敵が、これみよがしに躑躅ヶ崎館の南に姿を現したことで敵の思惑を読み取った幸村は、現れた敵勢に対しては一族の頼綱を差し向け、自身はあえて館内に留まった。
 常に陣頭に立つことを誇りとする幸村に似合わぬ采配であり、頼綱でさえ驚きをあらわにしていたが、晴信から全権を委ねられた自覚と責任が、幸村の思慮を深める結果となったのかもしれない。
 そして、敵は幸村の推測通り、躑躅ヶ崎館にその姿を現した。
 奇襲とは敵の意表を衝いてこそのもの。相手が備えていた時点で、奇襲は奇襲たりえない。
 その筈であったのだが―― 



「何を笑うか、下郎。すでに事やぶれたりと覚悟を決めたか」
 幸村の言葉には刃の煌きが宿っていたが、向けられた相手は、そんな幸村の鋭気をこともなげに振り払う。
「くく、真田の娘、か。祖父以来、主家に忠誠厚きことよな。わざわざの出迎え、ご苦労である」
 それを聞いた途端、幸村の眉が急角度につりあがった。
「戯言を。貴様のような下郎に忠誠を誓った覚えなどない。私の主は武田晴信様ただお一人だ」


 その誇りに満ちた幸村の名乗りを聞いた信虎が、かすかに口元を歪ませる。
 信虎の手が霞むように動いた、そう見えた次の瞬間、幸村は持っていた槍を一閃させる。
 刃と刃がぶつかりあう甲高い音が周囲に響いた。それも一度ではなく、二度。
 だが投擲の勢いが強かったためか、二撃目を完全に止めることが出来ず、幸村の鎧の肩当付近で金属の削れる音が響いた。
「――ちッ?!」
 舌打ちをもらした幸村へ、信虎の声がとぶ。
「ほう、弾いたか。なかなかやる」
 手練の早業で懐剣を投じた信虎は、にやりと笑ってみせた。
「今のは主を下郎呼ばわりした無礼への譴責よ。本来であれば生かしておかぬところだが……貴様の祖父に免じ、此度だけは差し許そう」


 その信虎の言葉のほとんどを幸村は聞いていなかった。
 信虎が当主であった時代、幸村は真田の家にいたために信虎に関する記憶はほとんどない。英明と悪逆と、余人には測り難い方であるとの噂を耳にしていた程度である。
 当時は真田家当主は幸隆であり、後継者である昌幸も健在であったから、信之や幸村が政治に口を出すことはなく、また許されてもいなかったのである。
 かりそめにも晴信の父である。凡庸な人物だと思っていたわけではなかったが、たった今の投擲の業は幸村をして息を飲ませる領域に達していた。


 そんな幸村の驚愕を知ってか知らずか、信虎はさらに言葉を注ぎ足していく。
「たしか信之というたか、貴様の姉は死んだのか?」
 敵将の問いに答えることを、幸村はかすかにためらった。問答無用で目の前の敵を討ち取るべきかと考えたのだが、姉の名が出たことが、幸村の胸中に相手の言葉への興味の一石を投じてしまった。
「亡くなられた。だが、それが貴様に何の関係がある?」
「なるほどのう。信之が死に、何も知らぬ貴様が真田を継いだ、か。大方、それを押し進めたは晴信か? あいもかわらず、万事に粗漏の無い、可愛げのない娘よな」
「貴様如きが御館様の名を軽々しく口にするなッ! なにやら妄言をもって私に疑いを生じさせようとしているようだが、そのような浅薄な言にのせられる真田幸村と思ったかッ!」



 幸村の激語を聞いた信虎は、呆れたように吐き捨てる。
「自惚れるでないわ。幸隆や昌幸ほどの智謀の士であればともかく、貴様ごとき小娘、配下に欲するほど耄碌してはおらぬ。それにしても――」
 再び口元に明確な嘲りを湛え、信虎は独語する。
「かような小娘を重臣として据えるとは、武田の家臣の質も落ちたものよな。年端もいかぬ小娘が主君では、いたしかたなきことか」


 そう言った途端、信虎は左足を半歩下げ、半身の姿勢をとる。
 すると、寸前まで信虎がいた位置を、雷光と化した槍の穂先が貫いた。
 晴信への侮蔑の言葉を耳にした幸村が繰り出した一撃である。
 弾けるような勢いで信虎との間を一瞬で詰めた幸村が、必殺の念を込めて揮った一撃は、しかし信虎がわずかに身体を引くことで虚空を貫くに留まった。


 それでも幸村の動きは止まらない。
「はァッ!」
 気合の声も高らかに、幸村は縦横無尽に槍を揮う。
 これが邸内であれば、槍の長大さはかえって攻撃の妨げになったかもしれない。しかし、中庭であってみれば幸村の動きを妨げるものは何もなく、槍はその破壊力を存分に発揮できる。
 槍と刀では、その間合いが大きく異なる。信虎が腰に差している刀では、幸村の槍の間合いと渡り合うことは難しい。注意を払うべきは先刻の懐剣であるが、それも無限にあるわけではない、と幸村はわずかの間に判断していた。
 猛攻に次ぐ猛攻で、相手に態勢を整える暇を与えなければ、投擲も思うようにはいくまい。先のような不意打ちならばともかく、こうして渡り合っている最中に苦し紛れになされる投擲を避けるのは、幸村にとって造作も無いことであった。



