しんと静まり返った室内に、茶を立てる音が心地よく響く。
景虎様はじめ、兼続や虎綱らは落ち着いた眼差しで、部屋の主の流れるような作法に見入っていた。そこには少なからず感嘆の色が窺える。彼らの目から見ても、この部屋の主――朝倉宗滴の茶の手並みは見事の一語に尽きるのだろうと思われた。
もっとも、皆が皆、その手並みに見惚れていたわけではない。
茶の湯の作法なんて欠片も知らない俺は、内心で慌てまくっていた。
あれか、飲む前に茶碗を三回、まわすんだっけ? 右にか、左にか、そもそも三回で合っていたっけ??
越後にいた時に茶を飲むことはあったが、こういった格式ばったのみ方をしたことはなかった。当然というか、そのための作法は学んでいないし、元の世界で茶道をやっていたという事実もない。
かくて俺は、下座に座りながら、だらだらと汗を流す羽目になっているのである。
そして、そんな不審な客の様子に気付かない部屋の主ではなかった。
「――天城殿」
「は、はいッ?!」
こうなったら、景虎様たちの様子を仔細に観察し、それを真似るしかないと覚悟を決めたところに、突然名指しで呼ばれたため、俺は不自然に声を高めてしまった。
一瞬で周囲から視線が集中し、俺はますます汗だくになってしまう。
「冬の近づく今、茶室は冷える。そのため、暖をとっていたのだが、いささかそれが過ぎていたようです。申し訳ない」
「い、いえ、結構なお手前、ではない、暖かさでちょうど良いです、はい」
「そうですか? しかし、さきほどから幾度も汗を拭われているようにお見受けするが……」
「や、それは、ですね――」
なんと誤魔化そうか、と思案したが、宗滴の深みのある眼差しにじっと見つめられると、そういった誤魔化しがとても失礼なことのように思えてしまい、俺は言葉に詰まった。
そもそも、なんで義景が当主のこの時代、宗滴がこんな若いのか。それも定満のように若く見える、というわけではなく、実際に若いらしい。景虎様と同年だとか。なんでも当主継承時、幼子であった為、寺に預けられていたのだそうだが、宗滴がこの若さで朝倉家にいるとなると、今後の近畿の展開、かなり違ってくるのではあるまいか。
そして例のごとく女性だった。これはもういまさらなんで気にならん。それもどんなもんかと思うのだが、慣れだな、きっと。
実のところ、はじめに会った時は凛々しい甲冑姿だったので、随分綺麗な男だな、としか思っていなかった。
しかし、名前を聞いて驚き、さらに甲冑を脱いだ宗滴の姿を見た俺は、質素な衣服の上から、女性らしい身体の起伏をはっきりと確認して、もう一度驚いた。まあ、言葉を飾らずに言うと、宗滴はとてもスタイルが良かった、ということである――自分で言っててなんだが、なんかすごい違和感を感じる言葉である。宗滴というと、俺の中では上野の長野業正と並ぶ戦国老将の双璧なのだが、その宗滴が、切れ長の眼差しが印象的な美人さんだとか、一体どうなっているのやら。
……まさかとは思うが、長野業正も若い美人だったりするのだろうか。あなおそろしや。
「おい、颯馬、何をぼうっとしているッ」
兼続の低く抑えた声に、はっと我に返る俺。見れば宗滴はいまだにじっと俺の様子をうかがっている。いかんいかん、現実逃避の思考にふけっている場合ではなかった。
俺は慌てて宗滴に頭を下げる。
「実のところ」
「うむ?」
「……作法がわからないので、焦っていただけです」
誤魔化したところで、どうせすぐにぼろが出るだけだから、と正直に話す。
最初からそうしておけば良かったと思わないでもない。
唐突な俺の告白を聞き、兼続が思わず、といった感じで声を高めた。
「な、なに、そうなのか?!」
「はあ、そうです、兼続殿」
「ば、ばか者、それならそうと何故言わん。茶と酒は武人の嗜みだぞ。景虎様に仕える身が知らんではすまされん。知らないのならば、先に教えておいたものを」
「い、いや、越後でそういった機会がなかったもので。こういう場があるとは……」
「そういえば、颯馬はそういった席には無縁だったな。てっきり、晴景様から教えをうけているものとばかり思っていたが……」
呟くように言う兼続。きけば、晴景様はその道にかなり秀でていたらしい。もっとも、俺はそういった教えを受けたことは一度もないし、茶の席に呼ばれたこともなかった。多分、あの頃の晴景様は、茶の湯どころではなかったのだろう。
ともあれ、要らぬ心配をかけたことを詫びる俺に、宗滴は小さく頭を振ってみせる。
