おそらく、今、この場にいる人々は心の底から思い知っていることだろう。
両者の視線が空中で音をたてて衝突する、とか。
二人が向かい合う、ただそれだけで、宙空で火花が散った、とか。
そういった装飾過多な表現が、しかし過不足なくあてはまる状況というのが、この世にはあるのだ、と。
長尾景虎と武田晴信。
この二人が黙然と向かい合っているこの場に居合わせることが出来たのは、果たして幸運なのか不運なのか。いずれにせよ、得がたい機会であることにかわりはないが、感謝する気にはなれそうもなかった。
俺は二人の間に存在する、物理的に見えてしまいかねない鬼気迫る緊迫感に冷や汗を流しながら、半ば現実逃避にそんなことを考えていた。情けないというなかれ。多分、この場にいる九割以上は俺と同じ心境であろうから。
最寄の寺の一室を借り受け、将軍家よりの使者、細川藤孝ならびに幽斎の立会いの下で行われた、上杉、武田両家の和睦会談。
本来ならば、この席には定実様が来なければならなかったのだが、定実様は春日山城で後方を固めているため、すぐには国境まで出てこられない。必然的に、守護代である政景様が上杉側の代表となり、景虎様がその傍らに控える形となった。
上杉側からその旨を伝えられた武田家はそれを諒とした。その回答の早さに、おそらく晴信本人は姿を現さず、代理の者が姿を現すであろうと俺たちは予測した。
上杉側の代表が、当主の定実様ならばともかく、家格的に劣る長尾家の者たちでは、甲斐源氏の正嫡を誇りとする晴信がわざわざ出向くとは思えなかったからである。
だが、その予測に反し、晴信はみずから会談の場に現れた。
そして、細川姉妹の口上に黙々と聞き入り、示された和睦の文書に花押を押す。そして、政景様もまったく同じ動作を繰り返す。
この間、両者、一切無言。
ただ細川姉妹の言葉だけが淡々とあたりの空気を振るわせるだけであった。
とはいえ、これは別におかしなことではない。
上杉・村上軍と武田軍は、つい先日まで矛を交えていた間柄である。さすがに村上家の面々はこの場にいなかったが、互いに、相手に肉親や戦友を殺された者は少なくない。和睦が成立したからといって、酒を飲んで高歌放吟できる豪胆な者ばかりではないのである。
もっとも、これがただの和睦の場であれば、それでも問題はなかった。露骨にいってしまえば、どうせすぐにまた戦端を開くに違いないのである。この場だけ耐え忍べば、このなんとも言いがたい空気から抜け出すことは出来る筈だった。
だが、問題なのは、この和睦の場は、同時に、これよりほどなくして行われる上洛軍編成のための話し合いの場でもあったのである。
刃を交えていた間柄であったからこそ、誤解を生じないためにも細部は煮詰めておかねばならない。上洛の途中に同士討ちでも演じようものなら、三好の一党に嘲笑されるだけではすまないであろう。
とは言うものの。
正式に和睦の調印が為された後、さて上洛に関する話しあいを、という段階に入ると、細川姉妹が、互いに言葉を探しあぐねた様子で視線をかわしあっていた。
声こそ発しないが、二人の心中は我がことのように良くわかる。
つまり――どうしろっていうんだ、この空気。まさかこの空気のまま京まで上る心算なのか、と。
ただ、それは心配のしすぎであろう。
計算高い武田が、誠心から上洛を肯ったとは思えない。間違いなく、この上洛に利を見たから賛同したのであろう。
であれば、将帥に関しても、おそらくは他の将――重臣である六将か、あるいはその下の二十将を立てるものと推測して問題あるまい。
そして、それは上杉家もかわらない。
越後の国は、今、守護職が国を離れられるほど安定しているわけではない。
必然的に上杉家の軍は景虎様が率いることになる。このことはすでに上杉軍内では決まっていることであった。
無論、景虎様自身の熱望もこの決定に大きく寄与していたが、やはり大本は、守護と守護代が何ヶ月も国を離れることを、越後の情勢が許さないという点に求められる。
実際、越中の椎名はすでに動きをやめているが、陸奥の蘆名はまだ積極的に動く気勢を示しているため、この会談が終われば、政景様はそちらに向かうことになっているのである。
