越後、栃尾城。
この城は、元々、豪族の一人である本庄氏の居城であった。
だが、現当主実乃(さねより)は、守護代の妹である長尾景虎の器量を見抜き、またその将来に越後の平和という自身の夢を重ね合わせた末に、城主の座を景虎に譲り渡す。
先年、長尾家に謀反を起こした黒田秀忠を討った戦においても、本庄勢は、景虎軍の主力の一つとして、功績を挙げており、実乃自身、直江、宇佐美といった景虎直属の家臣たちに並ぶ信頼を受けていたのである。
その栃尾城、最上階に位置する城主の間。
今、そこには、城主である景虎を筆頭に、四人の人物が座り込み、現在の越後の状況について意見を交し合っていた。
上座に座るのは、無論、城主である長尾景虎である。
蒼を基調とした衣服は、晴景の華美なそれとは対照的に、清潔さと質素さを旨としたものであった。無論、材料自体は高価なものであったが、景虎自身の清冽な性格とあいまって、見る者に澄んだ印象を与える。
景虎は、眼前の越後国内の地図に視線を落としたまま、先刻から身動ぎ一つせず、何事か考えにふけっている様子であった。
その景虎の隣に座し、声を高めているのは、越後与坂城主、直江兼続である。
兼続は、元の姓を樋口といい、幼い頃から景虎の近習として仕えてきた経歴を持つ。兼続は、女性ながらに文武に優れた才能を見せ、景虎の側近として名を知られるようになるのだが、その兼続の聡明さを一際愛したのが、先の直江家当主であった。
跡継ぎのいなかった当主は、主君である為景、そして景虎に請い、兼続を養子として直江家に迎え、当主の座を譲り渡そうとする。
だが、この人事に最も難色を示したのは、為景でも景虎でもなく、当の兼続であった。兼続の希望は、一国一城の主ではなく、あくまでも景虎に仕えることであり、城主として与坂城におさまることに、激しい反対を唱えたのである。
直江家としては、当主が示した無類の好意を足蹴にされたに等しかったのだが、兼続の主君に対する実直さは、無骨者の多い越後武士にとって、むしろ好ましいものに思えたらしい。
結局、先の当主が隠居の身ながら、これまでどおり城主としての勤めを果たし、兼続は景虎の側近として仕えるという形で落ち着いたのである。
その兼続の隣。落ち着いた面差しで、天守の向こうに広がる越後の梅雨空を眺めている女性の名を、宇佐美定満という。
本庄実乃と並ぶ景虎の軍学の師であり、琵琶島城主宇佐美家の当主であり――そして、かつては春日山長尾家に敵対する立場でもあった。
景虎の父、為景は越後守護代として勢威を振るっていたが、主家にあたる上杉氏の当主を、二度に渡り弑逆した梟雄としての一面を持つ。
定満は、その振る舞いに対して、敢然と異を唱え、何年にも渡って為景と抗争を繰り広げ、一時は為景をして、佐渡に逃げ出さざるをえない状況にまで追い詰めたこともあった。
この勝利によって、越後は平穏に戻ると思われたのだが、定満の廉直さは、為景にのみ向けられたわけではなく、自身が担いだ上杉家の当主にも向けられた。
長尾家を追い落としたことで、増長しはじめていた当主に対し、再三、苦言を呈した定満は、次第に上杉氏からも疎まれるようになっていく。その過程には、佐渡の為景の策略も含まれていたと思われる。
結局、為景は佐渡から舞い戻り、上杉氏と宇佐美氏との間隙を衝いて勢力を回復するのだが、その後も定満は、為景に屈することなく戦い続けた。
最終的に、現越後守護職、上杉定実が仲介の労をとったことで、春日山長尾家最大の敵であった宇佐美家は、その矛を収めることになるのだが、その報を聞いた為景の顔には、隠しきれない安堵が、ありありと浮かんでいたという。
そのこともあって、宇佐美定満の名は、越後国内では大きな影響力を持つ。
為景との抗争で、定満の将略が優れていることは誰の眼にも明らかとなったが、一方で、内政の手腕も水際立ったものであった。
居城である琵琶島城をはじめとした領内は治安も良く、領民の信望も厚い。
文にも、武にも優れた、越後屈指の名将。それが宇佐美定満に対する、人々の評価であった。
為景と同年代で争っていたという事実からも明らかなように、この場にいる四人の中で、定満は最も年配者であり、本人もそれを否定することはない。