「茶の湯などと言っても、私のそれは道を云々するものではない。寛いで喫していただければ、喜び、これにすぐるはなし。かしこまる必要はござらぬ、天城殿」
「恐縮です」
そう言って、あからさまにほっと安堵する俺を見て、宗滴は口の端に笑みを浮かべた。
兼続はどこか呆れたように、虎綱は口元を手で押さえて笑いを堪えている。
そして、景虎様は――
「颯馬は幸せ者だぞ。はじめての茶で、九十九髪茄子(つくもなす)が用いられるのだから」
「九十九髪茄子?」
「天下に名高い茶器のことだ。正直なところ、さきほどから眼が離せぬ」
そう言って、景虎様が見つめる先には、茶を入れるための容器らしきものが置かれていた。
漆塗りの胴体部が、室内の微細な灯火を映しだし、陰影に富んだ色彩を見せている。
俺にこの手の物の善し悪しなぞわかる筈もないが、それでもこれが得難い一品であることは理解できないこともなかった。
――まあ、多分、景虎様の言葉がなければ、何の変哲もない小型の壷にしか見えんかっただろうが。そういえば、松永久秀が抱えて爆死したというのはこれだったかな……あ、いや、あれは平蜘蛛だった。
そんなことを考えながら、俺は宗滴が点ててくれた茶を、助言どおり肩肘はらずに飲むことにする。
とはいえ、まさか普通に茶碗をとって一気に飲み干す、なんてことは出来ない。景虎様たちの様子を真似し、右手で茶碗を抱え、左手に乗せ、軽くおしいただいた後、ふところまわし(時計まわり)に二度まわし――などという作法を不器用になぞった。傍からみると、ずいぶん滑稽な動きだったのではと思うが、気にしてはいけない。まあ、兼続が厳しい顔をしてたので、あとでこってり叩き込まれることになるだろう、多分。
俺たちは上洛を急ぐ身であり、朝倉家は上洛に参加しないことを明言している。
それゆえ、本来なら、越前でのんびりとしているのは双方にとって好ましくないのだが、宗滴の人柄が俺たちをこの地に惹き付けた。
決して多弁な人ではないし、表情が豊かというわけでもないのだが、何故かこの人の傍らにいると落ち着けるのである。武将としての宗滴は、厳しい軍紀で将兵をまとめあげ、自ら陣頭に立って敵軍を蹴散らす勇猛果敢な将であるとのことだが、平常の宗滴からそういった戦働きを連想することは、なかなかに困難なことであったろう。
誰かに似ている、などと考える必要もない。宗滴は、景虎様ととても良く似ているのだ。姿形ではなく、その在り方そのものが。俺たちが居心地の良さを感じるのも、当然といえば当然のことであった。
ただ、似た人柄であっても、否、だからこそ反発する人も少なくない。自分に似た人だからといって、好感ばかり抱けるわけではないのである。
しかし、景虎様と宗滴の二人に関しては、これは当てはまらなかった。
あまり口数の多い二人ではないから、延々と語り合ったりするわけではないが、互いに通じるものがあるのだろう。今は武将らしく戦談義に花を咲かせているわけだが、二人は昨日今日はじめて会ったとは到底思えないほどに、良く話が合っていた。
そして、その場で宗滴から、俺はとある質問を受けた。
「政略と戦略、そして戦術の違い、ですか?」
俺は、腕組みしつつ次のように答えた。
「そうですね、誰と戦うかを決める段階が政略で、どうやって目的を達するかを考える段階が戦略で、実際に戦場で敵と矛を交える段階が戦術、と。そんなところでしょうか。かなり大雑把ですが」
それをきいた宗滴の口から小さく、ほう、と声がもれた。
「天城殿は、兵書を読まれるのか?」
「読んだ物もある、という程度です。それにしたところで、六韜三略、四書五経を読破したわけではないので、誇れるようなものではありませんが」
「運用の妙は一心に存すという。兵書をどれだけ読もうとも、掴めぬ者は何も掴めぬ。しかし、そなたは感得するものがあったのだろう」
宗滴は覗き込むように俺をじっと見つめる。眼をそらすことも出来ず、しばし見詰め合う俺と宗滴。やがて、宗滴はゆっくりと視線をはずし、景虎様に向き直って、どこかしみじみとした調子で口を開いた。
「――景虎様は、良い臣を持たれた。羨ましく存ずる」
「宗滴殿ほどの方に、我が臣をそこまで高く評価していただけるとは光栄です」
景虎様は俺の方を向き、茶目っ気まじりに片目をつぶってみせる。
「颯馬、大変な栄誉だぞ。これで無様な指揮をしようものなら、宗滴殿の言を否定することに繋がってしまうからな。さあ、大変だ」