そうなると気になるのは、どうして晴信みずからこの場に出てきたのか、ということである。こちらが守護不在なのだから、武田側が代理の者を遣わしても大きな問題にはならない。あるいは、将軍家に対して武田の誠心を無言で示すつもりであろうか。
あるいは越後側の人間を、自らの目で確かめたいとでも思ったのかもしれない。いずれにせよ、用件は済んだであろうから、晴信がこの場にいる理由はなくなったと考えられる。
実際、ようやく口を開いた晴信の第一声は、次のようなものだった。
「……それでは、私はこれで失礼させていただきましょう。将軍家の御使者には申し伝えてありましたが、武田軍三千、率いる将は春日虎綱です。上洛に関することは、虎綱に一任してありますゆえ、何かあれば虎綱に話して下さい。とはいえ」
晴信の口元に、刃のように薄い笑みが浮かぶ。
「言うまでもありませんが、武田軍は独立した行動をとらせていただきます。たとえ行軍を共にする相手であろうと、命令に従う義務はありません。それはお忘れなきよう」
その不敵な言葉に、上杉側から反論があがった。
言うまでもなく、景虎様である……なんだか雷鳴の轟きが聞こえた気がするのはきっと気のせいです。
「――勝手に戦い、勝手に進む。それでは二つの家が協同で兵を進める意味がないでしょう。将軍殿下がそのような雑軍をお望みとは思えません」
「おや、では軍神殿は我が軍の麾下に入ってくださるのですか。それは心強いですね」
揶揄するように微笑む晴信に、景虎様の表情がかすかに強張る。
だが、景虎様の口が開かれる寸前、さらに晴信は言葉を紡いでいた。
「もしそうでないのなら、武田に上杉の下につけ、といっていることになりますが、こちらがそのような提案、飲む筈もないでしょう。どのみち平行線なのですよ、指揮権の統一に関しては。であれば、余計な軋轢を生むような議論などせぬが良い。双方が自由に行動し、最低限の連絡だけを欠かさぬようにしておけばそれで構わぬでしょう。無論、将軍家の意向に従うという前提の上で、ね」
それを聞き、一瞬、景虎様の口が「しかし」という形に動きかけた。
だが、晴信の言葉に理があると感じたのだろう。その言葉が音となって出ることはなかった。
「虎綱」
「は、はい」
晴信の声に従い、進み出てきた武将は春日虎綱。
武田家の静林の将として、その名は越後にもつとに聞こえている。もっとも、山県や山本、あるいは馬場や真田といった面々と比べれば、与しやすい相手だとも思われているのだが。
とはいえ、内政にも軍事にも手堅い手腕を有し、その弓の腕前は甲信越でも屈指のものだ。油断して良い相手ではないし、まして舐めてかかったりすれば、命をもって過ちを償うことになるであろう。
短めにそろえられた黒髪、整った要望ながら化粧気のない顔、飾り気のない格好……改めてこうして肉眼でその姿を見ると、なんというか、随分と頼りない――もとい影の薄い――もとい控えめな感じの人である。
これがあの『逃げ弾正』かと思えば少し拍子抜けした観は否めないが、同時にかなりほっとしたのも事実である。この人なら、上洛で行軍を共にしても、少なくとも今のような空気は生まないだろう。ただその一点だけで、俺としては大歓迎したい気分で一杯である。
――はッ?! まさか、上杉側にそう思わせることこそ、晴信の深慮遠謀。そのためにここまで来て、この刺々しい雰囲気をつくりだしたのか。おそるべし甲斐の虎。多分ちがうけど。
ともあれ、虎綱と越後側との顔合わせも済んだところで、晴信は退出していく――筈だった、のだが。
何故だか、俺は晴信に見下ろされていた。あと、睨まれていた。
いや、多分、相手は睨んでいるつもりはないのだろう。ただ観察の視線を走らせているだけなのだろうが、その視線を受けている身としては、緊張せずにはいられない。
そう。退出する筈だった武田晴信殿は、何を思ったかスタスタと俺の前にまで歩を進めてきたのである。
右手を腰に当て、座ったままの俺を傲然と見下ろす晴信。
これは何か口にするべきか。いや、しかし。
などと内心慌てふためいていた俺の耳に、晴信の声がすべりこんでくる。
「そなたが天城颯馬、ですか?」
「は……? あ、いえ、はい、私が天城颯馬でございます、晴信様」
慌てて畏まる俺。
