【第22章 フィルチの復讐 Filch's Revenge その2】
「でも、フィルチさん。私たちはフリスビーやブーメランを投げまわしたことなんてありません。復讐だかなんだか知らないですが、その矛先を私たちに向けられても困ります!」
伏せた状態のままでハーマイオニーが抗議したが、足元にすり寄っていた飼い猫のミセス・ノリスを抱き上げていたフィルチは、全く聞く耳を持たなかった。ミセス・ノリスのランプのような黄色い目が、暗闇に妖しく光った。
「ウィーズリーの双子なら最高だったんだが、この際、相手は誰だっていい」
「それじゃ、ただの日頃の憂さ晴らしじゃないか!」
憤慨するロンの言葉にフィルチが一瞬目を上げたが、すぐにミセス・ノリスに笑顔を向けると、骸骨のように痩せた彼女を膝に乗せ、自分も手ごろな大きさの木箱の上に腰を下ろした。
「おまえたちだって、どうせいつも悪さばかりしてるんだろう?」
「そんなことっ―――」
ハーマイオニーは言い淀んだ。ハリーもロンもフィルチの世話になったことがあるし、ハーマイオニーも二人と一緒に、寮からの外出禁止の規則を破って深夜のホグワーツ城を歩き回ったことが何度もある。何より、ポリジュース薬の調合のためにスネイプの研究室から二角獣の角と毒ツルヘビの皮を盗み出したのは、ハーマイオニーだ。もっとも、悪戯心の溢れる双子と違い、いずれの場合もやむを得ない事態ではあったのだけれども。
フィルチに灰色の背中を撫でられていたミセス・ノリスが、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「好奇心に駆られて、立ち入り禁止の印を無視して入ってきたのがその証拠だ! そんなおまえたちには処罰が必要だ」
今度は、殴り続けのブーメランがハリーに向かって飛んできていた。ハリーは杖を構えた。
「インペディメンタ! 妨害せよ!」
しかし、ブーメランは不自然にジグザグの軌道を描き、ハリーの呪文は逸れてしまった。ハリーは殴り続けのブーメランが廊下を飛び回っているのを目撃したことがあるが、ブーメランはここまで不規則な動きをするものではなかった。何かがおかしい。
「ハリー! 危ないっ!」
ロンが杖を上げた途端、ハリーに向かっていたブーメランが不意にロンのほうに軌道を変えた。
ボクッと鈍い音を立てて、ロンの右肩にブーメランが直撃した。
「……ッ!」
ロンが声にならないうめき声をだした。ブーメランは、一瞬ロンの肩で動きを止めたが、すぐにその危険な乱舞を再開した。
「ロン! 大丈夫!?」
ハーマイオニーはロンに駆け寄り、ハリーは二人を守れる位置で、いつでもブーメランとフリスビーに妨害の呪いをかけられるように杖を構えた。
「ブーメランがちょっと『かすった』だけだ。救護班は必要あるまい」
ハーマイオニーはフィルチをキッと睨んだが、気持ちを切り替えてロンの怪我の具合の確認を始めた。
「骨折はしてなさそうね。指も動く?」
ロンが特に不自由もなく、右手をグーパーと動かした。
「大丈夫だ」
「じゃあ、これは?」
ハーマイオニーがゆっくりとロンの右手を上げていったが、肩の高さまできたところで止まってしまった。
「これ以上は上がらないや。イースター休暇の宿題が免除になったりしないかな?」
ロンは、苦痛の表情を作り笑いで隠しながら立ち上がった。
「羽根ペンを持つ分には支障はないでしょう? それにマダム・ポンフリーなら、このくらいの怪我ならあっという間に治すわよ」
まだ心配顔のハーマイオニーも、ロンを気遣ってロンの調子に合わせた。立ち上がったロンを見たフィルチはフンと鼻をならすと、皮肉たっぷりに言い放った。
「そうそう。言い忘れていたが、ブーメランとフリスビーには錯乱の呪文とかいうのがかかっている。悪戯好きの生徒を懲らしめたいという俺の提案に賛同してくださったスネイプ教授が、その呪文を悪戯グッズにかけ、扉に魔法を施し、廊下に垂らした発光液の調合のために、魔法薬学教室を貸してくださった」
発光液と聞いて、ハリーは思い出した。一昨年、ハリーがフィルチの事務室に連れて行かれたとき、事務室の机にはクイック・スペルという、スクイブ、つまり魔法使いの家系に生まれながら魔法が使えない人たちのことだが、そのスクイブのための通信教育の封筒が置かれていた。そのクイック・スペルの書類に、発光液のことが書いてあったのだ。もっと早く気づいていれば、このような事態にはならなかったかもしれない。