 ここで信虎を討てば、此度の戦はほぼ終わる。
 今川家の諸将は、当主である氏真や家族の身を慮って信虎に協力しただけであろうから、その信虎がいなくなれば、あえて戦い続けようとする者はいまい。
 将が従えば兵はこれに倣う。甲斐に侵攻してきた今川軍一万五千。そして駿河本国の留守居をしている数千の軍勢。それらとの戦いが、目の前の男を討ち取るだけで回避できるのである。
 無論、幸村はそのことを弁えていた。その戦意は今や奔騰せんばかりに昂ぶっている。
「真田幸村が槍、その身で受けよ、武田信虎ッ!」
 幸村渾身の一撃が、空気をすら両断する勢いで信虎の身体に迫った。  



 甲州騎馬軍団を代表する六人の将の一角。雷将の武威が余すことなく込められたその一撃をかわすことなど、たとえ鬼神であっても不可能であったろう。
 信虎とて例外ではない。事実、信虎はその槍をかわすことが出来なかった。
「があッ?!」
 幸村の槍は狙いたがわず敵の眉間を貫き、頭蓋を砕き、脳漿を撒き散らす。


 ――ただし、それは。
「なッ?!」
 幸村は自分がたった今討ち取った相手を見据える。黒髪も豊かな、信虎とは似てもにつかぬ若き兵士を。



 信虎は手近にいた配下の兵の肩口を掴むや、無造作に自らの前に引き寄せたのである。主を援護しようとしていた兵士であったが、この信虎の行動が予測できる筈もなく、驚きを顔に浮かべたまま、雷将の一撃に頭蓋を砕かれ、その生涯を終えることとなった。
 その兵士の死屍が、力を失って崩れ落ちる。その最中、まるですがりつくように、幸村の槍に倒れ掛かったのはおそらく偶然であったのだろう。
 だが、幸村はそれを気にするどころではなかった。驚愕と赫怒に声を震わせる。
「貴様、兵を楯に?!」
「ふん、隙だらけじゃぞ、小娘」
 信虎の行動に激昂した幸村に対し、信虎は嘲りを表情に残したまま、滑るような足取りで幸村との距離を詰める。そうして繰り出された一刀は、空恐ろしいほどの精妙さで幸村の頚動脈を切り裂かんと迫ってくる。
 咄嗟にその一撃を避けようとした幸村だったが、先の兵士の骸が、槍を引き戻そうとする幸村の動作をわずかに妨げた。
 間に合わない。本能的にそう悟った幸村はためらいもせずに槍から手を離すと、身体ごと投げ出すように後方に飛ぶ。
 秒の差さえなく、信虎の刃が、寸前まで幸村の首があった空間を両断した。否、その一閃は幸村の首をかすかにだが捉えていた。鮮血が宙を飛ぶ。



「くッ」
 後方にとびすさった幸村は、腰間の刀を抜き放ち、信虎の追撃に備える。
 だが、信虎は幸村よりも、幸村の取り落とした槍に興味を抱いたらしい。柄を朱に染めた槍に手を伸ばし――
末期の無念もあらわに、いまだ槍を抱え込んだままの配下の死屍を無造作に蹴りはがした。
 それを見た幸村の口から、歯をかみ締める音がもれた。愛槍を奪われた口惜しさか。あるいは人を人とも思わぬ信虎の言動への怒りのためか。


「ふむ、十文字槍か。うぬのような小娘には過ぎた業物よ」
 従来の槍刃に、三日月型の刃を重ねた幸村の十文字槍。それを手にとった信虎は、具合を確かめるように柄を握る力を強めたかと思うと、にわかにそれを幸村に振るう。
 一見、細柄に見える十文字槍だが、その実、内側に鉄芯を埋め込んだ豪槍である。並の兵では真っ直ぐに相手を突くことさえ難しいが、信虎はそれを苦もなく行ってみせたのだ。
 蛇のように、咽喉元に伸びてくる愛槍を見て、幸村はさらに二歩、後ろに退いた。槍と刀で戦う不利は弁えている。信虎の手に槍がある限り、一対一で戦うことは得策ではなかった。
 だが、信虎とて己の有利は承知しており、それを活かそうとしない筈はない。
 双方が次手を繰り出すために動き出そうとした、その時であった。



 幸村の眼前で、信虎がかすかに目を細めた。その視線は敵手である幸村にではなく、幸村の後方、躑躅ヶ崎館に向けられていた。
 それは生死をかけた対峙の最中、致命的とも言える隙であった筈だが、幸村はその隙を衝くことはしなかった。あるいは出来なかった。
 真田の兵の一人が、信虎と同じところに視線を向け、叫んだからである。
「お、御館様ッ?!」
「な、なにッ?!」
 配下の叫びを聞き、幸村は思わず背後を振り返る。
 いつの間に来ていたのだろう。そこには確かに幸村の主君であり、武田家当主である武田晴信の姿があった。
 その晴信は口を引き結んだまま、視線を侵入者たち――なかんずく、父信虎へと向けていた。




