越後守護職上杉景虎。
その誕生にこぎつけるまでに、俺や兼続がどれだけ苦労したかは、まあ言わぬが花であろう。個人的には意固地になった景虎様という、やたらめずらしいものが見れたので、あまり苦労したとも思っていないし。
ともあれ、時間を置いて開かれた話し合いでは、定実様の奥方であり、景虎様の異腹の姉君であられる方も加わって昨日の続きを話し合ったのだが、二人とも喪主になることはともかく、その後の守護職就任には難色を示し続けた。
理由は昨日と変わらず、当然のように話し合いも停滞せざるをえない。
しかしながら、景虎様にしても、政景様にしても、今はこのことに時間をかけるべきではないということもわかっていた。
甲駿相の三国同盟の成立が何を意味するか、それがわからない者は、この場にはいない。
それゆえ、一国も早く国内を固め、定実様の死による混乱を最小限にしなければならない。
それはわかっている。わかっているが、だからといって二人とも、では自分が、と手を挙げることも出来かねたのである。
俺も、正直なところ悩まないわけではなかった。景虎様、政景様のいずれが守護に向いているか。
たとえば政景様が守護になれば、景虎様は軍事方面に集中できるという利点がある。政治や外交などから解放されれば、景虎様の巨大な軍事的才能は、その実力を存分に発揮できるだろう。まあ露骨にいうと面倒なことは政景様に委ねるということで、政景様もこれを避けようとしているのであろうが。
ただこの場合、当然だが上杉家の基本的な方針は政景様の手に委ねられる。そして、政景様が、景虎様の天道に従う謂れも無くなる。無論、裏切りや苛政などをよしとする政景様ではないが、もしそれがどうしても必要だと考えれば、政景様は迷うまい。清濁あわせのみ、その責任は我が身で果たす。統治者としての深みという意味では、政景様は景虎様に優るだろう。
景虎様のそれは、凡人には清冽すぎるのだ。そして、世を動かすのは多数の凡人なのである。景虎様の天道を歩かないという意味では、俺も凡人の列に並ぶことになろう。
景虎様を守護にすえた場合の問題はほぼ同様。ただ、おそらくだが、俺と政景様の負担は今より倍増する。影でせっせと働くことが多くなるだろう。景虎様の天道では補えない部分が、一国の政ともなればいくらでも出てくるであろうから。当然、その隙を埋めるのは守護代である政景様で、その補佐が俺、という感じになるだろうか。
あるいは政景様のことだから、なんか俺に適当な役職を押し付けて「守護代権限で任せた」とか言いかねん――自分で言っていて思ったのだが、そうなったらまずくないか、俺?
などと埒もないことを考えながら、結局のところ、俺は景虎様を説得していた。
といっても、言うべきことはすでにほとんど誰かしらの口から発されている。そして、景虎様とて自身が折れるべきこともわかっているだろう。定実様の遺言、政景様の芳心、そして軍神たる身にかかる人々の期待がわからぬお方ではない。
ゆえに、俺がしたことは、景虎様の心に引っかかっているであろう最後の棘を抜いただけである。
すなわち――
「……政景殿の子を、私の、上杉の養子に?」
「はい。無論、まだ先の話ですが、政景様にお子が出来たら、その子を景虎様の養子として上杉家を継がせたらいかがかと。さすれば、政景様が春日山上杉家に捧げたものは、すべて坂戸長尾家にかえってくることになります。政景様の配下の方々の不満も薄れましょう」
「む……」
景虎様が考え込むように腕組みをする。
首を傾げたのは政景様の方だった。政景様が何か口に仕掛けるが、俺は意味ありげな視線を送り、景虎様に視線を転じると、どうやら意図を汲んでくれたようで、ぽんと手を叩いてみせた。
「なるほど、それならうるさい連中を納得させる手間も省けるわね。でも、颯馬は良いの?」
「……はい?」
なんでそこで俺に確認をとるのだろう?
