関東の始末がついてから一月あまり。
春日山城に戻った俺たちは未だその後始末に奔走していた。
一番の問題となったのは、関東管領上杉憲政が上野の平井城に戻ることを拒否したことであった。
景虎様はじめ、政景様や兼続、さらには遠く上野からやってきた業正殿までが説得にあたったのだが、憲政は決して頷こうとはしなかったのである。
なにやら春日山城で、客人として暮らすことの気楽さに目覚めてしまったらしい。春日山城にいる限り、関東管領として敬われることはあっても、耳触りな諫言を聞く必要はなく、面倒な政事には携わらずに済み、何より戦に巻き込まれる恐れがない。仮に北条が憲政の命を狙ってきたとしても、上野で業正が、その業正が敗れても越後の上杉が戦ってくれるのだから、こんなに安全で快適な場所はないだろう。
憲政がそう考えていることが、俺にはありありとわかってしまった。
何考えてんだこのあほう、という内心はとりあえず飲み込み、俺も一応憲政を説得するために部屋を訪ねたりしたのだが、一目見て諦めた。
年の頃は三十代半ばといったところか。関東管領として君臨していただけあって、挙措動作は礼に適い、品格のようなものも感じられる。かつては連日の宴と暴飲暴食で膨らんでいた容姿も、平井落ち以来の危難のせいであろうか、顎のあたりがすっきりとして、公家の人間のように風雅な美々しさが見て取れた――一応言っておくが、俺の台詞ではない。侍女たちのうわさ話を小耳に挟んだだけである。
俺の目には、地位に伴う責任を放棄したくせに、地位と権限に恋々としている小人にしか見えなかった。このたわけのどこらへんに『風雅な美々しさ』を感じるのだろう。素でわからん。
この男が、景虎様や政景様より上位としての振る舞いをするなど、業腹も良いところである。もし平然とそんな真似をしようものなら、俺は全力を挙げて憲政を春日山から追い放とうと画策したであろう。
だが、幸いというか何というか、憲政も立場は弁えているようで、越後の国内事情には関わろうとはしなかった。いや、立場をわきまえてというより、そういうことが面倒で平井城に戻ることを拒否したのだから、わざわざ春日山で携わる筈はなかったか。どのみち、こんな輩が景虎様と同じ城で起居しているだけで、十分腹が立つのだが。
とはいえ、厄介なことに、憲政に上野に戻られるのも、それはそれで困るのである。現在、上野は業正殿が平井城代として治めているため、北条家も容易に付け入る隙がない。
だが、憲政が平井城に戻れば、おそらくは再び北条の侵入を招き、平井城は陥落してしまうだろう。それでは元の木阿弥である。
春日山城にはいらない。上野には帰せない。となれば、どこか春日山に近いところに憲政の為の邸でも建ててやって、そこに押し込めておくのが最良であろう。
俺が新邸のことを口にすると、憲政はえらく喜んで景虎様への口利きを頼んできた。邸の造詣がどうだの、庭園がどうだのと熱い口調で語られたが、九分九厘聞き流す。
後で景虎様と話をすると、景虎様はやや苦笑いしながら「面倒をかけた」と低声で謝ってきた。やはり景虎様も、憲政の扱いには苦慮していたらしい。景虎様の性格上、関東管領を邪険に扱ったり、非難したりは到底できないだろうから、さぞ困っていたのだろう。まったく、業正殿はよくこの関東管領をこれまで盛り立てて来たものである。改めて上州の虎殿を尊敬する俺であった。
憲政の扱いが一段落した後も、問題事は山積していた。
その中でも最大の問題がやってきたのは、憲政の新邸建設が着工して間もなくのこと。
越後の与板城から直江景綱殿が春日山城へやってきたのである。
