介入結果その三十六 高町なのはの微変2
おでこに、キスをされました。
そのお相手は、わたしがそんな風に思っているなんて、きっと全然思っていないし。
そもそもキスをされたというより、してもらいに行ったみたいなものだったし。
彼の方からしてみれば、口に頭突きをされただけだったし。
そのせいで口を怪我させてしまったことを、本当にごめんなさいって思うし。
今は、くちびる越しに歯に強くぶつかったのか小さな赤い痕の残っているおでこに張った絆創膏が、そわそわ落ち着かなくて。
それが、むずがゆくて、とても気恥ずかしくて。
あの時、もしあのタイミングでフェイトちゃんが来てくれなかったら、あのまま動けなくなっていたんだろうなって、そう思う。
普段だったなら、こんな風に思って恥ずかしくなるようなことも無かったんだろうけれど。
キスって共通点が、今朝見た夢を思い出させて。
落ち付いていたはずの気持ちが、また大きくなってしまった。
さっきのことからかなり時間が経っているから、今はなんとか冷静さを取り戻せているけれど。
そのことに意識を向けると、この瞬間にも熱くなる頬を、なんとも出来ないのがすごく歯がゆい。
そして、わたしの方はこれだけ意識してしまっているって言うのに、彼の方はそんな事には気が付かないで平然としているっていうのが、なんだかとっても不公平な気がして。
つい頬を膨らませて、追及したい気持ちになったけれど、それは自粛して。
その彼は、ソファの上でクッションに頭を預けて、うつらうつらとしているみたいだった。
最近とても忙しくしているみたいだし、ちゃんと休んでいるのかなって、少しだけ心配になる。……わたしも人のコトは、言えないのかもしれないけれど。
さっきまでは、口の怪我に回復魔法をかけていたみたいだったけど、それも一段落したのかな。
それにしてもあの回復魔法、手際も回復速度もとても見事で、すごく丁寧に術式を構成してあるんだろうなって、ちょっとだけ羨ましい。
わたしも回復魔法は使えるし、効果もせーくんの扱うものと変わりないくらいのものだって思っているけれど。
それでもわたしの回復魔法は、発動速度や無駄の削ぎ落としに関しては、彼のそれに及んでいない。
やっぱり医療技術を扱う術が異様に上手な所は、ジェッソさんの息子さんなんだなぁって、納得しちゃうところでもあるんだけど。
と、わたしがそんな事を考えていると、それにしても、ゴキブリですか。って、近くのカーペットに足を崩して座っていたティアナが、少し意外そうな顔で部屋の中を見回していた。
どうかしたの? って問い掛けると、あ、じろじろ見てすみません。って頭を下げてくれる。
「でも、この部屋っていつもすごく綺麗にしてますよね」
「え? あ、うん」
咄嗟にそう答えてから、ティアナ達が来る直前まですごく頑張って、散らかり放題だった部屋を片付けていたことを思い出して、隣に座っているフェイトちゃんと顔を見合わせて苦笑いする。
せーくんの提案で、彼だけがこの部屋にいるという状況を作らないようにって、フォワードのみんなを呼んで簡単な親睦会でも開いたらどうかと言うことで、その前にこの部屋の状況をなんとかしなくちゃねってお話になって。
じゃあ、はやてちゃん達も呼ばなくちゃってわたしが言ったら、あの人呼ぶなら俺はマジで帰る。と冗談に聞こえない声音で押し切られて、はやてちゃんを呼ぶのは断念させられちゃったけど……。
そちらからはやてちゃんに情報が回るかもしれないって、更にヴィータちゃん達まで呼べなくなったのは、はやてちゃんのことも含めてすごく残念に思った。
だから今度は、本当にみんなで集まれるように、何か企画のようなものをしようかなって、少しだけ思う。
それはともかく。確かに普段から部屋の中は綺麗に整理整頓するように心がけていたし、ヴィヴィオが来てからはこの子の教育上のことからも更に気をつけていた。
それでも、ゴ……。が、出てしまったのは、わたしとしては残念だと思ったところだけど、そのことをさっき部屋の片づけをしている時に、わたしのお願いを聞いて部屋の隅でヴィヴィオを肩車して相手をしてくれながら、壁の方を向いてエリオとお喋りしつつ待機してくれていたせーくんにこぼした時は、「まあ、あんなん窓に少しでも隙間があったら、外から入ってきたりするような、無茶苦茶なアレだからなぁ」って、少しだけ慰めてくれた。
そして、「あ、でも寮長さんにさっきそこで会ったからここでのコト報告したら、一週間後くらいに全部の部屋で殺虫缶焚くから、準備しといてって言ってたぜ」と、せーくんは言う。
だからそのうち、玄関のところの掲示板に、告知が張られるんじゃないかって。
せーくんの話にフェイトちゃんが「あ、アイナも豪快だね……」って苦笑している横で、わたしはとってもほっとしながら、作業の手を早めて頑張っていた。
……だって、あの時は冷静さを欠いていたから気付かなかったけど。
洗濯したばかりの下着とか、床に無造作に落ちたりしていたから……。
きっと畳んでまとめて一ヶ所に置いたあったものを、わたしがひっくりかえしちゃったんだよねと推測しながら、また顔が赤くなっていくのを感じていた。
せーくんはなにも言わなかったけど、多分彼のことだから気付いていただろうし……。
って、そんな事まで思い出して、わたしが何だか言葉に出来ないもやもやした気持ちにうずもれていきそうになったところで、
「────ああ、ところで高町」
「え?」
少し離れた場所にあるソファに横になるせーくんが、なんの前触れもなくわたしに声をかけてきて、反応してそちらを見ると、彼は気だるげに話を続けた。
「なんだかんだで言いそびれてたんだけど。お前への熱烈な『ファンレター』、また大量にうちに届いてたらしいんだよね」
昼ごろ親父から連絡があったよ。と欠伸をしながら緊張感なく言うせーくんに、わたしはその場で硬直した。
周りのみんなは、せーくんの言葉の内容と、わたしの反応とのギャップに、首を傾げて。
フェイトちゃんだけは、「……あ」って反応しているから、気付いたみたいだけれど。
皮肉交じりのその言葉の意味を、いまさら額面通りにとらえられるわけが無い。
ファンレターなんて迂遠な言い回しをしているのは、昔からの彼の、犯人の人への抗議の表れだって、知ってるから。
今回はそれに加えて、みんなの前でこんな話をしているから、カムフラージュの意味もあるのかもしれないけれど……。
「ねー、ママー。ふぁんれたー、ってなぁに?」
そんな中、わたしの膝の上にちょこんと座っていたヴィヴィオが、こちらを見上げて聞いてくる。
だけど、せーくんの告げた事柄がかなり想定外の内容だったから、どう答えればいいのか。って、戸惑っていると……
「ファンレターって言うのはね。その人のことが大好きですとか、陰ながら応援してますとか、そういう内容の書かれた励ましのお手紙のことだよっ!」
「おー、ママすっごーい!」
「うん、そうなんだよっ!」
スバルとヴィヴィオのやり取りに、それを聞いたせーくんの口の端が皮肉気に歪むのが見えた。
そうだったらどれほど良かったかって、言外に言っているような気がした。
「やっぱり、なのはさんはすごいですっ!」
みんなに応援されてるんですねっ! って、そう嬉しそうに言ってくれるスバルに、わたしは困ってしまう。
せーくんの言い方が誤解を招くものだったのは確かだし、そういう励ましの内容のお手紙は数多く貰っているのも事実だ。
だけど今回のこれは、そういうものとは本当に縁遠い、どちらかと言えば迷惑に分類されてしまうもので……。
どう説明したものかな。って、わたしが苦笑いしながら考えていると、
「って、いや、ちょっと待って」
なんでなのはさん宛てのファンレターが、あんたの家に届くのよ? と、ティアナが尤もな疑問を口にした。
スバルたちも、ティアナの主張に、あれ、そういえば? って首を傾げた。
それに反応して、せーくんはまた口を開いた。
「いや、高町宛てのファンレターなんじゃなくて。高町へのファンレターが俺宛なの」
「……全っ然、意味分かんないんだけど」
「私もです……」
「セイゴ、わざと分かりにくく言ってるでしょ」
「エリ坊さんの察しの良さも、最近磨きがかかって来たなぁ」
ティアナやキャロ、エリオと彼のそんなやり取りに、隣のフェイトちゃんが、エリオとセイゴ、本当に仲いいなぁ。って、羨ましそうに二人を見比べていた。
「最近は、キャロとも……」
「? フェイトちゃん、何か言った?」
小さな声を聞きとれなくて聞いてみると、フェイトちゃんは少し慌てて「な、なんでもないよっ」と首を振った。
その様子にわたしがヴィヴィオと一緒に首を傾げていると、どこかから電子的な着信音のような音が聞こえてきた。
音のしている方を見ると、ティアナ達の質問をさらりさらりと回避し続けていたせーくんが、ズボンのポケットをあさっている。
ポケットから引き抜いた彼の手にあったのは通信端末で、誰かからの連絡があったのかなと思っていると、「今日はやたらと通信多いな……」とティアナ達を追い払いながら面倒くさそうに、だけど手早く端末を操作して通信相手を確認したらしい彼の表情が、一瞬曇った。
だから、なにか悪い知らせなのかなって、少しだけ不安になったのだけど……。
ため息を一つ吐いてから、彼が端末を操作した次の瞬間、
『おいっすー。あなたの近所の若奥さん、人妻戦士ロロナ・アルファ────』
端末上に表示されたディスプレイが、ほとんどその役目を果たさないうちに掻き消えた。
せーくんが、ほとんど反射みたいな動作で、通信を切ってしまったみたい。
でもそんな彼の反応に、わたしも含めて周りのみんなもポカンとしかできない。
というか、さっきの通信の相手、ロロナさんだったような……。
……えっと。
人妻、戦士……?
