加賀の国を南に縦断する上洛軍。
その中ほどで馬を進ませつつ、俺は思案顔を浮かべていた。
小松城での交渉は成功し、晴貞は正式に上洛軍の一員として迎えられた。実は上洛軍で一番身分が高いのだが、率いる兵力が一兵もないので、実権はないに等しい。まあ晴貞本人も、軍事に口出ししようなどとは露思っていないだろう。
交渉の結果を伝えに行った時の晴貞の唖然とした表情と、その一瞬後にくしゃくしゃに歪められた顔を思い出す。今回の件では思うところが色々あったが、それでも喜んでくれた人が、確実に一人はいるのだから、決して意味のないことではなかったのだろう。
感極まって、傍らの虎綱に抱きつき、大声で泣き出した晴貞様の姿を見ながら、俺は安堵で胸をなでおろしたのであった。
とはいえ、やはりわだかまりは残っていたのだろう。
それが表情にあらわれ、俺の馬の轡をとる弥太郎に気付かれてしまった。
「あの、颯馬様、難しそうな顔をされて、どうしたんですか?」
「ん、少し考えごとをしてた」
晴貞様の自由は、一時のことである。上洛が終われば、加賀に帰らなければならず、そうすれば元の木阿弥であろう。もっとも、そちらに関しては手はいくらでもある。たとえば名誉の戦死をしてもらうとか、突然の病で亡くなられたとか、晴貞が帰る必要のない理由をこしらえれば良い。
ただ、そうすれば晴貞は守護としての地位と立場を失い、一庶民になることを意味する。正直、晴貞が世間の荒波に放り出されて、一人で生きていけるとは思えない。少なくとも、当分の間は誰かが傍らについている必要があるだろう。
だが、このご時世、見返りもなしに人一人の面倒を見てくれるような酔狂な人間はそうそういないだろうし、ついでに言えば晴貞の器量を見ればよからぬたくらみを持つ輩がすり寄ってくるかもしれない。
上杉家、あるいは武田家で匿えば、そういった問題は霧消するが、別の問題が生まれてしまう。
一つは守護職でなくなった晴貞を、定実様ないし晴信が受け入れるかどうかである。そして、これにも関わることだが、もう一つ。晴貞様の存在そのものが、他国の猜疑を呼んでしまうという点が挙げられる。
加賀守護として数年を過ごしている晴貞の容姿を知る者は、かなりの数にのぼる。たとえ素性を隠して上杉家なり武田家なりですごしていようと、どんな拍子で正体が露見しないものでもない。そして、一度露見してしまえば、今度は隠していたこと自体が厄介事の種になる。すなわち、晴貞の存在を利して、加賀をうかがう野心がある、と判断されてしまうのである。そうなれば、本願寺との関係も険悪なものとなり、一向宗との敵対という事態にまで発展する可能性があるのだ。
定実様も、そしておそらくは晴信も、人としての情は持っているが、守護ともなれば、そういった可能性も考慮して事を決していかなければならない。晴貞を受け入れるということは、そういった危険を自家に取り込むということを意味する。そして、見返りとなる利益は無いに等しい。
もう少し深読みすれば、上杉、武田、どちらが晴貞を引き受けるにしても、俺と虎綱がその事実を知っている時点で、互いの家の弱みを握った形になってしまうのである。
「……考えれば考えるほど厄介だ」
俺がため息を吐くと、話の内容にやや怯んだ様子の弥太郎だったが、何とか俺を元気づけようと、おおげさに声を高め、拳を振りかざす。
「う、そういったことはお役に立てませんけど……で、でも、そのやっぱり颯馬様はすごいですッ。さっき会った晴貞様、とっても嬉しそうに笑ってました。私にも丁寧に頭を下げてくれて、助けてくれてありがとうって仰ってくれました――って、わ、私、守護様に頭なんか下げさせてよかったんでしょうかッ?!」
自分の言葉に、自分で顔を青くする弥太郎。
俺は馬上から手を伸ばして、おろおろしている弥太郎の頭をぽんぽんと叩いてやった。弥太郎は徒歩なのだが、背が高いので、手を伸ばせば普通に頭に届くのである。
ふと見れば、兜をかぶっていない弥太郎の髪は、胸のあたりまで伸びてきている。初めて会った頃に比べると、随分長くなったものだ。
「ふあ?! あ、あの、颯馬様?」
「晴貞様の感謝の気持ちだ。素直に受け取っておいて良いと思うぞ。弥太郎にそんな恐縮される方が、多分、晴貞様は悲しむと思う」
「そ、そうでしょうか……うーん、わ、わかりました、気にしないようにします」
「ああ、そうしてくれ」
それで話は終わりかと思ったが、どうやらまだ弥太郎は問いたいことがあるらしい。
というか、不満に思っていることがある様子。少し頬を膨らせているし。なんだなんだ?
