<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/10/04 16:59

「此度の上杉家の救援、まことに感謝の念に堪えませぬ。心より御礼申し上げる」
 そう言って下げられた頭は、雪のように白い頭髪で覆われ、その顔に刻まれた深い皺は、戦乱の世を卓抜と生き抜いてきた名将の歴史を記す年輪であった。
 その目は蒼穹を仰ぎみるような深みを帯びて見る者を惹きつけ、その体躯は老いたりといえど頑健そのもの。そんな矍鑠(かくしゃく)たるこの翁こそ、上野にその人ありと知られた上州の黄斑(虎のこと)長野信濃守業正その人であった。
 業正殿は、実は俺がほとんど初めて出会った、俺の知る歴史どおりの人物であった。要するにご老人だったのである。男の。


 無論、その年齢や性別だけでなく、能力もまた俺の知る長野業正と同じ、というよりそれ以上なのかもしれない。
 武田と北条に加え、関東の勢力まで加わった大軍を、寡兵よく撃退するなど常人が為せる業ではなかった。
 俺は、眼前の業正殿のように、長い時を生き、その中で自分を磨き上げてきたことがはっきりとわかるご老人には尊敬の念を禁じ得ない。このあたり、わずか数年ではあったが、厳しくも暖かく育ててくれた祖父の影響が強いのかもしれない。
 祖父や業正殿のように、自然に敬意を抱ける人物に出会えるのは素直に嬉しいことであった。




 現在、上野は様々な勢力が入り乱れる混沌とした状況になっている。
 松井田城以西は武田家が、平井城以南は北条家が、そして箕輪城から厩橋城にかけて長野家が勢力を保持している。簡単に言えば西は武田、南は北条、中央および北は長野家すなわち山内上杉家、そして東は山内上杉家に従う家、北条家に従う家がほぼ半々といったところであった。
 もっとも、箕輪城にしても厩橋城にしても、今回の戦で大きな被害を受けており、再度北条家ないし武田家が侵攻してきた場合、これに対抗することが出来るかどうかは五分五分といったところである。
 それゆえ、桶狭間の戦の影響で両家が遠征できない今こそ、千載一遇の好機なのである。とくに平井城を陥落させれば、南部および東部の国人衆のほとんごはこちらに靡くだろう。
 逆に平井城を陥とせなければ、北条家は外交と調略によってじわじわと勢力を広げてくるに違いない。過去はともかく、現在、関東における北条家の勢威が、山内上杉家のそれを上回っていることは誰の目にも明らかなのである。


 そんなわけで、初対面の挨拶もそこそこに、上杉家と長野家の諸将は軍議を開き、平井城攻撃の作戦を練ることになった。
 ちなみに、上杉憲政は越後へ逃れているので、この場にはおらず、実質的には越後守護代である政景様が総大将ということになる。人をからかうのが好きという悪癖を持つ政景様だが、無論、礼儀はきちんと弁えている。はるか年配の業正殿に対し、きちんと礼儀を守って接していた。
 業正殿も業正殿で、自身の名声や武名を誇るような真似は微塵もせず、主導権をこちらに渡しつつ、しかし指摘すべきことはきちんと指摘する。
 両軍の軍議は停滞の気配さえなく、驚くほどすみやかに進んでいった。


 とはいえ、実のところ、それほど選択肢は多くない。
 北条勢が平井城を陥としてから、まださほどの日にちは経っていない。おそらく平井城の城郭は、俺たちが厩橋城を攻めた時のように、まだ補修の最中であろう。
 つまり、持久戦などという悠長なことをしていては、敵の防備が固まるばかりということである。くわえて、速戦を選ばなければならない理由は他にもあった。
 まず一つは、前述したように、時をかければ北条が態勢を立て直してしまうということ。
 もう一つは、兵糧が心もとないということであった。それは何故かといえば、上杉軍が琴平山にわざと兵糧を置きすて、退却に真実味を持たせようとしたからであり、つまりは俺のせいだった。
 長野軍はといえば、篭城を耐え切った箕輪城に、備蓄の余裕があろう筈もない。
 よって、上杉・長野の両軍にとって、食糧事情は結構深刻なのである。もしもの場合、越後の景虎様に補給を頼むという手段があるが、これは本当に最後の手段である。なにせ越後とて物資が溢れているわけではないのだ。
 新たに参集してきた国人衆に供出を命じるという手段もないわけではなかった。北条方についたことの謝意という名目で命じれば、応じる者もいるだろう。
 だが、これをするとこちらの兵糧事情を北条方に知られてしまう可能性がある。上野の国人衆も、北条方との手蔓を完全に切ったとは思えず、上杉側が敗北した時のために、情報を流す程度の真似はしていると考えるべきであった。