対する晴信は、相変わらず、鋭い視線を俺に注ぎ続けている。なにやら解剖されているような気がしてきて、居心地の悪いことおびただしい。
その戸惑いを隠し切れず、表情に浮かべてしまいそうになった刹那、晴信が口を開き、俺に問いを向けてきた。
射るような眼差しが、俺の両眼を見据える。わずかな誤魔化しも許さないとの意思は、言葉によらずともはっきりと伝わってきた。
「此度、上杉の背を刺すために用意していた刃は、時が至らぬうちにすべて取り払われていました……そなたの仕業ですね」
その問いに、俺が答えを返そうと口を開きかけるが、晴信は俺の答えなど求めていないかのように、言葉を続けていく。あるいは今の発言、問いではなく、ただの確認であったのかもしれない。
「越後上杉家の懐刀。農民からの成り上がりとも、流れの軍配者ともいわれるが、長尾晴景に召抱えられる前の氏素性を真に知る者はいないときく。此度の越後の包囲網、これを見抜き、破るなどただの農民には決してなしえぬ業。戦場で采配を揮うだけの小才子でも同じことです。しかし、そなたは見抜き、こちらの網を食い破り、あまつさえそれを利用して佐渡を押さえてのけた――」
晴信の言葉が、静かに周囲に響き渡る。
突然の晴信の行動に、この場にいる人々の視線はこちらに集中してしまっている。自然、晴信の言葉は多くの人の耳に届き、今や俺を見つめる視線は十や二十ではきかなくなっている。
武田家のみならず、将軍家の使者までいるこの場所で、偽りを口にすることは出来ないし、あまりにあからさまな遁辞を構えれば、上杉家に恥をかかせることにもなりかねぬ。
この状況を、おそらくは意図的につくりあげたのであろう晴信は、これでもかとばかりに俺の逃げ道を塞いだ上で、静かに俺に問うた。
「――そなた、何者です?」
その問いを晴信が口にした瞬間、不意に俺は両肩に鉛でも乗せたような重圧を感じた。
晴信がかすかに本気になった証でもあろうか。
正しく絶体絶命……と言いたいところなのだが。
「今、申し上げましたよ」
あいにくと、どんなに凄まれても、答えは一つしかなかったりするのである。
「私の名は天城颯馬です。この日ノ本の国で生まれ育った私は、それ以外の名も、氏素性も持ち合わせておりません」
その俺の答えに、晴信はかすかに目を細めた。
「なるほど、では質問をかえましょう。その知、その采配、いずれで学び、修めたものですか」
「書物を読み、戦場を駆けて」
晴信の視線の圧力に抗しながら、俺は出来るかぎり涼やかさを装って簡潔に答える。
まあ、嘘ではないしな。いつ、どこで、何を読んだのか、とか聞かれるとまずかったりするのだが。
しばし、無言で交差する俺と晴信の視線。
押しつぶされそうな威圧感を総身に感じるが、しかし一方で、こうやって間近で接すると、案外と晴信が小柄な人物であることに気付く。ついでに言うと、えらく美人であることにも。
年齢的に言えば、美人というよりは美少女といった方が良いのだろうが、後五年もすれば国色と称えられることうけあいであった。まあ女性と縁遠い俺の保証なんぞ、何の役にも立たないであろうけれども、な。
◆◆
(……ふむ)
晴信は内心で首を傾げていた。
目の前の男の心底が、今ひとつ読みきれない。上杉家の人間が、つい先刻まで敵であった武田の当主と向き合っているのだ。少なからぬ怒りや憎しみがあってしかるべきと思うのだが、天城からはそういった類の感情が窺えない。
また、今も別の場所からこちらを見据える長尾景虎のように、戦意を叩きつけてくるわけでもない。
こちらの威を感じてはいるが、そこに畏怖や脅威を覚えているわけでもないようだ。
そんな天城を見ていて、晴信はふと思う。
あるいは自分は、何か根本的な勘違いをしているのではないか、と。上杉家の懐刀が何者であるのか、その器を見極めようと考えていたのだが、今、目の前にいる人物を見極めるためには、その視点は何の役にも立たないのかもしれぬ。
そう考えた晴信の脳裏に、ほんの数日前の出来事がよみがえった……
「御館様、お話がございます」
上杉との和睦、そして上洛。
武田軍の諸将にとっても予想しえない事態が続き、武田軍内部にも少なからざる混乱が起きていた。