「だって、あんたと景虎の子が守護職になる機会を棒に振ることになるじゃない」
――咳き込んだのは、俺と景虎様、ほとんど同時であった。
景虎様が目を丸くして不思議そうに問う。
「政景殿?」
一方の俺は、顔を赤くして難詰する。
「な、何の話ですか、それは、政景様?!」
政景様は声を低めて、周囲の人だけに聞こえるようにこんなことを言いやがりました。
「ふっふ、聞いてるわよ。なんでも高野山であんなことやこんなことしてたんだって? 御仏の聖地でなんて大胆な。あ、景虎、そろそろお腹が大きく……」
『なりませんッ!!』
またも息がぴったり合う俺と景虎様だった。さすがにここまで言われれば、景虎様も政景様が言わんとしていることに気付いたらしい。頬がかすかに赤くなっている。
しかし、全然俺の意図伝わってないな、政景様に。
定実様の奥方も「あらまあ」となにやら嬉しそうに両手をぱちんとあわせている。
いや、その反応もどうかと思いますが、奥方様。
俺の養子云々の提案は、景虎様が抱えている政景様への気遣いをなくすため、あとついでに政景様配下の者たちの不満を多少なりとも和らげるためのものだった。正直、前者に関しては全然必要ない気もするが、景虎様としてはやはり位階を飛び越えるのは抵抗があるのだろう。このあたり、やはり秩序を重んじる気持ちが篤い人なのだな、としみじみと思う。
ゆえに、そのあたりをなだめることが出来れば、景虎様も首を縦に振ってくれると思っていたのだが、なんか話が妙な方向に進みかけて焦った。
――結論を言えば、最終的に景虎様は頷いてくれた。件の養子案も込みで。
ただしその後、しばらく微妙に気まずい空気が俺と景虎様の間に漂ったのは、多分気のせいではなかっただろう――おのれ、長尾政景、おぼえておれよ、と一人恨み言を呟く俺であった。
だが、そんな戯言も、すぐに脳裏から吹き飛んだ。
遠く関東の地から一つの知らせが飛び込んできたのである。
それは関東の覇権を欲した相模の北条氏康が、ついに上野の関東管領山内上杉家に対し、全面的な攻勢を仕掛けたことを告げるものであった。
◆◆
三国同盟の締結により、後顧の憂いを絶った北条氏康は、この時、二万の大軍を率いて小田原城を出陣。各地からの援軍を吸収しつつ、武蔵国忍城(おしじょう)の成田長泰を急襲する。
山内上杉家に属する成田長泰は勇猛なことで知られ、また忍城も堅城として知られていた。だが彼我の圧倒的な兵力差の前では、多少の武勇など意味を持たない。
また、この時の攻め手は『相模の獅子』あるいは『相模の黒真珠』(恥ずかしいです、と本人は苦笑している)たる北条氏康本人であり、その麾下には北条勢の中核たる五備えが勢ぞろいしていた。
赤備えたる北条綱高。白備えたる遠山景綱。青備えたる笠原美作守。黒備えたる多目氏聡。そして『地黄八幡』黄備え、北条綱成である。
兵数、士気、錬度、そのすべてにおいて北条勢は成田勢を圧倒しており、成田勢は篭城以外の選択肢を持てなかった。
忍城からの急報を受けた上杉憲政は、当初、常のごとく物憂げに報告を聞き流していたのだが、敵将が北条氏康だと聞くと、目の色を変えた。
そして、今回こそ宿敵北条家を撃滅せんと各地に檄を飛ばし、北条家に優る大軍を召集したのである。その数は三万をこえるものと思われた。
かくて名将長野業正を先陣とした山内上杉軍は、忍城を包囲する北条勢を撃滅すべく、平井城から南下して、武蔵の国に入ったのである。
忍者衆「風魔」の諜報によって、この敵の動きを察知した氏康は、城の包囲を各地からの援軍に委ね、直属の二万のみを率いて山内上杉軍を迎え撃つために布陣する。
かくて、広大肥沃な関東平野の一画において、関東の覇権をかけた戦いが始まる、かと思われた。
だがこの時、すでに山内上杉軍は大きな狼狽の中にいた。憲政の召集に応じて各地から駆けつけた軍勢の半数以上が、両軍が対峙する戦場の外縁部にとどまり、日和見の姿勢を見せていたのである。この為、実質的には北条軍二万、山内上杉軍一万三千が対峙している格好となっていた。