◆◆




 信虎の口から、低い笑い声がこぼれ出る。
 それは、心底から楽しげな笑いで――それゆえに、この場ではきわめて異質なものであった。幸村でさえ背筋に冷たいものを感じてしまうほどに。
 だが、次に信虎の口から出た言葉を聞いた幸村は、すぐにその悪寒を忘れさせるほどの激情に囚われる。 
「まこと、真田の家は主君想いよ。のう晴信、そうは思わんか? 幸隆のみならず、その孫までがわしのためにそなたをここまで案内してくれたのだから」
 その言葉を受け、晴信は無言であったが、幸村が口を緘していられる筈はなかった。
「妄言も大概にするがいいッ! 御館様、このような戯言を聞かれてはお耳が汚れますゆえ、奥へ。侵入してきた者たちは、この幸村が片付けます」
 その幸村の激語にも、信虎は眉一つ動かさない。平然と続けた。
「今代の真田当主は礼をわきまえぬのう。晴信、うぬも苦労しておろう。信之というたか、そやつの姉を闇にて殺したこと、今になって後悔しておるのではないか?」




 信虎の狙いが、幸村の心身をかき乱すことにあるのなら、それは成功した。
 あまりにも意想外な信虎の物言いに、幸村は知らず言葉を詰まらせる。
「な、何をわけのわからぬことを。はや狂ったか?」
「その言葉は、そこな我が娘に言うてやるがよい。未だ春も迎えぬ小娘が、我が父と我が家臣を欺いて甲斐の国権を奪い取る。その真実を知る者を暗殺し、何も知らぬ妹に恩を与えて股肱の臣とする――常人にそのようなことがなせようものか。狂っておるというなら、わしなぞよりよほど晴信の方が狂っておるわ」
「だから、さっきから何を言っているのだ、貴様は?!」
 幸村の身体がかすかに沈む。それは虎が獲物を襲う寸前の動作にも似ていた。その口、引き裂いてやるとの気概もあらわに幸村は信虎を睨みつける。


 信虎はそんな幸村の様子を見て、呆れかえった表情を浮かべた。
「なるほど、よう飼いならしたものよ。畜生のごとき盲信ぶりじゃ。わしの言が聞けぬとあらば、貴様の主に問うて見るが良い。わしの言はいかなる意味か、と。まあ答えてくれるとはかぎらんがの」
 信虎の視線が再び我が娘に向けられ、幸村のそれも自然とそちらに向いてしまう。
 幸村は、信虎の言葉をわずかでも信じたわけではない。晴信が父の言を一笑に付し、誅殺を命じれば即座に応じたであろう。むしろ幸村は晴信がそうしてくれることを期待したのである。




 これまで、幸村は幾度となく戦場に立ち、敵の勇士たちと矛を交えてきた。その中には幸村を凌ぐ武技を誇る者もいたし、千変万化する戦場のただ中にあって命の危険を感じたことも一再ではない。だが、そのいずれであっても、今のような得体の知れない悪寒を覚えたことはついぞなかった。
 信虎の口から出る、取るに足らない妄言の数々。これが言辞を弄するだけの人物であれば、幸村は一刀のもとに信虎を切り捨てていたであろう。しかし信虎の武は幸村をさえ心胆寒からしめる域に達しており、あまりに不均衡なその在り方が幸村に戸惑いを与えてくるのだ。
 その戸惑いは、無音で足元に忍び寄る蛇のような不気味さで、幸村の心身に迫り来る。わずかの対峙で武田信虎という人物の異質さに触れた幸村は、眼前の敵の容易ならざるを知った。
 その認識は即座に警戒と、そして必討の念を幸村の内に育む。この男は、ここで討たねばならない。さもなければ、足元の蛇は遠からず武田家すべてを飲み干す大蛇と変ずるであろう、と。
「御館様、ご命令をッ!」
 そう考え、幸村は晴信の命令を請うた。
 幸村にとって、晴信の命令は絶対である。その一言があれば、信虎の言も、胸中を苛む異質の念も振り払うことは容易である筈だった。


  
 だが、晴信は信虎の言葉には答えず、そして幸村の期待にも応えなかった。
 姿を現してからこちら、ただの一言も発せず、侵入者たちへと視線を向けるばかりである。
 敵の首魁を前にしているのだ。常の晴信であれば黙っていよう筈はない。晴信の奇妙な沈黙に、幸村はようやく奇異の念を覚えた。
「御館様?」
 だが、晴信はかわらず無言。かわって口を開いたのは信虎の方であった。
「ふむ、言葉もなし、か。我を失っているわけでもなし。わしを見ても動ぜぬのは流石というてやりたいところだが……」
 晴信の眼差しはまっすぐに信虎らに向けられており、そこに畏怖や惑乱の色はない。父を恐れているわけでもなく、かつての出来事を思い出して震えているわけでもない。そのことは明らかだった。
 であれば、こちらを討つべく動くしかないというのに、晴信は黙ったまま。幸村の言葉にさえ沈黙で応じている。
 信虎の顔に、はじめて苛立たしげな色がちらついた。
「あいもかわらず、童らしからぬやつよの。その取り澄ました目の奥で何を考えておる? かつてこの場で問うて得られなかった答えを、今度こそわしによこすのか?」