反対、忠告、危惧、疑問、様々な形をとった問いが晴信に向けて発されたが、それらはことごとく晴信の予想したものであって、武田家としての決定が覆ることはなかったのである。
すでに時刻は夜。武田軍は煌々と篝火を焚きながら、夜営の準備を行っていた。上杉・村上両軍との和睦がなったとはいえ、北信濃はつい先ごろまで敵領であった土地。何事が起こるかわからないのである。
そんな陣営の影を縫うようにして、晴信の下に山本勘助が現れたのは、月が天頂で半月の形をとり、地上の山野に薄明りを投げかけていた時刻であった。
「どうしました、勘助。此度の件、そちには今さら説明する必要はないと思いますが」
「御意。ですが確かめたいことがございまする。それゆえ、参り申した」
晴信はわずかに首を傾げた後、小さく頷くと勘助を自らの天幕の内に導いた。
あたりには護衛役を務める兵士が詰めているが、天幕の中には晴信以外誰もいない。勘助は呟くように口を開いた。
「……自陣とはいえ、天幕内に御館様一人だけというのは望ましくないのですがな」
「このくらいは目こぼしして下さい。四六時中、人の目に晒されていては息が詰まる。ただでさえここ数日、口吻を尖らせた者たちに昼夜を問わず押しかけられているのです」
「ふむ、しかしその者たちも武田のことを思えばこその行動。それだけ武田家を、御館様を思う心篤き者たちが多いということでしょう」
晴信はそれを聞くや、軽く軍配を手甲で叩く。高く澄んだ音が天幕内に響き渡った後、晴信は軍配を口元にあてた。
「わかっています。だからこそ、懇切丁寧に話をした後、お帰り願っているのですよ」
軍配に隠された口元が尖っているのを知るのは晴信本人だけである。
武田家を思う心篤きがゆえに、此度の決定の意味がわからぬ自らの思慮の無さをさらけ出している――そのことに気付かない家臣たちへの不満が、晴信にはないわけではなかったのである。
だが、すぐに晴信は口を開き、その感情を伏せた。
「して、勘助。まさかそちまで皆と同じことを申すつもりではないでしょう。話とは何ですか?」
主君の問いに、勘助は深く頷くと、ゆっくりと口を開いた。
武田・上杉両軍による上洛。
だが、無論のこと晴信は、ただかしこまって将軍の命を奉じたわけではない。そこに利用すべきものがあったからこそ、あえて本来は領土と出来た筈の犀川以北の地を削ってまで将軍に従う格好をとったのである。
晴信は美濃路を進むという将軍の案に異を唱えたが、実のところ、武田の全力を挙げれば、美濃、南近江を通って山城に達することは可能であると考えていた。たとえ斎藤や六角、佐々木などが抵抗しても、である。
ただし、それはあくまで上洛の可否という意味でのこと。美濃や南近江を保持するだけの力は、今の武田にはない。一時的な占領は出来るだろうが、甲斐信濃のように武田家の領土とするには、まだまだ時期尚早であった。
これは上洛を志す同盟国の今川義元への配慮もある。今、下手に西へ伸びれば、今川家との関係が穏やかならざるものに変じてしまうだろう。
そしてもう一つ、晴信が西への伸張に慎重な姿勢を示すのは駿河の東、甲斐の南東に位置する相模の北条家の存在を警戒しているからであった。
北条家第三代当主氏康は、稀世の名君と謳われ、民衆の信望が極めて厚く、また戦も非常に巧みであるという。否、実際、幾度か矛を交えている晴信は、北条家の力を伝聞によらず承知していた。
その一族には『地黄八幡』で知られる闘将北条綱成や、あるいは北条家の祖である早雲の時代から北条家を支え続ける北条幻庵などといった有力な武将たちが多い。また、その配下にも有能な者たちがずらりと居並んでいる。聞けば北条幻庵などは、齢五十をはるかに越えているにも関わらず、その外見は早雲時代の如く若いままだとの風説さえあるそうな。
その真偽はさておき、北条家と武田家は現時点で友好関係を築けていない。
今川家の太原雪斎の提唱する三国同盟は水面下で徐々に進められているが、正式な締結までには今しばらくかかるだろう。今の時点で、今川、北条、双方の警戒や野心を刺激するのは得策ではなかった。
では、今川、北条への配慮のために将軍家を拒絶するかとなると、それはまた別の話。
権威は衰えたりといえど、将軍はやはり将軍であるし、幕府はやはり幕府である。