 そんなわけで、種々の条件が重なりあって、俺たちは可及的速やかに平井城を陥落させなければならないのである。
 上杉軍は先の戦での傷病兵を除いても、まだ五千にかろうじて届く。
 業正殿の軍はおおよそ二千。だが、度重なる戦で将兵はかなり疲弊しており、全軍を平井城に向けることは不可能だった。それに松井田城の武田や、上野の他の城が動かないという保証はない。箕輪城、厩橋城、ともに最低限の兵力を込めておかねばならず、結果として、長野軍が動員できる兵力は千を大きく割り、五百程度ということに決まったのである。


 兵数だけを見れば、わずか五百である。援軍である越後上杉家が五千もの兵を出していることに比すれば、明らかに少ない。しかも、業正自身は篭城の後始末や後方の整備のために箕輪城に残るとあっては、上杉軍としては、その消極性に口を開かずにはおれないところであったろう。
 だが、上杉軍の中で、業正殿を非難した者は一人としていなかった。
 何故ならば、長野軍は、兵は少なくとも、それを率いる将が尋常の人物ではなかったからである。




 その人物の名は大胡秀綱(おおご ひでつな)。
 長野業正に付き従う箕輪家臣団の中にあって、上野国一本槍、つまり上野において最も勇猛果敢なる者として認められた人物であり、先の篭城戦においても抜群の功績をあげた稀代の武人であった。
 業正殿の信頼厚く、将兵からもひたむきな憧憬の眼差しを向けられるこの人物の武名は疑う余地のないところであった。無論、俺も疑ったりはしなかった。というより、多分、上杉軍の中で、俺ほどこの友軍を頼もしく思っている者はいないと断言しても良いくらいである。


 大胡秀綱は、これより後、姓を変えるであろう。そのことを俺は知っている。その姓とは上泉。
 すなわち、この眼前の人物こそ、後に『剣聖』と謳われることになる上泉信綱その人であった――
 あったのだが。
 この剣聖、またしても女性であった。しかも、多分、俺と大して変わらない年頃に見える。ただそれは大人びた風貌と、寡黙な為人のせいで、実際は一つ二つ年下かもしれないが。
 実のところ、業正殿が紹介するまでもなく、その姿には気付いていた。多分、俺だけではなく、他の上杉の諸将も気付いていただろう。
 真っ直ぐに腰まで伸びた黒髪と、涼しげな双眸。伸びた鼻筋と、その強い意志を示すかのように引き結ばれた唇。すらりとした体躯は鍛え上げられた剣士のそれだが、同時に女性らしい丸みを帯び、傍らに立つと薫るような芳香が鼻先をくすぐる。 
 優れた剣士にして、たおやかな佳人。
 俺は、佳人、という単語がここまで自然と思い浮かぶ人に出会ったのは初めてであった。



 実のところ、秀綱の名を聞くまでは、俺はこの二人、親子か、祖父と孫ではないかと思っていた。顔かたちは正直全然似ていないのだが、その透き通るような眼差しがとてもよく似通っていたからである。
 少し年が離れすぎているが、かりに夫婦だと言われたところで納得したかもしれない――あくまで名を聞くまでは、であったが。
 無論というべきか、長野業正と大胡秀綱の二人は、血縁でも夫婦でもなく、主君と臣下の関係であった。とはいえ、業正殿の秀綱への信頼は一族へのそれに匹敵するほどであり、俺たちにも次のように力説したのである。
「この秀綱、見かけはかようなたおやめであるが、その武勇は上野に並ぶ者なしと、それがしが保証いたしまする。上杉の方々の足を引っ張るようなことは決してありますまい」
 穏やかに、しかし力強く断言する業正殿。
 当然、上杉家の中に、業正殿に疑義を差し挟むような者はいなかった。業正殿の言葉を信頼したということもあるし、そもそも越後は守護と守護代、二人ながらに美人で、戦が強い。その上に「尋常でなく」と付けてもよいくらいに。
 だからして、大胡秀綱の実力を、その外見や性別だけで判断するような者が上杉軍にいる筈はなかったのである。



 かくて、上杉軍五千、長野軍五百、そして上野の国人衆二千五百で形成される軍勢は、平井城へ向けて南下を開始する。
 業正は後方にあって、箕輪、厩橋両城の線を確保しつつ、城と街道の防備を固め、兵を集め、各地に使者を派遣して味方を増やし、武器糧食をかき集めるという八面六臂の活動でそれを支える。
 後顧に憂いを持たない上杉軍は、数こそ万に満たないが、見る者が見ればその鋭鋒を感じ取り、背を震わせたに違いない。
 この精強な軍勢の接近を、平井城ではどのように迎え撃とうというのだろうか。
 