そして、さらに事態は悪化する。
氏康の関東北上と時を同じくして、甲斐の武田晴信が六千の兵力を率いて西上野に侵攻を開始したのである。
北条家にのみ注意を払っていた上野の諸城は、この武田軍の侵攻を防ぐことが出来ず、援軍を待つ間もなく次々と陥落していった。
その進撃速度を見て、このままでは北条家と対峙している間に、居城である平井城が危ういと判断した上杉憲政は、宿将である長野業正を西上野防衛に戻す決断を下す。
業正の居城箕輪城は西上野の要衝であり、業正自身も歴戦の武将として知られた人物であるから、この人事は間違いではなかった。
だが、決して正解とはいえなかった。なぜなら、業正が軍を離れれば、北条家の精鋭とまともに戦いえる武将など、山内上杉軍にはほとんどいなかったからである。
北条勢の容易ならざるを知る業正は、主君である憲政に対し、西上野の兵力を平井城に集中させ、自身はこの決戦に参加すべきと進言した。西上野は捨てろ、と言明したのである。さもなくばこの決戦には勝てず、この決戦に敗れれば、北条家の勢威が関東を席巻するのは間違いない。
だが、憲政はただ平井城を守れ、西上野を守れと命じるだけであった。そもそも、戦が始まれば周囲の援軍が北条勢の後背を衝くだろうから、敗北するなどありえない、というのが憲政の考えだったので、業正の進言が通らなかったのは当然といえば当然だった。
周辺に展開している関東の諸勢力が、関東管領である自身と、相模の一大名とを秤にかけているなど想像さえしていない主君に、業正は内心で深々とため息を吐くしかなかったのである。
そして内心である決意を固めるのだった。
北条家を打ち破り、相模の黒真珠を我が腕で撫抱してくれる、と豪語する上杉憲政は、追い払うように業正を箕輪城に戻すと、あふれんばかりの自信をもって北条勢との決戦に望む。
その軍は、しかし、ほとんど一瞬で敗れ去った。
あまりのもろさに、日和見をしていた者たちが呆気にとられたほどであった。
彼らは優勢の側を見届けてから、勝者の尻馬に乗るつもりだったのだが、こうまであっさり勝敗がついてしまうとは夢にも思っていなかったのである。
この戦いは、関東の古い権威の崩壊と、新しい秩序の確立を告げる、これ以上ない狼煙となったのである。
この敗北を見て、忍城の成田長泰は降伏。さらに山内上杉家の召集された諸勢力も、たちまちのうちに旗幟をかえて北条家の膝下に跪いた。
これらの軍を加えた北条氏康は、彼らの罪をとがめることなく、さらに軍を北へ進める。
氏康は、この遠征において山内上杉家の息の根を止めるつもりだったのである。そして、氏康が上野侵攻の先鋒に命じたのは、先ごろ降伏した者たちであった。
当然、彼らは新しい主家に忠誠を示すべく懸命に奮闘する。このあたりの老獪さは、相模の黒真珠ならぬ相模の獅子の面目躍如というものであったろう。
後にこれを聞いた小田原城留守居の北条幻庵は「ますます妾の若い頃に似てきておるなあ」と氏康の成長に目を細めることになる。
ともあれ、北条勢の北進は苛烈をきわめ、山内上杉家の諸城は、虎が卵を踏むかのごとく容易く砕かれていき、たちまちのうちに平井城は重囲の中に置かれることになったのである。
この時、平井城を囲む北条勢は四万を優に越える大軍勢となっており、関東管領山内上杉家の命運は、ここに絶たれたと誰もが考えていた。
◆◆
その頃、北条家の友軍である武田軍は西上野の要衝たる箕輪城で、名将長野業正と対峙しているところであった。
「さすがは音にきこえし長野業正。見事なものです」
武田晴信はそう言って、彼方に見える箕輪城と、その城に攻めかかる武田軍の攻防の様を楽しむように眺めていた。
その晴信の傍らには、武田六将が一人、真田幸村が槍をもって控えている。
だが、今回の上野侵攻にあって、幸村の槍はただの一度も敵兵の血に濡れたことはなかった。
その幸村に、晴信はからかうように声をかけた。