にも関わらず、定満の外見は、良いところ景虎の姉くらいの年頃にしか見えなかった。それどころか、時に兼続と同年代だと思われることさえあって、兼続の自尊心を、そこはかとなく傷つけることもあったりする。無論、定満本人に、そんなつもりは欠片もないのだが。、
今もまた、どこか茫洋とした眼差しで、空に視線を向ける定満の顔には、童女のような無心さが感じられ、年齢を感じさせない雰囲気をかもし出していた。
――ちなみに、服はごく普通のものである。
最後の一人。先年まで、この城の城主であった本庄実乃は、越後武士として、一角の者であるとの自負こそ持っていたが、視野の広さにおいて、他の三人に遠く及ばぬ自分を承知していたゆえに、こういった軍議の場では、聞き手にまわることがほとんどであった。
一見、何の役にも立っていないように見えるが、景虎の実乃に対する信頼は厚い。
実乃は、景虎にとって、他者が自分をどのように見ているのか。それを映す鏡に等しいからである。
『毘』の旗を掲げ、戦場を疾駆する景虎は、その信仰する毘沙門天の化身と呼ばれ、恐れられていた。人ならざる存在である、と半ば本気で信じられているほどに、景虎の戦の才は卓絶しているのである。
側近の兼続や、定満もまた、景虎ほどではないにしても、その才腕は図抜けたものだ。
だが、それゆえにこそ、配下の者たちが景虎たちについていくことは容易ではなかった。彼女らが、どれだけ神速に軍を動かそうと、機略を縦横に振るおうと、従うべき兵士がいなければ、孤軍独闘に終始してしまう。
それゆえ、実乃の常識的な意見や、判断は、景虎にとって貴重なものなのである。
他者がどのように考えているのか。それを知り、用兵策戦の参考にする。その上で、栃尾勢の戦い方を決めていく。
それが、栃尾城における軍議の習わしであった。
◆◆
「柿崎めッ。景虎様のご心痛も知らず、勝手なことを! これでは我らが春日山に宣戦布告したも同然ではないかッ!」
兼続は強い調子で膝を叩きつつ、柿崎の独走に苛立ちを見せる。
景虎らは、姉である晴景のために黒田秀忠を討ち取った。それは、ほぼ完璧な結果を出すことが出来たのだが、あまりに圧倒的な戦果ゆえに、守護代である晴景の疑心を刺激してしまい、春日山と栃尾の間に不穏な空気を生んでしまった。
そのことを、景虎が表情にこそ出さないが、苦にしていることを察している兼続にとって、今回の柿崎の独走は、暴走に類するものに映ったのである。
その兼続の見解に、首をかしげて見せたのは、宇佐美定満であった。
定満は兼続よりも柿崎との付き合いが長い。かつて、為景と戦ったときには、同じ戦場で見えたこともある。
それゆえ、柿崎に対する考察は、兼続のそれより、一段深い。
定満が口を開く。
「……柿崎は、見かけほど単純じゃない。景虎様が、春日山と戦いたくないと思っていることにも、気づいている筈」
「ならば、なおのこと、状況をかき回すような真似は控えるべきでしょう。今、動けば、守護代がどう思うかなど、わかりきっているでしょうにッ」
兼続の反論に、宇佐美は己の推測を述べた。
「……叱咤、のつもりかも」
それを聞き、兼続は怪訝そうに眉を寄せる。
「叱咤とは、柿崎から景虎様への、ということでしょうか、宇佐美殿?」
「ええ。柿崎は、良くも悪くも越後の武士。その目には、景虎様が、守護代殿と血を分けた姉妹ゆえ、戦いを厭うていると映ったのでしょう。そして、それは柿崎にとって、惰弱と見えた」
一言一言、確かめるようにゆっくりと、定満は言葉をつむいでいく。
「その心を諌め、景虎様を否応なく春日山との戦いの舞台に引っ張り上げる。今回のそれは、そのための行動。今の状況では、私たちと春日山との対立を解くことは難しい。いずれ、景虎様は決断しなければならなかった。でも、それは他の人から見れば、叛逆に他ならない。だから、柿崎は、先んじてそれを行った。景虎様に対して恩を売る為、そして越後国内での主導権を握る為。一つの石で、二羽の鳥を、というわけ」
定満の言葉に、兼続は咄嗟に反論することが出来なかった。
事実、兼続もまた、春日山との戦いは不可避であると考えていたからである。さらに兼続は、越後の行く末を考えるならば、これ以上、春日山から人心が離れる前に、景虎が当主として立つべきであるとさえ考えていた。
