【第15章 目覚め The Awakening】
ハリーは出口の見えない真っ暗な廊下を、必死に“それ”から逃げていた。廊下はひたすら真っ直ぐ延びているだけで、隠れられるような所はどこにもなかった。息も絶え絶えに振り返ると、足元から伸びたハリーの影がマルフォイの形となって、ハリーに迫ってきていた。少し前までハリーの身長と同じくらいだった影は、もうハリーの背丈の何倍もの高さに立ちあがっていた。ハリーは自分に覆いかぶさろうとする影から必死に逃れていたが、まったく進んでいる気がしなかった。
ハリーの目の前の闇の中に、ロンとハーマイオニーの後ろ姿が現れた。ハリーは二人に助けを求めようとしたが、虚しく動かす唇からは微かな呻き声すら漏れることはなかった。ハリーの心の叫びに気づいた様子でもなく、ゆっくりと二人が振り返った。
「パーバティは僕より頼りになると思って、君にエンブレムを預けたのに」
ロンがハリーと目を合わさずに言った。
「ハリー、あなたは最後の課題が残ってるんだから、エリアでおとなしくしているべきだったわ」
ハーマイオニーは同情するような目でハリーに言った。ハリーが何も言い返す間もなく二人が闇に消え、今度はシリウスが現れた。
「ジェームズだったら、あのくらいのピンチは笑って切り抜けたものだった」
シリウスは寂しそうにそう言うと、ロンやハーマイオニーと同じように闇に消えていった。代わりに今度はダンブルドアが現れた。
「ハリー、君はドラコの隙を突いて不意打ちを仕掛けようとした。ドラコは君と一対一で勝負しようとした。その意識の違いが表れた結果じゃよ」
ダンブルドアは怒鳴るわけでもなく静かにそう言い残し、やはり闇に消えた。
そして、闇の中からハリーの両親が現れた。ぼんやりとしたその輪郭をハリーはしっかり見定めようとした。その声を一言も聴き漏らすまいと思った。しかし、二人はハリーと目を合わすこともなく、何も言わずに闇に消えていった。
背筋が寒くなり、ハリーは再び振り返った。いまや影は壁や天井にまで広がり、ハリーに覆いかぶさってきた。ハリーは床に叩きつけられ、闇に呑み込まれる恐怖を感じた。叫びたくても声が出ない。
重い! 苦しい! 助けて!
見上げると、蛇の形になった影がいままさにハリーを飲み込もうと跳びかかってきた。
「ウワーッ!!!!」
ハリーはベッドの上で叫んでいた。胸に感じていた重さは消えていた。何もかもがぼんやりしていた。誰かがハリーのメガネを外したのだ。ハリーは医務室に運ばれたに違いない。辺りを見渡そうとしたが、突然跳び起きたためかクラッと眩暈がした。目の前に水の入ったゴブレッドが現れた。
ハリーは中の水を全部飲み干した。頭に血が巡りだしたのを感じた。記憶がはっきりと蘇ってくる。そう、ハリーはマルフォイにやられたのだった。そして……あんな夢を見たのだ。
ハリーは夢の中でのロン、ハーマイオニー、シリウス、ダンブルドアの言葉が彼らの本心などではなく、ハリー自身の言葉、自責の念であることにいまはもう気づいていた。しかし、ハリーは苦しかった。自分が許せなかった。ハリーの頬を伝って悔し涙が流れ落ちた。
ダーズリー家での屈辱的な十年間とは対照的に、ハリーのホグワーツでの学校生活は順風満帆だった。魔法界という自分の居場所を見つけ、ホグワーツこそが我が家だと思った。ハリーが入学してからの三年間、寮対抗杯はハリーの活躍もあってグリフィンドールが獲得した。一昨年はスリザリンの怪物を滅ぼしてロンとともにホグワーツ特別功労賞をもらったし、去年はクィディッチ杯でもウッドと共に念願の初優勝を果たした。そして今年は三校対抗トーナメントに出場し、六年生のセドリックと現在トップで肩を並べていた。