 それでも晴信は応えない。
 それを見た信虎はさらに苛立ちを深めるかと思われたが――しかし、信虎の顔から苛立ちが拭うように取り払われた。 
 かつてあまりに強く答えを求めたがために、信虎は千日をこえる臥薪嘗胆の日々を余儀なくされた。それは、忘れ去るには、あまりに長い屈従の日々であった。
 過ちは繰り返さぬ。答えなど、閨の中で聞き出せば良いのだ。今度は何年かかっても――それだけの時間はあるのだから。
 信虎の顔に、嗜虐的な笑みが浮かんだ。
「ふん、まあ良い。今は甲斐を押さえるが先決。何も語らぬのなら、黙ってそこで見ているが良い。自らが築いたものが崩れ落ちていく様をの」
「そのようなこと、この幸村がいる限りさせはしない!」
 晴信はかばうように信虎と対峙する幸村を見て、信虎は嘲りもあらわに、無視し得ない言葉を発した。
「道化よな、うぬも。幸隆とは言わぬ。昌幸でもいれば、とうにわしを討つべく号令をかけていたろうに――まあ、仮にそうしたところで、どのみち結末はかわらぬのだがの」




 その言葉の意味を問うよりも早く。
 幸村の耳に喊声が轟いた。驚くほど近い。
 その喊声をあげている人数は、十や二十ではきかないだろうことを幸村は察した。
 だが、それは幸村にとって十分予測の内にあったことだった。じりじりと信虎の間を詰めながら、幸村は舌鋒鋭く相手の気組みを挫こうとする。
「貴様の手勢、だな。これが来るのを待っていたというならお笑いだ。主君みずから下賎の真似事をする軍だ。正々堂々の挑戦など望むべくもないことはわかっていた。主力を南にまわしている以上、精々百か二百、その程度であろう。闇夜に紛れることもできぬその数で、我ら真田勢が篭る躑躅ヶ崎館を陥とせるとでも思っているのか?」
 その幸村に応えるように、館の外壁に明々と篝火が焚かれ、たちまち館外の闇をはらっていく。真田軍は壁上に展開し、弓に矢を番えて館外の敵に狙いをつける。守備側の素早い対応に、門外から聞こえてくる喊声が小さくなったように思われた。
 さらに幸村は告げる。
「言っておくが、内に侵入した者に期待しても無益だ。侵入者に備えていたのは、私たちだけではない。正門、搦め手門、不浄門……いずれも警戒を厳にしている。すなわち、貴様らの退路はすでにない――たしかに貴様が言うとおり、結末はどう転んでも変わりはしないな、武田信虎ッ!」




◆◆




「……ぺらぺらとようまわる口よ」
 不意に。夜の闇が濃くなったような錯覚に、幸村は囚われた。幸村だけではない。それまで敵の動きから目を離さないようにしていた真田の兵らも、どこかうそ寒そうな顔になっていた。
「武士などより、御伽衆の方がうぬには相応しいようじゃの。此度の件が終われば閨で存分にさえずらせてやるゆえ――少々、黙っておれ」
「ッ、ぐ……」
 信虎の声が変わっていた。より正確に言えば、その言葉に込められる威厳が増していた。
 黙っておれ、と言われた時、幸村ともあろうものが、思わず頭を垂れそうになってしまったのだ。
 圧倒的なまでの支配者の威。
 これと同じものを幸村は知っていた。知らない筈がなかった。それは、主君晴信のものと同質であったからだ。



「とはいえ、多少は認めてやってもよいな。思ったよりも頭がまわる。お陰で要らぬ手間が増えることになったわ。まあ、わしが手を煩わせるわけではなし――わしに背いた愚民どもの罪を罰してやることになるのだから、むしろ手柄とも言えるのかの」
「……なに?」
 信虎の淡々とした物言いに、底知れぬ悪意を覚えた幸村が声をあげる。
 それを見て、信虎は笑った。悪意を結晶化させたような、そんな顔で。
「なに、ここまで防備を固められると、力づくで潰すのも骨であろう? 仕込んでいた手を使わせてもらうぞ。何、たいした策ではない。有象無象の難民どもを利用させてもらう程度の――そうよな、うぬの祖父が聞けば鼻でわらうような拙い策よ」
「く、やはり配下を紛れ込ませていたか。だが、無駄だ。すでにすべての難民の武器は押収してある。用意できるのは戸板に木の棒程度しかないぞ。あるいは民家を襲って農具でも奪うか? 今からそんなことをしている暇がある筈もなし、この状況でどうやって正規の兵士を相手にするつもりだ?」
 潜めていた奥の手を打ち砕く。幸村の言葉は、信虎にとってそうある筈のものであった。
 少なくとも幸村はそう信じ、信虎の意気をわずかなりと阻喪できると確信していた。
 しかし、信虎は幸村の言葉を聞き、むしろ不思議そうにこう訊ねたのである。