そんなおかしな空気の中、彼の手にした通信機が、もう一度着信を知らせ始めた。
せーくんは、ジト目で端末の画面を確認してから、また端末を操作して通信を繋げる。
『ねえ、ちょっとプレマシー。何だかいきなり通信が切れたんだけど。もしかしてあんたの端末調子悪い?』
「いや、どちらかというとあんたが悪い」
『なに言ってんの? こっちの端末はすこぶる好調よ』
「端末の話じゃねえよ……」
『まあ分かってるけどね』
「ああ、そう……」
がくりとうなだれるせーくん。
ディスプレイの向こうに現れたその女性は、茶味がかった赤色の髪が肩に届くくらいまで伸びていて、その表情には、以前会った時よりも大人の余裕のようなものが見え隠れしているように感じた。
でもわたしは、久しぶりに見た二人の懐かしいやり取りに、苦笑する。
と、そんなわたしの様子に気付いて、ティアナやエリオたちがこちらに近付いてきて、声を潜めながら聞いてきた。
「あの、なのはさんはあの人の事知ってるんですか?」
あんなにあっさりセイゴをやりこめられる人がいるなんて、少し信じられないんですけど……。
そう聞いてくるエリオと、周りでコクコク頷くティアナとスバルとキャロ。
フェイトちゃんの方を見て苦笑すると、彼女も苦笑いしていた。
「ええと、あの人は……」
ロロナ・アルファードさん。
昔せーくんとコンビを組んでいた空隊の人で、わたし自身もお世話になったことがあるんだって説明する。
「あ、でもフェイトちゃんも、一応お世話にはなってるよね」
「うん。面接練習の時に、少しだけどね」
と、そんなわたしたちの声が通信越しに届いたのか、ロロナさんが『んー?』と声を上げた。
『ところで、さっきからなんだか、なのはちゃんの声っぽいものがちらほらと聞こえるんだけど?』
あんた以外に、そこに誰かいんの?
首を傾げて聞くロロナさんに、せーくんは「ん? ああ、まあそうだけど」って、それがどうしたとばかりに返答した。
ロロナさんは、考え込むみたいに声音を変えた。
『んー? あんた部屋着だし、仕事……ってわけじゃないわよね』
て言うかよく見たらその部屋、あんたの部屋じゃない……?
そんな風にいろいろと気付いていくロロナさんが、ハッとしてから興奮気味に────
『そうかッ! あんたついになのはちゃんの部屋に夜這────』
瞬間、せーくんが通信を切断した。
常に通信切断のボタンに手をかけている彼の対応は、本当にロロナさん慣れしているなって思う。
ただ、至って冷静にロロナさんの対応をしている彼とは対象的にわたしの方はと言うと、ロロナさんの口走ろうとした言葉に予想がついてしまったから、恥ずかしくなって赤くなりそうな顔を隠すように俯くしかなかった。
部屋の中に、なんとも気まずい沈黙が流れる。
そんな中、せーくんの手元の端末がもう一度着信を告げる電子音を響かせ始めた。
せーくんは、誰の耳にも聞こえるような音量で舌を打ってからもう一度通信を繋いだ直後に醒めた目で言う
「着信拒否……」
『や、やーねー。ちょっとしたジョークじゃないのよ、ジョーク!』
冷や汗を流していそうなくらいに焦った様子のロロナさんの声に、せーくんはうんざりしたみたいに言った。
「つーか、どうせ親父あたりから俺が異動させられた話くらいは聞いてんでしょ?」
その関係で転属先の寮に世話になってて、……まあ、今日はいろいろあったんだよ。
せーくんがそう説明すると、ロロナさんはキョトンとしたみたいな声を出した。
『ジェッソさん? んーん。聞いてないわよ。最近は会ってないし。転属は知ってるけど』
「あん?」
いや、親父じゃないならなんで転属知ってんだよ。
「局の誰かから聞いたのか?」
せーくんが訝しげにそう聞くと、ロロナさんはおかしさを堪えようとして失敗したみたいで、「ぷっ、あははっ」って笑い出した。
彼はそれを見て一瞬ポカンとして、それから怪訝そうに表情を変えた。
「……んだよ。その面倒な反応は」
『ふふっ。やー、そういえばあんた、全部終わってこっちに戻って来た時には大変なんだろうなーって思ってさ』
「……おい、どういう意味?」
『いや、近所の奥さん方との井戸端会議で聞いたのよね』
「……え?」
せーくんが、目を見開いて唖然とした表情になる。
『やー、すごかったわよ。なにがどうしてそうなったか知らないけど、プレマシーのとこのドラ息子が管理局のエース・オブ・エースに白昼堂々誘拐されたとか。駆け落ちしただとか。無理矢理部下にされて秘書プレイしてるだとか』
私笑いこらえるのに必死だったわよホントー。とけらけら笑うロロナさん。
せーくんは、この世が終わる寸前になったみたいな表情になって、頬をぴくぴく痙攣させている。
わたしの方は、申し訳のなさと恥ずかしさが混同して声も出せそうにないくらいに戸惑っていて。
新人のみんなとフェイトちゃんはそんなせーくんとわたしの様子を見比べながら、何か喋ろうとして、けど気を遣ってくれているのか、すぐに思いなおして口を噤むような仕草を繰り返していた。
ヴィヴィオだけは、意味が分からなくて首を傾げているだけだったけど……。
今の彼の心境は、わたしなんかが想像できるようなものじゃなくなってる……よね。
「……なんで、そんなあらゆる意味で致命的なことを今更になって教えるんだ、あんたは……!」
額を押さえながら彼が聞くと、ロロナさんはカラカラ笑いながら言う。
『やー、二人して楽しそうなことしてるなーとは思ってたんだけどー。わざわざ教えても教えなくても状況は変わりそうも無かったし。それに私の方も子育てとかいろいろと忙しかったしねー』
今日のこの連絡も、久しぶりに旦那さんが帰った来たから、お子さんの相手を任せたおかげで出来たらしい。
『大体、ここしばらくあんたの方から一度だってこっちに連絡してこないんだから、文句言われるような筋合いじゃないわよー』
ロロナさんがにっこりとそう指摘すると、せーくんの表情が苦虫を噛み潰したみたいに歪んだ。
けどそれだけじゃなくて、通信先のロロナさんに隠すように俯いて、口元で転がした言葉が、仕方ねえだろうがって、そう呟いたように見えて……。
わたしは、以前から確信にはなってくれそうになかった曖昧な感情を刺激されていた。
でも、そんなわたしの心の内なんて知らずに、せーくんは気を取り直したように口を開いた。
「……なら聞くけど、その荒唐無稽な噂話を聞いたあんたがとった行動は?」
『────ふ、安心なさい。このロロナ・アルファード、その辺抜かりはないわ』
「……その心は」
『便乗して煽っておきました』
「今日この日ほどこの年増役立たずだなと思ったことはねえよ……」
『やー、辛辣ねー』
ロロナさんはカラカラ笑った。
せーくんは、またため息をついて、立ち上がった。
「……俺、ちょっと席外す」
『んー? どこ行くのよプレマシー』
「……自販機」
ロロナさんの質問に短くそれだけ応えて、せーくんは手に持った端末をわたしに向かって投げてくる。
慌ててそれをキャッチして彼の方を見ると、もう部屋を出る寸前で……。
「ついでにタバコ吸ってくっから、しばらく先輩の相手よろしく」
「え、あ、せーくんっ!?」
彼の名前を口にした時には、もう既に彼は部屋を後にしていた。
いきなりの状況にどうしたものかと慌てていると、
『……あいっ変わらず露骨なのよね』
「え?」
ロロナさん、なにか言いましたか? と聞くと、いつの間にか酷く不機嫌そうな表情になっていた彼女が、取り繕うように手をパタパタ振りながら、なんでもないわよなのはちゃんと愛想笑いを浮かべた。
『そんなことより、無駄話の方に花が咲いちゃってこんな結果なんだけどさ、私も一応用事があって連絡してるわけなのよ』
だからちょっと、早めに戻ってくるように伝えに行ってくれない?
