【第20章 エンプティ・エッグ Empty Egg その2】
「それだよ、ロン! それでよかったんだ!」
「何のこと?」
ロンは呆気にとられていた。興奮したハリーは、ロンの困惑顔も気にせずにもう一度石盤のキーを見て確信した。
「『egg』の意味は、何も『卵』だけじゃない。ここでは『卵形のもの』なんだ。アルファベットの中で卵型なのは? そう、『o』さ!」
しかし、ハリーの予想に反してロンの反応は薄かった。
「『egg』が『卵形の物』という意味なのは納得したけど、数字の『0』も同じ形だし、『empty』の意味が説明できてないよ。『o』より『c』のほうが、殻が割れて中身がからっぽになった卵って感じだし」
「わかったわ!!」
その声にハリーとロンが振り返ると、ハーマイオニーが目を輝かせていた。
「わかったのよ、『empty』の意味が! このなぞなぞの答も、それにこの課題のもう一人の出題者もね」
トレローニー先生がカードを並べる手をピタリと止め、静かに顔を上げた。
先生の視線には気づかずに、ハーマイオニーが話し始めた。
「まず、『egg』はハリーが言ったとおり、『卵形のもの』でいいの。ただ、それだけじゃロンが言ったとおり、アルファベットの『o』だったり数字の『0』だったり、いろいろ可能性があるでしょ? その中から一つに特定するために、『empty』があるの」
「もったいぶらずに早く教えろよ、ハーマイオニー」
「ロン、あなたは普段からもっと順序立てて説明するクセをつけたほうがいいわよ」
ハーマイオニーはそこで一息ついた。
「この問題を解くには、英語以外にもうひとつ重要な言語があるの。アラビア語よ」
「君がアラビア語まで堪能だったなんて、初耳だよ!」
尊敬の眼差しを向けるハリーに対して、ハーマイオニーは頭を振った。
「まさか、ハリー!! 堪能だなんて、そんなわけないでしょ。英語の『empty』に対応するアラビア語を授業で聞いたのよ。ベクトル先生の数占いの授業でね」
「じゃあ、答えは―――」
「そう、“アラビア数字”の『0』よ」
「よし、打ち込んでみよう!」
ロンがさっそく石盤に駆け出したが、ハリーはハーマイオニーを振り返った。
「ロンは行っちゃったけど、肝心な部分の説明がまだ残ってるよね。『empty』はアラビア語でなんて言うの?」
「『0』はアラビア語では『sifr』、『空のもの』って呼ばれてるの。英語の『zero』はここからきてるのよ」
「そう、神秘的な数ですわ」
ハリーもハーマイオニーも、背後からの声に驚いて振り返った。トレローニー先生がいることをすっかり忘れていたのだ。
「すでにエジプトやマヤの古代文明の時代から、『0』は発明されていたそうですの。その後、インドにおいて本格的に『0』の概念が発達して、数学を初めとしたさまざまな学問が発展したことはご存知でしょう? 占い学も例外ではありませんわ」
ハリーはそこでハッと気づいた。トレローニー先生は、わかりやすいかはともかく、答について的を射たヒントを出していたのだ。
『目に見えるものだけを信じていてはいけませんわ。目に見えない神秘的なものがあるのです。それがこの答ですの』
たしかに、『0』は目に見えないものであり、それを概念としてまるで見えるかのように扱うことで新しいものが見えてくる、不思議なものだ。
トレローニー先生は、テーブルの上に並べたカードの中の一枚をめくった。そこには犬を連れた旅人の姿が描かれていた。
「タロットカードにおいて、『0』にあたるのはこの『愚者』、『Fool』ですわ。このカードは―――」
「ハリー!! ハーマイオニー!! こっちに来て!!」
ロンが『shel』の文字を消せずに困っていた。
「えっと……すみません、先生。お話は後で」
「えぇ、そうですわ。私には充分に時間がありますとも」
トレローニー先生が少し不機嫌そうな顔をしたが、二人はロンのもとに駆け寄った。
「文字を消すには、右上のBack Spaceキーを押せばいいわ。Enterキーの上よ」
「あぁ、アレか! ハリー、『0』キーのほうは任せるよ」
ロンがロッククライミングの要領でスルスルと石盤をよじ登り、Back Spaceキーにたどり着いた。今度は押し込まずともキーに手をかざすだけで、『l』の文字が消えた。ハリーも『0』キーに向かって石盤をよじ登り始めた。頭上で『e』が、続いて『h』、『s』が消えた。ゴゴゴゴという音を耳元で聞きながら、ハリーは『0』キーを押し込んだ。ほの白い数字の『0』が、石盤からふんわりと現れた。
固唾を呑んで石板を見守る三人を、静寂が包んだ。何も起こらない。
「これもダメなのか?」
ロンがEnterキーの上部にかけていた右手を下ろした。その途端、右手をかざしたEnterキーがぽうっと青白く光った。
「そうよ、Enterキーよ!! ロン、それを押し込んで!」
「どこに“入る”んだ?」
「『enter』にも『key in』と一緒で『入力する』という意味があるのよ。主に何かを確定するために使われるキーよ。さぁ、押し込んで!」
ロンが弱い明滅を繰り返すEnterキーを、轟音とともに押し込んだ。
石盤のすべてのキーが明るく光り始めた。ハリーとロンが急いで石盤から下りると、ほの白い光を放って浮かんでいた『0』が、ゆっくりと石盤の中央まで降りてきて明るさを増した。その光が一瞬にして輪の中央に収束したかと思うと、何もなかった空間に七色に輝くエンブレムが現れた。
「さぁ、ロン。あなたが取って」
ハーマイオニーがロンを促した。
「ちょっと待って」
ロンは納得いかない様子だ。