つまるところ、晴信にとって上洛とは選れて(すぐれて)政治的、戦略的な面が強く、ことに今回の上洛はその色が濃い。
それは逆に言えば、他に優先すべき事柄があれば、そちらを優先して構わないという程度の意味でもある。
そして今の晴信には、上洛より優先すべき事柄がいくらもあった。
甲信の地、ことに占領まもない北信濃の地を磐石ならしめること。
越後、上野、あるいは美濃、飛騨といった地域に侵攻するために、今川、北条と結んで後顧の憂いを絶っておくこと。
また、今回の強引な徴兵による臣民の不満も沈静化させねばならない。
将軍の思いつきと勢いだけの上洛に、武田家の命運を賭す心算などかけらもない晴信であった。
それゆえ、上洛軍を統べるのは晴信ではない。では、何者を以って、武田軍三千の将兵を統帥せしめるのか。その答えは――
「虎綱では不安ですか?」
「御意。いささか春日殿にとっては荷が勝ちすぎるのでは、と思われまする」
武田軍を統べる六将が一人、静林の将、春日虎綱。
晴信は上洛する武田軍三千を統べる将に、その春日虎綱を据えたのである。
無論、意図あっての登用である。
「此度の上洛で必要なのは、上杉と適切な距離を保ち、北陸路における折衝をこなし、都において武田の武威を高からしめること。信春、幸村では上杉と諍いを起こす可能性が高いでしょうし、戦や武功に目が行き過ぎてしまう。そちや昌景であれば問題なく務められるでしょうが、この上洛で武田の両山を動かす心算は、私にはありません。であれば、残るは虎綱と昌秀です。昌秀でも問題はありませんし、もっと言えば、現状、虎綱よりは確実に結果を出してくれるでしょうが――」
「――されど、それではわざわざ三千もの兵を割く理由には弱い、というところですかな」
勘助の言葉に、晴信は小さく頷く。
「ええ。正直、この時期に上洛したとて、我らも上杉も雪がとければ帰国しなければなりません。その後、将軍は、これまで以上に三好・松永らに圧迫されることになる。此度の上洛、結局将軍みずからの首を絞める結果に終わることでしょう。それを承知していないのか、あるいは承知していても、もう地方大名の力を借りねば京すら保持できぬのか、それはわかりませんが……」
晴信は言葉を続けた。
「けれど、武田家にとってはどちらでも良い。将軍の命を奉じて上洛したという事実は今後の武田にとって大きな意味を持ちます。今川家は良い顔をせぬでしょうが、たかが数千の兵が、数月、京にとどまるだけのこと、しかもそれが将軍の命によるものだといえば、不満を表に出すことはないでしょう」
それだけではない。
信濃から春日山での詳細な地理を知ることができれば、今後の越後との戦いで大きな利益となる。くわえて、北陸における布石を打つことも可能。京にのぼれば、最近、西国よりの噂に聞く鉄砲なる物を手に入れることも出来るだろう。
そこまで言って、晴信は、ただし、と付け加えた。
「その程度の利であれば、三千の兵力を数月、将軍に貸そうとは思いません。三千の兵。三千の兵糧。三千の武具。三千の兵士と、その数倍の家族らの不安と不満。これらを賭すために、もっと大きな見返りを望む私は欲張りなのでしょうか?」
それこそが、晴信をして春日虎綱を主将とした人事の目的であった。
未だ自身の力を信じきれず、その才を身の底深く沈めたままの林の将。
おそらく、今のままの虎綱でも、他国から見れば十分に有能であり、将としての役割を果たしていると映るだろう。
だが、と晴信は思う。
今の虎綱は、まだ蛹。これを羽化させるために、晴信はこれまで目立たぬながら手を尽くしてきたが、未だ虎綱は己の殻を破るには至っていない。
であれば、この上洛という一大事において、虎綱に全権を委ねてみるのも一興。前述したとおり、この上洛に失敗したところで、晴信にとっては大した痛手ではない。それに虎綱であれば、軍事にせよ政治にせよ、あるいは外交にせよ、無様な真似は晒すまい。
晴信にとってはともかく、武田家にとって、また武田の多くの臣にとっては重要と目されている此度の上洛で、虎綱が一皮むけてくれれば、三千の兵力を投じた価値はあったと言えるであろう。
勘助はそんな晴信の考えを理解していた。そして、それゆえにここに来た。