そうわたしにお願いしてくるロロナさんに、わたしはちょっとだけ迷う。
さっきのせーくんの様子は、誰がどう見ても一人にして欲しそうな雰囲気だった。
しかもその雰囲気の原因の根本は、わたし。
悪意があったとか、無かったとか、そういう問題じゃないことは、わたしが一番よく分かってる。
だけど、そんな彼の所へ行くのを躊躇させる気持ち以上に、気になっていることがあるのも確かで。
だから、わたしは……、
『その間に、私はフェイトちゃん達の方と友好を深めておくからさ』
ロロナさんの表情の裏に、どんな気持ちがあるのかは分からないけれど。
それはきっと、わたしに何かを求めてのことだと思うから。
だから、わたしは、少しだけどうするべきか考えてから。
端末をフェイトちゃんに預けて、彼の後を追った。
部屋を飛び出して、彼の姿を探しながら、自動販売機のあるエントランスへ向かった。
けど、そこに彼の姿はもう無くて、部屋を出るのを躊躇った自分を、少しだけ責めた。
仕方なく、当て所なく走って玄関に向かって。
駆けだすように扉の外に出ると、玄関脇の段差で煙草を片手に座り込んでいるせーくんを見つけた。
その足元には、プルタブの開けられた缶が置かれている。
彼は、騒がしく飛び出してきたわたしに一瞥をくれると、小さくため息をついてから口元にタバコを持っていって、浅く息を吸い込んでから短く言った。
「先輩は?」
「あ、えと、みんなに任せて来ました!」
「なに、八神から呼び出しでもあったんか?」
「え、ち、違うけど……」
部屋を出る時とは全然違ってあっけらかんとしている彼の様子に思わず戸惑っていると、「だったらどたばたやってると、
寮長さんに叱られないか?」って言われて、思わず同意する。
「あ、そ、そだねっ」
「うん、そう」
それだけ言って、彼はわたしから意識を逸らした。
人差し指と中指で根元のあたりを挟んだ煙草を口元へと持っていって、またそれを軽く吸い込んでる。
それをなにも言えずに見つめていると、そんなわたしに気付いたのか、彼はまたちらりとこちらを見た。
「今は、タバコやめろとか言わないのな」
「あ、えっと。……そ、そだね」
「……」
せーくんが、舌打ちしながら携帯灰皿を取り出して、その中にタバコを入れて火をねじ消す。
それから、足元の缶の淵に手をかけて持ち上げてから立ち上がった。
「あ、ど、どこいくのっ?」
「なんか、俺が邪魔で身動きとり辛いみたいだから、移動する」
「じゃ、邪魔って……。違うよっ!」
「……そうなのか?」
なら、何しに来たんだよ。
「俺に話ってわけでもないんだろ?」
それなら、こっちの都合なんて気にせずに隣に無理矢理陣取るし。
そんな彼の言い様に、なんだか妙にしょげる。
普段のわたしの、ごり押しみたいな態度が悪いんだろうなってことは分かるんだけど、それでもそう言う風に思われることになにも感じないわけじゃないから。
でも、そんな彼の態度に、自分が少しだけいつもの空気を取り戻せたことを感じた。
だから、彼の手を取って引っ張って、そして自分が座り込みながら彼も座るように促した。
彼は迷惑そうに顔を顰めたけど、いつもそんな反応だから気にしない。
だけど、そんな風に彼を引きとめたとは言っても、なにから話せばいいのか分からなくて。
しばらくそんな風に、彼とわたしがそこにいるだけの、無言の時間が流れた。
不思議と息苦しくはなかったし、むしろどこか心地よい時間ですらあったけれど、このままじゃなにも状況が動かない。
だからとにかく会話をしようって、お話をする取っ掛かりを探して視線をウロウロさせていると、彼が手元で缶を弄んでいるのに気付いた。
だからわたしは、不思議に思ってなんとはなしに聞いた。
「それ、飲まないの?」
「んー? いや」
言い淀んだ彼にどうかしたのかと聞くと、ぼうっとしながら自動販売機を操作していたら、ボタンを押し間違えてしまったんだって説明される。
「とりあえず一口飲んだら、やったら甘いやつでさ。どうしようかって困ってたんだよな」
そう言ってせーくんは、缶をわたしの前に差し出した。
「もしあれなら、飲まないか?」
「……え。ええっ!?」
驚いて変な声を出してしまったら、せーくんが意外そうにキョトンとした。
「あれ。高町って、甘いの駄目だったか?」
首を傾げる彼に、そうじゃないよって首を振る。
「だ、だってそれ……」
「それ?」
「と、途中まで……」
「……なんだよ?」
訝しげに表情を変える、本当に分かっていないらしい彼。
そういう反応をされると、こんなことを考えてしまっているわたしが、すごく邪なんじゃないかって気になってしまう。
そんな風なことを考えてしまったから、なんだかすごく恥ずかしくなって。
顔が赤くなるのを自覚しながら発したわたしの言葉は、後半に行くにつれてしりすぼみになってしまう。
「……か、間接キスになっちゃう、よ?」
せーくんの動きが、固まった。
それから彼は、戸惑いと呆れが混じったような不思議な表情になって……。
恐る恐る確認するみたいに、わたしの顔色を窺うみたいに言った。
「ようやく高町にも人並みの羞恥心が芽生えたことを喜ぶべき。……なのか?」
「せーくんっ!?」
あまりにひどい言いようだって、わたしが抗議の意味も込めて声を上げると、彼は鼻で笑いながら肩を竦めた。
そんな彼の態度にカッとなって、わたしは件の缶に手を伸ばす。
せーくんは、それをひょいっと避けて、表情を曇らせた。
「なんだよ?」
「それ、もらうっ!」
「間接キスは?」
「の、望むところだよっ!」
「……やっぱさっきのなし」
「え……。あ」
指にひっかけるように淵を持っていた缶を口に運んで、彼はそれを思いっきり煽った。
喉を鳴らして中身を一気に飲みほして、それからせき込む。
「せ、せーくんっ。大丈夫っ!?」
「……ゴホッ。……ホント、甘すぎ」
だから、わたしが飲むって言ったのにって言いながら背中をさすってあげると、その手をパッパッと振り払われた。
「……そういうのもこういうのも、もっと相手は選んでやった方がいい」
俺相手に、んなことやっても、なんの効果も見込めやしねーぞ。
こちらも見ずに無表情で言われた言葉に、なにか反論したかったような気持ちはあったのだけど、それが上手く言葉に出来なくて、口ごもる。
「そもそもお前、なんの用でここに来たんだよ」
「あ、えと……」
聞かれて、さっきロロナさんに頼まれた伝言を、出来る限りそのまま伝える。
彼はそれをつまらなそうに聞いていたけれど、わたしが伝言を伝え終えたあとに、
「それに、謝らなくちゃ、って」
と言葉にしたら、意味が分からなかったみたいで、首を傾げていた。
「まあ、なんだか知らないが。わざわざ御苦労なこって」
そう言って、それから表情を微妙に意地の悪いものにする彼。
「つか、高町の場合、どっちかってーとゴキブリから逃げて来たついでに伝言とか、そんな感じじゃねーの?」
「あ、それは……」
そういえば、ロロナさんの登場ですっかり忘れていたけれど、そういう事情もあるような、ないような……。
「ちなみにさっき、その辺でカサカサうごめいてるの見かけたぞ」
「ひうぅっ!?」
コンクリートの地面を指差しながら言われて、驚いて彼に体を寄せて服にしがみつきそうになって、その寸前で避けられた。
恨めしげに彼を見ると、肩を竦めた。
「怖がりすぎじゃないか?」
「だ、だって……」
「まあ、見かけたってのは嘘じゃないから」
「あ、ぅぅ……」
「ま」
ここでなら、単純に俺に押し付けりゃいいんだから、そこまでビビる必要もないだろ。
「いざとなったら、俺置いて逃げりゃいいだけの話なんだし」
彼はそう言ってから、話を元に戻した。
「で、俺になんの謝罪だって?」
「それは、その……」
わたしのせいで、ご近所さんが大変なことになってるみたいだし……。
わたしがそう言うと、せーくんは一瞬ポカンとしてからけらけらって笑い始めた。
「な、なにがおかしいの?」
「ああ、いや、すまん」
そういえば、俺の演技力も捨てたもんじゃねえなと思ってさ。
笑いながら言う彼に、わたしは目をぱちくりさせた。
「うちの近所、そういう噂話は格好の餌みたいなもんだからさ」
道端で近所のおばちゃんの皆様に会うと、誰かとの仲がどうだとかでよくからかわれてたから、今更それがどうしたって感じなんだよな。
だから今回のこれも、それの延長線にあるくらいの、時間と一緒に消えて無くなる程度のことだから、六課の中でのこととは違って、気にしなくても構わないんだって、そう彼は言う。
「でも、せっかくだから途中から利用させてもらったよ」
「え、えんぎ……、だったの?」
「ああ。ああすりゃ、不自然な流れでも何でもなく会話打ち切れるからな。渡りに船ってやつだ」