「……どうした、弥太郎?」
「うう、言おうか言うまいか、ちょっと悩んでたんですが」
「ん?」
「あ、あのッ」
弥太郎は真剣な表情で、馬上の俺の顔を見上げる。そして、強い口調で問いただしてきた。
「晴貞様をひどい目に遭わせた連中、あのまんまにしておいて良いんですかッ?! 放っておいたら、また晴貞様にひどいことするんじゃないですかッ?!」
「……ああ、するだろうなあ。あの手の輩は、恨みは忘れず、反省はしないって手合いばかりだし」
「だったらッ!」
俺の言葉に、弥太郎は手を振りかざし、さらに意見を述べ立てようとする。
だが。
「弥太郎、やめなさい」
冷静な声が、俺と弥太郎の間に割って入ってくる。俺の隣で馬を歩ませていた段蔵であった。
「でもッ。段蔵は晴貞様が心配じゃないのですか?」
「ええ、心配はしておりません」
あっさりと断言する段蔵。
予想外の答えに、弥太郎が目を丸くする。
だが、弥太郎の目に浮かぶ感情が、呆然から義憤へと変わる前に段蔵は言葉を付け足した。
「――勘違いしないように。心配しないのではなく、心配する必要がない。そう言っているだけです」
「へ?」
さらに目を丸くする弥太郎。しかし、女の子がその言葉遣いはどうかと思うぞ、うん。
それと段蔵、わざとらしく俺に呆れた視線を向けるのは止めるように。
「――向けさせているのは誰ですか。どうせあの連中に報いがいくように策をほどこしておられるのでしょう?」
「さて、何のことやら。俺はいささかもやましいことなんてしてないぞ。その証拠に、今回は軒猿に何の指示も出していないだろ?」
「確かに。こちらの人手不足を慮っていただいて感謝しております。越中からまとまった人数が戻るまではいま少しかかりそうです」
「こき使って申し訳ない」
「いえ、それが忍の仕事ですから――で、話を戻しますと。弥太郎」
「は、はい?」
「あなたは、私より天城様にお仕えしている期間は長いのでしょう。この方が、あの手の輩を無罪放免するような、温和な君子だと思っているのですか?」
「う、それは思いませんけど。颯馬様、お優しそうに見えて、時折怖いと思うこともありますし――って、ひぁッ?! だ、段蔵、何を言わせるんですかッ!」
何気に衝撃的な弥太郎の言葉に、俺が地味にへこんでいると、段蔵が動揺なぞかけらもない声で続けていく。
「あなたの不満を解消するためです。さて、温和な君子などではなく、実は弥太郎ほどの勇士にさえ恐怖を覚えさせる腹黒策士の天城様ですが――」
「言ってないッ! そこまでは言ってないよッ!!」
「――そんな天城様ですが、さて」
すっぱりと段蔵に無視され、よよと泣き崩れる弥太郎であった。たまに思うが、君たち面白いな。
「そんな方が、女性一人を大勢でなぶるような輩を放っておくはずがないでしょう。どうせ何かしら思い知らせる策を練っているに決まっています。多分、私たちが考えるよりずっとえげつなくて――そして、効果的な策を、ね」
そういって、小さく笑う段蔵。
「だから、私は晴貞様の今後については、特に心配していないと言ったのですよ。得心できましたか、弥太郎?」
「……うう、得心はできたけど、納得はいかないのは段蔵のせいだよ」
「弥太郎にあわせていると、話が終わるのが長引きますので」
さらりとトドメを刺された弥太郎の背に哀愁を感じたのは、多分気のせいだろう、うん。
「それで主殿。どのような思惑を秘めておられるのか、教えてはいただけないのですか?」
「あいにく、もったいぶって開陳するような策は仕掛けてないぞ。込み入った策を仕掛ける暇がなかったのは、段蔵だって知っているだろうに」
「それはつまり、込み入っていない単純な策なら施したということですね」
「……まあ、否定はしない。かなり運任せ、というより成り行き任せだけどな」
