およそ一月後。
景虎様と共に京に戻った俺は、おそるおそる陣屋に顔を出す。
心配もかけたし、迷惑もかけてしまった。正直、どんな顔して皆に会えば良いのやらわからん。
「往生際が悪いな、颯馬。心配をかけたなら、きちんと頭を下げて詫びるべきだろう」
「それはその通りなんですが、うー、そこまで持っていくのはどうすべきかと悩んでいるのです」
「ふふ、上杉の誇る軍師殿の手並み、しかと拝見させてもらおうか」
「……思いっきり楽しそうに聞こえるんですが、景虎様?」
情けない顔で後ろを振り返ると、思ったとおり微笑む景虎様の姿があった。
その顔を見ると、勝手に頬が赤くなってしまうのは、高野山での出来事ゆえだった――いい年して、女性の胸に顔を埋めて大泣きするとかありえん。
お陰で、色々なことに気付くことが出来たし、心も軽くもなったし、気持ちよかったし……って、待て待て。ますます頬が赤くなるから後半の回想は禁止だ。
と、俺が一人でおたおたしていた時だった。
とんとんと後ろから肩を叩かれた――訂正、がんがんと肩をぶたれた――再訂正、何やら硬く細長いものが、肩を押さえつけつつ、俺の顔のすぐ横を通過していった。刀だった。一応、鞘はついてたが。
端的に言うと、後ろから鞘に入ったままの刀を、首筋に擬されたのである。
反射的に背筋を伸ばして直立不動、しかる後、ブリキの人形みたいな動きでゆっくりと振り返る。
そこには。
「帰ったか、颯馬」
花のような笑みを浮かべた兼続様がいらっしゃいました。
一応つけくわえると、目は全然わらってませんでした。
「兼続、今戻った」
「お帰りなさいませ、景虎様。一日千秋の思いでお待ちしておりました」
ありありと安堵の表情を浮かべながら、兼続が頭を下げる。
「大げさだな、私が京を出てから一月にもならないであろうに」
「遠征軍の大将が、自軍から一月も離れることなど、本来あってはならないことなのですよ。幸い、さしたる大事は起こりませんでしたが、これは結果論です。以後はお慎みください」
「ん、すまなかった。兼続の言うとおり、なるべく控えることにしよう」
景虎様が言うと、兼続はじろりと俺の方を睨んだ。
「――聞くまでもないが、これだけ景虎様に時間をとらせたのだ。まさか、まだグズグズしているわけではあるまいな? であればその性根、私がじきじきに叩きなおしてやるが」
「い、いえ、遠慮しておきます。もう景虎様にお手間をとらせるような醜態は晒しませんので、その点はご安心ください」
俺が慌ててそう言うと、すぐ後ろから景虎様の口から爆弾発言が飛び出す。
「む、そうなると二人で旅に出るのは今回かぎりか。それも少し寂しい気がするな」
「か、景虎様ッ、な、何を?!」
兼続は驚きのあまり目を丸くし。
そして、俺に鋭い視線を向ける。例えるならば、そう、人を殺せそうなほどに鋭い視線を。
「……おのれ天城颯馬、貴様、景虎様に何をしたッ?!」
「はッ?! 今の流れで何で俺に矛先が向くんですか?!」
「ええい、問答無用ッ!」
「いや意味わかんないんですけどッ?!」
何やらよくわからない理由で兼続の逆鱗に触れた俺は、とりあえず首筋に擬された刀から逃れようと動きかけるが、さすがに直江兼続、巧みに重心を移動させ、簡単には逃がしてくれない。
だが、しかし。
「――なッ?!」
短く、だが鋭く鞘に拳を当て、一瞬、鞘の力点をずらすと、俺はその一瞬を逃さず素早く体を入れ替える。
俺のその鮮やかな手並みを見て、兼続は驚きを隠せない。
「男子、三日会わざれば刮目してこれを見よ。甘いですよ、兼続殿」
「ほう、少しは身体の使い方がましになったようだな」
「ふっふ、景虎様に散々稽古をつけてもらいましたからね。京を発つ前の私と同じではありませんよ」
ちょっと調子に乗ってみた俺に、兼続はしばし憮然としていたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「そうか、なら私が注意を促すまでもないな」