◆◆



 上杉軍の攻略目標である平井城を守るは、北条軍太田資正率いる一万の関東勢である。関東管領家の居城であった平井城は、その規模といい、防備の固さといい、上野の他の城とは一線を画している。北条勢が攻め込んだおり、上杉憲政が毅然と指揮をとっていれば、ああも易々と陥落することはなかったに違いない。
 そして、今、城に篭る太田資正は、憲政とは比べるべくもない優秀な人物である。かの大田道灌の子孫にして、武蔵国の扇谷上杉家の重臣であり、主家が北条勢に滅ぼされた際も、自城である岩付城に立てこもって最後まで善戦した。
 しかし、その善戦は結局報われることはなく、扇谷上杉家は滅亡してしまう。
 主家が滅亡した後も、資正は岩付城に拠って北条家と戦い、降ることを潔しとしなかったが、度重なる北条氏康の説得と、さらには強大な北条家に抗い続けることで、配下や領民に与えるであろう苦難を考え、遂に開城を決意する。
 北条家の軍門にくだった資正は、自ら頭を丸め、死に装束をまとい、北条氏康の前に跪いたのである。


 この忠臣の降伏は、北条氏康をおおいに喜ばせた。
 跪く資正に、氏康は親しく手をとって立ち上がらせると、ただちに北条家の重臣として迎えることを約し、資正にそのまま岩付城の主として、今後は北条家の支えとなるよう命じたのである。
 疑う素振りも、迷う素振りも見せない氏康の度量の大きさを目の当たりにした資正は、内心でため息を吐いた。
 この人物と、扇谷上杉家の当主では、はっきりいって器が違いすぎる。扇谷上杉家が勝ち得る要素がまるで見当たらないのだ。しかも、氏康はまだ若く、今後、さらに大きな存在となる可能性を秘めている。
 成長した暁には、関東を――否、東国全土を席巻する英主が誕生するであろう。そこまで考えた資正は、その未来を半ば確信している自分に気付き、みずからが採るべき道をはっきりと見極めたのであった。
 かくて、岩付城主太田資正は、北条家の関東経営にとって欠かせない人物として、北条家の傘下に加わったのである。 
 



 その資正にしても、今回の戦いの顛末は予想外といわざるを得なかった。
 今川家の敗北は予測不可能であったから仕方ないにしても、問題はそこに到るまでに、わずか五千の上杉勢にいいように翻弄されていたことであった。
 あれがなければ、おそらく桶狭間の報告が来るまでに、箕輪城を無力化することが出来ていたに違いないのである。
「越後の長尾政景、か。氏康様や綱成殿もそうだが、どうして女将軍とはああも手ごわいのであろうか。ううむ、わしが妻に勝てぬ以上、これは考えるまでもないことなのか?」
 坊主頭の資正はそんなことを呟きつつ、城門の櫓に立って北の方角を見据えた。
 資正は三十半ば。まさに男盛りと言って良い年齢であり、充実した胆知の持ち主である。
 斥候が持ち帰ってきた報告によれば、上杉軍は上野の国人衆をくわえて八千あまり。
 一方の資正は一万の兵を有し、しかも平井城という巨大な拠点が活用できるという絶大な利点がある。もっとも、城の修復はまだ完全に終了したわけではないので、篭城に際しては注意が必要であった。
 とはいえ、資正は篭城で敵を迎え撃つ心算などかけらもなかったので、その注意の必要はなかったのだが。


 平井城内に備蓄された武器糧食は溢れんばかりであり、領民も上杉憲政の贅沢を支える苛政から解放されて北条家に協力的である。くわえて、一口に関東勢といっても、この城に篭っているのは、資正にとっては気心のしれた武蔵の国人衆が中心であり、烏合の衆では断じてない。
 ゆえに、平井城に篭れば、やがて敵は城を攻めあぐねて退却するに違いない――もし、資正がそんな判断を下す将ならば、北条氏康が資正に平井城を任せることはなかったであろう。
 篭城が卑怯、臆病ということではない。篭城も一つの戦術である。だが、現在の彼我の情勢を鑑みた場合、篭城は下策であり、資正もまたそれを承知していたのだ。
 かくて、資正は一千の兵を守備兵として城に残し、残りの全軍を率いて打って出たのである。




 ――北条勢、城を出て平井城の北の平地に陣を構える。
 その報を受けた時、上杉軍内部で、天城颯馬は小さく笑った。
 もしや資正が篭城を選ぶのでは、というわずかな危惧が綺麗に消し飛んだからである。
 平井城の堅固な守りを考えれば。そして攻め手が兵糧に不安を抱えていることを察知されていれば、それは決してありえない話ではないと天城は考えていた。