そう言って彼は、また笑う。
「それにそういうの、下手に触ると悪化しそうな気がするから、これからは極力気にしないことにしようと思ってさ」
ま、それでも帰宅後が面倒そうだってのは変わらないんだけどな。
そう言って彼は、思いっきり伸びをしながら後ろに倒れ込んだ。
振り返って、寝転がる彼の方を見るけれど、偶然か故意か、右腕で顔を隠してしまっている彼の気持ちは推し量れそうにない。
だけど、彼の今の言葉の中の一つは、わたしの勝手なだけだったはずの想像と直感を、後押しするものだった。
なぜそんな演技をしてまで、ロロナさんとの会話を打ち切りたかったのか────
そんな答え、誰が考えたとしても、一つしかないと思う。
「……あの、せーくん」
「んだよ」
「ロロナさんと、上手くいってないの?」
「────なんで?」
「だって、昔は……」
あまりにもあっけらかんとしすぎている彼の返事に、少しだけ、自分の想像は勘違いだったんじゃないかって思いが脳裏をかすめた。
けど、どれだけ彼女にどんなことを言われても、嘘をついてまで逃げだすようなことは、していなかったって思うから。
だから思ったそのままを彼にぶつけたら、彼の表情が微妙に揺れた。
揺れてから、ひび割れて。
もう自分が隠し切れていないことを悟ったのか、諦めたみたいに小さく言った。
「……ま。昔と比べてかなり疎遠になってるのは事実だな」
今じゃもう、要件もなしに連絡し合うような間柄じゃなくなったよ。
「────っ」
その言葉に、背筋がゾクリと泡立った。
その怖気と一緒に感じたのは、激しくて怖いくらいに思うデジャヴ。
そして、漠然とした、恐怖そのもののような感情だった。
そのせいなのか、胸の奥が万力で締め付けられるみたいに苦しくなって、衝動に突き動かされて。
気がついたら、彼の上に覆いかぶさって。
その体に抱きついていた。
せーくんは、慌てて起き上がって、わたしの肩に手をかけて、体を引き剥がそうとする。
「おい、おまッ、何をっ!?」
「────────…っ」
「……た、高町?」
戸惑いのせいか抵抗のゆるんだせーくんの体を、もっと強く抱きしめる。
こんなことでしか、気持ちを落ち着かせられない自分が、すごく情けない。
……しばらくは、そのままだった。
そのしばらくの間に、少しだけ周りの状況に目を向けられるくらいには落ち着きを取り戻して……。
彼の息遣いがすごく近くて、なんだかドキドキする。
それに、抱きついているから感じるけれど、彼の心臓も早鐘を打っていて。
わたしにドキドキしてくれているのだと思うと、なんだか少しだけ胸がくすぐったかった。
だけど、そんなわたしにとってなにか暖かい時間は、堅い声音で発された、彼の声で終わりを告げる。
「……高町」
「なに、かな?」
「暑いんだけど」
「そ、そんなことないよ」
「いや、お前だって微妙に汗ばんで────」
「にゃああああっ!?」
その指摘に、焦って体ごと彼を横に突き飛ばしそうになった。
だけどその直前に、それじゃあ彼の思うつぼなんじゃないかって踏みとどまって。
腕に込める力を、もっと強くしながら叫んだ。
「お、女の子にそういうこと言わないのっ!」
「だったらその『女の子』とやらがこういうことをするんじゃない!」
デリカシーの感じられない発言に焦ってさらに強く抱きつくと、いいから離れろって! って彼は抵抗を強めた。
だけどわたしもどこか意地になっていたから、無理矢理に彼の抵抗を抑え込もうとしばらく頑張っていたら、呆れたみたいにため息をついて、彼が動きを止めた。
「そもそも、女の『子』って年かよ……」
「まだわたし19だもんっ!」
「ああ、そう……」
そんなやり取りをしているうちに、彼の早鐘が次第にゆっくりになっていく。
彼の方だけ冷静になったっていう、そんな事実に少しだけむむむと思っていると、彼が落ち込んだような声で口を開いた。
「てか、お前の何がどうなるとこんな状況に繋がるんだ……」
「……ぅ」
答えられないって、そう思った。
だって、このわたしの行動は、自分の衝動に突き動かされた結果で……。
自分の中でも、上手く理由が分からないのに。
ただ不安で。
それを打ち消したくて、目の前にある温かさに触れようとした。
それ以上の理由は、本当に見えていなかったから。
だから咄嗟に、さっきの彼の言葉を思い出して。
「そ、その……」
「……?」
「あ、足元に、ゴ……」
「……ああ」
なるほど。
さっきわたしの部屋であったことを思い出したのか、そう口にしながら、せーくんは今度こそわたしの手を振りほどいて、体を押し返した。
嘘をついた。
わたしも、ヴィヴィオに嘘は駄目だよだなんて言えないなって思う。
距離が離れて、彼の顰められた表情が見えるようになる。
その顔は少しだけ紅潮していて、わたしも本当は感じていたみたいに本当に暑かったみたいで、ごめんなさいって気持ちになった。
「さっきも思ったけど、お前ゴキブリ出る度にこんなことしてんの?」
フェイトさん然り、俺然り。
「他のやつにもやってるようなら、また勘違いされてファンレター増えても、責任取れねーぞ」
皮肉るせーくんに、わたしは心外だって叫んだ。
「わ、わたしだって、すごく身近な人にしかこんなことしないよ!」
「……そうかよ。なんでもいいけど……」
頭を押さえて、彼は項垂れた。
そんな、いつも通りに思える彼の反応を見て。
少しだけ、本当はそんな事実はないんじゃないかって思ってもしまったのだけど……。
でも、さっきまでに彼の見せたいろいろな行動と、仕草と、反応が、わたしの中で一つの答えを象ってしまったから。
本当なら、こんな彼を追い詰めるようなことを聞きたくはない。……けど。
それじゃあ、いつまでたっても先へは進めないって、そう思うから。
だからわたしは、意を決した。
「ねえ、せーくん」
「なんだよ」
「ロロナさんの左腕のこと、ホントは、ずっと辛かったの?」
せーくんが、力無くさせていた瞳を真剣な色にして、わたしの方を見た。
それから、自分の反応が大きかったことに気付いたのか、取り繕うみたいに視線を逸らして前髪をくしゃりと握りしめて表情を隠す。
「……は。なにが────」
「やっぱり、そっか」
「人の話を聞こうか……」
今の反応で、さっきまでの曖昧な感情が、わたしの中で確信に変わった。
そして、ああ、やっぱりって、思った。
せーくんにとって、ロロナ・ブレイクっていう人の存在が、どれほど大きいのかは、わたしだって分かっていたつもりだから。
なのに、ここ数年どんな話をしていても、彼女との話題が彼の方から出てきたことはほぼなかったから。
わたしが話題を振れば、懐かしそうな顔でお話をしてくれるのに。
そんな彼のアンバランスな行動が、胸の奥にずっと引っかかっていた。
だからわたしは、安易に彼のその部分をつつこうと思えなかったんだって、今ならはっきりと分かる。
だけど今日の彼の様子は、慎重になっていたわたしの態度を変えるのに充分すぎるくらいにおかしかったから。
「あの事件があってからせーくん、わたしの前でロロナさんのお話、しなくなったよね?」
「……それはまあ、確かにそうだけど」
そりゃ、理由が別なんだがなぁ。
そう言ってせーくんは、小さく舌打ちした。
「……理由が、別?」
「そう、別。……いや、別とも言いきれないか。延長線上だし」
そう前置いてから、彼は視線を虚空に向けつつ言う。
「あの人、局辞めてすぐくらいに結婚したろ」
「え、うん。わたしもせーくんも、結婚式にお呼ばれしたよね」
あの時は、ロロナさんがわたしに向けて全力でブーケを投げつけてきたから、驚いたなぁって笑う。
せーくんは、あんな勢いで投げられたモンを、受け取るお前もお前だって呆れていたけれど。
「でも、それがどうしたの?」
「……はぁ」
「え、ど、どうしてため息かな?」
「あの人の結婚相手、俺の幼馴染だってのは知ってるよな?」
「う、うん」
確か、せーくんの家の近所に住んでいる人で、新聞記者のお仕事をしているって聞かされていたような……。
「結婚したから、自動的にあの人、うちの近所のそいつの家に住むようになったわけだけど」
「そ、それが?」
「そんな状況であの人と俺が仲良さそうにしてたら、不倫してるみたいな噂が立つかもしれん」
「そ、そんな大げさな……」
とそこまで言いかけて、さっきせーくんが彼のご近所さんは噂話が大好きだって言っていたのを思い出して、案外洒落になっていないんじゃないかなって思いなおした。
そんなわたしの途切れた言葉の端を拾って、彼は続けた。
「……大袈裟、か? いや、まあ、大袈裟だろうがなんだろうが────」
もうこれ以上、先輩に迷惑かけるようなことはしたくないじゃんか?