ハリーには実際には相当なプレッシャーがかかっていたはずだが、それでも特に意識することなく乗り越えていた。
けれどいま、ハリーはマルフォイに初めて負けたのだ。マルフォイは互いに忌み嫌い合うライバルだったが、いままで負けたことはなかった。マルフォイの悪巧みで幾度か危機に陥ったことはあったものの、クィディッチなどの直接対決では必ずハリーが勝っていたのだ。
知らず知らずのうちについていた自信が根こそぎ刈り取られ、プレッシャーだけが跡に残されたようだった。
そして夢の中とはいえ、何も言わなかった両親―――
しかしハリーは気持ちを切り替えた。まだ失格になったわけではない。試合に復帰して、マルフォイに借りを返すことができる。グリフィンドールのみんなに迷惑をかけた分を取り返し、チームを優勝させなければ。
ハリーの命をヴォルデモートから救ったのは、ハリー自身の力ではなかった。母リリーのハリーに対する愛の力がハリーの命を守ったのだろうと、ダンブルドアから聞かされていた。「生き残った男の子」という名声は、ハリーが自分の力で勝ち取ったものではなかった。
とはいえ、名声や額の傷とは関係なく、これまで困難を乗り越えてきた力が確かにハリーにはあった。
意志の強さだ。
ハリーはローブの袖でしっかりと涙を拭った。メガネを掛けていないその目は医務室の景色をハッキリと捉えることはなかったが、しっかりとした決意が宿っていた。
まずは、水のお礼を言わなくては―――
左を見たハリーは、アッと驚いた。
「ドビー!」
しもべ妖精はモジモジしていたが、大きな丸い緑色の目がハリーをジッと見つめていた。手には海綿を握っている。どうやらハリーの額の汗を拭ってくれていたようだ。ハリーは夢で感じていた重苦しさの原因がわかった。ドビーがハリーに乗っかっていたのだ。とはいえ、ハリーはドビーの優しさに感謝していた。メガネを掛けておらず眩暈もしていたとはいえ、すぐにお礼を言わなかった自分を恥ずかしく思った。
「ありがとう、ドビー。あっ、恥ずかしいところを見られちゃったね」
ハリーは頬に残った滴を拭って笑顔を見せた。
「ドビーめは、ハリー・ポッターが悲しんでいるのに慰める言葉が出ないのでございます」
ドビーはうつ向き、大きなとんがった耳がしゅんと萎れた。
「ドビー、気にしないで。もう大丈夫だから。それより、どうしてここに?」
ハリーはベッド脇に置かれた台から手に取ったメガネを掛けながら訊ねた。ドビーが誇らしげに顔を上げた。
「ハリー・ポッターを痛めつけようとしていたので、ドビーめがドラコ・マルフォイを吹き飛ばしなさったのです! そしてハリー・ポッターをここに連れていらっしゃいました!」
ハリーが聞いたバーンという音は、マルフォイがハリーに呪文をかけた音ではなくて、ドビーがマルフォイを吹っ飛ばした音だったようだ。それにしても……ハリーはしもべ妖精の小さな体をまじまじと観察した。
「ねぇ、ドビー。どうやって僕をここまで運んだの?」
ドビーはベッドに飛び乗ると、ハリーのほうを指差した。
「それでございます!」
ハリーは一瞬、自分のことをドビーが指差しているんだと思い、困惑した。しかしドビーの目線を追ったハリーは、ドビーが指差しているのが自分ではないことに気づいた。ドビーはハリーが手にしたゴブレッドを指差している。ドビーがキーキー声でしゃべり続けた。