 しかし、実のところ、そこまで心配する必要はなかったのかもしれない。兵力で上杉軍に優る北条軍が平井城に立てこもれば、それは北条軍は上杉軍に野戦で勝つ力がないと大声で喧伝するようなもの。たとえそれで上杉軍を退けたところで、それは勝利とは程遠い。関東の国人衆に、北条軍の武威の限界を知らせるようなものである。そんな下策を、あの太田資正が採る筈はなかった。
「これで、心おきなく戦える」
 北条にしてみれば、先の厩橋城の戦いは策で敗れただけのこと。正面から戦えば負けはしないというのが北条家に従う武士たちの心底であろう。
 しかし策であれ何であれ、これ以上の後退は、長年慰撫してきた武蔵はともかく、上野の地における劣勢を決定づけることになりかねない。それは北条家の関東制圧にとって好ましからぬ事態であるに違いない。
 だからこそ北条氏康は信頼する太田資正に平井城を委ねたのであろう。逆に言えば、ここで資正を打ち破れば、上野の地から北条勢を駆逐できるということでもあった。


 かくして両軍は上野の地で激突するのである。



◆◆



 済々と立ち並ぶ北条家の家紋『三つ鱗』と、敵本陣に翻る『太田桔梗』。
 北条軍九千の旺盛な士気を示すように、敵の動きは乱れなく整然としており、時折わきおこる喊声には戦意が充満していた。
 その陣形は横一列。あえて言うならば、中央の本隊より左右両翼がわずかに前に出ているので、鶴翼の陣といっても良いかもしれない。
 兵力は段蔵の見立てによれば、中央に四千、左右に二千五百と均等に分けられているようだった。正攻法といって、これほどの正攻法はない。そして、だからこそ小手先の戦術で打ち破ることは困難であると思い知る。


「――と言いつつ、しっかり奇策を用いているように思うのですが?」
「気のせいだと思うぞ」
 段蔵の指摘に、俺はやや視線を泳がせつつ、無難にそう答えておいた。
 だが、実際は段蔵の指摘の方が多数の賛同を得るであろう。
 北条軍に対する上杉軍の陣形は、正攻法の対極に位置するものにしか見えなかった。
 その陣形は雁行陣。しかも中央と左右両翼の兵力比は滅茶苦茶であった。


 天上から俯瞰すると、上杉軍の中でもっとも敵陣に突出している左翼部隊は、上杉軍四千。その上杉軍の右手後方、すなわち中央部隊に関東勢二千五百がひしめく。そしてその関東勢のさらに右手後方、右翼部隊には大胡秀綱率いる長野軍の精鋭五百が控えており、遊軍として上杉軍の騎馬部隊一千騎が後陣に位置している。
 確かにこの布陣を見る限り、上杉軍がまた何やら策を弄していると思われても仕方のないところであった。


 だが、実のところ、この部隊配置には深い意味はない。
 所詮、こちらは寄せ集めの連合軍であり、兵力を均等に配置したところで速やかな進退は望むべくもないだろう。であれば中途半端に軍を束ねるよりも、はじめから軍を分かち、それぞれの軍が動きやすいように配置しておいた方が、結果として整然と行動することが出来るのではないか。俺はそう考えたのである。


 だが、そんな俺の言葉に、意外にも段蔵は首を横に振った。長くなった黒髪がかすかに揺れる。
「そちらのことではなく。天城様が左翼の指揮をとり、政景様が騎馬部隊の指揮をとっているというあたりです――まさか、また死にたがりの病気が出たのですか?」
 段蔵の射るような視線を頬に感じながら、俺はゆっくりと頭を振った。
 なるほど、どうも先ほどから段蔵の表情が硬いと思っていたが、それを案じてくれていたのか。
「安心してくれ……と俺が言っても、あまり説得力ないか。けど、我が身を犠牲にして勝とうなんて思ってないからな。勝つために、これが最善と判断しただけだ」
 その言葉を聞き、段蔵がどういう表情を浮かべたのかは、彼方の敵陣を見据えたままの俺にはわからなかった。わかったのは、頬に感じる視線の圧力が徐々に消えていったことだけである。
「……そうですか。ならば、私は御身の采配に従うだけです。今度の敵は、佐渡の本間とはわけが違います。ご油断されぬように」
「承知した。段蔵の方もよろしく頼むぞ」
「戦場での影働きも、忍の生業です。お任せください」
 そういった後、段蔵はためらうように言葉を切ってから、低声で続けた。
「……弥太郎も、私もお傍にいないのです。くれぐれも無茶は慎んでください」


 その言葉を聞いた俺は、敵陣に向けていた視線を戻し、傍らの段蔵に向けた。段蔵がやや怯んだように声を高める。
「な、なんですか。どうせまた私には似合わないとお思い……」
「ありがとうな」
「にな、な、あの……」
 憮然とした表情になりかけた段蔵に、俺が素直に感謝の言葉を述べると、段蔵はめずらしくかすかに頬を赤くして口を何度か開閉させた。
 うむ、弥太郎ならともかく、段蔵がこんな表情をするとはめずらしい。普段の怜悧な印象がかげり、年頃の少女の顔が覗いたような気がした。まあ、一瞬の夢であったわけだが。
「――どうも、最近の天城様は言動が読みにくいです。私をからかっているわけではないことはわかっているのですが」
 今度こそ憮然とした顔で文句を言う段蔵を可愛いと思ったことは、口に出さない方が良いのだろうな、うん。
「もちろん、いたって真面目だぞ。許してもらえるなら、頭を撫でてやりたいくらいに感謝してる」
「弥太郎なら喜びそうですが。私はご遠慮させていただきます」
「それは残念」