だが、同時に、主である景虎が、主君であり、姉である晴景に弓引くことを肯うような人物ではないことも理解していた。
それゆえ、今回、柿崎の侵攻の第一報を耳にした瞬間、好機と思わなかったといえば、嘘になってしまうかもしれない。
実乃が、髭をひねりつつ、困惑したように口を開いた。
「柿崎殿の思惑が、定満殿の申される通りだとすると、それは功を奏したとしか言いようがありませんぞ。城の将兵の多くが、景虎様が決起するのを、今か今かと待ちかねておる始末。それは、城下の民も同様でござる。実を言えば、それがし、すでに幾度となく、下の者から、景虎様のご決断を仰ぐよう、せっつかれておりますので」
景虎が春日山長尾家の主となれば、当然、その配下の将兵も、恩恵に浴することになるだろう。
また、そういった損得勘定を抜きにしても、現在の越後国内の状況は、不穏きわまりなく、このままでは隣国の侵入を招くであろうことは、火を見るより明らかであった。
そのような事態になる前に、景虎は決起すべきというのが、景虎の周囲にいる大部分の者たちの総意なのである。
沈黙が、軍議の間に流れる。
兼続、宇佐美、そして実乃の視線が、彼らの主に向けられる。
その視線の先で、景虎はしずかに目を閉ざしていた。
天守の間に、やや強い風が吹き込んでくる。
見れば、栃尾の空を覆う雲の動きが早まっている。まもなく、雨が振るかもしれない。
正義を掲げ、天道を歩まんとする景虎。その志を、景虎は元服よりこの方、一時たりと揺るがせにしたことはない。
だが、同時に、自らの歩む道が、万民の理解を得られぬものであることも、景虎は承知していた。
人間とは、容易に欲望を切り離せぬもの。毘沙門天への信仰で己を律している景虎であっても、時に欲と感情に己を見失いそうになることはある。
まして、拠るべき信仰を持たぬ者たちが、どれだけ己が欲にのまれて進退を誤り、身を滅ぼしてきたか。幼い頃から越後の動乱を目の当たりにしてきた景虎は、それを誰よりも良く知っていたのである。
それゆえ、景虎は研鑽を積み、自らを鍛えると同時に、常に、他者の目に自分がどのように映っているのか、留意する必要があったのである。
修験者であれば、自分ひとりのことを考えれば事足りよう。
されど、越後の戦乱を、そして、日ノ本の戦乱を憂い、乱麻のごとき世を正すことを念願とする景虎は、欲望に飽かせて戦いを繰り返す、強欲な諸国の武者たちをも従えなければならない。
そのためには、ただ戦に勝てば良いというものではなかった。
景虎は知らしめねばならなかったのだ。越後に、そして日ノ本全体に。
この乱れた世にも、守るべき秩序はあるのだと。
それは手を伸ばせば届くところにあるのだと。
そして、それを守る為には、特別な覚悟など何も要らぬ。胸奥のためらいを払いのけ、ただ、一歩を踏み込む、それだけで世は変わるのだと。
己が欲望にのまれた者が、声高に叫んだところで、誰もそのような言葉、信用するまい。
ゆえに、景虎は研鑽を積む。望む未来を得るために。
ゆえに、景虎は心を研ぎ澄ませる。破邪の心を、乱世を切り裂く刃となすために。
その清冽な決意と、たゆまぬ志こそが、長尾景虎の神武の源泉。
欲心にあかせて、主君に歯向かった愚か者などが、かなう道理がある筈もなかった。
そして、そんな景虎であればこそ、今の状況は難しかった。
起てば、主君に逆らう謀反人。我が姉に背いた人非人。その罪深さは、自ら討った黒田にまさる。
だが、起たねば、家臣と領民の期待を裏切り、越後の戦乱を放置した愚者に堕す。
この後に起こるであろう戦乱に踏みにじられる人の数を思えば、今の状況を捨て置くことが、どれだけの罪になるのか、景虎には痛いほどに分かっていたのである。
兼続らの視線の先にある景虎の顔は、落ち着いて見えたが、その内心が、どれだけ苦悶に満ちているかを察せない者は、この場にいない。
だが、栃尾長尾勢がどう動くのか。その決断を下すことが出来るのもまた、景虎をおいて他にいない。
それゆえ、言うべき意見を言い終わると、兼続、定満、実乃の三人は、決断を促すように景虎を見つめることしか出来なかったのである。