「────────っ!」
そう低く呟いた彼に、わたしは絶句した。
最低なことをしてしまったって、一瞬で悟った。
わたしは今きっと、彼に一番口にさせちゃいけないことを口にさせてしまったんだ。
なのに、そんな事をさせてしまったならなおさら、わたしがなにか言わなくちゃいけないんだって、そう思うのに。
頭の中がぐちゃぐちゃになって。
声を出そうとしても、喉が小さく震えるだけで。
この場で口にした言葉が、彼に与える影響がどんなものになるのか分からないのが、たまらなく怖い。
でも、こんなんじゃ、本当に何をしに来たのか分からないって。
だから、無理矢理にでも何か言葉を口にしようとして────
「昔話に、興味ある?」
その機先を、せーくんが遮った。
はっとして彼を見ると、彼の顔は前方へと向けられていて。
力無く、いつもの半分程度にしか開いていない瞳は、わたしの方を見てはいない。
その瞳の開き方は、いつかに彼が、あの隊の部隊長さんにリンカーコアの不調のことについて説明していた時の印象と重なって。
彼がこれからするお話が、それくらいに重要なことなんだろうなって、予感させた。
だからわたしは、頷いた。
彼は、「あー、そう」と力無く言って、言葉を紡いだ。
「先輩と始めて会った頃、俺局員になってから一年くらいしか経ってないぺーぺーでさ」
「う、うん」
「恋人になったどうのこうのって話は前にしたと思うけど、そんなことがあってからもあの人との上下関係が無くなるわけじゃねーから」
今に続くまでロロナさんが見せてきた破天荒な振る舞いは昔からで、せーくんはそんなロロナさんにいろいろ振り回されていたんだって。
だけどそんな日常の中で、せーくんは彼女からたくさんのことを教えられたんだって、説明される。
「あの頃の俺って、まだ全然書類仕事とか得意じゃなかったし、人並より少し遅いくらいの手際しかなかったんだけどさ。それをあの人、遅い遅いってすぐそばにひっついて俺の手順の悪い所一つ一つ指摘していくのな」
一日中後ろに張り付かれて、何か細かい失敗する度に怒られてたから、当時はなんの嫌がらせかと思ったけど。
そう口にして彼は、だけど噴き出すように笑った。
「いま思えば、あれだけ部下に構うような上司、なかなかいないよな」
そのくせ自分の仕事はきっちりこなしてるような人だったしさ。って、嬉しそうに言う。
ロロナさんとの、何気ない仕事の、プライベートの、そういう日常のお話を。
そのお話の一つ一つが、彼がロロナさんに感じている感謝の大きさを、わたしに教えてくれた。
ひとしきりお話をしてくれると、せーくんは大きく息を吐き出してから、少し悲しげに表情を緩めた。
「なぁ、高町」
「……なに?」
「あの事件の事情が片付いて、彼女の親族とか同僚とかに謝罪に行ったんだ」
「……うん」
「そしたら、彼女を助けてくれてありがとうとか、素晴らしい判断力だったとか、下手に事情が知られてて、本当なら貰えるはずなんてない賞賛貰って」
「……う、ん」
「で、彼女が目を覚ましたって連絡貰って、どんな顔あわせりゃいいのかってしばらくの日数悩んでから見舞いに行ったら、けろっとした顔で病院のベッドの上で身体起こしてんの」
「……ん」
「顔を合わせるなり、気にするなとか、自分は感謝してるとか言って、こっちが薄汚ねえ言い訳の言葉を何通りも考えてきてるってのに、励まそうとしてきたりさ」
「……っ」
「そこまでされて、それ以上気を遣わせる気になんてなれないから、こっちも腕斬り落としたのなんか気にもしてませんみたいにふるまって……」
「……ぅ、ん」
「……悪い」
せーくんが、わたしの頬に手を伸ばした。
反射的に目を瞑って体を竦めると、目元のあたりを指で拭われた感触がする。
「高町は最近、涙腺が妙に脆いんだな」
ここ数日で、二回目だったか?
そう、仕方ないなって言わんばかりに苦笑いする彼。
けど、彼には珍しいわたしに対するそんな優しげな態度を見ても、胸の内に湧き上がるのは焦りに似ているようにも思える、憤りの感情だった。
「────せーくんが、そんな風ばっかりだから……っ」
「そんな風ってなんだよ」
そんなの、決まってる。
わたしにだって、至らない所はあったと思う。……ううん。今回彼をここに呼び寄せたことに関しては、わたしが悪い所の方が多い。
だけど、そんな事は関係無しに彼は、昔からどんなことでも自分一人で抱え込む。
母親の真さんのことも、わたしとのリンカーコアのことも、そして今回のロロナさんとの関係のことも。
ロロナさんは、彼にとってかけがえのない大切な人だ。
それは、さっき彼がお話をしてくれた時の表情と、その内容から察することが出来る。
なのに彼は、彼女からあまりにもあっさりと距離を置いた。
こんな風に、時間が経っても風化しない大きな後悔を抱えたままで。
それはある意味、彼の強さなのかもしれない。
だけどわたしは、それを認めたくない。
だって、彼がたった一人で悩む必要なんて、最初から無いはずなのに。
────わたしじゃなくても良い
彼の周りには、いろんな人がいる。
ジェッソさんや、ロロナさん。
フェイトちゃんにはやてちゃん。
ユーノくんにクロノくん。
新人のみんなや、ヴィータちゃん達、ロングアーチのみんな。
その他にも大勢の、わたしの知らない彼の友達たち。
その人たちの中の、誰か一人だっていい。
心を開いて相談するべきだって、わたしは思う。
わたしから聞かない限り、相手がわたしであることは、きっとないと思うけど。
それは少しだけ残念だけど、でも、それでも彼の気持ちが軽くなるなら、それだけでわたしは満足だから。
彼はもっと周りに助けを求めるべきだって、そんな風に、全部一人で解決しようとする彼に押し付けがましい気持ちをぶつけたくなった。
でも、違う。
本当は、そうじゃないんだ。
わたしは本当は、情けなくて仕方が無いんだ。
わたしは、彼がロロナさんに対して、大きな負い目を感じているのに気付いていたくせに、それを放ってここ数年を過ごしていた。
彼が相談してくれないからなんて、言い訳にもならない。
わたしは、もっと早い段階で、彼を問い詰めるべきだった。
大丈夫なの? って。
辛くないの? って。
そう問い詰めただけでも、きっと当時に不安定だったはずの彼は、なにか反応を示してくれたはずだから。
そうなった時に、わたしの唯一の取り柄みたいな強引さを発揮しないで、なんの意味があるっていうんだろう?
わたしは、彼が大切な人から離れていくのを、黙って見逃してしまった。
放っておいたら、彼がそんな風に一人で抱えた悩みでおかしな方向へ突き進むなんてことは、ずっと前から知っていたはずだったのに。
だから。そう思ってしまったから、わたしは────
「悔しいんだ、よ。せーくん……」
「……は?」
訳が分からないって眉をひそめる彼に、わたしは首を振った。
「わたしだって、あの場にいたよっ? だけどあなたみたいに、何か出来たわけじゃなかったっ」
撃破対象は倒せたし、ロストロギアは封印出来た。
だけど。
泣きそうな顔で、歯を食いしばって、それでも必死に、自分にできる全てを使ってロロナさんを助けようとしていた彼を前にして、なにも出来なくて……。
わたしたちが辿りつくよりも前に犠牲になってしまった人たちのことや、ロロナさんの腕の傷を見て、へたり込んで絶句しているしかできなかった自分は、今でも記憶に刻まれてる。
魔法が確かに誰かを傷つける一面もあるんだってことを、もう何度目かも分からない経験の中でも一際強く思い知らされた。
そして、誰かを助けることと、誰かを傷つけることは紙一重だってことを、教えられた。
それでもわたしたちは、傷つけることだけを恐れないように、誰かを助けていくことが仕事なんだ。
それを、ティアナ達に伝えたいって思った。
けど、それが重要な事実だって思ったのなら、どうしてなにもしなかったのだろう。
彼の直面した状況は、一人で抱え切れるような重責じゃない。
わたしだって、彼のリンカーコアのことで似たような気持ちを経験したくせに、なにもしなかった。
誰かに相談することもできないような問題に、長い時間をかけて押しつぶされそうになっている彼。
大好きなはずの人と顔を合わせることを拒否したくなるような気持ちになっていることを、わたしは……!
「あの時だって何もできなかったのに、わたしいままでも、せーくんが悩んでるのを見て見ぬ振りしてたっ!」
叫んで彼の腕を両手で掴むと、せーくんはそれにビクリと反応してから、苦笑した。
やめてって、言いたかった。
そんな風に、諦めたみたいに笑わないでって。
もっといつもみたいに、手間のかかる子供をあやすお兄さんみたいな笑顔でいて欲しいって。
そう思っても、それは叶わない。
「……なにも言わない人間が、何を悩んでたってなぁ」
それを気にして手を差し伸べられるほど、お前も暇じゃあないだろよ。
そう言ってせーくんは、わたしの手をはずして立ち上がって、二、三歩前に歩き出した。
わたしもそれを追うように立ち上がると、彼が振り返って、またさっきの諦めたような笑みで言う。
「悪かった。こんなこと、誰に言ったところで仕方が無いから、今まで誰にも言わなかったのにな」
「し、仕方ない、って……」
「全部終わった。とまでは言わねーけど。粗方片はついたことなんだ。あとは結局、自分の中で整理付けなきゃなんねー話だし。それを、今までかかって折り合い付けられてないってだけでも情けねーってのに……」
その上、こんな形で他人に漏らしてるあたり、本当どうしようもねえよな、俺は。
そんな風に自嘲するせーくんに、わたしはなにか言いたくて、だけど視界が真っ赤に染まったみたいな激情がいろんな言葉を押し流してしまって、上手く何かを言うことが出来ない。
彼の悩みは、確かにあの事件のあとの、一つの真実なのかもしれない。
だけど彼の貰った言葉は、彼がロロナさんを助けられたから貰えた賞賛だったはずなのに……!