といっても、兼続の義父にして、現当主にかわって与板城を切り盛りしている人物に対して、俺が隔意を抱いているわけではない。そもそもまともに顔をあわせたことがないのだから、遺恨が発生する理由がなかった。
もっとも、かつての内乱時、俺が与板城に攻め寄せたことがあるから、向こうには俺を恨む理由があっても不思議ではないが、今回の来訪はそういったこととは一切無関係であった。
越後上杉家の主要な収入源に、青苧座(あおそざ)というものがある。
簡単に言えば、青苧の生産から輸送、販売までを一手に握った商人組合、というところであろうか。
では青苧とは何かといえば、衣類の原料となる植物の一種であり、青苧からつくられた麻布は武士であれ庶民であれ、ごくごく一般的な衣類と言って良い。俺が今来ている服もそれである。
つまりは、それだけ身分の上下を問わず需要があるということだが、越後はこの青苧の生産量が他国に比べて抜きん出て高く、これを青苧座を通して京などで売りさばき、莫大な利益を得ているのである。
これは晴景様や景虎様の父の代以前からのことで、越後にとって青苧は重要な産物なのである。
当然、直江家の治める与板付近でも青苧の栽培は積極的に行われている。だが、ここで一つ問題となるのが、京で――ということはつまり日ノ本で最も強い影響力を持つのが京にある天王寺青苧座である、ということであった。
座というものをものすごい簡潔に説明すると、商人たちが特定の物品を扱う特権を朝廷、公家、寺社などから授かって結成する組合である。当然、本所と呼ばれる許可元は、商人たちから莫大な献金を受け取るのである。ちなみに青苧については京の三条西家が本所であるらしい。
当然、座を結成した商人たちは費用以上の収入を得んがために精力的に活動する。青苧についても、越後まで出向いて買占めを行ったりするのだが、京の商人が越後まで赴けば、当然、越後の商人たちと諍いが発生する。とはいえ、座によって京の商人の権利は保証されているわけだから、地元商人たちに勝ち目はなく、長年にわたって苦渋の涙をのんでいる状況であった。
青苧の収入と、青苧座からの献金は、上杉家の重要な収入源である。だが、だからといって地元商人の不遇をそのまま放置すれば、今度は彼らの協力が得られなくなってしまう。国内が乱れている時であればまだしも、ある程度の平穏が回復した今、商人たちからの突き上げがまたぞろ出始めてきた。そのあたりのことを話し合うために、景綱は春日山城へ出向いてきたのである。
もちろん、可愛い跡取りに久々に会いたいという思惑もたっぷりあったであろうが。
兼続にあって相好を崩している景綱殿を見るに、むしろ青苧座の方がついでの用事ではないか、と思ったりする俺であった。
だが、それだけならば仲の良い父娘の様子を見て微笑んでいるだけで済んだであろう。
ところが、景綱殿は第三の用事を抱えていたのである。
「ところで、天城殿」
「はッ」
景綱殿は隠居の身とはいえ、実質上の与板城主、目上の大身である。かしこまって頭を下げる。
あるいは昔日の罪をならされるか、と覚悟したのだが、その口から出た言葉は俺の全く予期しないものだった。
すなわち景綱殿はこう言ったのである。
「兼続の婿に来ぬか?」
俺と兼続の口から同時に発された驚愕の声が、春日山城を揺らした。
◆◆
「馬子にも衣装という言葉がありましたね」
「それは新手の介錯依頼と解して良いのだな?」
刀があったら間違いなく抜き放っていたであろう笑顔の兼続。
一方、その兼続の姿から、さきほどから視線が離せない俺は、またしても思ったことをそのまま口にしてしまう。
「はじめてのこういう席で、緊張して混乱している男の戯言だと思ってください」
「ば、ばかもの、普通に照れるな! 私だって恥ずかしいんだぞッ」
