介入結果その三十五 キャロ・ル・ルシエの雑談Part.1
一日の訓練が終わって、私は昨日約束した時間に約束の場所で備え付けのベンチに座って、肩に乗っているフリードと一緒に約束の相手を待っていた。
約束の場所、約束の相手なんて遠回しに言ったけど、簡単に言うとセイゴさんを休憩所で待っているってこと。
セイゴさんとお話の練習をするって約束した時間まではまだ少しだけあって、けど私は、訓練を終えてシャワーをあびてから時間に間に合うように走って来たせいで少しだけ暑さを感じていた。
少しでも体感温度を下げようって、着替えた制服の襟を引っ張って手の平でパタパタと風を送り込んでいると、フリードが翼をパタパタさせて風を送ってきてくれたから、ありがとうって頭を撫でてあげる。
そんな事をしていると、少しだけ駆け足で休憩所に滑り込んできたセイゴさんが、私を見つけて額に手を当ててから、あっちゃーって仕草をする。
そんなセイゴさんの様子に、なぜそんなに悔しそうなのかなって不思議に思っていると、セイゴさんは小さく舌を鳴らしてから近付いてきて私の隣に腰を降ろして、
「くっそー。キャロ嬢より先にここに辿りついてベンチに座り、あとから来たキミに待ちましたかと聞かれた時にメッチャ待ったよと文句を言ってやろうと言う俺の計画が……!」
「陰湿ですっ!?」
驚いて大きな声を出すと、セイゴさんがあははと笑った。
キュクルーって鳴いているフリードも、どこか笑っているような気がする。
「ワリーワリー。でもこれからは、こういう嫌味っぽいのにも少しずつ慣れていくべきそうすべき」
そうでなきゃ話の練習にならんでしょと言うセイゴさんに、なるほど確かにと私は納得した。
セイゴさんが私に気を遣うような雰囲気でお話をしても、それじゃあ意味が無いってことは、分かりきっているから。
「て。……?」
「ん? どしたよキャロ嬢」
俺の顔は、じっと見てても変形はしねーよ? と言うセイゴさんに、私は彼の顔に浮かぶ表情を見て思ったことをそのまま告げた。
「あの、何かいいことあったんですか?」
いつもよりも、なんだか楽しそうに笑ってます。と言うと、え、マジで? とセイゴさんは予想外だって顔になる。
ぺたぺたと顔を触ったり頬を伸ばしたりしてから、そんなつもりは無かったんだがなーと頭をかくセイゴさん。
「まあ、心当たりはなくも無いけど」
そう前置きして、セイゴさんは事情を教えてくれた。
「前の課にいた時に俺が指導担当だった新人のやつが一人、明日付で昇進するんだってさ。二等空士に」
エリ坊なんかは通信越しに会ったこともあるんだけどな。と、セイゴさんは言い、さっきそいつから連絡があってな、ガラにもなくちょっと嬉しいのかもな。と、苦笑気味に続けた。
そんな風に事情を教えてもらって、それを教えてくれるセイゴさんが本当に嬉しそうだから、なんだか私も自然と嬉しくなる。
けれど……
「だから、今度そいつに昇進祝い買ってやるって話になってさ」
「そうなんですか?」
「うん。でもなんか、ロケットペンダントが欲しいとか言うモンだから、俺じゃあ善し悪しよく分からんし、休日合わせて買い物行こうってことになったんだよね」
「え……」
そんな言葉を聞いて、私は戸惑ってしまう。
セイゴさんの部下の人ってお話だから、勝手にその人も男の人だと思っていたけど。
男の人って、そういうお祝いにロケットなんて欲しがるのかなって、疑問に思う。
「えっと、セイゴさん?」
「ん、なに?」
「あの。その部下さんって、男の人ですか?」
「ん? いや、女だけど?」
ちょうどティアとかスバルとかと同年代くらいかな。って言うセイゴさんに、私はあれ? と思う。
なんだか、多分なんだけど。
私とセイゴさんとの間で、とってもすごいすれ違いが起きているみたいな気がします。
それは多分、放っておいたら誰も幸せにはなれない種類の。
だから私は、ここ数日の間にあったいろいろな出来事から辿りついた一つの可能性について、恐る恐る聞く。
「あの……。セイゴさんて、なのはさんとお付き合いしてるんじゃ?」
「────────え?」
さっきまで嬉しそうにしていたセイゴさんがビシリと固まって、その表情がひび割れた。
その反応に驚いて、私は体を少しのけぞらせる。
セイゴさんは固まった表情のまま、体をぎこちなく動かして、私を追ってくるみたいに身を乗り出してきた。
「……お、おーけーキャロ嬢ちょっと待ってみようかと言うかちょっと待ってくださいいいえマジで本当に待ってッッ!」
どーしてそうなったぁぁぁぁっ!? と叫びながら、普段には見せないくらいに動揺した様子で、私の肩を掴んで揺さぶってくるセイゴさん。
その力があまりにも強くて、私は思わず目を回しそうになる。