俺は肩をすくめつつ、白状する。実際、策などと言えるようなものではないのだが、段蔵はどうしても気になるらしい。情報を収集する忍の性というやつなのだろうか。
ともあれ、別に強いて隠す必要もないものなので、俺は簡単に説明することにした。
「色と欲に凝り固まった連中に、目の眩むほどの黄金を与えた。さて、仲良く分け合ってめでたしめでたしとなると思うか、弥太郎?」
「え、あの、私だったら、家が貧しい人にゆずりますけど……」
「だろうなあ。が、この場合、弥太郎みたいに優しくて欲の少ない人はいないからな。まあ普通に考えれば、取り分で揉めるだろう。見たところ、連中をまとめあげているような大物はいないようだったからな」
どんぐりの背比べ、というやつである。大方、本願寺はあえてそういった連中を城につけているのだろう。下手に有能な者を置けば、晴貞を担いで冨樫家の勢力を広げられたり、あるいは独立されてしまう危険が大きいと考えたのかもしれない。
城の中には、弥太郎たちに痛めつけられて憤懣やる方ない連中も含まれている。彼らが持つ俺たちへの憎悪は紛れも無いもので、必然的に上洛軍への対応についても紛糾するだろうことは疑いない。
今の小松城は様々な対立の火種が燻っている状態である。少し煽るだけで、たちまち城のどこかに着火するだろうと思われた。
だが。
「景虎様の許可もなく、そこまでするわけにはいかない。上杉が謀略を用いて国を乱したなどと知られたら、景虎様の天道を、俺の手で汚すことになってしまうから。だから、今はこれが精一杯の報復だ。連中が勝手に同士討ちしてくれれば御の字だな」
俺がそう言うと、弥太郎は納得したように、だがどこか残念そうな、複雑な顔で頷いた。
そして、段蔵はというと。
「――なぜため息を吐かれるのでしょう、段蔵さん?」
「いえ、中々に底を見せてくれない人だな、と思いまして。やっぱり、天城様は腹黒いお方です」
「別に嘘はついてないぞ?」
「けれど、本当の狙いも口にしていない――そう見ましたが、如何?」
「――鋭いな、本当に」
「観察力と注意力、この二つに秀でることこそ忍の精華。主の憂い一つ察せないようでは忍失格です」
その言葉に、俺は観念せざるをえなかった。
「まあ、あれだ。朝倉への手土産だ。以上」
「ッ!」
段蔵が、かすかに息をのむ音がした。
「……なるほど、大聖寺ですか。確かに、それならば……しかし越前の情報など、どこで。軒猿は動かしていないのに」
「ふっふ、俺には奥の手が幾つもあるのだよ――というのは冗談だが。朝倉が一向宗と険悪な間柄なのは、別に秘密でもなんでもない。争奪の焦点になっているのが大聖寺だというのも、加賀に少し詳しい者はみんな知っていることだ」
小松城が疑心暗鬼の巣窟になれば、大聖寺城は孤立する。朝倉家が大聖寺城を欲するのであれば、この情報はなかなかに貴重だろう。さらに言えば、大聖寺城を陥とした朝倉軍が北進すれば、小松城はたやすく陥落するだろう。朝倉家は加賀南部を所領に加え、そして晴貞は帰るべき城を失う、という寸法である。
「まあ、そこまで上手くいくとは思わないし、景虎様が他国の戦争に介入するような真似を許してくださるとも思えないが、手札を持っている分には構わないだろう」
そう言いつつも、晴貞のことさえ、そんな風に策略のピースに加えている自分に、少々本気で嫌気が差しはじめている今日このごろである。
◆◆
「うう、また私のわからない会話になってるよ……」
私って学がないからなー、としょぼんとうつむく弥太郎に、段蔵は澄ました顔で口を開く。
「弥太郎は、それで良いのですよ。私のような者ばかりが傍にいれば、天城様の気が休まる暇がなくなってしまう。今だって、私が追求していなければ、天城様は余計なことを口にしないで済んだのです。けれど、私はそれと知っていても確認しなければ気がすまないのです。忍としても、私自身の性分としても」