「――はい?」
何のことだ、と俺の顔に疑問符が浮かんだ瞬間だった。
「そうまさまーッ!!!」
ちょうど死角になっていた方向から、弥太郎の手加減なしの体当たりをくらい、俺の身体は思いっきり突き飛ばされてしまった。
もうちょっと丁寧に述べると、弥太郎に首っ玉にかじりつかれ、相撲でいうあびせ倒しを喰らう格好になったのである。
げふごふげふげふ、と受身も取れずに地面に叩きつけられた俺は、壮絶に咳き込んでいたが、加害者である弥太郎はまったくもって自分のやったことに気がついていなかった。
「颯馬様颯馬様そうまさまー」
と、俺の首筋にしがみついたまま、涙交じりに俺の名前を連呼しているからである。
その顔を見れば、文句など言える筈もなく、むしろ滾々と自責の念が湧き上がってくる。
「ごふ……た、ただいま、弥太郎。心配かけてごめんな」
「うう、い、いいえ、そんな謝ってもらうことじゃないです。でも、うう、やっと声聞けたよぉ……」
……なんかその言葉を聞いてじーんときた。
こう、自分が愛されていると感じる心地よさとでも言うべきか。同時に、こんな良い娘に泣くほど心配かけていたことを思い出し、さきほどの自責感が五倍増した。
すると、どこか小ばかにするような口調で、声がかけられる。
「真昼間からなにやってんだ。そういうのは暗くなってから、部屋の中でするもんだろ」
これが男の口から出るなら問題はないのだが、見た目綺麗な女の子の口から出ると、尋常でない違和感を感じてしまう。
「岩鶴、女の子がそういうこと言うものではありません」
「大人がそういうことを子供たちの前でやるよりましだろ」
「別に色恋沙汰で抱き合ってるわけじゃないんだが」
「へー、じゃあそれは上杉軍特有の戦稽古か何かか?」
皮肉たっぷりに言ってくる岩鶴。なんか少し見ない間にさらに口が悪くなってるな。あるいは、女の子の格好をしているから、その差異でそう感じてしまうのだろうか。
そんなことを考えつつ、俺はようやっと落ち着いてきた弥太郎を促して立ち上がる。
すると。
「――主様、お楽しみのところ、大変申し訳ないのですが」
「ををッ?!」
立ち上がった途端、また死角から声がした。今度はあびせ倒しはくらわなかったが、段蔵の氷の眼光と声音は、身体ではなく心を切り裂く効果を持っている。ちなみに、何故か段蔵は抱えきれないほどの書類の束を持っていた。
「だ、段蔵か、びっくりさせないでくれ」
「申し訳ありません。男子三日会わざれば、と聞こえてきたものですから、今の主様ならこの程度の気配は読んでくださるものと信じていたのですが」
「――返す言葉もございません」
「一度口にした言葉には責任が伴います。お気をつけください」
きわめて冷静にそう言った後、段蔵は小さく頭を下げた。
「とりあえず、お帰りなさいませ。どうやら――」
そういって、わずかに声を和らげ、俺の顔をじっと見つめる。
「問題は解決したようですね。さすがは景虎様です」
「ん、そうだな。段蔵にも心配をかけて悪かった」
「心配などしていませんが、迷惑は被りました。よって、これから償っていただきます。主様に拒否権はありませんのでよろしく」
まあ、迷惑をかけたのは事実だし、と言いかけた俺に、段蔵は持っていた山のような紙の束を「ではこれを」と押し付けてくる。
慌てて抱えなおしながら、俺はおそるおそる口を開いた。
「あの、段蔵。これは?」
「ここ一月ほどでたまった軒猿の報告書です。全て目を通しておいてください。今日中です。それと、新たな指示が必要なものを優先的にお願いします。すでに皆、今やおそしと命令を待っている状態ですのでよろしくお願いします」
「…………了解しました」
「あと三つ、山がありますので、後ほど部屋にお持ちします」
「…………それも今日中ですか?」
「答える必要がありますか?」