それに伴って変な声もあげていたようで、それに気付いたセイゴさんが私を揺さぶるのをやめて、「あ、す、すまん」って慌てながら謝ってくれる。
私は、揺れる視界を何とか元に戻そうって、目を瞑って頭を左右に振った。
しばらくそうしていると、揺れていた視界がようやく元に戻ってきて、そのタイミングを見計らっていたらしいセイゴさんが、冷静さを必死に取り繕っているのが私にも分かるくらいにソワソワした様子で、「それで、何がどうして俺と高町さんが付き合ったなんて言う結論に達してしまったのか、教えていただけるのだろうか」って、もう一度さっきの質問をしてくる。
だけど私は、そんな事を聞かれても、上手く答えられないって思った。
だって、絶対にそうだって思っていたわけじゃなかったから。
ただ、つい先日のセイゴさんとなのはさんを見ていて、何となくそう思っただけ。
ヴィヴィオのお願いを聞いてなのはさんのお見舞いに行った時、火照った頬でベッドで寝入っていたなのはさんを見ていた、セイゴさんのあの時の表情。
彼自身は気付いていないのかもしれなかったけれど、その時のセイゴさんが浮かべていた、苦笑にも似たその表情はとても優しげで、それを見ていた私の方まで優しい気持ちになれるような表情だった。
だからむしろ、私の方がセイゴさんに聞きたかった。
「……あの」
「な、なにかな……」
「二人はお付き合いしていないのに、セイゴさんはつきっきりでなのはさんの看病を……?」
私がそう聞くと、セイゴさんがハッとしてから愕然とした表情になった。
それから数秒間そのまま固まって、そのあとゆっくりとした動作で頭を抱えて、
「その発想は無かったわ……」
「えっ、と……」
「八神があそこまで俺に高町さんの看病を願った真の理由はそこか……」
すごく深刻そうにそう呟いたセイゴさんに、私はかける言葉を見つけられなかった。
はやてさんの真の理由が……ってお話のことは良く分からないけど、確かに私も、エリオくんやセイゴさんが風邪をひいたりしたら、看病してあげたいな、って思う。
だから、すごく身近に感じる友達なら、異性でもそういう風になる……のかな?
でもやっぱり、家族でもない男の人と女の人がそういう風な状況になるのは、それくらい仲が良くないとないことなのでは? って、言ったその場でセイゴさんがすぐに否定しそうなことを考えながら、首を傾げる。
けど、普段は凄くしっかりしているように見えるセイゴさんだけど、なのはさんの関わるこういうお話の時にはとてもうっかりやさんになるんだなって、なんだか少しだけおかしかった。
と、そんな感じのことを私が考えている間、セイゴさんは俯いたままぼそぼそって何かいろいろなことを呟いていてちょっと怖い。
そんな時間が少し続いて、その間私はそんなセイゴさんの様子を見て戸惑いながら、次の言葉をじっと待っていた。
と、ようやく顔を上げたセイゴさんが、目を虚ろにさせながら私を見た。
「それで、キャロ嬢?」
「は、はい。なんでしょう?」
「この件で、キミと同じような結論にたどり着いたやつ、他に知ってる?」
「……えーと」
そういえば、以前からいろんな場所で、そういうお話を耳にしていたような気がする。
そしてここ数日は、そういう噂の中に、あの看病のことも入っていたような……?
それは、無意識にさっきのお話を後押しするような内容だったように思う。
だから私の中で、二人が付き合っているっていう結論に達したのかもしれないって、少しだけ思った。
だから、そういう私の考えをセイゴさんに伝えたら、彼はもっと頭を抱えてしまった。
けれど、それからちょっとだけまた黙り込んでから私の方を見て、
「キャロ嬢、ありがとう。キミの話、随分と参考になったよ……」
「……。その。大丈夫、ですか?」
「きゅくるー?」
私がそう聞くと、セイゴさんはあははと苦笑してから「大丈夫だといいよなぁ」って、遠い目をした。
「まあ、何をしたって俺とあいつが付き合うコトはないわけだから────」
そう断言したセイゴさんが、誰にどう思われていようが、関係はないんだけどもね。と、付け加えて言った。
セイゴさんがなぜそこまで、なのはさんと付き合うことはないって断言しているのか、私には分からなかった。
ただ、そう口にしたセイゴさんの浮かべた、何かの拍子に何度か見た覚えのあるその表情は、なんだかとても疲れているみたいで、そして何かを諦めきっているみたいな────
────そんな気がした。
キャロ嬢との例の会話訓練中に、六課内における俺と高町の関係についての認識について、局所的ではあるものの客観的でもある一通りの情報を仕入れた俺は、エリ坊の部屋に戻るまでにいろいろ考えていたような気もしたのだが全体的に開き直ることにした。
八神のやつのこういった策は、まあ認めたくはないのだがいつものコトみたいなところもあるし。