「はて。素手の女子供を犯すのに、どうして武器などいるのだ?」



「な……に?」
「今、武田の軍は四方に散っておる。その妻子は甲府の武家屋敷におり、守る者もおるまい。合図を送れば、わしの部下どもはそこに乱入し、手当たり次第に女子供を犯す。阿鼻叫喚の地獄絵図、というやつが出来あがるまで、さして時間はかかるまい。ここからではそれを見ることはできまいが、燃える屋敷と貴様らの家族や子の悲鳴くらいは聞き取ることが出来よう」
 信虎は口元を歪め、楽しげに問いを発する。
「さて、そんな中で音に聞こえた真田勢はこの館の守備に専念できるかの。ふふ、日ごろの錬度が問われる時じゃな、真田幸村?」
「何を……何を言っている、貴様?! 民を兵火から守るのが領主のつとめだろう。かりそめにも甲斐守護を名乗った者が、守るべき民を乱取りに供するというのか?!」
「その守護に背いたのは貴様らであり、今日まで謀叛人を守護と仰ぎ続けていたのも貴様らじゃ。正当な守護である身が、その罪に罰を与えるのは当然のことではないか?」
 揶揄するような信虎の言に、たまらず幸村は激昂した。
「ふざけるなァッ!」
 そして、強い眼差しで信虎の首筋に視線を向け、刀を構えなおす。
「貴様の配下が何人潜んでいるのか知らぬが、そのような暴挙に全員が乗るなどと思うなよ。武田の法は厳格だ。民は皆、そのことを知っているし、貴様の配下が扇動しようとも、それに追随する下衆がそうそう何人もいるものか。大方、その場でほかの者に袋叩きにされて終いとなるに決まっているッ」


 幸村の言葉に構わず、信虎は背後の兵の一人に顎をしゃくって合図を送る。
「そう思うならば、そこで黙ってみておれ。人の良識と理性とやらがどれだけ儚いものかを知る良い機会となろうでな」
 信虎がそう言う間にも、背後の兵士は火矢を二本あわせて弓に番えている。
 それが合図であることは明らかであり、そして幸村には黙ってみている義務などなかった。
「させるかッ!」
 弾けるような勢いで地を蹴って向かって来る幸村に対し、信虎は。
「言ったであろう。黙ってみておれ、と」
 そう言うや、持っていた槍を逆手で持ち直すと、いっそ無造作に幸村に向けて投じたのである。
 幸村は決して油断していたわけではなかった。だが、信虎が、手に入れたはずの優位を、こうもあっさりと手放す所業に出ようとはさすがに予想していなかった。
 幸村自身の前に出る勢いが、信虎の投槍の威力を倍加させる。
「ちィッ?!」
 胸元を貫かんとする十文字槍の穂先から逃れるために幸村は咄嗟に身をよじって地面に倒れこむ。
 だが、直撃こそかろうじて避けたものの、三日月型の脇刃が、身をひねった幸村の脇腹を抉るように通り過ぎた。
「くゥッ!」
 幸村の口から、思わずうめき声がもれる。
 それを見た幸村配下の将兵が動こうとするが、その機先を制して信虎の懐剣が二人の兵士の眉間を貫いた。
 声もなく倒れ付す味方を見て、さすがの真田軍も足を止めてしまう。


 そして。
 一連の攻防は、兵士が番えた矢を放つには、十分すぎるほどの時間を稼いでいた。
 躑躅ヶ崎館の夜空に、二筋の明りが尾を引くように駆けていく。
 



 ――それは始まりであった。
 ――『躑躅ヶ崎の乱』が、本当の意味で終わるための始まりであった。




 だが、それを知る者は口を緘し。
 それを知らぬ者が口を開く。
「少し昔語りをしてやろう」
 地でうめく幸村を見下ろし、そして己の武威で動けない真田勢を見渡してから、信虎は言う。
「うぬの祖父が何をなそうとしたのか。そも躑躅ヶ崎の乱とは何であったのか。その両の耳でしっかと聞き届けい」
 たった今、放った合図が効果を示すまでのわずかな時。それを昔語りで費やそうとする信虎の行動。それは油断であるのか、余裕であるのか、幸村には判然としなかった。
「始まりは、わしが甲斐の守護となって二年が過ぎた頃のことよ――」
 だが、そのいずれであったとしても、今の幸村にその隙を衝くことは出来ず、望むと望まざるとに関わらず、ただ信虎の言葉に耳を傾けることしか出来なかったのである……





◆◆




 