「…………鬼」
ぼそりと呟いた俺を見て、段蔵の目がきらりと光った。ような気がした。
「何か仰いましたか一ヶ月近く仕事をためた主様そのせいで派生した厄介事を寝る間も惜しんで処理した私に対し何か仰りたいことがあるならお聞きしましょう主様」
句読点を一切つけない段蔵の話し方に、俺は全身冷や汗まみれになった。
「はっは、もちろん鬼のように働いて、部下の献身に報いずばなるまい、と気合をいれたに決まっているではありませんか。さあ、仕事だ仕事ッ!」
「よええ奴」
ぼそりと呟く岩鶴の声が胸に痛かった……
◆◆
およそ一月後。
上洛軍の京滞在は、順調すぎるほど順調であった。
入京初日の細川軍の暴走以来、一度も兵火は起こっておらず、それは畿内を眺めても同様のことが言えた。
これは畿内、四国を治める三好家が、ほぼ全面的に軍事的な対外活動を停止させていることによる。
それは冬の只中であるという季節的な面もあるであろうが、将軍義輝の下に、実質的な武力となる軍隊が控えていることが、大きな要因となっていることは明らかであり、京のみならず、畿内各地でも上洛軍の評判はまずまずであった。なにより、略奪や暴行を行わないという一事だけで、民衆にとっては手を挙げて歓迎すべき理由になるのである。
もっとも、三好軍が上杉、武田両家の武威に竦んでいると考えるのは浅慮というものであろう。
上洛軍はたかだか八千。それに対し、三好家は畿内だけで三万近く。四国からの援軍も併せれば、五万に届こうかという動員能力を誇り、当然ながら地の利も有している。鉄砲という新兵器も持っている。
戦端を開けば、最後に勝つのは三好軍であることは明らかであった。だが、戦えば大きな被害を被ることも確実であり、さらに将軍家の威名をもって三好家の周辺大名に決起を促されでもしたら、厄介なことになる可能性が高い。
それゆえ、三好家は動こうにも動けなかった。上洛軍という武力を握った義輝が目だった動きを見せていないという警戒もあったであろう。三好家が動くのを待っている、とそう考えたのである。
実際はどうかというと。
義輝は三好家が軍を動かした場合に備えてはいた。そして、その事態が起こることを期待もしていた。そうなれば、将軍家への謀反として、堂々と三好長慶を討てるのである。三好家の領土は広大だが、それゆえに敵も多い。各地で三好家に敵対する大名に使者をつかわし、彼らを決起させれば、三好家は兵力を分散せざるを得なくなるだろう。
だが、義輝は、長慶が軽挙妄動しない人物であることも承知していた。仮に長慶が動こうとしても、松永久秀などが制止するであろうことも。
ゆえに、義輝の狙いは軍事的な動乱を引き起こすことではない。三好家の掣肘のない状態で、将軍家としての政務を行うこと。ただそれだけで十分だったのである。
「他人の兵力を借りねば、まともに政務一つ見ることが出来ぬというのも、情けない話じゃがな」
久々に会った義輝は、俺や景虎様に向かって、そうぼやきながら、山のような書類の束を次々と片付けていた。
これまでは三好家に専断されていた京の政治機能の半ばは義輝の手に戻りつつある。
そこから得た金銭で兵を雇い、自身の武力を蓄える。いずれ上洛軍が帰国するのは確かなのだから、時間を無駄には出来ぬ。
義輝とその家臣たちは、ここ二月ほどというもの、他の大名に頼らない将軍家独自の権力を少しでも取り戻すため、精力的に駆け回っていたのである。
「して、殿下。此度の御用向きはなんでございましょうか?」
「うむ、実はそちに引き合わせたい者がおってな。景虎が京を留守にしていた時に寺から戻ってきておったのじゃ」
筆を置いた義輝は、景虎様にそう言うと、控えていた細川藤孝に呼びかける。
「藤孝、あやつを呼んできてくれ」
「かしこまりました」
藤孝がかしこまって立ち去る。
将軍家主従の会話を聞いていた景虎様が、義輝に問いを向けた。