そういう兼続は、どこの公家の姫君かというような華やかな衣装のまま、自身も恥ずかしげに頬を染めた。
きめ細かにほどこされた化粧で、今の兼続は正直、絶世の美人にしか見えない。いや、無論、普段の兼続も十分に綺麗なのだが、何というか質が違うというか、女は化けるというか、ともかくまさかこんな兼続を拝める日が来ようとは、思ってもいなかった。
「――我が人生に悔いなし」
俺がからかっているわけではなく、本当に戸惑っていることを察したのだろう。兼続は艶姿のまま、くすりと微笑んだ。
「――ふむ、この衣装を着るとこんなに颯馬が戸惑うなら、これからはこちらを着ることにしようか」
「ごめんなさいゆるしてください」
なにかもう自分でもよくわからないままに頭を下げたくなった。どうしてこうなったんだろうか。
その後、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、兼続に問いを投げかけた。
そもそもどうして兼続がこのような席に姿を現したのか。俺はてっきり言下に断るものとばかり思っていたのだが。
「義父上には、恩がある」
その問いに兼続はゆっくりと茶をすすりながら答えた。ううむ、服がかわると、こうも印象がかわるものなのか。今の兼続は本当にどこぞの姫君のようにしか見えなかった。
「本来、私は直江家の当主として与板城の政務をみなければならない。宇佐美殿が、景虎様にお仕えしながら、琵琶島城の政務をみているようにだ。だが、私はそれらをすべて義父上に委ね、自身は景虎様のお傍に侍り続けている」
本来ならば、こんな人間が直江家の当主を名乗るなど許されない、と兼続は言う。
「だが、義父上も家臣たちも、私のわがままを許し、したいようにさせてくれている。知っていると思うが、私は義父上と血のつながりはないし、与板で生まれ育ったわけでもない。そんな私に、ここまでの厚意を示してくれているのだ。よほどのことでもない限り、義父上のお頼みを断ることは出来ん」
たとえそれがお前との見合いであってもな、と兼続は肩をすくめる。
その一瞬だけ、姫ではなく、いつもの兼続の姿が重なり、俺は何故かほっとしてしまった。
「お前こそよく応じたものだ。てっきり、お断りする、と義父上に申し上げるものだとばかり思っていたぞ。私のような無骨者のところに婿に来る気などなかろうに、どういうつもりなんだ?」
「あー、断る隙などなかったということもありますが……」
俺が言うと、兼続もその意を悟って苦笑した。何せ、景綱殿が春日山を訪れたのは昨日のこと。そして今日、すでにこの席が設えてあった。景綱殿のこの行動、神速といわずして何と言おう。
ついでに言うと、景綱の電光石火の行動に対し、景虎様も何がなにやらわからないうちに承諾させられてしまったそうな。あとでこっそり教えてもらった。
『だが、兼続と颯馬が結ばれるのであれば、私にとっても嬉しいことだ。颯馬にその気があるなら、是非真剣に考えてみて欲しい』
そういった景虎様の顔を思い起こし、俺は少しほろ苦い気分になる。もっとも、そういう方だということはとっくにわかっていたのだが。
それに兼続は少々誤解している。
「本当に婿に行く気がないのなら、さすがにお断りしてましたよ」
茶を噴く直江家当主。しかしさっきから茶ばっかりのんでるな、兼続。
ごほごほと咳き込んだ末、兼続は目を丸くしてこちらを見た。
「その言葉だけ聞くと、直江家に婿入りする意思があるように聞こえるぞ、颯馬」
「あ、いや、そんなつもりはないですが」
「そ、そうだろう。なら紛らわしいことを――」
「直江家ではなく、兼続殿と、その、そういう仲になるならむしろ嬉しい、ということですが――って、ぬお?!」
何故に突然、茶菓子を投げるか、直江兼続ッ?!