「このまま黙って従っていてどうなるってんだ?! こっちにゃろくな金に食い物もよこさねえ。そりゃ女子供が大事にされるのはわかる。だが、だからといって俺たちが蔑ろにされる理由にはならねえだろうが!」
「たしかに。このまま冬を迎えたら、寒さを凌ぐ場所もなく、凍死するしかない。待っていたって与えられないのは、もうわかっちまった……生き延びたければ、自分たちで奪い取るしかないのかもな」
「そうだ、従っていたって死。逆らったって死。だったら、せめて良い目が見られる方に賭けたいじゃねえか」
 それは不満に耐えかねた者らの悪意の欠片。
 実際に行動に移すことは無論ない。だが、そうでも思わなければやっていけない者たちが、己が怒りを慰めるための放言に過ぎない。
 耳を澄ませば、そんな会話はそこかしこで聞き取ることができ、それゆえにこういった不満の発露は、半ば黙認の状態となっていた。
 真田軍や、あるいは難民たちの暴走を危険視する町の有志たちも、それは同様である。
 一々とがめだてしていては、兵がいくらあっても足りないという理由が一つ。
 もう一つは、下手に彼らを問い詰めて、逆上されては元も子もないという理由であった。


 ゆえに、今日も各処で歪んだ口で語りあう難民たちを、あえてとがめだてしようとする者はいない。
 ゆえに、密やかに囁かれている声が、いつもより数段剣呑なものとなっていることに気付く者もまたいなかった。
「俺たちを助けようともしない武士どもの家屋敷を襲って目に物みせてやるッ!」
「焚き火が熾したけりゃ奴らの家を壊して薪にしろ!」
「寒けりゃ奴らの妻子を好きなだけ抱けばいいッ」
「奴らの家にある金も食いものも、全部奪え。いや、元は全部俺たちの収めた税だ。取り返して何が悪いってんだ!」
 注意して聞いていれば、それらの声をあげている者がごく一部であること。そして、彼らが決して一所にとどまらず、各処で同じ声をあげていることに気付く者もいたかもしれない。
 だが、そんな余裕を持つ者が難民たちの中にいる筈もなく。彼らの言葉は、聞く者の心を深海魚のように回遊していくのだった。その奥底を、かきまわすようにゆっくりと。
 すべての者がその言辞に心を動かされたわけではない。だが、同時にすべての者が毅然と跳ね除けられたわけでもなかったのである。



 かくて深更。
 燻り続けた火は、躑躅ヶ崎館からの合図を受けた男たちの扇動によって燃え上がる。
 進んで扇動にのった者もいれば、周囲の狂熱にあてられた者もいた。彼らに共通するのは、ここに至るまでの不満と、先行きへの不安。
 一度理性を投げ捨ててしまえば、蹂躙への欲望が、人々の獣性に火をつける。
「武田の軍は少ない。そのほとんどは館に篭っている。武家屋敷にいるのは戦えない女子供ばかりだッ」
「まず真田の屋敷を襲え! 俺たちを馬鹿にした挙句、雪の山野にほうり捨てようとした報いを与えてやるんだ」
 その声に内心首を横に振る者もいないわけではなかった。
 だが。蹂躙を口にし、気勢をあげる彼らを制止した一人が、かえって裏切り者呼ばわりされて殴打され、半死半生の態で路傍に投げ出されたところを見て、他の者たちは口をつぐみ、徒党を組まざるを得なくなる。それどころか、どうせ逃げられないのなら、と進んで気勢をあげる者さえ出始めた。


 悪貨は良貨を駆逐する。
 昂ぶった心は容易く感情を奔騰させ、狂気は瞬く間に伝染していった。
 武田の法と理に服し、暴力に怯えて逃げ伸びてきた甲斐の領民は、今や自らが害を与える側となって、より弱き者たちを蹂躙せんと欲し、移動を開始する。それを妨げ、知らせるべき者の姿はいつのまにか消えていたが、それを気にする者はほとんどいなかった。
 今川軍の襲撃に怯えた逃亡の日々と、ようやく逃げ延びた甲府でのずさんな扱いに、誰もが心に澱(よど)みを抱えていた。扇動者たちは、巧みにそこを衝き、抱え込んでいた鬱屈を、暴虐という形で具現させることに成功したように思われた。



 やがて手にありあわせの木片や棒を持って気勢を上げる彼らの前方に、簡素な柵に囲まれた居住区の一画が映し出された。
 武田家に仕える臣たちの家族が住まう武家屋敷である。
 そうと知り、暴徒と化した者たちの口から獣じみた叫喚があがる。
「殺せ、殺せ、殺せェッ!」
「焼き尽くせ、奪いつくせ。相手は女子供だ、邪魔する奴はいないぞ!」
「女がほしければ襲え! 米が食いたければ奪え! 武士どもに俺たちの苦しみを思い知らせてやれッ!!」
 事態に気付いたのか、武家屋敷の方角から何やら慌しい物音が聞こえてくる。だが、すでに遅い。
 これから繰り広げられるであろう陵辱の宴を思い浮かべ、襲撃者たちは口元を歪めて、その場を駆け出していく。
 一度、獣性を発露させた者が理性を取り戻すことは容易ではない。最早、言葉によって彼らを止めることは不可能であり、暴虐の颱風は、抗う術を持たぬ者たちを蹂躙し尽すまで止まらない。