なのにその賞賛を、彼が素直に受け入れられるように何か言ってあげられなかった今までの自分が────
彼のSOSに気付いてあげられなかった自分がすごく、悔しい。
だから、上手く言葉にできるとは思えなかったけれど、それでも彼に何か言いたくて。
わたしは、ぎゅって苦しくなる胸を押さえながら、必死で、
「キミは綺麗事だって言うかもしれないけどっ、結果的にせーくんは、ロロナさんを助けたんだよっ!」
なのに、そんな後ろ向きな気持ちだけを見つめないで欲しいって、そう思う。
彼の言うような側面は、確かにあるのかもしれない。
だけど、それだけじゃないんだって。
ロロナさんは生きてるんだって、本当にせーくんに感謝してるはずなんだって、ちゃんと分かって欲しい。
だってそれは、あれだけ必死になってロロナさんを救った彼が貰える、最高のご褒美だったはずなのだから。
わたしの叫びに、彼は目を瞠って。
それから────
「……それでも」
それでも他にもっと、なんとかできる方法があったんじゃないかって。
「……思っちまうんだよなぁ」
「────…っ」
やっぱ、欲張りすぎるかね?
「よく考えれば、あの状況で俺が先輩を助けられたってだけで、僥倖だったんだろうってのに」
そう言って顔を俯ける彼に、わたしはまたなにも言えそうになくて……。
けど、少し経ってから顔を上げてわたしの方を見たその表情は、どこかさっきよりも柔らかくなったように思えた。
「でも、もういいさ」
「え?」
「情けないと思うし、高町には申し訳ないけど。愚痴ったらすっきりした」
「……え。え?」
「ユーノくんとかに偉そうなこと言っといて、自分も似たようなことになってりゃ世話ないんだよな……」
「ゆ、ユーノくんに、って……?」
「やっぱこういうのは、一人で抱えてもロクなことがないな」
「……うー」
疑問の声を無視されて、少し不満げに彼を見る。
そうしたら、彼もわたしの方を見て、小さく苦笑した。
「お前のおかげで、他の見方も目を向けられるようになったよ。少し、気持ちも楽になったかな」
そういう意味じゃ、話す意味ってのもあったのかも知れん。
「だから、ありがとうな」
そう言ってくれた彼が少し意外で、わたしはちょっとだけ驚いて目をぱちぱちさせてから、一も二も無く頷いた。
「うん! それなら、嬉しいっ!」
本当は、彼のその言葉も、苦笑も、全部わたしを気遣って出たものなのかもしれないって、思ってしまうけど。
彼の口にしたロロナさんとのお話は、きっと本音だったんだろうって思うから。
彼の本音には、今日触れることが出来たから。
次からはきっと、もう少し進んだ場所で、彼と悩んでいける。
一緒に悩んでいけるなら、いつか彼を本当に笑顔にするきっかけは手にできたって、そう思うから。
だからわたしがそう笑うと、せーくんは目をぱちりと瞬かせた。なにかなって首を傾げると、せーくんはまた苦笑した。
「……つくづく高町は、誰にでも親切だな」
「え? そう、かな?」
「ああ」
だからあんなにも、ファンレターを頂けるんじゃね。
さっきまでの真剣な様子とは一転。
急に意地悪そうに言う彼に、わたしはその場で硬直した。
そして、ロロナさんから連絡の来る少し前に彼に告げられていた事実を思い出して、さっきまでとは別の意味で背筋が寒くなった。
「てか、お前の方には何も行ってないのか?」
「……あ、あぅ」
わたし宛に届いたお手紙は、六課の方に転送されるようにしてあるはずだから、なにも来てないはずだよと彼に告げると、そりゃまた奇妙な状況だ。と肩を竦めた。
「全く、人気者の知り合いは何とも妙なオプションまで付いてくんのな」
「ご、ごめんね」
「前から言ってっけど、こりゃ別に高町のせいじゃねーからなぁ」
「で、でも、嫌でしょ?」
「まあ、面倒だけど」
今日はそんなことどうでもいいくらい、いい報告もあったから、相殺ってことでかまやしない気もしないでもない。
そう言って笑う彼に、わたしが首を傾げて事情を聞くと、セイスさんの所でお世話していた部下の子が昇進したんだってお話を、彼が嬉しそうにしてくれた。
銀色の瞳が綺麗で、金色の髪を後ろ頭でひっつめているらしいその少女は、手のかかるドジな子なのだけど、それ以上に可愛い部下だったんだって言われる。
そしてその昇進のお祝いに、今度お休みを取って出かけるのだということも。
「……そっか」
せーくん、お出かけするんだ。って、わたしは彼とお出かけ出来るその子を、羨ましいなって思った。
胸の奥の方が、チクリってした。
ここ数年、彼とまともにお買い物に行った記憶なんてほとんどなくて。
最近の調子を見ても、そんな事を出来るような日が来るのかなんて、全然分からないくらいだから。
「……顔」
「え?」
唐突な彼の言葉に顔を上げると、おでこを絆創膏の上からドアをノックするようにコツンとされた。
「しょげすぎ」
そんなに落ち込むようなことじゃないだろ。そう言ってせーくんは、小さく笑った。
「で、でも、わたしだって……」
「なら、高町も行くか?」
「────ぇ?」
彼の言葉が、あまりにもあまりにも予想外すぎて、しばらくの間空いた口がふさがらないくらいだった。
「ぇ、ぃ、いいのっ!?」
「まあ、俺が誰か連れてったら駄目とは言われてないしなぁ」
それに、いろいろと都合のいい話かも知れんし。詫びを入れるのにもちょうどいい話かも知れん。
その言葉の意味が分からなくて首を傾げる。
「さっきは、気を遣わせちまったみたいで、ごめんな」
彼のその言葉が、ロロナさんとのことを言っているんだと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
わたしは、疑問符をつけるように返事をする。
「あ、えと。ど、どういたしまして?」
「ああ。サンキュ」
「……っ。ど、どうしたのせーくん?」
素直にお礼を言ってくれる姿を見て、らしくないよって聞くと、せーくんは苦笑した。
「大丈夫。どうせ明日の朝にはいつも通りに逆戻りだから」
そんな言い方に、自分の笑い方が弱弱しくなったのを、何となく自覚して。
「そ、それはちょっともったいない気もするかな……?」
「なら、このまま一週間しおらしくしてみようか?」
「……それはそれで怖いかも」
だろうな、って、せーくんは笑った。
「それはともかく、どうするよ」
聞いてくれるせーくんに、わたしは即頷く。
「ていうか、高町休み取れんの?」
「……はやてちゃんに、一週間以内に有給を一日消費出来なかったら、仕事取り上げるから。って、ちょっと、こう……」
昨日に呼び出された時のお話。と説明すると、せーくんは「ああ……」って顔になる。
「高町、休暇つかわな過ぎだもんなぁ」
「むー」
「拗ねるなよ。ホントのことなんだし」
それに、ちょうど良かったんじゃないのか?
「……ん。そだね」
うなずくわたしに、彼が、じゃあそろそろ戻るか、って促した。
「あんまし先輩の相手をあいつらに押し付けとくのも、微妙に不安だしさ」
「え、どうして?」
「先輩の口がよく回ると、あること無いこと吹き込まれそうだからだよ」
「……え、と」
フォローできないです、ロロナさん。と思いながら、心の中でごめんなさいと謝って、先に玄関口をくぐった彼のあとを追った。
ちなみに、少し急いで部屋に戻ってみると、せーくんの昔話ですっごく盛り上がったロロナさんたちがいて、彼がものすごく落ち込んでいたのだけど。
ちょっとした余談なのでした。
全体的にまあ、タイミングが悪かったとは言えるのかもしれない。
あと一日、昨日か明日かに連絡がずれていれば、こんな事態にはならなかったのだろうから。
ていうかもしかしたら、こないだ見た先輩との出来事の過去夢は虫の知らせというやつだったのかも分からん。もしくはフラグ的な何か。
まあ、フラグだ何だと言及するには、今まで似たような夢をちょくちょく見ていた割にはこんな風になったのは初めてのことだったわけで、なんとも説得力が無い話になるなあとは思うのだが。
つかそもそも、本当今日はやたらといろいろ連絡多かったなあとか思う。親父に始まりチビポを経て、最終的には先輩ときた。
しかも前者二人はともかく、先輩の声を聞いたのなんて実に一年ぶりくらいというね。
あれだけ奔放で無茶苦茶だったあの女性も今では伴侶を得て子供を儲けて立派に専業主婦してて、たまに家に戻る時に聞く近所の人の話ではかなり幸せそうに楽しく元気にやってるようだ。
まあ、まともにそういう場面は見たことないってーか、自分の目で見る機会からは遠ざかってたってーか、そういう点に関してはかなり思う所もあるけど。
あの事件以降ってか結婚してからってか、彼女が雑談的になにか連絡してくるということも少なくなっていたのだが、息子君が生まれてからは特に顕著にそうなったというかそう仕向けたというかそうしてくれたというか、まあ理由はさっき高町に回りくどく説明したような内容で大体になる。
けど、そもそも分かってるのだけどね。ご近所にどのように噂話をされようが、先輩もあの幼馴染もそれを気にかけて夫婦仲がどうにかなるような人間じゃないってことは。
でもなんつーか、先輩に以前から何度目かの迷惑かけてる自分がクソほど嫌になった末の選択だったように思う。
そんな事を言い出したら、誰とも付き合いを出来ないだろうと言われれば、返す言葉もないくらいに反論も出来ない話ではあるのだけれど。