そして、地下牢教室に続いてまたもスネイプだ。一昨年はハーマイオニーに、そして今年も何者かに研究室に侵入されたスネイプならば、立ち入り禁止の部屋に入ってきた者に対するこの罠に、惜しみなく協力したことだろう。
さらにスネイプのことだ。自分が城内に仕掛けた罠の詳細をスリザリン生に教えているかもしれない。そう思うと、ハリーは争奪戦のどさくさに紛れてスネイプに呪いをかけたい衝動に駆られた。
しかし、とりあえずいまは、この厄介な悪戯グッズをなんとかしなければならない。錯乱の呪文がかけられた悪戯グッズは、複雑に教室内を飛び回り、その軌道を読むことはほとんど不可能だった。
ガリッという音のしたほうをハリーが見上げると、天井を削り取った噛みつきフリスビーが、ロンめがけて急降下を始めていた。
「フィニート! 終われ!」
せめて錯乱の呪文だけでもを解こうとしたハリーの呪文は、フリスビーを空振りし、天井をさらに削り取っただけだった。動き始めは急降下であったフリスビーは、軌道のみならず緩急も変化させながら、ロンに迫っていた。
「インペディ、ッ!!」
ロンがフリスビーに妨害の呪いをかけようとしたが、先ほどの負傷のせいで頭上の物に狙いを定めることができなかった。ハーマイオニーがフリスビーを狙って杖を掲げた。
「ハーマイオニー!!」
ハーマイオニーの右側方から突進してきたブーメランにいち早く気づいたハリーが叫んだ。ハリーの声でブーメランの接近に気づいたハーマイオニーは、呪文の詠唱を完了する余裕などなかった。ブーメランを避けながらロンに体当たりすると、フリスビーの軌道からロンを押し出した。フリスビーはハーマイオニーから三センチも離れていない床を噛み砕き、急上昇して天井付近で旋回を始めた。
「ハーマイオニー、ありがとう。あっ!」
「大丈夫、ただの擦り傷よ」
ハーマイオニーの左膝を擦りむいていた。ロンは自分が怪我したときよりも苦しそうに顔を歪めた。ブーメランが燭台のひとつを粉々にし、そのはずみで蝋燭の灯りが消えて部屋が一段と暗くなった。
ハリーは二人の傷に目を遣った。この状況を切り抜ける方法を早く見つけなければならない。このままでは、三人の誰かが大怪我をするのは時間の問題だ。
頭上ではブーメランとフリスビーがブンブン飛び回っている。その威力は脅威だが、ブラッジャーには劣る。その軌道は複雑だが、スニッチも似たようなものだ。そのスピードは、ブラッジャーに、ましてやスニッチには到底及ばない。クディッチチームのシーカーであるハリーには、ブーメランもフリスビーもそれほどの脅威ではないように最初は思われた。
しかし、それは箒に乗っているときの話だ。空中を自由に飛び回るものを、地上から直線に飛んでいく呪文で撃ち落とすのは、ハリーが思っていた以上に難しいことだった。
軌道を観察していると、どうやらブーメランもフリスビーも、フィルチとミセス・ノリスは襲わないようだった。おそらく、フィルチやミセス・ノリスの周辺は襲わないように錯乱させられているのだろう。フィルチのところに行けば、悪戯グッズの脅威から逃れることができるかもしれない。だが、それでは根本的な解決にならないし、何より、この状況をニヤニヤしながら眺めているフィルチの傍に行くなど、ハニーデュークスのお菓子の詰め合わせの大きな袋をもらえると言われても御免だった。
「エピスキー! 治れ!」
ハーマイオニーが杖を左膝にあてた。きれいに完治とまではいかなかったが、途端に擦り傷をかさぶたが覆った。ハーマイオニーは、思い悩んだ表情のロンを励ますように笑顔を向けた。
「ほらっ、大丈夫でしょ。あなたの肩も治せたらいいんだけど、治癒呪文はあまり得意じゃなくて……肩の状態もよくわからないし、体のことだから私が下手に呪文をかけるより、ちゃんとマダム・ポンフリーに看てもらったほうがいいと思うの。とにかく、私は大丈夫だから元気出して、ロン」
そのハーマイオニーの笑顔に、ロンの表情がすこし明るくなったのをハリーは見てとった。いや、明るくなったというより、どこか清々しい感じだ。ためらいがなくなって、何か決心がついたときの顔だ。ロンはハーマイオニーに笑顔を向けると、二人の前にずいと進み出た。
「二人とも、聞いてくれ」
ロンが二人を振り返らずに続けた。
「僕が合図したら、ハリーはブーメランを、ハーマイオニーはフリスビーを撃ち落としてくれ」
「ロン!! 何する気!?」
ロンのただならぬ雰囲気を感じ取ったハーマイオニーが叫んだが、ロンは振り返らずに言った。