「寺と仰いますと、僧籍の方でございますか?」
「うむ。僧籍といえば、僧籍じゃな。余と母を同じくする妹じゃ。存じておろうが、将軍家は、嗣子でない子は跡目争いを起こさぬように寺に入れられる。まあ、そこから還俗する者も少なくないのじゃがな」
「妹様、でございますか。御名前は、なんと仰られるのでしょう?」
「足利……っと、当の本人が来たようじゃな。幽斎」
「御意」
義輝の呼びかけに従い、細川幽斎が部屋の内側から襖を開く。
そこには、藤孝に先導された尼僧姿の少女が、恭しく跪いていた。
足利義秋――僧名を覚慶。
切れ長の双眸は夜闇の色、見る者を引きずりこむような深みを帯びて瞬いている。
伸びた鼻筋に形良く整った唇、白皙の頬、とこう並べ立てていくといかにも陳腐な表現ばかりになってしまうが、一言で言えばとても綺麗な人だった。
ただその性質は、義輝が陽だとすれば、義秋は陰とでも言うべきか、どこかほの暗いものを感じさせるように、俺には思えた。ただ、足利義秋――義昭といえば、将軍家屈指の策謀家というイメージが強いので、それに影響されてしまっているかもしれないのだが。
「覚慶と申す。見知り置いてくだされ、上杉の方」
「長尾景虎と申します。お会いできて嬉しゅうございます」
互いに挨拶を交わすと、義輝を交えて和やかに話が始まる。
といっても、もっぱら話すのは義輝、答えるのは景虎様で、義秋は話を向けられない限り、ひっそりと微笑みながら口を閉ざしているだけだった。
口を閉ざしているといえば、俺も同様である。
というのも、俺は将軍家から見ると陪臣(部下の部下)にあたり、直接将軍と話をするというのは甚だしい無礼にあたるのだ。よって、景虎様のはるか後ろで黙って佇んでいるしかないのである。
普段、この位置にいるのは兼続なのだが、今日は愛宕山に詣でているため、俺が代わりを命じられている。そのお陰でまた一人、歴史の主役の顔を見ることが出来たので感謝しなければ。
話を漏れ聞くに、この義秋様は剣の方での義輝の弟子の一人だそうで、腕も相当なものであるらしい。剣聖将軍のお墨付きとあらば、さぞ大したものなのだろう。当然、学識も優れているそうだから、文武双全というべきか。ちなみに二刀流の使い手らしい。独自に工夫して編み出したそうだが、今では義輝も舌を巻くほどだとか。
無論というべきか、義輝の剣の腕も凄まじく、景虎様をして「天稟の君」と感嘆せしめるほどである。その義輝に迫る腕を持つ義秋。すごいな、この将軍姉妹。三好家くらい独力で突き崩してしまいそうだ。
もっとも、性格な方は大分ことなるようで、気さくな義輝と異なり、気位も相当高いようだ。景虎様への呼び方にしても、将軍家の家臣である越後守護の、そのまた家臣――つまるところ陪臣扱いしていることは明らかであった。
景虎様は定実様に全権を委任されているから、御所や宮中では守護相当の扱いを受けているのだが、義秋にとっては部下の部下に過ぎないようである。
正直なところを言えば、あまり関わりたくない人物である。
もっとも、僧籍にあるから、関わろうとしても関われないのだが。
三好や松永の将軍暗殺が実行されれば、歴史の表舞台に出ることになる人だが、果たしてこの世界ではどうなるのか。
景虎様を通じて警告を、と考えたこともあるのだが、証拠もなしにそんなことを口にすれば讒言になってしまう。実際、三好長慶や松永久秀がそこまでやるつもりか、いつ実行するのかと問われれば、俺も返答に窮するしかなく、説得力なぞ持ち得ない。
長慶はともかく、久秀とはそれなりの回数会っているのだが、あんまり梟雄という感じは受けないのである。容姿に欺かれていると言われれば、それまでなのだが。
くわえていえば、三好家が将軍家に対し、忠義の念を持っていないことは万人の目に明らかであり、義輝とて、彼らの害意はとうに承知しているだろう。それは今回の上洛令を見てもわかる。