「おや、幸村、どうしました。そのように不服そうな顔をして。私の護衛は退屈ですか?」
「……い、いえ、決してそのような。御館様をお守りするのも重要な役目でございますれば」
「それにしては上野に入ってからというもの、憮然とした表情を隠しきれていませんね。将たるもの、そう易々と内心をあらわにしては指揮に差し障りが生じますよ」
「は、申し訳ございませんッ」
畏まる幸村に、晴信はくすりと微笑んでみせた。
武田家の一番槍たる真田幸村が、一度も敵と矛を交えていないのだ。不服に思わない筈はない。それは晴信も重々承知していた。
だが、これも戦に先立つ軍議で決まったことである。
幸村の慢心を戒める意味でも、これは良い機会、と晴信は考えていた。
晴信はあらためて箕輪城の攻防に視線を向ける。
相変わらず見事な守りを見せる長野業正の軍が遠目に見える。そして――長野業正をして、全力を出さねばならないほどに見事な攻めを見せている自軍も見ることが出来た。
その陣頭で兵士たちを指揮するのは、武田家が誇る六将が一、静林の将たる春日虎綱であった。
上洛から戻った虎綱を出迎えた晴信は、虎綱に数日の休養を与え、疲労を癒した後に出仕するように伝えるつもりであった。すでに虎綱からは上洛時における詳細な報告が届けられている。そこには冨樫晴貞のことも、そして越後守護上杉定実が死去したことも記されていた。
だが、虎綱は望んで即日に出仕する。虎綱もまた、自身が不在であった半年の間の出来事を知りたかったのである。そして、自身の報告を聞いた武田家がどう動くつもりなのかも。
「では、春日殿は村上への侵攻は反対すると? 越後の守護が死した今こそまたとない好機であることは明白、まさかとは思いますが、情にほだされたわけではないでしょうね?」
幸村の言葉に、虎綱はゆっくりと頭を振る。その前には信濃から上野に渡る地図が置かれていた。
三国同盟において、北条との共同作戦を約した晴信は、西上野侵攻の計画をたてていたのだが、虎綱からの報告で上杉定実の死を知ったことで、北信濃制圧も可能と考え、諸将に意見を求めていたのである。
元来、二方面に同時に敵を抱えることは兵家としてもっとも避けるべきことだが、今回の場合、この二国は一つは他国との戦闘中、一つはごくわずかの所領しか持たぬ小勢力であるから、同時に敵にまわしたところで問題はない。
ただ、村上家に侵攻を開始すれば、必ず上杉が出てくるであろう。それゆえ、当初は村上家は侵攻計画に入っていなかったのである。
だが、越後が守護職を失ったのであれば、すぐには出兵できぬであろうし、兵を出すとしても、それほど大規模の軍は無理だろう。それゆえ、幸村は今を絶好の好機と表現したのである。
しかし。
「……たしかに上杉定実殿は亡くなりました。けれど、その死後、すぐに兵を出せないとは限りません。私の判断を申し上げるのならば、村上領への侵攻は、上杉の大軍を引き出すものと考えます」
幸村がかすかに顔をしかめ、口を開こうとする。
だが、それに先んじた者がいた。山県昌景である。
「ほう。その根拠は?」
その問いに、虎綱はわずかに首を傾げる。
「上杉軍を率いる将帥の為人、でしょうか」
「なるほど、たしかに上杉の者を知ること、今の春日にまさる者はおらん。それは長尾景虎のことか?」
「はい」
「うむ。だが、景虎が望んだとしても、他の者たちはどうか。たとえ守護代長尾政景のことは、お主とてよく知るまい。守護代が反対すれば、景虎とて自侭に兵を出すわけにもいくまい」
昌景の問いに、虎綱はあっさりと頷いてみせる。
「仰るとおりです。しかし、政景殿は景虎殿以上に気性の激しい方と聞き及びます。喪中を狙うがごとき戦のやりようを黙って見ているとも思えないのです」
その虎綱の返答を聞き、昌景は精悍な顔に微笑を刻む。
問いの内容自体に大した意味はない。ただ虎綱が怯むことなく反論したという事実を確認したがゆえの微笑だった。