「……景虎様、なんか面白がってませんか?」
「さて、何のことやら」
明らかに楽しそうな表情を浮かべた景虎様。多分、俺がほめられたのを喜んでくれているのだろうが――し、しかし。
見れば、宗滴の穏やかな視線が俺に注がれている。
名高い二人の名将に同時に見つめられ、俺は妙な気恥ずかしさを感じて、視線をあさっての方向にそらせることしか出来なかったのである。
思わぬ楽しい時間は、だが、それゆえに風のように過ぎ去ってしまう。
俺たちは京へ、そして宗滴はこれから出陣する予定であるという。どこへ、とは言わなかったから目的地はわからないが、おそらくは加賀の一向宗相手の戦であろう。
親しくなったとはいえ、他国の人間に軍機密をあっさりともらすような真似を、公私の別をわきまえた宗滴がする筈はなかった。
だが、その宗滴が、目的地を明言しなかったにせよ、これから合戦があると告げてくれたのは、どうしてか。
それはおそらく、朝倉家の一員として、上洛のために守護不在の加賀へ侵入しようとする詐謀じみた戦に対して、自分が出来る範囲でけじめをつけてくれたのだと思われた。
『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』
宗滴の言葉として有名な一節である。
勝利こそが武将の本義。計略も武略も、勝利のための要諦ではあるが、しかし宗滴は、勝つために何をしても良いと言ったわけではない。守るべき一線というものは、厳然として宗滴の中に存在しているのであろう。
ただ、今回の場合、俺にしてみれば朝倉家の加賀攻めは諸手をあげて歓迎したい気分である。ただ、戦に赴くにしては、宗滴が率いる軍兵の数が少ないのが気になるのだが。あるいは国境付近で合流する予定なのだろうか。
いずれにせよ、立場上、口にはできないが、宗滴に勝ってもらいたいというのが、まぎれもない俺の本心である。
そのためには、件の一事を宗滴に伝えたいところなのだが、しかし、これを言うと、俺は晴貞を上洛軍に迎え入れておきながら、その本拠を壊滅させようとする策謀家に堕してしまう。それを否定するためには、晴貞の事情を伝えなければならないのだが、晴貞の許可なくそんなことを他者に知らせるのは、別の意味で外道であろう。
宗滴が守るべき一線を守りながら、俺たちに礼を尽くしてくれたように、ここは俺も宗滴に習うべきであろうと思われた。
そうして悩んだ末に、俺はあまりにも有名な言葉を口にする。
「敵を知り、味方を知れば百戦してあやうからずと申します」
「む?」
「どうか、情報の収拾を密になさいますように」
案外、敵が勝手に混乱している可能性もなきにしもあらずです、とは言いたくても言えないが、あの朝倉宗滴であってみれば、孤立した大聖寺城を陥とすことは難しいことではあるまい。
この時、朝倉家の内情をくわしく知らなかった俺は、そんな風に考えていたのである。
まさか、宗滴がろくに兵も兵糧も与えられず、加賀の地に攻め込むことを強いられているなど想像できる筈がない。
宗滴は史実のように、朝倉家の軍略を司っている大物だと、俺は思い込んでいたのである。
宗滴にとってみれば、俺の指摘は唐突で、しかもいまさらな観が拭えなかっただろう。敵地に踏み込む際、くわしい情報を集めるのは当然のことであるのだから。
だが、宗滴はそんなことは口にせず、俺の助言に丁寧に礼を述べ、麾下の将兵を連れて、俺たちと道を違える。
質実な武将らしく、景虎様と宗滴の別れの挨拶は、互いの武功を祈るだけの簡素なものであった。
離れいく宗滴の後ろ姿に、一瞬、不吉な影を感じたのは、おそらく俺の気のせいであったのだろう。
――かくて、この後、加賀で行われる『大聖寺城の戦い』は、俺たちの上洛とは別の物語となるのである……
――などと書くと大げさだが、実際のところ、宗滴の大勝利だったそうだ。俺が感じた不吉な影は、ほんとにただの気のせいであったらしい。申し訳ない。
宗滴の軍を寡兵と侮った大聖寺の軍勢は、城を出て朝倉勢と対峙したものの、宗滴はわずかな手勢を縦横に駆使して、これを撃滅、大聖寺城に押し寄せる。
城側は最も近い小松城に援軍を求め、篭城戦に移るが、頼みの援軍は一向に来ず、結局宗滴の手で城は陥とされてしまう。
この敗報を受け、尾山御坊の本願寺勢は、大規模な大聖寺奪還の軍を起こす。
公称三十万。誇張はあるだろうが、たとえ実数がその十分の一だとしても、おそるべき大軍であった。