つまりは、俺の口出しは無用、というより有害だという結論に至り、俺は口を噤むことにしたのである。
下手なことを口にして、畿内の動乱の引き金を引いてしまうことを、何よりも俺は恐れた。出来うれば、上洛軍を損なうことなく、帰路に着きたかったのである。
◆◆
およそ一月後。
「ん、それは久秀も同感」
見ほれるような流暢な動作で、こくっと茶をのんでから、松永久秀は頷いてみせた。
無論、久秀が同意したのは、暗殺云々のところではなく、上洛軍を損なわずに帰路に着きたいという点である。
では、なんでそんな話を久秀としているのかというと。
どうも俺は久秀に目を付けられたらしく、時折茶席に呼ばれるようになった。で、まあこの時代、茶席はある意味で密談場でもあったので、少し突っ込んだ話も出るのである。
……招かれた当初は、毒殺されんじゃないかと本気で焦ったのは内緒だ。
「と、いうわけで、さっさと越後に帰ってくれない?」
「はい、わかりました――という権限が私にないのはご存知でしょうに」
「そう? あんたが景虎に言えば、考慮くらいはしてくれそうだけど。将兵に里心がついている、とか理由は色々あるでしょう。畿内の戦に巻き込まれたくないって思うなら、そろそろ潮時だと思うわ」
「巻き込まれたくないと思っているのは事実ですが、だからといって何もせずに帰りたいと願ってるわけでもないですよ」
何より、景虎様は当面の敵である三好家の勢力を、少なくとも山城からは退けたいと考えているのだ。俺もまたその考えに沿って動くのは当然である。
もっとも、眼前の少女が微塵も隙を見せてくれないため、それもままならないのだが。
いっそ謀略でも仕掛けてくれば、と思う。
こちらから戦を仕掛ける名分になってくれるのだが、当然のように久秀はそれも承知している。
「企んで見抜かれたら、久秀が景虎や虎綱の相手をしないといけなくなるじゃない。久秀、戦で勝ち負けを決めるのは好きじゃないの。戦を仕掛けるなら、完全に勝算が立ってからよ」
「戦わずして勝つ、ですか。それは立派な見識だと思います」
「でしょう? で、今回は動かないことに決めたの。どうせ半年も経たずにあなたたちは帰っちゃうんだもの。誠心誠意おもてなしして、気持ちよく帰ってもらえば、それで良いのよ」
――そうすれば、畿内は、再び三好家と久秀の天下となる、というわけか。
確かにそれは一つの戦略的勝利ではあるのだろうが、気になることもある。
「どうしてそれを私に仰るのです? 上杉の人間に手の内を明かしても良いことは何もないでしょうに」
「景虎や直江には言わないわよ。宇佐美も、茫洋としてるように見えて、少し危ないかな? でも、あんたなら大丈夫でしょう。景虎の天道に染まっていないあんたなら、ね」
嫣然と微笑まれ、おもわずぞくりとした。
しかし、そこは気合で顔には出さん。
「さて、何のことです?」
「あら、とぼけちゃって。こうやって久秀と何度も会ってれば、猜疑の目で見られるのも承知してるでしょうに。こりずに招きに応じてる時点で、あんたが上杉家でやろうとしてることはわかっちゃうわ。どうせ、このことだって景虎には言わないのでしょ?」
挑発するような久秀の言葉に、俺は小さく笑って首を傾げてみせた。
「それはどうでしょうか」
あら、というように久秀の目がかすかに細まる。
そうして、久秀が口を開きかけた時だった。
やや慌てた様子で、久秀の家臣が茶室の戸を叩き、上杉軍からの急使が来たことを告げたのである。
何事か、と俺は久秀と思わず目を見合わせたのだが、その答えはすぐに急使の口から聞くことが出来た。
先刻、遠く越後から政景の使者が駆け込んできたという。
越後で何事が起こったのか、と緊張する俺。使者の顔を見るに、どう考えても吉報ではない。
果たして、それは凶報であった。
きわめつけの、と言ってもよいくらいの。
越後守護職上杉定実様が倒れたのである。
◆◆
その頃。
駿河国善徳寺。