この偉大な、けれど年若い主君に、欠けているところを補うために。
「逆に、春日殿をより萎縮させる結果となることもありえましょう。此度、春日殿が背負うは三千の兵の命だけではありませぬ。将軍殿下の勅命を果たさざれば、武田の家名は地に堕ちてしまいもうす。それは将として、兵の命を預かるとはまた異なる重圧でござろう。少なくとも、春日殿はそう考え、自身を追い詰めるに相違ござらぬ」
勘助はなおも言葉を続ける。
「まして春日殿は、日ごろ御館様のご期待に沿えぬ自身に悩んでおられる様子。その春日殿にあえて更なる重荷を担がせることは、御館様がお考えになられているよりも、はるかに危険な賭けであると、それがし申し上げておきまする。過ぎた権能は、時に良からぬ結果を招くもの。それだけは、ご承知おきくだされい」
勘助の進言に、晴信はやや当惑したように、目を瞬かせた。
進言の含意に気付かない晴信ではない。
成否を問わず、経験を積ませるというのならば、重圧を感じているであろう虎綱にせめて一言、晴信自身の口から言葉をかけておくべきであろう。勘助はそう促しているのである。
しかし、と晴信は思う。
それを口にすれば、なるほど、虎綱の心の強張りは解れるであろうが、それでは大任を与えた意味が薄れてしまわないか。
だが、勘助は、晴信のやり方では、虎綱に要らぬ重圧をかけることになると言っている。それは晴信にとって思いがけない指摘であった。
晴信は将として、また国主として優れた稟質を有し、文武双全の才を併せ持つ。臣下への目配りも怠ったことはない。そんな晴信であるからこそ、現在の武田家の重厚な陣容を築くことが出来たのである。
だが、そんな晴信だからこそわからないこともある。
元々、晴信は臣下を大切にはしても、過大な期待をかけることは滅多にない。その臣下の限界を冷静に見極め、仕事を与え、地位を授け、武田家の力としてきた。その限界を見誤った例はほとんどなく、晴信に見出された者たちは、この主君が自分以上に自分を知ってくれていると、忠誠を新たにするのが常であった。
虎綱への期待にしても、晴信は決して過大な期待をしているつもりはなかった。晴信の目に、虎綱は今回の上洛を仕切れるだけの才は十分にあると映る。あと少しの自信があれば虎綱自身もそれに気付く筈。その自信は、上洛時の経験を積み重ねることで獲得することが出来るであろうと晴信は考えていたのである。
晴信にとって、苦難は打ち破るもの。試練は乗り越えるものであった。それらは自身をより大きく飛躍させる糧である。ましてや晴信が認め、見出した虎綱であれば、よもやそれに足をとられることはあるまい。そう考える晴信は、勘助に指摘されるまで、ついに気づけなかった。
主君の期待に応えられない自身への失望、己の才を花開かせることの出来ない焦燥。
挫折を知らぬ天才にとって、知識として蓄えることは出来ても、決して実感することの出来ない、虎綱の胸に巣食うそれらを、自身が後押ししているという事実に、である……
「晴信様、どうかなさいましたか?」
黙然としている自分を訝ったのか、天城が声をかけてくる。
どうやら少し考えに耽ってしまったらしい。晴信は頭を振った。
「なんでもありません。聞きたいことは聞けました。礼を言います。それでは、いずれまた」
戦場にて会いましょう。内心でそう続けながら、晴信は踵を返す。
そうして、天城に背を向けて歩きながら、晴信は奇妙な着想が、胸奥に育まれていることを知る。
天城颯馬と、春日虎綱。性格も立場も異なる二人。だが、晴信が心底を見抜けなかったという一点で、共通する点を持つ二人。
上杉の将にして、将ならざる心を持つ天城であれば、あるいは虎綱の心を良い方向に変えることも出来るかもしれない。
何故だか一瞬、そんなことを考えてしまった自分に、晴信は気付き――そして、すぐさま一笑に付した。
「……ふ、我がことながら、埒もないことを」
先日の勘助の言が、それだけ堪えているのかもしれない。奇妙な思いつきの理由を、そこに求めた晴信は、その足で会談の場となっていた寺から出る。
遠く甲斐への帰路をたどりはじめた晴信が、今日の日のことを思い出すのは、これより数ヶ月後のこととなる。