だから、と段蔵は言う。
弥太郎のように、心根の優しい者が天城の傍にいることは必要なのだ、と。
「そ、そうなのかな?」
「そうなのです。私に私の役割があるように、弥太郎には弥太郎の役割があります。自分を卑下する必要はありませんよ――とはいえ」
きらりと光る、段蔵の目。
「学を身に付ける分には、むしろ奨励したいくらいです。学を身に付けた程度で、弥太郎の心根が変わるわけではありませんしね。最近は天城様も随分と手がかからなくなってきてますし、ここは一つ、私が弥太郎に読み書きの手ほどきをしてあげましょう」
「え゛?」
「どうしました、蛙が踏まれたような声を出して?」
「い、いえ、でも段蔵も忙しいでしょうし、これ以上、余計な手間をかけるわけにはいかないと思うんです」
そう言って、二歩、三歩とあとずさる弥太郎。
段蔵の、天城への馬術教練を目の当たりにしている弥太郎にとって、段蔵の手ほどきは命を賭す荒行に等しい。遠慮したいというのが正直なところである。
だが。
「無論、無理にとは言いませんが」
「そ、そうですか、うん、大丈夫です。段蔵に迷惑をかけないように、自分で頑張りますから――」
「しかし、天城様も、自分の一の部下が読み書きできないとなると、色々と不自由になるかもしれませんね」
ぴくり、と弥太郎の肩が震えた。一の部下あたりで。
そんな弥太郎を視界の隅におさめながら、段蔵はさらに続ける。
「天城颯馬の配下として、勇猛名高き鬼小島弥太郎が、文武に秀でた名将に成長することが出来たなら、天城様もさぞ鼻が高いことでしょう。きっと史書にも明記されるでしょうね――あの天城颯馬の股肱の臣、その名は鬼小島弥太郎貞興である、と」
「――今日からよろしくお願いします、師匠」
「いきなり師匠ですかッ?!」
予測をこえた弥太郎の反応のよさに、さすがに段蔵は少し驚いたようだったが、すぐにくすりと笑うと頷いた。
「言うまでもありませんが、びしばしといきますので、覚悟しておいて下さいね」
「はい。万の軍勢に突撃するつもりでいかせていただきます」
おおげさにも聞こえる弥太郎の言葉だったが、段蔵は眼前の少女が嘘偽りを口にしないことを良く知っている。つまり、今の台詞は弥太郎の本気の覚悟ということである。
(……これは、むしろ私の方の覚悟が足りなかったかもしれませんね)
そんなことを思いつつ、段蔵はどこか満足げに顔をほころばせるのであった。
◆◆
越前一乗谷城。
「で、では義景様は上洛には加わらないと仰せでございますかッ?!」
鳥居景近は愕然とした様子で確認をとる。
上杉、武田、さらに加賀の冨樫の軍が加わったと噂される上洛軍。
将軍足利義輝は、北陸各地の大名たちに上洛軍への便宜をはかることを求めると共に、その参加を促していた。
朝倉家に仕える景近にとって、それは自身の武名を高める絶好の機会が到来することを意味しており、上洛軍の到来を今や遅しと待ちわびていたのである。
まさか、当主である義景が、上洛に否と言うとは予想していなかった。
「うむ。戦は飽いた。北近江の浅井も、ようよう国内を統一したようじゃし、これで当面の敵は加賀の一向宗のみじゃ。そちらは宗滴に一任しておるゆえ問題あるまい。ようやっと越前の地から戦火が遠ざかったのじゃ。あえて将軍の誘いに乗って、火中の栗を拾うには及ぶまい」
「し、しかし、将軍殿下みずからが書状を認められた要請を、拒絶なされば、当家の武名が地に堕ちてしまいますぞ」
景近は、主君を翻意させようと言い募るが、義景は顔色一つかえず、景近の言を聞き流すだけであった。