 俺がそう言うと、段蔵は半ば呆れ、半ば安堵したように小さく苦笑をもらす。
 そして、近づく開戦の気配を察し、手勢に指示を下しながら、その去り際に真摯な眼差しを俺に向けた。
「……どうしても、というのであれば、勝利の暁に。ですから必ずご無事でいてください。天城様を失えば、これまでの軒猿の献身、ことごとく意味をなくしてしまいますので」
「わかってるさ。段蔵も気をつけて。無理をするな、というのはそれこそ無理な話だが、互いに無事でまた会おう」
「御意」
 深く頭を下げた後、段蔵は配下の兵と共に姿を消した。




 すでに弥太郎は部隊を率いるために前線に赴いている。今、俺の周囲には見慣れた顔は一つもない。
 あるのは、政景様から託された四千人の大軍、それを指揮する重みと、そしてどこか心地良い緊張感であった。
 その俺の耳に、前線からの報告が飛び込んでくる。
「申し上げます! 前方より敵右翼部隊が進撃を開始いたしました。敵将は太田資正が一族、康資と思われます!」
 その伝令の報告どおり、前方から濛々と土煙が立ち上り、喊声がこちらに向けて殺到してこようとしている。
 段蔵が言ったように、この戦は、佐渡で本間勢と戦ったときとは何もかもが桁違いに異なっている。
 互いの兵力数も、敵の手ごわさも、この戦が及ぼす影響も、何もかも。
 だが、それゆえにこそ――



「上杉全軍に告げる」
 俺の声が左翼部隊の上を広がっていく。さして声を張り上げる必要もない。それほどに、戦を目前に控えた上杉の精鋭たちはしんと静まりかえっていたのである。
「この戦の勝利は、上杉に寸土さえもたらさぬ。我らが勝ち取りしもの、これすべて、上野の民が奪われしものなれば、正当なる所有者たちに返すが当然のことであるゆえに」
 遠くから響く北条軍の喊声が、わずかずつ高まっていく。
 だが、それでも上杉軍は動かない。
「それをもって戦うべき意味が失われると、わずかなりと感じる者は、ただちにこの場から去るが良い。我ら上杉が戦うは、勝利を貪るためにあらず。我らはただ、主君上杉景虎様の駆ける天道を祓い清めんがため、その刀槍を揮い、敵を討つのだ」
 懐から取り出した鉄扇を、そっと開く。そこにあるのは、上杉の家紋ではなく、長尾家の家紋『九曜巴』であるが、掲げる旗印がかわろうと、その先に見据える景虎様の志は、寸毫も揺らぐことはない。
 この戦は、その志を関東の地に知らしめる第一歩。その先頭に自分が立つことの歓喜と誇りを、何と言い表すべきか。胸奥から湧き上がる感情の高波を、俺は、声に乗せていった。


「景虎様の天道が指し示すは、すなわちこの戦乱の終結なり。我らは関東の地にその天道を知らしめる第一陣、毘沙門天が剣の切っ先であると知れ! その尊き心こそが我らに軍神の加護をもたらそうッ!」
 あらかじめ考えていたわけでもないのに、あふれ出るように沸き出するこの激語は何なのか。不思議に思いながらも、俺はただ心の命じるままに声を張り上げていった。
 その声と共に、それまで静かであった湖面がうねるように、上杉軍から押し込められていた戦意が解き放たれていく。
 最早、北条勢の喊声は聞こえない。周囲から沸き起こる上杉軍の喊声がすべてを掻き消したゆえに。


「天道を行く我ら上杉が武を、坂東武者に知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを、関東すべてに知らしめよ! 関東を斬り従える上杉が先陣たるの誇りをもって、北条軍を撃滅するのだ!!」
 高々と鉄扇を掲げる。
 周囲の将兵から立ち上る溢れるほどの闘気が、物理的な圧力さえともなって、俺の背中を後押しする。
 俺は、まっすぐに鉄扇を振り下ろし、天に届けとばかりに声高く命じた。
「全軍、突撃ッ!!」
 その俺の声さえ飲み込むような大喊声が、戦場を圧した。