「僕は右腕が上がらないからね。僕がブーメランとフリスビーを一瞬止める。もしかしたら、チャンスは一度きりかもしれない。だから、二人とも任せたよ」
その言葉で、ハリーはロンが何をするつもりなのかわかった。その行動の理由もハリーには理解できたが、そんな危険なことをやらせるわけにはいかない。
「ロン! やめろ!」
ハリーが叫んだが、ロンは背中を向けたままスーッと深呼吸をした。そして二人のほうを振り向くと、何も言わずににっこりと笑った。そんな笑顔を見せられたハリーには、もうロンを止めることができなかった。
「来るぞ!」
再び二人に背を向けたロンが叫んだ。左前方から噛み砕きフリスビーが、そして正面から殴りつづけのブーメランが、三人に迫ってきた。
ロンはブーメランの動きに注意しながらフリスビーへと突っ込んだ。ブーメランもロンに向かってきている。
「いまだ!!」
ロンは叫びながら飛び上がった。フリスビーはロンの手前で急激に方向を変えたが、その軌道、さらにはその回転をも見切ったロンは、噛みつかれないように左手で受け止めた。
「ガハッ!」
その直後、ブーメランがロンの鳩尾に鈍い音を立ててめり込んだ。ハーマイオニーが悲鳴を上げた。
「ロン!!」
「ハーマイオニー!」
ハリーは非情にも怒鳴りつけ、ハーマイオニーがいま何をすべきか気づかせなければならなかった。ハーマイオニーはまだパニック状態から抜け切れていなかったが、ハリーの言葉で杖をフリスビーに向けた。それを確認しながら、ハリーはロンの右側方に回り込んだ。
ロンの体がドサッと床に落ちたが、フリスビーもブーメランも、まだ動きを止めていた。ロンの苦悶の表情が見えて胸が苦しくなったが、ロンの勇気を無駄にしないためにも、鳩尾に収まっているブーメランに慎重に杖を向けた。
「レダクト! 粉々!」
ブーメランがバラバラに砕け散った。その向こうで魔法のロープで縛り上げられたフリスビーが、カタカタと音を立てて落ちた。
「ロン!!」
ハリーとハーマイオニーは、ロンに駆け寄った。ロンはゲホゲホとせき込みながらも、ニヤリと笑って起き上がった。
「考えただろ? さっき、ブーメランが僕に直撃したときに動きが止まったのを見て閃いたんだ。それに、体で受け止めたほうが、掴むより簡単だしね」
しかし、口で言うほど簡単なことではないとハリーにはわかっていた。先程のハーマイオニーのように呪文を途中で妨害されないよう、二つを同時に受け止めなければならず、その不規則な動きを読んで、目前の変化にも反応しなければならないのだ。
「すごいよ、ロン! 二つも同時に受け止めるなんて」
「兄貴たちとクィディッチをやるときに、たまにキーパーをやらされていたのが役に立ったかな?」
「もぅっ、無茶するんだから!」
ハーマイオニーが目を真っ赤にしながら叫んだ。
「医務室に行ったほうがいいわ」
「大丈夫だよ。医務室に行くほどじゃない」
争奪戦をまだ楽しみたいロンは、ちょっと強がってそう言った。しかし、ハリーにもロンが軽傷とは言い難いことが見て取れた。ロンは無意識に左手で右肩を、右手で鳩尾を押さえている。ハーマイオニーがフィルチを振り返ったが、三人が罠を切り抜けたのが面白くない様子のフィルチはそっけなく言った。
「そいつが大丈夫だと言ってるんだ。だったら、大丈夫だろう?」
ミセス・ノリスは体を弓なりに反らせ、伸びをすると、つまらなさそうに毛づくろいを始めた。ハーマイオニーの口を突いて非難の言葉がまさに出かかっていたが、部屋中を見渡していたロンの言葉がそれを掻き消した。
「それより、ボーナスエンブレムはどこだ?」
その言葉を聞いて、フィルチがせせら笑った。卑劣な悦びに満ち溢れた顔だ。
「エンブレムなどあるわけないだろう?」
「何だって!?」
ロンが、冗談じゃないとばかりに叫んだ。ミセス・ノリスがその容姿に似合わない甘えた声を出して、同じく根性悪の主人を見上げた。
「×印を無視して入ってくる生徒のために、わざわざエンブレムを用意していると思ったか?」
「そんなっ!!」
「本当にただの憂さ晴らしじゃないか!?」
憤慨して罵詈雑言を吐こうとしていた三人は、教室の外の廊下から聞こえてきたその声でハッと口をつぐんだ。まさか、またなのか? どうして奴らは自分の居場所がわかるんだ? ハリーは自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
「こっちだ! ポッターはこの先だ!」
スリザリン生が、すぐそこまで迫ってきていた。
【第23章 The Wheelに続く】