この大軍の猛攻にさらされた宗滴は、しかし慌てる様子もなく、大聖寺城に拠って防戦する。その守城指揮は完璧で、一向宗の大軍は手も足も出ずに退却するしかなかったらしい。
ここに、朝倉家は加賀の地に橋頭堡を得て、その武名を飛躍的に高めることになる。実際の指揮官である朝倉宗滴の名は、その美貌と武功があいまって『奇跡の麗将』として各地に伝えられていくことになるのである……
◆◆
一方、越前を通り過ぎた上洛軍は、いよいよ山城の国の手前までやってきていた。
北近江? とくべつ語るようなことは何もなかった。ええ、まったくありませんでした。
浅井長政は普通の男武将だったしな。まあ、その部下が少々普通ではなかったが……
俺はふと浅井長政と対面した時のことを思い起こす。
というか、その席で、いきなり襖をあけて飛び出してきた三人の武将のことを思い起こす。出来れば忘れたいが、色々な意味で忘れられん。
その三人は、唐突にあらわれ、高らかにこう叫んだのである。
状況を詳細に示すために(というか、形容するのが面倒なので)台本形式で記そう。
仮面をつけた三人、飛び出す。
雨森弥兵衛「浅井の闇は、俺が祓うッ!」
海北綱親「浅井の敵は、俺が屠るッ!」
赤尾清綱「浅井の明日は、俺が築くッ!」
三人、ここでポーズ。
雨「人呼んで、浅井一号!」
海「人呼んで、浅井二号!」
赤「人呼んで、浅井ぶいす――」
颯「はい、お帰りはあちらです」
ぴしゃりと襖が閉じる音。幕が下りる。
その後、音声だけが流れる。
景「そ、颯馬、良いのか?」
颯「良いんですッ! 景虎様は見てはいけません」
景「そ、そうか、わかった。颯馬が言うなら、そのとおりなのだろう」
颯「ええ、そうですとも。長政様もそう思われますよね?」
長「………………ああ」
終。
――ほら、何もなかった。誰が何と言おうと、何もなかったのである。
◆◆
かくて、ようやくたどり着く。
山城の国――京の地へ。
戦らしい戦もなく、ここまで来られたため、上洛軍の兵力は八千のままである。将軍にとっては頼もしい戦力がやってきたことになるだろう。
だが、その一方で、この軍勢を歓迎しない者たちがいることも当然のことであった。すでに上洛軍の情報は、随分前から京中に知れ渡っていたらしい。つまりは、邪魔したい者たちにとって、準備する期間は十分にあったということである。
京の地に入る俺たちの前に立ちはだかったおおよそ三千の軍勢。
掲げる旗印は『三階菱』――近畿、四国にまたがる大勢力を有し、将軍家を傀儡とする大家、三好家の家紋である。
両軍の間に、瞬く間に緊張がはしる。特に将軍家の使者である細川姉妹の顔は険しい。ここに三好家が現れたことの意味を、二人ほど良く知る者はいない。
だが、そんな中、俺は訝しさを隠せずにいた。
三好軍三千の先頭に立っている人物が、あまりに場違いだったからである。華美な衣装を身に付けているが、ほとんど子供と言って良い小柄な体格の、あれは女の子ではないのか。
両軍の距離が近づくにつれ、俺は自分の見立てに間違いがないことを確信する。
一方で、細川姉妹の敵意はふくれあがるばかり。それも、明らかにあの少女に向けられたものである。
細川姉妹が、あの少女のことを良く知っていること、そして激しく敵視していることは誰の眼にも明らかであった。
怒り、戸惑い、警戒、不審――八千の軍勢の視線を総身に浴びながら、しかし少女は眉一つ動かさず、穏やかに笑んで見せる。
子供のように無邪気な、蕩けるような笑み。同時に、少女の立ち居振る舞いは都の者らしい気品が溢れ、さらに見る者によっては不意に背筋を撫でられるような、奇妙な色艶を感じる者さえいた。
本来、並存する筈のないそれらを、しかし、少女は一身に修めている。その一事だけをとっても、眼前の少女がただものでないことは明らかであった。
一体、何者、と内心で身構える俺の声が聞こえたかのように、少女の艶やかな唇が開かれた。
透き通るような、けれどどこか甘さを感じさせる声があたりに響きわたる。
「ようこそいらっしゃいました、上杉家、武田家の皆様。そして冨樫家の主様。殿下の招請に応え、はるか東国の地より、この京に参られし皆様の忠誠、感じ入るばかりにございます」
そう言って、少女が優雅に礼をする。ただそれだけの動作なのに、こぼれるような気品が見る者の目を奪う。
――そうして、少女は己が名を口にする。
「私の名は、松永久秀。公方様の命により、皆様の京での案内役を務めさせていただく者にございます」
にっこりと微笑みながら……