「――颯馬」
「釈明があるならお聞きしましょう」
突然の投擲の。
「つまり、お前は私をからかっていると考えて良いのだな」
「心外です。私はいたって真面目ですが」
「ふん、真面目に私と夫婦になっても良いなどと言う男がいるものか」
「……言った後、肩を落とすくらいなら言わなければ――って、をを?!」
今日の茶菓子はよく空を飛ぶ。雅なるかな。
ともあれ、このままでは話が進まない。いや、進めば進むで困るような気がするが、ともあれこれ以上茶菓子を無駄にするのは、つくった職人さんに申し訳ない。
それに、兼続の今の顔は、あまり見ていて嬉しいものではなかった。
互いに落ち着くために茶をすすった後、俺はなるべくわかりやすく自分の考えを述べた。
「まず言っておきますが、この話をまがりなりにも受けた理由の一つは、兼続殿と、あれです、夫婦になるという話が現実になったとしても、喜びこそすれ、悔いなどないからですよ」
無論、兼続をくどくために受けたわけではないし、正直、そんな結論に達する可能性は万に一つもないと思っている。まず間違いなく、景綱殿の先走りであろう。
だが、その万に一つがありえたとしても、俺は別に後悔したりはしないだろう。兼続の為人も、容姿も、十分すぎるほどに俺にはもったいないものなのだし。
それに、眼前の艶姿を見る限り、普通に惚れてしまいそうな気がしないでもなかった。
これだけの器量の女性が、婿のなりてがないとか本気で考えているなら、随分と泣く男どもが出ることだろう。春日山城の内外に、兼続に憧れている男など掃いて捨てるほどいるのだから。
その俺の言葉を、兼続は一刀で両断してのける。
「そんなわけがあるか」
「いやいや、兼続殿は自分をわかってらっしゃらない」
「ふん、おだてても無駄だぞ」
「なんであれだけ憧れの眼差し受けていて気付かんのですか、鈍いにもほどがある」
「き、きさまに言われる筋合いはないッ」
穏やかに話そうと思っているのだが、なんでか二人とも言葉が激しくなってしまう。だが、決して刺々しい雰囲気になるわけではない。むしろ何となく落ち着いてくる気分である。口げんかしながら落ち着くというのも妙な話だが、しかし、兼続とのこういった遣り取りは湿った悪意とは無縁であり、いってみれば子供同士の口げんかみたいなものだった。
なるほど、こういった腹蔵のない素直な意見の遣り取りが、俺には心地良く感じられるのだろう。そして、そんな兼続の為人に惹かれてもいるのだろう。そう思った。
昼過ぎに始まったこの見合い。気付けば外は茜色に染まっていた。どれだけしゃべっていたのだか。
「まあ、だからといって婿入りが決まるわけではないわけで」
「当たり前だ、ばか者!」
その後も似たような遣り取りを繰り返し、結局、双方ともに疲れてしまった為、今は一時休戦中であった。できれば今後とも続く同盟を結びたいところである。
俺がそんなことを考えていると、不意に兼続がこれまでとは異なる口調で問いかけてきた。
「しかし、颯馬、お前、京でなにやら良からぬ道を学んできたわけではなかろうな。いやに口がうまくなっている気がするのだが」
「いや、そんなものは学んでいませんが……?」
「む。すると生来の才能が花開きつつあるのか。しかし、そうなると今後、景虎様に近づかせないようにしなければ……いや、しかし景虎様が肯わんか、ううむ……」
なにやらぶつぶつ言っているが、良くきこえん。聞いておきながら無視するとか、何の嫌がらせか。
一人憤慨していると、なにやら吹っ切ったような表情で兼続が口を開いた。
「ともあれ、この件は破談ということで構わんな。以前のように、お前自身のことを嫌っているというわけではないが、私も、景虎様に心惹かれている者を婿に迎えるほど酔狂ではないのだ」
「……あー、と。もしかしてばれてましたか?」