「たしかに僕はEnterキーを押したかもしれないけど、答を出したのはハーマイオニーだ。それにハリーは『egg』の意味に気づいたし―――」
「それもこれも、きっかけはロンだよ」
ハリーは両手を卵型に合わせてウインクした。ロンはそれを見てニヤッと笑った。
「それじゃ、遠慮なくいかせてもらうよ」
ロンはふわふわと宙を漂うボーナスエンブレムに手を伸ばした。ロンのすらっとした長い指が触れると、エンブレムは赤い光となってゆっくりと再び『0』を形作った。
「これだけ?」
ロンが意気消沈した途端、赤い『0』はシュルシュルと回り始め、まるでねずみ花火のように赤い火花を激しく撒き散らしながら教室中を飛び回った。さんざん暴れ回った赤い光は、最後に石盤の中央部にたどり着くと、輪っかと火花を最大限に広げながら大回転をして、教室中を真っ赤に染め上げながら燃え尽きた。
「イカしてるね。フィリバスターにも負けてないよ!」
ロンは特大のねずみ花火にすっかり満足していた。
「さぁ、行こうか」
ハリーが合図し、三人は出口へと足を向けた。
「お待ちなさい」
トレローニー先生がハリーたちを呼び止めた。ロンは構わず行こうとしたが、ハリーは立ち止った。さっき先生の話を最後まで聞かなかったのは少し失礼だったと思っていたし、ヒントのこともあったからだ。ハーマイオニーも先生のヒントが好意的なものであったと気づいていたようで、渋々ながらも先生のほうに向き直った。二人が振り返ったのを見て、ロンも立ち止まらざるを得なかったようだ。
「なんでしょうか、先生?」
ハリーはなるべく失礼に聞こえないように注意して言った。
「こちらへおかけなさい」
トレローニー先生は目の前のイスを指差した。三人は目配せをしたが、特に害があるわけでもなさそうなので先生の言葉に従った。テーブルには先ほどの『愚者』のカードの他に、二十一枚のタロットカードが裏返しにされて並んでいた。
「まずは、おめでとうですわね。グリフィンドールに七十点」
こんなときでも、トレローニー先生の声は霞みがかった声だ。その場を盛り上げるような演出をするのは、悲惨な占いを述べるときだけのようだ。そしてまた、その演出はいままで例外なくハリーを盛り下げてもいた。
「それから、少し変則的なやり方ではありますが、簡単にあなたたちの争奪戦の今後の運勢を占ってあげましょう。一人ずつ、そこに並んだカードを選びなさい」
ハリーはハーマイオニーと目が合った。明らかに乗り気ではないが、先生の言う通りにしてくだらないことはさっさと終わらせたい、というハーマイオニーの考えが見て取れた。
「じゃあ、これ」
ハーマイオニーは特に迷いもせず、一番自分から近いカードをめくった。
カードには雷に打たれて崩れる塔が描かれていた。
「『Tower』、『塔』ね。予期しないことが起こることや、パニック状態などを示唆するものですの。それから、一言だけ。『下りたいときほど上がりなさい』」
「下りたいときほど上がる?」
ハーマイオニーは呆れているのが表情に出ないよう、真剣に思案している表情を必死に作っているようだったが、ハリーにはバレバレだった。それでもトレローニー先生は気づかぬ様子で続けた。
「えぇ、そのときが来ればわかりますわ。次は、あなた」
トレローニー先生に指差されたロンは、さんざん迷った挙句、左前方のカードをめくった。
今度は縄で逆さ吊りにされた男が描かれていた。
「何これ?」
ロンが気味悪そうに顔を歪めた。
「『Hanged Man』、『吊るし人』ですわ。犠牲を強いられる、献身的に尽くすなどの意味がありますの。あなたはこれから闇に呑み込まれることとなりますが、友を光へ導くでしょう」
「この占いの結果って、喜んでいいんですか?」
ロンが不安げに訊ねたが、トレローニー先生はロンを一瞥しただけでハリーのほうに向き直った。
「次はあなたよ」
ハリーは磁力のようなもので引き寄せられるかのように、正面のカードに手を伸ばした。カードをめくると黒いローブのようなものが描かれていた。ハリーは見やすいようにカードの向きを変えた。
そこには鎌を持った死神が描かれていた。
「このカードは『Death』、つまり『死神』で、意味では―――」
バンッとテーブルを叩いて、ハーマイオニーが勢いよく立ち上がった。
「もう充分だわ!! グリムの次は死神!? ハリーの気持ちも考えたらどうなの!! 行きましょう、ハリー、ロン!」
ハーマイオニーはハリーの腕を掴むと、早足で出口に向かった。ロンも急いで二人のあとを追った。
「気持ちはわかるけど、落ち着けよ、ハーマイオニー。いつものことだろ?」
「わたしは落ち着いてます! あんないんちきばばぁの話を聞く暇があったら、早くエリアに戻って報告したほうがいいわ」
三人は振り返りもせず廊下に出た。ハリーは扉が閉まる前に、背後で静かにカードをきる音が聞こえたような気がした。
【あとがき&裏話】
この章は、なぞなぞ第二段でした。
イースターを題材にした作品なのでなるべく卵に絡めた表現やエピソードを入れたい、と考えている最中に閃いたなぞなぞです。
マグル学・数占い学のコラボも実現しましたし、キーボード型の石盤も「賢者の石」の魔法のチェス盤のようにこの世界観に馴染んでくれそうな気がして、わくわくしながら解答までの行き詰まりやヒントを組み立てました。
また、占い繋がりでトレローニー先生も出しています。
この章を書きだした時点では、ただ立ち会い人として登場するだけの予定でしたが、急に話が次々と思いついてタロットのエピソードまで追加することになりました。