だから、『本当は』なんて注釈がついてそれだけじゃないもう少しだけ別の理由もあったりなかったり。
後付けみたいな綺麗な理由だけど、さっきの件について本気でそう思ってるのだって事実なわけで、別にここまでのことが嘘ってわけじゃないんだけども。
でも情けないし、あれ以上高町に心配されるのも嫌だったからわざと言わなかったけれど。
あの事件で失ったのは先輩の左腕だけじゃなくて、その失ったものの大きさを先輩の顔とあの左腕を見る度に思い出すから。
それが失礼なことだとか分かってるくせに、それでもいろんなことに整理をつけられなかったって、本気で情けない自分の駄目さ加減に目を向けなくちゃなんないから。
だから俺は先輩にどんな顔を合わせりゃいいのか分からなくて、それが今のような状況へと繋がりを見せているのだと思う。
結局俺は、高町になんだかんだと偉そうに、表向きだけは大層ご立派な自論を説いて聞かせていたくせに、肝心な部分ではそのことについての理解が全く追い付いていなかったというわけだ。
魔法は道具で、それをどう使うかは使い手しだい。俺しだい。
使った責任は全部自分に返ってきて、それについてどう思うかは自分の勝手だとは言えるのだろうけど、それだけとかって単純な話であるはずはもちろんない。
だからそれが不毛だって分かっているくせに、撃破対象に先手を取れていればとか、もっと別にもっと上手く先輩を助ける方法があったんじゃないのだろうかとか、そんなことばっかり考える。
で、彼女はそんな俺の胸の内のそういう部分をどこか見透かしていたようなところもあったようで。
まあだからこそ俺は、それに甘えてうじうじグダグダと今の今まで悩んでいられているのだろうね。
そうでなかったら、当の昔に俺の作った垣根なんてぶっ飛ばして、あの人はもっと踏み込んだ人間関係を作ろうとしてくるのだろうから。
と、そんな事を考えてた辺りで少しだけ、さわりと胸騒ぎのような感覚を覚えたような気がしたのだが、なんだかよく分からなかったのでまあ気のせいだろうってことにした。
それはともかく、本当は彼女は、未だに俺がその辺のことを自分で振り切ってくるのを待っているのかもしれないとも思う。
正直、俺に向けるにしちゃあんまりにも過ぎた期待だと思うんだけどさ。
だって、これだけ時間が経ってるってのに、今日だって思い返して目も当てられないほどいろいろテンパってるし。
場所も状況もタイミングも唐突で予想外な連絡の入り方だったとはいえ、会話の端にとっかかりを見つけて先輩の前から逃げだして。
自分で思ってたよりも余程余裕が無かったのか、自販機でまともに買い物すら出来ずに。
寮の玄関先で少しでも気持ちを落ち着けようと煙草に火を付けた直後に、高町が随分と慌てた様子で飛び出してきた。
まさかあんな会話の流れで不機嫌そうに部屋を出た俺を高町が追い掛けてくるとは予想外だったから、かなり動揺しつつもなんとか平静を装って。
いつものように嫌味っぽく振る舞ってから逃げるためにその場を離れようとして、それを高町に呼び止められた。
それでまあ、気がついたらいつの間にか、これっぽっちも余計な力を入れることなく、自分が自分じゃなくなったような錯覚を覚えるくらいに本音を吐き出していた。
正直な話をするならば、あんな話はどんな状況になろうとフェイトさんやユーノくん、八神やヴィータ達はおろか、親父にだって相談しない自信があったってのに。
隣で、間接キスがどうとかで必死になって慌てたり、それを軽く煽ってみたら怒ったり。
その流れで自棄になってるあいつを落ち着けるためにというか、正直それなりに動揺していた自分を冷静にさせるためにというか、無表情を心がけてあいつを突き放すような態度を取ってみたり。
それから、先輩からの要件をこっちに伝えたついでにうちの近所の状況の話が居た堪れなかったのか、しょげたように肩を落としたり、俺の微妙な様子のおかしさが気にかかったのかそれを憂いたり。
そういう雰囲気はものすんごく居心地が悪かった故に、その空気を払拭しようと吐いたゴキブリ云々の嘘に過敏に反応したり。
その適当に吐いた嘘が現実になってしまった結果、先輩との近年の関わりっぷりを問い質している最中に、勝手にこっちに抱きついて、それが恥ずかしくなったのか顔を赤く染めたり。
それは俺だって流石に気恥ずかしかったから、適当に誤魔化すようなセリフを口にしたらもっと滅茶苦茶な状況になったり。
そういう高町とのいつも通りの間抜けな日常っぷりを目の当たりにしていたら、こんなことを他人に相談することへの抵抗感なんて失せてしまったってのは、見事に計算の外側の出来事だったわけだけど。
思えば、俺がリンカーコアを悪くしてから初めて経験した挫折まがいの出来事は、先輩とのコンビすらまともに務められなくなったことだったのかもしれない。
天真爛漫な性格を前面に押し出して縦横無尽に空を駆け、他人を引っ張って道を切り開いていく彼女。
そういうあの人の手助けをするだけのコトは出来た自分がそれなりに誇りだった。
なのに俺は、あの事件以降彼女の援護すらまともに出来ないありさまになる。
もちろん、本当に必要な時や、本当に危険な時には、どれだけ胸のあたりを物理的痛みに苛まれたとしても、無理矢理にでも魔法を捻り出しはしたけども。
だからこそ任務そのものに大きく支障をきたすような事態に陥ることはなかったけど、その分彼女の負担が増えていたのは紛れもない事実で。
だから、あの初老の部隊長から転属の話を貰った時に、あっさりその話を受けたんだと思う。
彼女みたいな天然英雄系な人物の隣に使い物にならなくなった人間が居座り続けることは不毛だと思ったし、パートナーさえ有能になれば彼女はもっと簡単に上に行くことが出来るとも思った。
……まあ、俺があの人から離れて以降、先輩が特定の人間をパートナーにしたって話は、終ぞ聞かなかったのだけれど。
でもあの人は自力で一等空尉にまで成り上がって。
そしてあの任務で俺と再会して。
あとは今でも度々見るあの夢での出来事のような事態になった。
全てが中途半端だったくせに、その再会を都合よく解釈してまた先輩と一緒の空をなんて思った自分が、今にして思ってもくっそおぞましくて仕方ない。
そんな自分に都合のいいことを思うような資格なんて俺のどこを探したって出てきたりするわけが無いなんてのは、高町たちとの間に感じていた実力の壁からだって分かっていたはずだったってのに。
で、まあ、あとの展開は今に繋がるまでの説明にあったそのままの通り。
……つーか今更だが、ああいういつも通りの状況に気勢を削がれてあんなことを暴露したってことは、俺は相手が高町だから────…。
いや、なんでもない。
俺は今何一つ物事を考えてなどいなかった。いなかったと言ったらいなかったのだ。というかいなかったことにしてくださいと誰に対してか分からない懇願が胸中を満たした。
いや、まあ、もしも。もしもだ。
俺が今思ったことが、もしかしたらもしかしてもしかするともしかしてしまうのだとしたら、相談する気も無かった相談事を自然と引き出されている辺り、いつの間に俺の中での高町なのはって存在が…………。
いや、やめよう。
本当にやめよう。
こんなこと考えた所で全くもってどうせマジでどうしようもないのだから。
いや、今まで散々、それはない、とか。俺の存在理念を根本から揺るがしかねない、とか。本気でそんなつもりはない、とか言っといて今更なんだそりゃって感じだけど。
でも、よくよく思い返してみれば、こういう気持ちはわりと出会った当初からあったよなあと妙な気分。
そう考えると、そんな相手に嫌がらせしてるなんてまるで思春期前の子供の所業じゃないかと思って、いや、まるきりその通りだなと、自分の駄目さ加減に嫌気がさした。
嫌気がさして、小さく息をついたら、さっきの俺の暗い雰囲気もあってか、高町が過敏にそれに反応して「どうしたの?」なんて聞いてくるので、それを誤魔化そうと咄嗟に浮かべた苦笑にさす苦みが通常よりも相当に濃いレベルになっているのが自分でも分かった。
俺の態度が不満だったのか、高町は眉を小さく顰めて口を尖らせた。
そんな高町の子供っぽい仕草を見ながら、もし俺が今この場で全部のしがらみを投げ捨ててこんな気持ちを告げたとしたら、彼女はどんな反応をするのだろうかと少しだけ思った。
まあ、んなことやんないけどさ。
大体、なにを虫のいいこと言ってんだって話だし。
あれだけ蔑ろにしてきた相手にそんな事を告げて、なにがしたいのかって話だ。
さっきまでに感じたような気持ちの触りだけでも口にすれば、まあ高町は素直だから喜ぶのかもしれない。
けど、そんな一言であいつを喜ばせることが、一体何になるって言うのだろう。
大体高町のことを自分の傍から遠ざけたいと思っているのなら、そんな行動は全く洒落にも笑い話にもならない。
いや、まあ。
そういう部分を鑑みていろいろ思い返して考えてみれば、親しい誰かを自分の傍から遠ざけようってのはなんだかんだで初めてじゃないのだから、もう少し上手くやりたいところだ。
しかももう一つのそれは、自分に良くしてくれて、働くその姿がカッコ良くて、その生き方に、素直とはとても言えない気持ちではあったのだが憧れた、尊敬していた女性だった。
もういろいろと諦めかけていた俺が、また隣で戦うことが出来たらと心のどこかで願っていたはずの女性だった。