「ばれていないと思っているのなら、お前はまず表情を繕うことから覚えるべきだな。まあ、景虎様に惹かれている者など、将と兵と民とを問わず数え切れん。それが不敬にあたるというわけではないが。しかし、想いの成就を望むのなら、お前はこれから先、ずっと苦しむことになるぞ」
その声に含まれた真摯さに気付き、俺は兼続の顔を見た。外から差し込む夕暮れの紅い陽光が兼続の頬を染め、思わず息をのむほどの鮮麗さを醸し出していた。
俺はしずかに口を開いた。
「……もしかして、そのことを気にして、この場に付き合ってくれたのですか?」
「それがすべて、というわけではないがな。いずれ近いうちに話さねばとは思っていた」
「そうですか。多分……はい、多分、そのことはわかっています。ですが、気にしていただいていたことに関しては、御礼を申し上げる」
「似合わんことをするな。別にお前の気持ちを慮って言ったわけではない。ただ、強い想いは、時に人を変えてしまう。良い方向にかわるのであれば良いが、往々にして人は悪しき方向にこそ変わっていってしまうからな。今のお前は、もはや越後上杉家にとって欠かせぬ者だ。そのお前と、景虎様との間に隙が生じるような事態は避けなければならん」
それだけだ、と言って俺から視線を逸らした兼続。
その頬の赤みが、夕陽によるものであると思った俺は、そのことを少しだけ残念に思った。
これで見合いは終了、ということになると思ったが、夜の酒肴も用意してあるとのことだから、頂くことにした。しかし、一体景綱殿はどのあたりまで想定して用意を整えていたのだろう。まさか隣の部屋に布団がならべてあったりしないだろうな。
そんなことを考えていると、兼続が関東の戦果の褒美だといって酌をしてくれるという。思わず目と口で三つの○をつくったらはたかれた。いや、これが普通の反応です、兼続殿。
とはいえ、兼続の様子からして、聞きたいことを大体察した俺は、素直にお酌してもらうことにした。
その後、しばらく、互いの酒盃を干す音だけが室内に響いた。
室外から差し込んでいた夕陽もいつか消え、侍女が舘内の燭台に火を灯していく。
外からの涼しげな風に誘われるように、俺と兼続は縁側に腰掛け、ささやかな酒宴を続けた。
いつぞや、春日山城で景虎様を交えた三人で空を見上げた時は、煌々と満月が輝いていたものだが、今はか細い三日月が彼方に浮かんでいるだけだった。
やがて、無言の酒宴に終止符を打ったのは、俺の声だった。
「……景虎様からは、何か?」
「……聞いてはいない。話すべきことならば、景虎様は話してくださるだろう。だから、景虎様が口になさらぬということは、あえて話すだけの意味はないということ。そう考え、私もお前に問わなかった。正直なところ、それは今も変わらぬ。お前が語りたくないのならば――高野山でのこと、強いて聞くつもりはない」
「そうですか。ならば――」
俺はそう言って、兼続に深く頭を下げた。
「私からお願いいたします。聞いていただけましょうか、直江兼続殿」
兼続が頷くのを待って、俺はゆっくり語り始めた。
京で狂態を晒した後、高野山で気付きえた、俺の罪業を。
兼続に話そうと思ったことは、俺の過去のことに関してではない。
それは景虎様のお陰で、自分の中で決着が着いている。正確に言えば、自分の過去とどう向かい合っていくべきかの覚悟は定まっている。それを得々と語ったところで誰の共感も呼べはしないだろう。
だが、そこに到ることが出来た理由は語らねばならない。といっても、それは景虎様への思慕という、ある意味単純なもので、その気持ちはとうの昔に兼続に看破されたものであった。
だが、単純ではあっても、それは嘘でも偽りでもない。荒れる俺を沈めた景虎様の、褥の中で眠る顔を間近で見た時の想いは、今なおこの胸に在り続けている。