「――?」




 ――その筈であったのに。
 何物をもっても止め難い暴走が、何故か止まった。
 暴徒と化し、醜い凶相に覆われていた者たちの顔に戸惑いが浮かび、怪訝そうに周囲を見回す。
 最初に足を止めた者は誰であったかはわからない。だが、すぐにその数は一人増え、二人増え、三人に増え――いつかこの集団そのものが止まってしまっていた。


 目的は眼前にあるというのに。誰に邪魔をされたわけでもないというのに。
 彼らは自らに問わざるを得なかった。何故、動かぬのか。否、動けぬのか。
 この全身を押さえつけるような無形の威圧は何処から来るのか、と。
 その中の一人が、ふと視線を上に向け、そして悲鳴じみた呻きをもらす。
 その声に驚き、周囲の者たちが同じく視線を天へと向け――そして、同じように言葉を失った。
 

 
 ――彼らの目に、あまりに、空が近かった。



◆◆




 その事実を、彼ら全員が共有するまで、どれだけの時が過ぎたのか。
 凍りついたように動けない彼らの耳に、場に相応しからぬ涼やかな声が響き渡る。


「――今、この時、そなたらは境にいると知れ」


 その声に導かれるように、彼らの視線は武家屋敷の方角に向けられる。
 いつの間に、そこにいたのだろう。武家屋敷へと到る道の半ば。
 夜の闇にあって、なお輝きを失わぬままに、その人物は立っていた。 
「進むか、退くか。それはすなわち人として在るか、獣に堕ちるかの分かれ目である。判断はそなたらの随意。ただし――」
 その人物の目が細まり、佩刀へと手が伸びる。
 ただそれだけで、暴徒らへの圧力が倍加した。呻きにも似た声が、各処で起こる。
「この上杉謙信、鬼畜に対するに、切り捨てる以外の選択肢など持ち合わせておらぬ。そなたらが進むことを選ぶのであれば――すなわち鬼畜に成り下がるのであれば、この道は黄泉比良坂に等しく、そなたらを黄泉へと導くことになるであろう」



 上杉謙信。
 その名で怯んだ者はいない。その名が日の本全土に鳴り響くまでには、なおしばらくの時を要する。
 だが、名を知らなくとも、眼前に立つ女性が、類まれなる武人であることは全員が知った。思い知らされた。ただ一人をもって、百名を越える者たちを相手どり、武威をもって押さえつける。そんなことが出来る者が、並の武人である筈はない。彼らとて戦国の民、戦に出たことは幾度もある。
 この人物に匹敵するだけの将を、彼らは一人しか知らなかった。それは現甲斐守護職である彼らの主――
「お、御館様……」 
 



 不意に、毒々しい叫びが起こった。
「何を怯んでいやがる! どれだけ強い奴だって、数にはかないやしねえ。それが戦ってものだろうが! 囲め囲め、刀でやりあうな、石でも何でも良い、あいつに投げつけろ! 後は何人がかりでも良い、組み伏せてしまえば女一人、何の脅威になるってんだ!」
「そうだそうだ! 見ればえらいべっぴんじゃないか。幸先良し、まずはあいつから血祭りにあげてやれッ!」
 そういって数人の男たちが進み出た。いずれも大した特徴のない面構えであり、どこにでもいそうな農民である。
 だが、その眼差しに込められた毒気は常人の持つものではない。少なくとも、今川家の脅威に怯え、逃げ出してきた者が持つものではない。
 瞬時に判断した謙信が、刀の鯉口を切る。  
 それを見て、進み出た男たちが身構え――身構える、暇さえなく。


「――な?」
 抜き打ちの一閃は、先頭の男の首があった位置を左から右へと通り過ぎ。
「え……?」
 返す刀は、続く男の右肩から左の腰までを、一息に切り裂いた。
 絶命は瞬きのうちのこと。おそらく、二人とも痛みを感じることさえなかったであろう。
 流麗で、それでいて無慈悲なまでの力感に満ちた謙信の攻撃を見て、残りに男たちは相手の力量が予測をはるかに上回っていることにようやく気付く。
 この邪魔者を除き、難民に武家屋敷を襲わせる。計画を狂わせれば、待っているのは信虎による粛清のみ。それゆえにこそ、ためらうことなく進み出たのだが。
「ちィッ!」
 これは、あるいは信虎よりも厄介な相手であるかも知れぬ。そう思った男たちは逃走を試みるが、それもすでに遅かった。
 初撃で二人を葬ったのならば、二撃目で葬るもまた二人。結局、謙信が四度動くまえに、男たちの全ては、死屍を地面に投げ出すことになったのである。
 



◆◆




 その剣筋を追える者さえいる筈はなく。
 謙信の神域の武を目の当たりにし、先刻まで狂熱に浸されていた筈の者たちは、青くなって震えるばかりという有様だった。
 その彼らをさらに青ざめさせる光景が目に入る。武家屋敷の方角から、武装に身を固めた者たちが姿を現したからだ。その数、およそ五十。
 驚くべきは、そのいずれもが女性であったということである。年端もいかない少女もいれば、六十どころか七十に喃喃とするであろう女傑もいた。
 彼女らはいずれも襷をかけ、鉢巻を締めた凛々しい武者ぶりで、その手に持つ薙刀は日ごろの手入れの賜物か、かすかな星の明りをきらびやかに弾き返し、不埒者たちを見据える視線は勁烈の一言。
 心に邪まなものを抱える者たちが、相対しえるものでは断じてなかった。