◆◆




 上杉軍が喊声を挙げて前進を開始する。
 だが、北条軍とて歴戦の精鋭、その程度で怯むような脆弱さは持っていない。
「射よッ!」
「ッてェッ!」
 矢頃に近づくや、ほぼ同時に双方の陣地から敵陣に向けて雨のような矢が降り注ぐ。
 騎兵は身を低くして篭手を翳し、足軽は陣笠を盾代わりにして、ひたすらに敵陣へと突き進む。降り注ぐ矢に幾人もの兵士が苦痛の声と共に倒れたが、敵も味方も彼らに構っている暇はなかった。矢が三度放たれた頃には、両軍は、敵兵の顔を目視できるほどの距離まで近づいていたからである。


 そして、ここまでが両軍が互角であった刹那の時間となる。
 ここより、上杉軍の猛攻撃が開始された。
 その先陣を切ったのは、上杉軍の小島弥太郎であった。
「ああああッ!!」
 弥太郎の大槍が一閃する都度、北条勢はまとめて数人が弾き飛ばされた。これが屈強な体躯の男の仕業であれば、敵はその剛勇に驚きつつも、混乱することはなかったであろう。
 実際、当初はその大柄な体躯と、鎧甲冑に包まれている姿のため、北条勢は弥太郎が男であると信じて疑わなかった。
 だが、その声や身体つき、そして決定的となったのが、乱戦の中で兜を弾かれた弥太郎の素顔があらわになったことであった。そこには汗と泥でよごれながら、なお柔らかさを失わない少女の顔があったのである。
 今の今まで、弥太郎のことを上杉の大剛の武士と思い込んでいた北条軍は、あまりの意外さに、戦の最中にも関わらず呆然としてしまった。


 もっとも、当の弥太郎はそこまで気が廻るほど冷静に戦っているわけではなかった。乱戦の最中、北条軍の将兵の動きが止まったことも、好機としか見えず、遠慮など一切なしに柄を用いてかなたに吹っ飛ばしてしまう。
 後ろに続く兵士たちは顔を見合わせて、低声で語り合った。
(お前、人が空飛ぶところ見たことあるか?)
(あるわけねえだろ――今この目で見るまでは、な)
(うむ、しかも縦に回転しとらんかったか?)
(さすがは上杉の今巴様じゃあ)
(相変わらずの平家物語好きじゃの、そなた……)
(天城様のお傍にいる時は、あんなにしとやかなのになあ)
(始まる前から散る恋というのも哀れよな)
(やかましいッ)
 何気に余裕のある後続の兵士たちであった。


 逆に言えば、それだけ弥太郎の剛勇が衆を圧していた、ということでもあった。
 当初、弥太郎は天城の傍から離れ、前線に赴くことに難色を示していた。忠義に厚い弥太郎のこと、はっきりと反対を唱えたわけではなかったが、それでも出来ればこれまで通り、天城の傍らで控えていたと目顔で訴えたのである。
 だが、天城はそれを承知しつつ、弥太郎を説得した。
 この戦において、天城は自ら名乗り出て左翼部隊を率いることになった。後方で戦を支えるのではなく、前線で矢石の雨にさらされることを望んだのである。
 それは天城なりの熟慮の結果であり、そして名乗り出た以上は勝算があった。その勝算を現実にするためには、弥太郎の武勇が前線で発揮されることが必要不可欠だったのである。


 天城に滾々と諭されれば、弥太郎は首を横に振ることは出来ない。
 それでも、京での出来事を知る弥太郎は、天城の身辺の警護が薄くなることに一抹の不安を隠せなかった。
 だが。
『天道を行く我ら上杉が武を、坂東武者に知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを、関東すべてに知らしめよ! 関東を斬り従える上杉が先陣たるの誇りをもって、北条軍を撃滅するのだ!』
 凛冽たる気概をもって将兵を鼓舞する天城の声に、弥太郎もまた深く感じ入るしかなかった。
 全軍に向けた突撃の号令が、何故か弥太郎に向けられたように思えたのは、さすがに気のせいであったろうが。
 それでも弥太郎はかつてないほどの心身の昂ぶりを覚え、その全てを眼前の北条勢にぶつけていったのである。この猛威に対抗しえる者が、そこらにいる筈もない。北条の右翼部隊は弥太郎を先頭とした上杉軍の猛攻を受け、開戦から半刻も経たないうちに、壊乱の兆しを見せ始めたのである。



 並の軍ならば、これを皮切りに一気に崩れたかもしれない。
 だが、さすがに北条軍は精強であり、太田資正は優れた将であった。
 資正は右翼が押され気味であると見るや、ただちに中軍から一千の援軍を差し向け、これを援護させると同時に、左翼に対して攻勢を指示する。
 寡少な敵右翼部隊を突き破り、その勢いで敵中軍を衝けば、必ず中軍は動揺する。そこを資正が全力で攻勢に出れば、元々まとまりのない上野の国人衆は支えきることは出来ないだろう。しかるのち、こちらに深く踏み込んだ敵の左翼を前後から押し包んで殲滅する。
 それが資正の考えであった。
 かくて、主将の命令を受けた北条軍右翼部隊は猛然と攻勢に出る。その数は二千五百。
 迎え撃つは長野軍大胡秀綱が率いるわずか五百の軍勢である。この勝敗はすぐにもついてしまうかと思われた。