さらに口を開こうとした景近の耳に、傍らから鋭い叱責が浴びせられる。
「たわけ、貴様ごとき若造が、朝倉家の当主に対して異議を唱えるなぞ百年早いわ」
そう言ったのは朝倉景鏡。
朝倉家の一門衆筆頭であり、主君義景に次ぐ権力を有している人物である。
「し、しかし……」
「黙れ。そもそも、貴様は誰の許しを得て我らの前に膝を進めているのか。貴様の意見なぞ誰も求めておらん。さっさと末席で控えているが良い」
「ぐ……」
景鏡の傍若無人な言い様に、景近の頬が怒りで赤くなったが、相手は義景に次ぐ権勢を誇る人物である。下手に逆らえば、命が危なかった。
くわえて、若く実績のない景近は、軍議の度にすすんで意見を述べているが、それがとりあげられることは滅多になく、たまに取り入れられたとしても、その功績は他の家臣のものとなるのが常であった。
そういった境遇にあるため、忍耐心だけは鍛えられている。
景鏡の言に怒りを覚えながらも、何とか自制心を発揮し、景近は末席に下がっていった。
それを嘲笑で見送った景鏡は、主君に向き直り、口を開く。
「さて、殿の方針が非戦と決まれば、あとの雑事は我らの仕事でござる。殿にはゆっくりとお休みくだされい。小少将が待っておりまするぞ」
溺愛する側妾の名を出された義景は、だらしなく顔を歪めつつ、ためらう様子もなく立ち上がる。
「うむ、では後は景鏡に任せよう。頼んだぞ」
「御意。お任せくださいませ」
そうして義景が立ち去れば、後の軍議を仕切るのは景鏡しかいない。
家臣たちもこの状況に慣れきっており、特に異論を差し挟もうとする者はいなかった。
否、正確に言えば、先刻の鳥居景近をはじめとして、義景の決定や景鏡の態度に不満を持っている者はいたが、いずれも身分が低い者ばかりで、軍議の席で堂々と発言できるだけの地位職責を持っている者たちは、ことごとく景鏡の与党であった。
――そう。ただ一人を除いて。
「上洛に不参加を告げる使者には――そうさな、宗滴に行ってもらおうか。守護も守護代も不在の上洛軍と聞く。一族の末端のお主が赴いたところで、文句は言われまいよ」
景鏡が示した者は、重臣の居並ぶ列の最後列にいた。
朝倉教景。先代朝倉家当主の後継者として育てられるが、先代が死去した時、わずか四歳であったため、当主の地位は義景に渡り、教景は龍興寺という寺に入る。仏門に入って、世俗との関わりを絶ったのは、無論、次代の後継者争いを未然に防ぐためであった。この時、法名を授かり、以後「宗滴」を名乗るようになる。
数年前、朝倉家は北近江の同盟国、浅井家の内乱に巻き込まれて兵力を失い、この機を見計らって攻め込んできた加賀の一向宗らの敵勢に国内深く攻め込まれ、一時は一乗谷も危ないと思われた。
その御家の危機を知り、龍興寺から駆けつけた宗滴は、不利な戦況にも動じない毅然とした態度と卓越した統率力をもって敵勢を撃退、朝倉家滅亡の危機を救ってのける。
以後、義景は宗滴を重用し、軍事となると、真っ先に宗滴に諮問するようになっていたのである。
だが、戦に倦んだ義景が政務から離れ、景鏡に実権が集まるようになると、この一門衆筆頭の男は、宗滴の存在をはっきりと敵視しはじめた。宗滴は武将としての清廉さと、女性としての鮮麗さをあわせもち、特に民や兵、あるいは下級の武将たちからの人望が厚い。
次代の当主就任を目論む景鏡にとって、宗滴が目の上の瘤であることは、万人の目に明らかだった。
宗滴自身は、己が職責を、将として兵を率いることに限定させている節があり、政務に携わろうとすることは決してなかったのだが、景鏡の目には宗滴が要注意人物として映っているらしかった。
宗滴は景鏡の要請に対し、短く返答を告げた。
「――承知」
景鏡は口元に笑みを張り付かせたまま、そんな宗滴に嘲弄まじりに話しかけた。