その一室で静かに向かい合う者たちがいた。この場にいるのは、三家。すなわち――
甲斐武田家。
駿河今川家。
相模北条家。
いずれも、東国中に名を知られた有力な家であり、その当主たる武田晴信、今川義元、北条氏康は、いずれも文武双全の名将として名高い。
その三家の大名たちが、一堂に会する。それは本来ならばありえないことであった。盟約を結ぶにしても、何も大名本人が出向く必要はなく、重臣を派遣するのが常であったからだ。
だが、三者はここまで出向いた。三国同盟の提唱者である今川義元は当然としても、武田、北条の両家がそれを承諾したのは、両家ともに、この盟約がもたらすであろう変化を望んだからであった。
「……まずは、はるばるのお越しに感謝いたしまする、晴信様、氏康様」
深みのある、人生の年輪を感じさせる落ち着いた声音は、今川軍の大軍師太原雪斎のものである。
齢すでに五十を越えていながら、その立ち居振る舞いはいささかの乱れもなく、言語は明晰そのものである。今川の軍師として、その名は海道全域に知られている雪斎であるが、白一色となった髪と眉が、この大軍師が歩んできた道のりが、決して平坦なものではなかったことを示していたであろう。
この三国同盟を武田、北条の両家に持ちかけたのは今川家であったが、それを実現にまでこぎつけた功績は、ひとえに雪斎の手に帰せられることを、この場の諸将は承知していた。。
その雪斎に、晴信は淡い笑みで答えた。
「どういたしまして、雪斎和尚。しかし、感謝の必要はありません。此度の盟約に我が武田の益を感ずればこそ参じたのです。私にそう確信させるに至った和尚の手腕、実に見事でした」
その晴信の言葉に、北条家の主も続けて頷いた。
「そうですね。晴信殿の申されるとおりです。この盟約は東国の秩序を一変させるに足るもの、来ないという選択肢を選べる筈もありません。もちろん、それにこぎつけた和尚の誠実も、私がここに足を運んだ大きな理由の一つです」
関東の雄、北条家当主、北条氏康。
灯火の明りを受けて輝く黒髪は、まるで黒真珠のような光沢を放ち、氏康の端整な容姿をより一層引き立てる――筈なのだが。
今、氏康はその髪を肩のあたりでばっさりと切り落とし、無造作に頭の後ろで一つに結わえているだけの格好であった。
この暴挙(?)が、相模の農民、兵士、老若男女、身分の上下を問わずに「惜しい」とため息をつかせるという被害を発生させていることを、後ろに控える北条綱成は知っている。
おまけに、自らの容姿に無頓着な氏康は、綱成や近習が注意しなければ、ろくに化粧もせず、衣装も選ばずに政務をとり、家臣に会い、時に城下にまで出て行ってしまう。
今の氏康は、その黒髪の魅力を半分がた放り捨てている点を除けば、生来の容姿を存分に輝かせているのだが、これとて綱成たちの必死の努力の賜物なのである。
「姉者は、政務好きもほどほどにして、もっと自分のことを心配せねば」
繰り返される綱成のぼやきに、氏康はぱちりと開いた眼を嬉しげに瞬かせ、次のように答えるのが常だった。
「うん、そうだね。気をつけます。綱成たちに迷惑かけてばっかりではいけませんよね」
「――と姉者がいって、実行された例がないような気がするのは気のせいでしょうか。どうせ政務の時間になれば、何もかも忘れて没頭されてしまうのでしょう?」
「あ、あはは、今回は大丈夫です。多分、きっと」
「はあ……政務に関しては完璧といって差し支えないのに、どうして自分自身のことに関しては、こうもだらしなくなるのか」
「う……いつも感謝してます、綱成」
「そうして、しおらしげにそう言われたら、許さざるをえないではありませんか。まったく、おずるい」
そう言いつつも、甲斐甲斐しく姉の世話を焼く綱成であった。
ただ、時折自分の年齢を考えると、ため息が出てしまうが。
(……私、まだ二十歳にもなってないんだけど、なんでこんな所帯じみてるんだろう?)