   
 接敵した当初、大胡秀綱は五百の兵力を巧みに統御し、数に優る敵軍と互角の戦いを演じた。
 だが、五倍近い兵力差がある以上、いかに秀綱がすぐれた武将でも、完全に敵の攻勢を食い止めることは難しい。北条軍は長野軍の頑強な抵抗を力ずくで破砕していき、ついに秀綱は自身、敵と刃を交えなければならなくなる。
 軍将がみずから剣を交えるなど、それだけで負け戦は確定的であると言って良い。
 ――だが、今回の場合に限り、それは誤りとなる。


 秀綱の刀が左右に閃く都度、必ず鮮血が舞った。
「ぐあッ?!」
「くァッ!」
 秀綱に槍を向ければ柄ごと腕が断ち切られ、刀を交えれば本人ですら気付かないうちに首が飛んだ。
「あああ、腕が、腕がああッ」
「あ……?」
 秀綱の近習たちは主の動きを邪魔しないように周囲を開け、その援護に全力を注ぐ。
 戦場の只中にぽっかりと出来た空間に押し寄せる北条勢は、しかし誰一人として秀綱の前に立つことすらままならぬ。
 荒れ狂う撃斬の旋風は、それに立ちふさがる代償にその者の命を要求し、留まる気配さえみられない。
 たちまちのうちに積み重なる北条勢の死屍の山。秀綱は刀の切れ味が鈍るや、従者から新たな刀を取り、それでも間に合わなくなると、遂には戦っている敵の武器さえ奪い、なおも北条勢を屠り続けた。


 今や敵の血潮を全身に浴びた秀綱は、地獄の羅刹もかくやというような凄惨な姿であったが、それでもなお秀綱の持つ秀麗さは少しも失われない。むしろ、戦場の只中で戦う真紅の武神の姿は、まるで舞っているかのように人々の目には映り、北条勢は魅入られたかのように立ち尽くす。
 古来、武闘とはすなわち舞踏であったという。今の秀綱の姿は、あるいはこの証左とさえなり得たかもしれなかった。




 いつか北条軍の右翼部隊は完全にその勢いを断たれ、長野軍、というより秀綱一人の前に前進を止められてしまった。
 だが、秀綱とて人間である。一人で万人を討てるわけではない。時を置けば北条勢もそのことに気付き、数と飛び道具をもって長野勢を力ずくで押しつぶしたであろう。
 しかし、北条勢が見せた致命的な隙を、戦に長けた越後の守護代が見逃す筈はなかった。
 太田資正が数に優る左翼部隊を前進させることは分かりきっていたこと。突出し、秀綱の前に停止を余儀なくされた部隊は、その無防備な横腹を長尾政景率いる騎馬部隊に痛撃され、たちまちのうちに乱れたった。
 そこに秀綱率いる長野軍が、槍先をそろえて突きかかり、さらに北条勢に出血を強いた。


 その戦況を遠望した太田資正はかすかに表情を強張らせたが、その顔も部下に気付かれる前に消え、沈着さを保ったまま、資正は考える。
 すぐにも左翼に援軍を派遣したいところだが、そうすると今度は中軍の陣容が薄くなる。すでに右翼に援軍を出したばかり。この上、左翼に援軍を出し、中軍を破られるような事態を招けば、太田資正の名は愚将の代名詞と成り果てよう。
 ここはむしろ中軍を前進させ、敵の中軍を叩き、しかる後に両翼を援護するべきか。そう考えた資正は、左翼を先に動かしたことをわずかに悔いた。むしろ中軍と左翼を同時に前進させ、歩調をあわせて敵軍に挑むべきであった。そうすればここまでの混乱を招くことはなかったであろうに。
 長野軍を寡兵と侮った、太田資正の致命的な失策。
 だが、それはある意味で仕方のないことであったとも言える。まさか大胡秀綱の武勇が孤軍よく五倍の敵を食い止めるほどのものであるなどと誰が思おうか。むしろ秀綱が持ちこたえることを前提として作戦を組んだ上杉軍天城颯馬の異常なまでの眼力をこそ、人々は不審に思うべきであったかもしれぬ。