それが、主君にとって、どれだけ辛い決断であるのかを知りつつも、そうする以外になかったのであった。
沈黙は、それからしばしの間、続く。
それを破ったのは、景虎ではなかった。
天守の間に上ってきた景虎配下の武士の一人が、報告をもたらしたのである。
「申し上げますッ! 春日山城に篭る守護代様の軍勢が動いたとの報告がございましたッ」
「なんと?! まことか?」
応じた実乃の声には、率直な驚きが込められていた。
春日山勢の総数が、千にはるかに届かない寡兵であることは、すでに軒猿と呼ばれる忍びたちの働きで、栃尾方は掴んでいた。
一方、攻め寄せるのは、音に聞こえた柿崎の黒備え三〇〇騎。そして、その背後には千に近い足軽たちが続いている。惰弱な晴景が篭城策を選ぶであろうことは、誰もが予測するところであった。
事実、実乃のみならず、兼続と定満もまた、そのように考えていたのである。
しかし、晴景はそんな予測を裏切り、出戦したという。
報告はなおも続いた。
「春日山勢は、関川を越えて進軍し、侵攻する柿崎勢を強襲ッ! 善戦するも、およそ一刻後、これに敗北したとのことでございます。敗兵は、散り散りになって春日山城を目指しているとのことですが、柿崎勢はこれに猛追を仕掛けており、壊滅は時間の問題かとッ!」
その報告に、誰よりも早く反応した者がいる。
「――敗兵が、春日山に向かっている。そう言ったか?」
その声は、危急を告げる報告を前にして、落ち着きを失っていなかった。
清流のように、心に染み入る声音は、栃尾城主、長尾景虎のものである。
主君の問いに、報告に来た配下が、かしこまってこたえた。
「はッ。春日山の軍は、態勢を立て直した柿崎の黒備えに一蹴された後、算を乱して城へ向けて敗走しているとのことですが……」
主君の問いの真意を解しかねて、その兵は、かすかに怪訝そうな顔をする。
だが、景虎はその答えで、何事かを悟ったようで、小さく頷くと、報告の労を謝した。
「そうか、ご苦労だった――兼続」
「は、はい」
「栃尾全軍に出撃の用意を。ただちに春日山へ向けて進軍を開始する」
「ぎ、御意にございます」
主君の命令に頷きながらも、兼続もまた戸惑いを覚えていた。先刻から、逡巡し続けていた景虎が、どうして突然に決断を下すことが出来たのか。
勝者の尻馬に乗るような景虎ではない。あるいは、勝利した柿崎が、春日山城の晴景の身に危害を加えることを恐れたのだろうか。
それにしては、と兼続は内心で首を傾げる。兼続は、長年、景虎に近侍してきた身である。落ち着いた表情の奥で、景虎が何を考えているか、おおよそのところを察することはできた。今の景虎からは、姉の身を案じる焦燥も、柿崎の暴走に対する憤りも感じられないのだ。
ここで口を開いたのは、実乃である。
「景虎様。この出陣、春日山の守護代殿をお助けするため、ということでよろしいのでしょうか?」
景虎の性格を知悉している実乃は、兼続と同じように、景虎が柿崎の勝利に追随しようとしているとは考えなかった。
となれば、目的はただ一つ。勝勢に乗った柿崎勢を抑えることであろうと判断したのである。
だが、景虎は、実乃の言葉に、首を横に振って見せた。
兼続と実乃が、景虎の真意を解しかねて、顔を見合わせる。
兼続が口を開いた。
「あの、景虎様。では、此度の出陣の目的は何なのでしょうか?」
配下の問いに、景虎は面差しをわずかに傾けると、定満に問うた。
「――定満は、わかるか?」
「……柿崎の、救援」
迷う様子もなく、そう答える定満。
そして、景虎は、今度は首を縦に振ったのである。
だが、兼続と実乃の二人の戸惑いは消えなかった。
それどころか、何故、勝利をおさめた柿崎を救援する必要があるのかという疑問が付け加えられてしまった。
そんな二人の様子を見て、景虎は静かに口を開く。
「言うに忍びぬが、今の姉上の軍では、柿崎勢を相手に出戦しても、勝ち目は少ない。だが、篭城したところで形勢は不利になりこそすれ、有利になることはないだろう。であれば、まだ打って出る方が、勝算はある」
「それは、理解できますが。しかし、出戦した春日山勢は、柿崎に敗れたと報告があったではありませんか。もはや、勝敗はついたと思われますが?」