「そのゴブレッドがポートキーだったのです。アルバス・ダンブルドアが魔法省の許可を得て、この試合のためにいっぱい作っているのです。ドビーめはアルバス・ダンブルドアが作った出来立てホヤホヤのポートキーを持って、あの場に駆けつけなさいました!」
ハリーはふと、ハーマイオニーの言葉を思い出した。
「でもさ、ドビー。ホグワーツの中では、姿現しとかポートキーでの移動はできないんじゃないの?」
そのとき、医務室の向こう側からしかめっ面のマダム・ポンフリーが息を切らして現れた。どうやらハリーよりも重症な患者がいるようだ。ロンのことが心配になったハリーは、ドビーに質問している最中だと言うことも忘れて、マダム・ポンフリーに思わず訊ねた。
「ロンは無事にエリアに戻れましたか?」
マダム・ポンフリーは早口で答えた。
「いまここにいるグリフィンドール生は、まだ意識の戻らないラベンダー・ブラウンとあなただけです」
ハリーはマダム・ポンフリーが指差した右隣のベッドを見た。まだ意識が戻っていないラベンダーは、ぐっすり眠っているだけのように見えた。。
「あの子なら心配いりません。すぐに復帰できるでしょう。もっとも、今日一日安静にしたところで罰が当たることはないはずですけれど」
マダム・ポンフリーは捨鉢に言った。
「ロナルド・ウィーズリーなら、無事エリアにたどり着いたとそこのしもべ妖精が言っていましたよ」
マダム・ポンフリーがしかめっ面でドビーを一瞥した。どうやら患者の安静を必要とする医務室でキーキー声をあげるドビーを、快く思っていないようだ。ハリーはとっさにドビーをかばった。
「ドビーは僕をここまで運んでくれて―――」
「えぇ、えぇ!! そうでしょうとも!」
マダム・ポンフリーがハリーの言葉を遮った。
「ダンブルドアがこの子たちに、ポートキーの運搬を任せたのですからね。ダンブルドアはこの試合のために、敷地内でのポートキーの移動が可能となるよう魔法を緩めましたよ。敷地内でも独自の魔力で移動できるこの子たちが、姿現しも姿くらましもできない決闘立ち会い人に、そして医務室での治療が必要な生徒に、ポートキーをダンブルドアの元から届けているのですからね」
どうやらいままで出会った魔法省の役人は、ポートキーで移動をしていたようだ。バチンッ、バチンッという連続した音は、しもべ妖精がポートキーを持って現れ、すぐさま姿くらましする音だったのだとハリーは納得した。
「私は納得していませんよ!」
マダム・ポンフリーが語気を荒げた。
「こんな危険な試合は中止するよう、何度もダンブルドアを説得しましたとも。つい先ほどダンブルドアがここに訪れたときも―――」
「ダンブルドア先生がここに!?」
今度はハリーがマダム・ポンフリーの言葉を遮る番だった。
「えぇ、いらっしゃいましたよ。あなたの様子を確かめて、丁度いい時間に発動するように、そのゴブレッドを再びポートキーにしていきました。そのときにも私はダンブルドアにハッキリと言いましたよ! こんな危険な試合は中止してくださいとね! ですが、ダンブルドアは聖者の卵がどうとか仰って、まったく聴く耳をお持ちに―――あぁ、そんなに気を落とさないで。ダンブルドアは忙しいお方ですよ」
マダム・ポンフリーはハリーが俯いたのを見て、ダンブルドアが自分に声をかけてくれなかったのをハリーが嘆いているのだと勘違いしたようだ。しかしハリーは別のことを考えていた。
マダム・ポンフリーの言うとおりだ。こんなに危険で大掛かりな試合を、どうしてダンブルドアはわざわざこの時期に催したのだろう? なにか特別な意味があるのだろうか? そもそも、ニックも口にしていた聖者の卵とは一体何なのか?