でも、それほどまでに隣にいることを願った女性との関係も、背を向けて目を逸らして逃げ出して、それが尾を引いてグダグダになってこんな形。
まあ、先輩との関係ですらこんななわけだから、だったらきっと高町との関係も、そろそろ俺がなにをしなくとも勝手に薄れていくのかもしれない。
高町にまともに向き合っているとは言い難い今の状況は、あの頃俺が先輩に対していた時の状況と似通ったものがあるような気がするし。
まともに向き合えなくて、背を向けて逃げだそうとしているだけとか、全くもって情けない話だとしか言いようがないんだけれど。
そんな思考に辿りついた俺は、隣をひょこひょこと歩く高町をちらりと見て、そもそもがいつまで俺の隣でこんな風にしたりする高町を見ていられるのだろうかと一人ごちる。
この数年で、あれだけ俺の嫌な面を見せつけて来たってのに、高町は俺から離れていこうとはしなかった。
だからこれから先も、あと少しくらいは、高町とのこんな関係も続いていくんじゃないかと、ある意味高を括っていた部分もあったのだけど。
きっとそんなもの、この先はいい加減続かないのだろうなと、素直に思う。
先輩の時とは細かい部分がいろいろ違うかもしれないが、俺が逃げ出そうとしているって点はそのまんまだし、それに高町だってもうすぐ二十歳だ。
だからだろうか。以前のような好き勝手に振る舞える子供でいられるような時間は、もう終わりつつある。
ここに来る前は、俺にかけていた時間だってそんなに長いものでは無くなっていた。
六課が終われば、俺たちはそれぞれの居場所に戻ってまた以前のような関係になると思う。
それに今はまだ悩んでいるみたいだけど、これだけ悩んでいるのだから多分、高町はヴィヴィオを引き取るだろう。そうなれば先輩に子供が生まれたあとと同じように、今まで以上に俺に構うような時間なんて無くなる。
あとは成り行きで、俺たちの今みたいな間柄も自然消滅かなと未来予想。
まあ、嫌われてもいいと思っていたのも、高町が自分から離れていった方がいいと思っているのも嘘ではないから、そこに関してはそういう流れがある意味俺の望み通りの展開なのだろうか。
どうせそれが原因になって俺の心に何か変化があったとして、苦い思いをするのは俺一人だから、誰に迷惑がかかるってわけでもないし。
先輩の時のようなあの気持ちをもう一度味わうってのは、抵抗が無くも無いけど。
昔から、我欲を抑えつけることばっかり慣れてるんだから、どっちかと言えばそういう経験は生かしておくべきだろう。
大体、俺は最近高町を泣かせてばかりで、やっぱりこれっぽっちも一緒にいて有益だとは思えない。
勝手に怪我して泣かせて、昔からのトラウマ相談して泣かせて。
こっちに来てここまでで、俺が知っている限りだけで二回も泣かせてるのに、これから先にすることを思えばその回数はきっと順調なまでに増えていくと思うし、それは俺にとっては見ていて嫌になることだ。
そういうわけで、このままでいこうと思う。
さっきも言ったけどこんな時間はどうせ、きっとそんなに長くは続かない。
こんな気持ちも黙っていれば伝わらなくて、伝わらなければ思ってないのと変わらないんだから。
このままいけば、俺の評価なんてただのガキっぽい嫌がらせをする知り合いの一人くらいに留まるだろう。
俺の普段の態度はそんなもんだし、キャロ嬢の話のこともあるにはあるが、気をつけさえすれば誰かに気取られるようなことも無いと思う。
そもそも伝えたところで、誰の得にもなりゃしない。
さっきだって、少し真面目に礼を言っただけであの恐がりようだ。それなのにそんな話をしたりすれば不審に思って気味悪がるだろうし、それでなにか勘繰られたら後々面倒なことになるのは間違いない。
まあその割には、さっき今度の休日に一緒に遊びに行こうとか言ってしまったのは軽率だったなと思わないでもないけど、そのくらいならそこまで問題でもない……と思いたい。
その辺諸々についてはともかく。
高町は何も知らないまま進むってことでいいじゃないか。
────って。
でもそれなら。
こんな感情なんてこれっぽっちも気付きたくなんてなかったなあ。と、少し重めの溜め息がまた漏れた。
どうせなら、もっとどうしようもなくなった段階で気付けばいいのに。
そうすりゃ、もう少しはっきり割り切れたのになと。
と、そんな俺の微妙な様子に、高町が表情を曇らせながら聞いてくる。
「あの、本当に、どうかしたの?」
ぼうっとしてるけど、大丈夫?
そんな問いに、大丈夫とは言えない気がしつつも、適当に「大丈夫じゃね」と誤魔化して足を速めた。
その後、部屋に戻ってからのごたごたはあえて説明しないが、まあ、余計なことは言わないでくれと先輩に頼まなかった俺も悪かったとはいえ、本当に好き勝手人の秘密を暴露してくれるあの人の口の軽さには辟易するしかなかったことだけは付記しておこうと思う。
で。
「ていうか、用事って結局なんの目的で連絡してきたんだよ、あんたは」
『あ、そうそう。あんたが旦那宛に送って寄越した地球のお土産ってあのお菓子、結構イケたからまた送ってくんない?』
そんな最っ高にどうでもいい用事を夢的な意味でこんなにもピンポイントな時期に連絡を寄越してくれた挙句、バラして欲しくも無い昔話をもののついでで見事に垂れ流してくれやがったこの先輩の空気が読めているんだかそうでないんだかよく分からない感じに戦慄しつつ返答。
「……それって、読み方があんたらの名字に似てたからって買ったあの菓子か?」
そんな会話をしていたら、高町が首を傾げながら「あのお菓子?」とか聞いてきたので、なんかチョコに婦人の絵の描いてある板状の何か的なモン。って説明したら、「あ」とかなんか納得したみたいな反応してからハッとして俺の方に詰め寄って来た。
「地球で買ったお土産のお菓子って、どういうこと……?」
そんなもの、いつの間に用意してたの? とか聞いてくる高町に、何をそんなに不機嫌そうになっているのだろうかとか思いながら、こないだ高町たちが出張任務で地球に行ったのについてった時に適当に買って送っただけだという説明してみる。
俺の幼馴染、何だか知らないがすっげえ甘党なので、ああいうのには目が無いはずだったから、たまにはそういうのもいいかという気まぐれを起こしてお土産を贈ってみただけだったのだが。
それを先輩の方が気にいるというのは、少々予想外の展開だったのだけれど。
「わたしたちが任務で頑張ってる時にそんなことしてたの!?」
何故だか知らないが高町にすんごい剣幕で怒られた。
「いや、俺は休暇で行ったでしょ」と反論したら「む」という表情になった。
そもそも、大学が休みで暇だったらしいバニングスと月村に町の案内お願いしたら、いろいろ連れまわされて、その過程でよさそうだったから買っただけだったのである。
こないだ貸したあのYシャツも、そのときの土産みたいなもんだしなぁ。とか思ってると、高町がものすんげえ悔しそうに言った。
「わ、わたしも行きたかった……っ!」
「仕事中だったろう」
ねえ、フェイトさん。と、比較的俺の近くにいたフェイトさんに振ると、彼女は「え、あ、うん」と頷いてくれてから、そうだねと答えにくそうに笑いつつ高町の方を気遣うようにちらりと見た。
フェイトさんですらそんな様子だったからか、他のやつらもどう声をかけていいか分からないようで、微妙そうな表情を浮かべながら、はいとかそうですねとか言ってる。
先輩だけが、仕事くらいちょこっと抜け出してとかどうとか言ってるのだが、ていうか高町の場合、誘ったとして仕事を放り出して遊びに出掛けるなんてありえるのだろうか?
いや、ない。
そんな周りの様子に、「うぅー……」としばらく納得いかなそうに唸ってから高町が項垂れた。
「分かってるけど、それでもなんだか納得いかないよ……」
落ち込み気味に肩を落とす高町。まあ、久しぶりに会った友人と買い物に行くなんてのは、高町的にもやりたいことだったってわけなのだろう。
そんな高町の様子に周りの連中も苦笑している中、アリサちゃんもすずかちゃんも、教えてくれればいいのに……。とか俺に言われても困る。
あの二人だって、高町が仕事だって知っていたから声をかけなかったのだろうし。
て、そんな事を考えながら、そういや俺が貸したYシャツは一体どこ行ったんだろうかとか思った。
別に今のところあっても無くてもどっちでもいいから、あとで聞いてみるくらいで構わないかと思う程度だけど。
流石に周りに人がいる状態でそんな事を聞いた暁に一体どういう状況に陥るのかくらいはいい加減分かるので、そのあたりに配慮しての流れでもある。
と、まあ、そんな事思ってるうちに、いつの間にか光の速度で先輩のからかいの対象になって、それの相手を困ったみたいにはにかみながらしている高町を見てなんとなく、本当になんとなく。
先輩とのこともそうだけど────
高町とのことも、本当にもっと違う形を見つけられなかったのかなぁ、と。
今更なにをどうする気もないくせに、そんな事を思った。
2011年9月16日投稿
後々、この後の誠吾視点も投稿予定です。
分割になって申し訳ありませんが、これ以上時間を空けるのはしたくなかったものですから。
では、次の更新で、また。
2011年11月20日大幅加筆
すみません。いろいろ忙しくて遅れました。
次回はもっと早く、頑張ってみたいと思います。
ではまた、次の更新でお会いしましょう。