ここで晴信がどこか厳しい調子で口をはさむ。
「では虎綱。そなたならば此度、どのように兵を動かしますか。申してみなさい」
「は、はい。私であれば、村上領は攻めません」
幸村があざけるように口を開く。
「上杉が出てくるから、か。武田の将にあるまじき物言いですな」
「幸村」
「は、はい、御館様」
「私は虎綱に問うています。今は口を噤みなさい」
「ぎ、御意にございます」
幸村が顔を赤くして引き下がると、それを確認した虎綱は言葉を続ける。
「かりそめにも将軍家仲介で和睦をした相手です。こちらから戦端を開けば、あれはまた武田の策謀であったのだと思われてしまうでしょう。そうすれば、今回の上洛での名声にも翳りが出てしまいます。それよりも、北条家と共同で上野を攻め、関東管領を追い詰めるべきだと」
「関東管領を追い詰め、北条に恩を売り、西上野に所領を得る、ということですか?」
「はい。北条、武田の両軍に攻められた関東管領は、関東に居る所なく、逃れられる場所は北の越後のみ。景虎様たちの人柄であれば、必ずや関東管領を受け入れるでしょう。そして遠からず上野に兵を出します。北条と上杉が戦火を交えれば――」
「北条の盟友として、堂々と上杉と対峙することが出来る、というわけですか」
「御意。上杉軍の主力は上野にまわっているでしょうから、越後にはあまり多くの兵はいないでしょう。北条家との盟約のためという名分で越後へ向かえば、当然、信濃の村上家はその道を塞ぎます。これと戦うことは、盟約にそった当然の行動。信濃の民も納得するのではないでしょうか」
長い説明を終え、虎綱は小さく息を吐いた。
その虎綱を見やる晴信の顔には、隠し切れない微笑が浮かんでいた。それに気付いた虎綱は、慌てた様子でかしこまる。
「あ、あの、御館様、何か無礼をいたしましたでしょうか?」
「ふふ、いえ、何でもありません。しかし――虎綱、ずいぶんと物言いが滑らかになりましたね」
「そ、そうでしょうか? あ、あんまり自分では感じないのですが……」
ここで内藤昌秀が口を開く。
「いえ、実は私も先刻より驚いていました。京までの道のりが良い経験になったのでしょう」
「うむ、まあ褒められるのが苦手なのはかわっておらんようだがな」
わはは、と大笑する昌景に、虎綱は小さくなって俯いてしまう。
「昌景。せっかく咲いた花をつむような無粋はおやめなさい」
「おっと、これは失礼、御館様。春日殿、他意はないゆえ、許されよ」
「は、はい……」
室内に、しばし和やかな空気が流れる。
だが、改めて口を開いた晴信の口調は、あまり穏やかなものではなかった。
「虎綱」
「は、はい」
「後日にしようと思っていましたが、ちょうど良い、今、問うておきましょう。何のことかはわかりますね?」
「はい、晴貞様の、ことでしょうか?」
晴信は頷いた。
「そうです。詳細は書状で読みましたし、ここにいる皆も知っています。しかし、実権無き身とはいえ、仮にも一国の守護。頼られたから、はいそうですと受け入れるわけにはいきません。冨樫晴貞を匿うことで武田家が被る不利益、これを上回る何らかの利を提示してもらわねばなりません。しかし、そなたの報告を読むかぎり、晴貞本人はさほど将として優れているわけでもない様子。そこで――」
「お、御館様ッ!」
晴信の言葉を中途で遮り、虎綱は深く頭を下げた。
主君の言葉を遮るという無礼はわかっていたが、言わずにはおれなかった。
「晴貞様の分まで、私が必ず働いてみせます。何事かあれば、私が責任をもって対処いたします。ですから、なにとぞ、我が家に迎えることをお許しくださいッ、お願いいたしますッ!」
虎綱にとっては、文字通り一世一代の訴願であったが、返ってきたのは無限とも思える沈黙であった。
虎綱は、自分の両手が震えを帯びているのを自覚する。今、当主の席に座る晴信が、その目に冷たい怒りを湛えて自分を見ているように思えてならない。
その口から辛辣な叱咤が飛び出せば、これ以上、反論することは出来ないだろうことが、虎綱は自分ではっきりとわかってしまった。