そのとき、また一人患者がポートキーで運ばれて来た。どうやらハッフルパフの三年生のようだ。直後にバチンッという音がして、屋敷しもべ妖精も現れた。
「またハッフルパフ生なの!?」
マダム・ポンフリーはヒステリックな声をあげると、ハリーのほうに振り向いた。
「私は反対ですが、ダンブルドアに言い負かされました。復帰の仕方はその屋敷しもべ妖精に訊きなさい」
そう言い残すと、マダム・ポンフリーはハッフルパフ生の元に駆けて行った。ハリーはドビーに向き直った。
「ねぇ、ドビー。ラベンダーが回復するのを待って、一緒に復帰することはできないかな?」
ドビーは頭を横に振り、耳が顔に当たってパタパタと音を立てた。
「ハリー・ポッターの頼みといえども、それは無理なのです。ラベンダー・ブラウンは交代選手がもう出ているので、ポートキーで直接寮まで送られるのです。ハリー・ポッターはまだ交代が出ていないので―――」
ハリーはどうしても気になって、思わず口を挟んだ。
「ねぇ、ドビー。僕、どれくらい気を失っていたの?」
「ほんの十分ほどです。ただの全身金縛り呪文だったそうなので。だからハリー・ポッターは、そのポートキーで何処かに飛ばされなくてはなりません。あと数分であります」
まだ時間があるようだったので、ハリーは別の話題を持ち出した。
「それにしても、ドビーも忙しそうだね。ゆっくりできないんじゃ……」
「あぁ、ハリー・ポッターは屋敷しもべ妖精になんてお優しい。でも、この役目がなくてもドビーめはゆっくりできないのです。だって―――」
突然ドビーの体が強張ったかと思うと、ハリーが持つゴブレッドに飛び乗って自分の頭をゴブレッドに打ち付け始めた。
「ドビーは悪い子!! ドビーは悪い子!!」
「ドビー、駄目だ! ドビー!」
ハリーは必死でドビーをゴブレッドから引き離し、自傷行為に走らないようベッドに押さえ付けた。
「自分を傷つけるようなことは僕が禁ずる。けど、どうしたの、ドビー?」
「ドビーめはアルバス・ダンブルドアと約束したのです! 誰にも言わないと約束したのです!」
「ダンブルドアと!?」
ハリーは驚いたが、ドビーがまた危険な衝動に走らないよう、押さえ付ける力は緩めなかった。
「でもダンブルドアは、たとえ約束を破ってしまったとしても、ドビーが自分を傷つけるようなことをするのは望んでないと思うよ」
唐突にそれは始まった。ハリーはへその内側からゴブレッドに引っ張られた。周りの景色が渦巻き始めるのを見て、ハリーはドビーに声を掛けた。
「ドビー、また今度ね。自分を痛めつけちゃ駄目だよ」
「ハリー・ポッターも気をつけて」
ドビーの顔が医務室とともに歪み、その声を遠くのほうに聞きながら、風と色の渦の中へと再びハリーは吸い込まれていった。
【あとがき&裏話】
以前までこの章のタイトルはやたら長かったのですが、これを機に短くしました。
主人公の挫折というのはベタ過ぎて書くのを躊躇っていましたが、一応表テーマがハリーの成長ということで、少しだけ触れることにしました。
本当に申し訳程度ですけれど。
成長云々よりも、マント・地図のない状況で独りになることによって、友や親たちの存在の大きさをハリーに実感させたかったというのが、前章からの流れで表したかったことです。
そして、実はかなりファンの多いドビーの登場。
私も大好きです。
口調を再現するのが大変でしたけれど(汗
バチンッという音で、ドビーの登場を期待していた方も多かったかと思います。
二回音が鳴るのは、こういう理由だったわけです。
出場選手の姿現し・姿くらましは、やはり使えないままですね。
話は変わりますが、ここまでの流れで「あれっ? なんだかおかしいぞ」と気づいてくれる読者が一割ほどいると嬉しいなと思っています。
あからさま過ぎてもいけないし、さりげなさ過ぎてもいけないし……
さて、これで前半戦が終了といったところでしょうか。
後半戦、特に私のお気に入りの18章以降はかなり濃くなっていると思います。