 だが、成功した作戦は全てを肯定する。
 遅ればせながら資正が中軍を動かそうとした時には、すでに天城率いる上杉軍は正面の敵部隊を撃破していたのである。
 不利な情勢に陥りながら、それでも善戦していた北条軍の太田康資がどうして急に崩れたったのか。
 康資は上杉軍の攻勢を必死で食い止めながら、敵の勢いを支えている者の姿を見出す。激しい戦場の只中に、平服をまとい、手に持つ扇で兵士を指揮する敵の武将、天城颯馬。
 並外れた指揮、というわけではなかった。康資が知るところの北条氏康や綱成に比すれば凡庸とさえ言える。だが、味方の隙を繕い、敵の隙を見逃さない堅実な指揮は、兵力に優るというただ一つの条件を加えただけで、厄介きわまりないものになる。
 それでも敵将が天城一人であれば、その攻勢に耐えしのぐことくらいは出来たであろう。
 だが、上杉の先頭で荒れ狂う鬼小島の武勇が、康資にただ耐えることさえ許さなかったのだ。弥太郎については、兵を指揮しているわけではなく、個人的な武勇を存分に発揮しているだけであったが、弥太郎の前進によって生じた空隙は天城によってすぐに上杉軍で埋められ、決して弥太郎を孤立させることはなかった。
 それを確認し――否、天城を信じきった弥太郎は後ろを振り返ることさえなく、さらに前進し、北条勢を押し込んでいく。そうして出来た空隙を瞬く間に天城が埋める。
 単純なまでの繰り返し。だが、単純であるがゆえに、挽回の策もまた限られる。これを何とかするためには、弥太郎を討つか、あるいは天城の軍を足止めするか。だが、それが出来ないからこそ北条軍は押され続けているのである。


 そして、押されに押された太田康資は徐々に本隊を後退させざるを得なくなる。
 このままでは敵の勢いに押し切られる。そう考えた康資は、ついに決断を下す。自身の本隊を投入し、かなたに見える天城の本陣を打ち崩す。天城さえ討ち取れば、弥太郎の勇など匹夫の勇に過ぎず、押し包んで討ち取れる筈であった。逆に弥太郎を討とうとして不用意に軍を動かせば、その間隙を天城は見逃さないであろう。
 かくて康資は本隊の指揮を腹心に委ね、自身は本陣にどっかりと腰を下ろす。
 総大将は軽々しく動かぬもの。だが、結果から言えば、この時、康資は自身で援軍の指揮をとるべきであった。
 本隊を動かしたことで、必然的に薄くなる本営。上杉軍に押されて布陣したこの場は、康資が元々本陣を置いていた場所に比すれば無防備といってもよい。それでも、戦場からはまだ遠く離れており、本陣に突っ込んでくる上杉軍の姿もない。それゆえ、康資は警戒を怠った。あるいは劣勢を挽回するためにそれどころではなかったということもあろう。
 まさか、はじめからこの戦況を予測し、このあたりに康資が本陣を置くと判断して兵を伏せていた者がいるとは夢にも思わなかったに違いない。
 だが、彼らはいた。その数はさほど多くなく、精々が三十人程度であったが、今、一時的に空に近くなった本営を急襲するには十分すぎる数であった。


「て、敵襲ッ! 後背より敵襲です!」
「なんだとッ?!」
 その報を受け、慌てて康資が振り返った時には、影のように本陣に近づいた上杉の一隊は目前にまで迫っていたのである。
 気がつけば康資の身体は地面に組み伏せられ、その咽喉元に短刀が突きつけられていた。
「警告は一度だけです。降伏しなさい」
 その声に、康資は驚く。あきらかに少女の声であったからだ。見れば康資の半分にも満たないような小柄な敵兵であった。
 だが、驚きはしても、その言葉に応じるつもりなどかけらもない。
「断る」
「……そうですか。では」
 相手の手に力がこもる。その一瞬の隙になんとか相手を突き放そうと康資はもがいた。互いの体格差を考えれば、決して不可能なことではない筈なのだが、康資を組み伏せる少女の身体は、なぜかぴくりとも動かなかった。
 そして、そこまで考えたところで、康資は首筋にかつてない冷たい感触を覚え――その意識は急速に薄れていった。
 遠ざかっていく意識を奇妙に感じながら、康資は小さく問いかけていた。
「……名は、名は何と言う?」
 その声は血の泡がまじり、ひどく聞きとりにくかったが、上杉の将は静かに返答した。
「……天城颯馬が家臣、加藤段蔵」
 その声が聞こえたのかどうか。太田康資はかすかに表情を歪ませたが、それが皮肉を言わんとしたためか、あるいは笑みを浮かべかけて顔の筋肉がうまく動かなかったのか。
 その答えは、すぐに永遠に失われた。


「上杉の旗印を掲げなさい。それでこの戦は終わりです」
「はッ!」
 段蔵は軒猿の一人に命じる。本陣に敵の旗印があがる。その意味は、すぐに戦場全体に広がることになろう。油断なく周囲を見渡しながら、段蔵はそう考え。そして、その段蔵の答えは、すぐに現実となったのである。




前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.027694940567017