「ふん、ついでに加賀を落としてきてもかまわんぞ。そなたに攻略を任せて早一年近く。いまだ加賀の寸土さえ得ていないのだ。わざわざ龍興寺から戻ってきたと知った時は、どれだけ成長したのかと期待したものだが、知れたものであったな。なんなら、再び寺に戻ってもらってもかまわんのだぞ」
景鏡の露骨な挑発に、しかし、宗滴と呼ばれた女性は顔の筋一つ動かさず、平然と受け流す。
だが、宗滴自身はともかく、宗滴に期待と信頼を寄せる下級武将たちは景鏡の暴言に、一瞬、騒然となった。景鏡の一瞥を受けて、すぐに静まりかえりはしたが、それでもその表情に反感がないと誰にいえよう。
彼らは、宗滴が加賀侵攻の命を受けたことを知っていた。そして、宗滴がろくな兵も物資も与えられずにいることも。
宗滴の才能と人望を目障りに思う何者かが、敵の手を借りて宗滴の抹殺をはかっている。そうとしか思えない露骨なやり方は、しかし、一年の長きに渡って続けられているのである。
ただその一事だけを見ても、朝倉家の病根の深さは誰の目にも明らかであった。
景鏡が軍議を解散させた後、鳥居景近は城の一室で宗滴と向かい合って座っていた。
といっても、別に景近は宗滴と格別親しいわけではない。自らの才能を誇り、またそれを天下に示すことを望む景近にとって、現在の宗滴の態度――朝倉家の有力な一族でありながら、景鏡の頤使に甘んじている態度は、覇気のない、情けないものとして映っており、尊敬の対象にはなりえない。
だが、朝倉家の重臣たちの中で、唯一、まともに景近の話を聞いてくれるのは宗滴だけであり、今回の上洛における朝倉家の決断が間違っていることを滔々と述べ立てたのである。
そして、朝倉家の武威を高めるために、ぜひとも義景たちを説得してほしいと詰め寄った。
だが。
「――景近」
「は」
「そなた、政略と戦略、戦術の違いがわかるか?」
突然の宗滴の問いに、景近は肝心の問いをはぐらかされたように感じ、不機嫌さを滲ませた声で応じた。
「無論、存じております」
「そうか。では、我ら武将はそのいずれを任されているものと考えている?」
「いずれと言って……戦いに関すること全てでしょう。であれば、そんな区々たる差異を気にしてもしょうがないのではありませんか。そんな言葉遊びよりも、実際にどう行動するか――」
そこまで言いかけて、景近は驚いて言葉を止めた。宗滴が腰を上げたからである。
「宗滴様?」
「残念ながら、今のそなたと語りあったところで意味はないようだ。己が職責さえ理解できていないそなたには、私が何を言っても届かぬであろう。だが、そなたが間違っていると断じているわけでもない。おそらく、今の朝倉を変えるためには、そなたのような行動も意味を持つのであろう。ただ、それは私には出来ぬこと。この身は将として、与えられた戦場で全力を尽くすのみだ」
立ち上がり、そう言う宗滴の姿からは、朝倉宗家に連なる者としての確かな威厳が感じられ、景近は言葉を失う。
そうして、立ち去る宗滴の後姿を見ながら、景近は腹立たしさをおぼえていた。
あれだけの才腕が己にあれば、とそう思ってしまう。否、自分とて、宗滴ほどではなくとも、それに迫る程度の才能はある。景近はそう自負している。だが、それを発揮する術がない。場所がない。時がない。
上洛軍の一員となって、手柄を立てれば、才能を振るえる場所も増えるだろう。そう期待していただけに失望は深く、重臣を問い詰めるような真似までしてしまった。
幸い、宗滴はさして問題にした様子もなかったが、だからといって景近を認めてくれたわけでもあるまい。結局のところ、これからも景近は周囲の無理解と、自身への焦燥を抱えながら生きていくしかない。それがいつまで続くのか、と考えると、前途の遼遠さに目が眩む思いがする景近であった。