などという綱成の悩みを、無論、雪斎は知らない。いや、もしかしたら今川家の諜報網で知っているかもしれないが、それを表情には出さない。
氏康の言葉に、雪斎は丁寧に頭を下げた。
「恐縮でございます」
そうして、最後に口を開いたのは、その雪斎の主君であり、三国同盟を提唱した今川家当主、今川義元であった。
「ご両所にここまで足労いただいたことは、まこと感謝の極み。この義元、幾重にも礼を申さねばなりませんな」
三人の中で、ただ一人だけの男性である義元が、口元を扇で隠しながら高らかに笑う。
男としても大柄な義元と並ぶと、晴信はもちろん、氏康さえ子供のように見えてしまうかもしれない。
だが、その大柄な体躯から感じるのは、無骨な猛々しさ、騒々しさではなかった。
義元の仕草一つ一つが、香るような雅に満ち、涼やかな男気を見る者に感じさせる。京文化に耽溺した大名や武士はどこにでもいるものだが、京文化を内に修め、それを体現出来るほどの教養を持つ者は数えるほどしかいまい。
そして、今川義元は間違いなくその中の一人であった。
「天下を娶る色男」と自称する義元だが、なるほど、相対してみれば、それはあながち自惚れというわけではない、と晴信も氏康も感じ取っていたのである。
この時、善徳寺の盟約の場にいたのは、今川家は義元と雪斎、北条家は氏康と綱成、そして武田家は晴信のみだった。
すでに盟約の詳細は詰められており、あとは互いに誓紙を取り交わせば、三国同盟は成る。
通常、盟約の締結は、婚姻ないし人質の交換とあわさるものなのだが、雪斎はこの盟約に関しては、あえてそれらを口にしなかった。
東国に名を知られた大名家の当主たちである。信義を疑うがごとき真似をする必要などないでしょう、というのが雪斎の主張であった。
無論、これをそのままの意味で受け取るのは人が好すぎるというものであろう。
晴信が見るところ、雪斎はこの盟約締結における三家それぞれの利益が、当分の間続くことを見越し、あえて人質を用いないようにしたのだと思われた。
同盟を、誓紙の取り交わしのみをもって為そうという今川家の大度に異議を唱えれば、晴信にせよ、氏康にせよ、義元よりも器の小さいものとみなされる。少なくとも、今川家ではそうとらえ、今後に利用しようとするだろう。
逆に言えば、人質がいようがいまいが、三国同盟に利益を見るかぎり、盟約を破棄する者がいる筈もなく、また利益がなくなり、盟約の続行に価値なしと判断すれば、人質の有無で行動を左右するような柔弱者は三家にはいない、と雪斎は判断したことになる。
そんなことを考えながら、晴信は誓紙をとりかわしたのだが、その直後、義元が不思議そうな顔で訊ねてきた。
「しかし、晴信殿。お一人とは大胆ですな、かの六将の一人なりと会えるかと思って楽しみにしておったのだが」
「――それはあてをはずしてしまってすみません。今は皆、手を放せない案件を抱えていまして、この場には私一人で十分と判断したのです」
「たしかに、晴信殿ほどの方だ、そこらの曲者にかなう筈はないか――手を放せぬ案件というと、やはり、信濃制圧の準備ですかな?」
義元の目が、一瞬光を強めたのを、晴信は視界の端でとらえながら、あっさりと頷いた。
「ええ、間もなく京に向かわせた軍勢を戻します。将軍家仲介の和睦も、そこで終わりますから。この盟約が間に合って良かった」