「そういえば……」
晴信の口から言葉がもれた時、虎綱は思わずびくりと肩を震わせてしまった。
「は、はい」
「武田の家は、若狭の国にもあるそうですね?」
「は?」
あまりにも予想外の言葉をかけられ、虎綱は一瞬ぽかんとしてしまったが、慌ててかしこまった。
「は、はい。そう聞いています。その家の方とはお会いできませんでしたが」
「そうですか。遠く安芸の国にも武田という名の守護がいると聞いたこともあります。きっとその中には晴信と名乗る者もいるのでしょうね」
「はい、そうかもしれません、が……」
「であれば」
戸惑いをあらわにする虎綱に、晴信は小さく微笑む。
「加賀守護と同じ名前を名乗る者がいたところで、何の不思議もないことでしょう。そなたが勘違いして連れてきたのも、やむをえないことだったのでしょうね」
「…………あ」
はっと何かに気付いた虎綱が、再び深く頭を下げる。
「は、はい、申し訳ありませんでした」
「何が申し訳ないのです、虎綱?」
「はい。加賀守護の方と同じ名前の方を、本人と間違って連れてきてしまったことですッ」
「そうですか。とはいえ、連れてきてしまった以上、あなたは責任をとらねばなりません。向後、その方が甲斐の国にとどまることを望む限り、お世話はすべてあなたがするのですよ」
「御意にございますッ」
「ただ、勘違いをする者がいないとも限りません。そして、それが戦の火種にならぬ保証もない。その時、そなたがそれに対処できるだけの実力を蓄えているのかどうか、それを次の戦で計らせてもらいます。京より戻ったばかりでつらいとは思いますが、良いですね」
「かしこまりました。春日虎綱、誓って御館様に勝利を捧げてご覧に入れますッ!」
そう言う春日虎綱の言葉は、これまで武田家の誰もが聞いたことのない力と張りに満ちたものであった。
◆◆
そうして、春日虎綱を先鋒とした武田軍六千は、北条勢と歩調をあわせて上野に侵攻。虎綱の采配は堅実を極め、大兵の利を活かしながら着実に城を陥としていった。
一城でもしくじれば、先鋒を交代するとしていた真田幸村が、未だに敵に槍をつけていない事実が、その見事さを雄弁に物語っていたであろう。
晴信は隣に立つ幸村を見る。どこか憮然とした、同時にどこか悔しげな顔をしていた。
「幸村、他者の力を認める度量も優れた将には欠かせぬもの。これだけの実績を示す虎綱を、まだ認められませんか?」
「い、いえ、決して私は春日殿を認めていないわけでは……ただ、その、なんと申しますか、この戦だけでは……」
「まあ、そちと虎綱では中々に気性が合うというわけにもいかぬのはわかります。けれど、過ぎた感情は将器を拡げる妨げになります。意地を張るのもほどほどにするように」
「は、はい、かしこまりました」
「よろしい。ああ、それと一つだけ」
晴信は自身の天幕に戻りながら、背後の幸村に声をかける。
「将と一口に言っても、様々な特徴があります。陣頭を駆けて兵を鼓舞する者もいれば、采配をふるって兵を奮い立たせる者もいるでしょう。そのどちらかが優れているというわけではありません。他者のそれを無理に真似する必要はありませんよ」
その言葉に、幸村はしばし立ち止まり。
そしてすぐに晴信の真意を察して、頭を垂れた。
「……あ……ぎ、御意にございますッ」
このしばし後、武田軍は箕輪城から兵を退かせ、これを遠巻きに囲んだ。
北条勢の大勝、そして平井城陥落の報が伝わってきたからである。上杉憲政は生死不明とのことだったが、それは晴信にとって確認する必要のないことであった。
事態がここまでくれば、強攻して無理に箕輪城を攻め落とす必要はない。
「さて、あれだけ見事な指揮を見せたのです。まさか主君を逃がす手立て一つ考えず、自分の城にこもっていたわけではないでしょう、長野業正」
そして、と晴信は心中で呟く。
今この状況で、頼るべき相手が誰なのか、それを知らぬ筈もないでしょう、と。