実乃の疑問はもっともであった。
だが、景虎はよどみなく、報告の裏にあるものを見抜いていく。
「軒猿が申していただろう。今の春日山の軍は、小者まで駆り集めた烏合の衆だと。実乃、そんな烏合の衆を、柿崎勢を相手とした戦に出せばどうなると思う?」
「……そうですな。戦う前から四散してしまうのが、関の山でございましょう。よほど確固とした勝算を示しでもせぬ限りは」
景虎は、小さく頷いた。
「そうだ。そして、今回、春日山の軍勢は、四散することなく、関川を越えて柿崎を強襲したという。そして、敗れた後も、城を目指して逃げている、と。戦に勝った柿崎が、春日山めざして追撃してくるのは自明の理。敗れた兵士たちとて、そのことはわきまえているだろう。にも関わらず、彼らは春日山を目指している。そして、春日山に到るために、柿崎は当然、関川を越えねばならぬ」
この景虎の言葉で、兼続の目に、理解の色が浮かぶ。
自然と、その口から言葉がもれた。
「この梅雨時、川の水量は増していますね。騎馬の機動力は意味をなさなくなりますが、勝勢に乗った柿崎は、強引に押し渡ろうとするでしょう」
定満が、兼続の言葉に頷きながら、ここでようやく口を開く。
「……敵の渡渉時、半ば渡るに乗じるは兵法の基本。出戦で稼いだ時間で、川に堰をつくることが出来れば、効果はさらに増す」
実乃もまた、越後の名のある武者の一人。ここまで説明されれば、戦況の輪郭を把握することは出来る。
すなわち――
「春日山は、水を用いたわけですな」
「うむ。ただ川を挟んで対陣するだけなら、柿崎とても、それに引っかかることはあるまいが、勝利は酒よりも人を酔わせるもの。春日山を侮りきった柿崎に、この計略は見抜けまい」
景虎の言葉に深く頷きつつ、しかし兼続はすべての疑問を払拭したわけではなかった。
その疑問が、兼続の口をついて出る。
「しかし、景虎様。今の春日山に、それだけの軍略を持つ者がいるでしょうか? 晴景様は戦に疎い方です。この窮状にあって、兵士たちを従わせることが出来るかさえ、正直、疑問です。兵士たちに勝算を示して離心を妨げ、実際にその計画通りに兵を動かす。柿崎の勇猛を考えれば、偽りの敗勢が、まことの敗走に変わることも十分にありえるでしょう。それらを克服した上で、奔流の計で柿崎を打ち破るなど、なまなかな将では不可能です。恐れ多いことながら、晴景様にそこまでの力量があるとは思えませんし、今の晴景様の下に、名のある軍配者がいるとも聞こえてきません」
兼続の言葉に、実乃も、控えめに同意を示した。
これまでの春日山勢の戦働きを思い返してみても、そこまで鮮やかな戦ぶりを示すとは信じがたい、というのが正直なところである。
全てが偶然であるとは思わないが、あるいは春日山の無軌道な戦ぶりが、怪我の功名となって現在の戦況を形作った可能性はあるだろう。現状から、春日山勢を過大評価しているのではないか、という疑念を、兼続と実乃は拭えなかった。
景虎は怒らない。
兼続たちの見解に、少し困ったように頷いた。
「確かに、その可能性も否定できないな。だが、もしそうならば、先に実乃が申したように、柿崎を止める必要が出てくるだろう。どのみち、春日山には行かねばならないのだ」
その言葉に異論がある者は、この場にはいなかった。
皆、景虎に向けて一斉に頭を垂れ、出陣の支度をするために踵を返したのである。
一人、城主の間に残った景虎は、勢い良く流れる黒雲に視線を投じる。
視線の先では、黒雲が、現れては流れていく。一瞬もとどまることなきその様は、まるで越後の地に生きる民人たちのようだった。戦乱にあえぎ、田畑を耕すことも出来ず、逃げ惑うことしか出来ない、力なき民たち。
天道とは、すなわち民が笑顔でいられる世に続く道である。毘沙門天の旗の下、景虎が目指す場所は、今も昔も変わらない。
荒々しく乱れる天の姿に、景虎は、立ちはだかる障害の大きさを総身に感じていた。
そして、同時に。
景虎が目を閉ざすと、風が、雨の匂いを運んできた。おそらく、今夜、天は荒れるだろう。
「嵐は、時節の変わり目に来るものだが……さて、この嵐は、いかなる時を呼ぶのかな」
時代の変化の匂いを、かすかに感じ取った景虎の口から、小さな呟きがもれたのであった。