自分自身と向かい合った後、なおも戦うことを選んだ理由の一つはそれであった。もちろん、他にも色々とあるが、最も大きな理由は景虎様への想いである。それが忠誠なのか、恋情なのか、もう一歩踏み込んで愛情なのか、それは正直わからなかったが、それでも天道を駆ける景虎様の力になりたいという想いは揺らがなかった。
――そして、同時に気付いたことがあった。気付かなければ良かった、と心底思ってしまったもう一つの本心。
俺と景虎様を決定的に分かつモノ。
それは。
「……俺は、戦を楽しんでいました」
静かに本心を紡ぎだす。
人を殺すことが楽しいわけではない。戦で苦しむ人を見て楽しむわけではない。さすがに自分はそこまで外道ではないと信じたい。
俺が楽しんでいたのは、戦によって得られる成果の方だった。
「俺の知識が、戦の勝利に貢献できるという事実が嬉しかった。俺の力が、景虎様のお役に立てるという事実を喜びました。自覚したのは高野山からですが、多分、晴景様にお仕えしていた頃から、心のどこかで、自分が歴史を動かしているという快感を楽しんでいました」
俺の言葉に、兼続は無言であった。
だが、おそらく今この時になって、この話を切り出してきたということは、今回の関東遠征における俺の積極性に、兼続は何かを感じとっていたのだろう。
確かに俺は、今回からかわった。意識して、意図して、戦に関わると決めた。無論、死に急ぐためではなく、景虎様の天道を祓い清めるために。そして、そうしたいと願う自分自身のために、である。
しかし。
「どれだけ繕っても、俺の本心はかわりません。兵を楽しむ者は滅び、勝ちを利とする者は辱められるとは孫子の言葉ですが、俺はこれにあたります。今回の関東の戦で、はっきりとわかりました。俺はこの時代で戦うことを楽しんでいる。優れた将と知略を競わせることが、勇猛な将と戦い、勝利することが、俺は――」
楽しくて、仕方なかったのだ。
「――景虎様は言っていました。兵は不祥の器であり、やむをえずして用いるものである、と。なのに、俺はその不祥の器を楽しんで扱ってしまっている。戦わなければならないから戦うのではなく、戦うことそのものに楽しみを見出してしまっているのです」
これほどに、景虎様にとって忌むべき考えはないだろう。むしろこれは、景虎様が宿敵とする者に相通じる考えであろう。
ゆえに。
いつか……そう遠くないいつか、俺と景虎様の道は分かたれるのではないか。
俺は、そんな気がしてならなかった。
「……何故、それを私に話した?」
「景虎様はお優しいですから。もし、私が道を踏み外したとしても、ためらわれるかもしれません。ですが、兼続殿なら、天道に害為す者を討ち取るに躊躇はありますまい?」
「――ふん。ならば、今、貴様を討つという手段もあるのだがな」
「そう判断されるのならば、どうぞ。兼続殿に討たれるならば、諦めもつくというものです」
俺の言葉に、兼続は深々と息を吐いた。
そして、ものすごく嫌そうな顔で俺を見るや、両の手でいきなり頬をつねってくる、
「むあ?!」
「いいか、一度しか言わないからよく聞け」
「ふぁい」
「――この大ばか者がッ!!」
兼続の両手に強い力がこもる。だが、抗議の声をあげることは出来なかった。兼続の真摯な眼差しが、それを許さなかった。
「そのようなことになれば、景虎様が悲しまれる! 道を間違いそうだ、などと言っている暇があるならば、死ぬほど精進しろ! 戦を楽しむ心が許せぬならば、心を磨いて要らぬ部分をそぎ落とせ! それらを為した上で、それでもどうしても変われぬのならば――貴様が戦を楽しみ、景虎様の天道の前に立ち塞がる男に堕したのならば、その時は、貴様が望むように私が介錯してやろう。だが、良いか、そのような結末は誰も望んでおらぬ。景虎様も、貴様も――そして私もだッ」
それを決して忘れるな。
兼続はそう言うと、無言で盃を出すように促す。導かれるように差し出した俺の盃の上に、溢れるほどの酒が注がれる。
結局、その後、俺も兼続も、一言もかわすことなく、ただ酒盃をあおり続けたのであった。