「なるほどな、そういえば上洛は武田家に先んじられてしまったことになるか。ふはは、東国で一番乗りはわししかおらぬと思うておったのだが、まことに残念だ」
「ふふ、上洛と言っても、三千の軍を、数月、京に置いているだけのこと。京の一城とて支配しているわけではありません。義元殿の上洛がなれば、それこそ真の意味での一番乗りであること、万人の目に明らかでありましょう」
互いににこやかに話し合っているようにみえて、その端々に刃の気配が入り混じってしまうのは、戦国の雄なる者同士の必然というべきであったかもしれない。
「将軍家直々のご命令とあらば、晴信様が兵を遣わされたは当然のこと。かなうならば、現在の京の情勢、戻られた方から聞かせていただきたいものです」
穏やかに両者の間に割って入ったのは雪斎であった。
「――そうですね、今川家には当主就任の際から力を借りています。上杉との戦の後でよろしければ、京に遣わした将を駿河に向かわせましょう」
晴信がそう言うと、雪斎と義元は同時に頷いてみせた。
すると。
「あの、晴信殿、よろしいでしょうか?」
「なんでしょう、氏康殿。何かお聞きになりたいことでも?」
「はい、越後の長尾家の、いえ、今は上杉家でしたか。かの家について少々お聞きしたく思います。我らこれより関東に踏み込みますが、関東管領が越後を頼る可能性がありますので」
「たしか、現関東管領は、姓こそ同じですが、越後とは仇同士のはずでは? それでもあえて越後を頼ると?」
晴信の問いに、氏康と綱成は顔を見合わせた。
次に口を開いたのは綱成の方である。
「たしかに仰るとおりなのですが、関東管領上杉憲政、はっきりいって柔弱にして無能。何をするやらよめないところがあります。たとえ仇にあたる家であろうと、自らの身が危ないと思えば、平気で関東管領の家柄を振りかざして助けを求めるでしょう。かつて、関東管領の処罰とうそぶいて、奇襲同然に我らが本拠にせめてきたように」
唇をかみ締める綱成を見て、晴信はわずかに考えに沈む。
そうして、すぐに結論を出した。
「確かに、あまり芳しい噂を聞く方ではありませんね――よろしいでしょう。あるいは越後の兵力を分散させることが出来るかもしれません。さすれば、両家にとって益となりますね」
その言葉に、氏康と綱成は同時に頷いた。
越後上杉家にとって、受難の季節が訪れようとしていたのである。
◆◆
三家が善徳寺を出る時。
晴信は、今川家の主に問いを向けた。
「ところで……あの者は、駿府でどうしていますか?」
「む、あの者?」
一瞬、義元が誰のことか、と不思議そうな顔をする。
すぐに答えたのは、その隣にいた雪斎であった。
「我らの庇護の下、お健やかに過ごされておられまする。かつて鋭かった牙も、駿府の甘露に丸くなっているように見受けます」
「お、信虎殿のことであったか。いや、すまぬすまぬ。雪斎の言うとおり、このごろはすっかり丸くなっておってな。氏真も『武田の翁』と呼んで慕っておるぞ」
二人の言葉を聞き、晴信はにこりと笑って頷いた。
「そうですか、それは何よりです」
「うむ、今度、家臣の一人でも遣わされよ。以前の信虎殿を知る者が良いな。あまりの変わり様に驚くことであろうよ」
そういって、呵呵と笑う義元に、晴信はもう一度、小さく呟いた。
「……そうですか」
その声に秘された感情に、眼前の二人は気づかない。
あの今川義元と、太原雪斎の洞察力ですら及ばぬほどに、その感情は深く、深く秘されていたからである……