「――見てのとおり、この甲斐の国に暴力に屈するをよしとする女人は一人もおらぬ。そなたらが進むのであれば、私だけではなく、ここにいる方々、そして屋敷を守る者たちすべてを討たねばならなくなろう。それを承知して、なお進まんと欲する者は、かかってくるがよい」
 謙信の言葉に応じる者がいなかったのは、当然すぎるほど当然のこと。
 狼に煽られ、自らを狼と思い込んでいた羊たちは、今や自分たちが何者であるかをはっきりと思い出していた。
 そして、思い出してしまえば、自分たちが何をしようとしていたのか、それに思い至って顔色をなくすのも当然であったろう。
 今や彼らの顔は死人のそれに近かった。


「人として守るべき法と理を取り戻したのであれば、ただちにここより立ち去れ。甲斐の国における争乱は間もなく終わる。そなたらの苦しみが取り除かれるのも、そう遠い先のことではない。そして今宵のこと、悪夢と片付けることなく、再び同じ過ちを犯すことのないよう心身を練磨せよ。それが出来ねば、いつか我が剣が、そなたらの身命を奪いに行くと知るがよい」
 最後の一語に込められた威圧に、男たちは反射的に背筋を伸ばして畏まる。
 そして謙信の「去れ」の一言に蜘蛛の子を散らすように駆け出していくのであった。 
  



◆◆




「輝と……こほん、謙信様。ありがとうございましたッ」
 そう言って頭を下げたのは、女衆の中心に位置する一人の女性であった。
 慌てて言い直したことからもわかるように、彼女は謙信の正体を知っている者の一人である。何故といって、京に向かう間、そして京に滞在している間、幾度となく見えていたのだから当然のことであったろう。
「それはこちらの申すべきこと。晴貞殿なくば、こうまではやくに武田の方々の協力を仰ぐことは出来なかったことでしょう」
 謙信の前に立つ女性こそ、かつての加賀守護職冨樫晴貞その人である。
 薙刀を持つ手こそやや頼りなかったが、鉢巻を締め、凛々しく振舞う姿からは、かつて容貌に翳を感じさせていた女性の面影は窺えない。
 今もまた不安がる年下の少女たちに柔らかい笑みを向け、もう怖いことは起こらないと伝えているところで、晴貞の笑みを見た少女たちは、たちまち表情から不安を追い払い、その胸にばふっと顔を埋めて甘えている。
 その様子を見て、謙信も思わず表情をほころばせた。


 だが、子供たちから離れ、再び謙信と向かい合った晴貞の顔は晴れやかなものではなかった。
 それは、謙信がこのまま武家屋敷の守備に加わると聞いたためである。
「それはありがたいことなのですけれど、あの、本当に謙信様がここにいらっしゃってよろしいのですか? 私は守護といっても戦の経験はありませんでしたから、くわしいことはわからないのですが、それでもこの戦が容易でないことくらいはわかるつもりです。謙信様ほどの方が、ここに留まるというのは、武田家と上杉家にとって大きな損になるのではありませんか?」
「案ずるには及びませぬ。颯馬が伝えたように、戦の帰趨はほぼ定まっているのです。あとはいかに犠牲を少なくするかということにのみ注意を払えば良い。先刻と同じ連中が他にいないとも限りませぬし、武家屋敷の守備は必要なことなのですよ」
 謙信の言葉に、晴貞は頷く。
 先年までの晴貞であれば、ここで会話を終わらせていたことだろう。あるいは、そもそもこの会話自体成り立っていなかったかもしれない。
 しかし、今の晴貞はなおも続けた。
「犠牲を少なく、というのであれば、なおのこと、謙信様は館に戻ってください。武家屋敷は私たちが守ってみせますから――どうか、天城殿と、晴信様を、助けてあげてください」
「しかし……」
「男の方ほどの力はありませんが、私たちだって大切なものを守ることくらいは出来ます。虎綱の帰る場所を守るのは私の役目、そしてここにいる皆もそれぞれに守るべき場所があって、だからこそ私なんかの言葉に、皆即座に応じてくれたのです。たとえ再びさっきの人たちが襲ってきたとしても、私たちは負けません――絶対に」



 その断定は何の根拠もない戯言であったかもしれない。
 実際に同じ数の敵が襲ってくれば、残った女子供で敵の侵入を防げる可能性はごくわずかであろう。
 だが、謙信は疑わなかった。
 もとより、再来の可能性を考慮しない軍師ではなく、考慮して、手をうたぬ筈もない。敵が再度押し寄せてくる可能性は限りなく低いのである。
 だが万一、敵があらわれたとしても。
 甲府の武家屋敷が、敵の手に落ちることは決してない。謙信は晴貞の一言で確信を得たのである。




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