こういう時は今までの経験上、下手に反応する方が事態を悪化させるというものだ。
だったら下手なコトせずにいつも通りに振る舞ってれば、そのうちバカな話も収まっていくだろう。
一部、少々気をつけておかなければならない数人もいるような覚えがあるが、そこさえクリアすれば後は盤石。……だといいなぁとか思いつつ、シャワー浴びて部屋に戻ってぐっでーっと昼の疲れを吐き出すようにエリ坊と一緒にソファに沈み込んでると、来客を知らせるベルの音が部屋に響いた。ちなみに超連打。
具体的に音に表すと、ピーンポーンピーンポーンピピピピピピーンポーンって感じ。
それ聞いて「うっさっ」とは思ったんだが、基本的にここはエリ坊の部屋なので俺が出るわけにもいかず、かと言ってエリ坊だけ動かして俺がふんぞり返っているわけにもいかないというわけで、連打に驚いて立ち上がったエリ坊のあとをついて玄関へと向かうと、エリ坊がドアを開けた瞬間に、自室でくつろいでいたのかGパンとTシャツのラフな私服姿の高町が、ヴィヴィオ抱えたまま部屋の中に転がり込んできてエリ坊に思いっきり抱きついてた。
高町突然の御乱心モードに一体なんぞやとポカンとしながらヴィヴィオと一緒にもみくちゃにされて窒息しかけてるエリ坊を救出し、水道に行ってコップに一杯水を汲んで、あわあわあわあわとテンパリまくってる高町に飲んで落ち着けと言いながら手渡して飲ませる。
ここまで来る間によほど手荒い洗礼を受けたのか、きゅーと目を回してるヴィヴィオを介抱するようにエリ坊に頼んで、渡したコップを傾けてコクコクと水を飲んでいる高町に近付くと、俺の顔を見た高町がビシリと固まってから途端に顔を赤くし出した。
その上不自然に視線を彷徨わせ始め、落ち着かない様子のままちらちらこちらを見上げてくる。
なんだこの反応は嫌な予感しかしねえなとか思いながら、こんなんでもさっき部屋に飛び込んできた時よりは理性的そうだったので、落ち着いたかよ? と聞いてからどうしたんだよと続けて問う。
すると、またビシリと肩を凍らせてから、今度は体をわなわな震わせ始めた高町が、手元のコップを近くのテーブルに置いてから縋るように俺の胸倉にしがみつき、若干の涙目でのたもうた。
「ご、ごご、ご、ゴキ、ゴキブ……! で、ででで出てっ!」
「……へぇ」
まあ、そろそろそういう時期だしなぁ……。
とか思いながら、そうですか。頑張ってください。それではお休みなさいの三連コンボで高町を追い出してエリ坊のベッドをヴィヴィオのねぐらにでも設定してエリ坊に俺の寝袋プレゼントして俺だけソファでさっさと寝ようとでも思ってたら腰のあたりに抱きつかれて辟易するしかない。
「待って待って待って待ってぇっ!」
「なんすかしつこいな……。ンなもんゴキブリごとき消し飛ばせばいいじゃねえですかディバインバスターだろうがスターライトブレイカーだろうが遠慮なくぶっ放していつもの通りに……」
「いつも私がそんなことして生活してると思ってるの!?」
「違うんですか」
「違うよぅっ!?」
縋るような目で見ながら必死に否定してくる高町。いや、まあそれに関してはどうでもいいのだが、つーか、
「なんでそれの救助を俺に求めるのさ……。フェイトさんとかティアとかスバルとかキャロ嬢とか他にもいっぱいいるじゃん……」
「私が嫌なことをみんなにやらせるわけにはいかないよ!」
「お前が嫌なことを俺がやるのは問題ないと申したか」
なんてひどい理屈だ。と呆れて言うと、高町が目を逸らしながら申し訳なさそうに言った。
「だ、だってせーくん、男の子だし……」
「おい、エリ坊。出番だ、行け」
「え、僕? 別にいいけど……」
「駄目だよせーくんっ! 私が嫌なことをエリオにやらせるわけにはいかないよっ!」
「お前実は俺に面倒押し付けられればもうなんでもいいと思ってるだろ」
俺と高町の会話の天丼っぷりに、ヴィヴィオを自分のベッドに寝かせ終えたエリ坊が苦笑していた。
この調子じゃあ、グリフィスくんとかヴァイスさんとかの名前出してもどうせ、なしの礫なのだろうね。
「ていうか高町、一人? フェイトさんは……」
「お、お仕事でまだ帰ってきてない……。というか、フェイトちゃんもゴキブリは苦手だから無理だよっ!」
「なんだ、フェイトさんバリアジャケット真っ黒だから、うっかりGさんと意気投合出来ちゃうんじゃないかと期待してたんだが」
もしそうならGさんを部屋から出て行くように説得してもらおうと思っていたのにと言うと、「そんなわけないよねっ!?」と怒られた。
分かってんよそんなこと冗談に決まっとろうがと言ってると、そんな隙に高町に手を掴まれて部屋の外に引っ張り出される。
「お願いお願いお願いっ! 私ホントに駄目なのっ!」
「……管理局の白い悪魔にも、勝てないものがあるんですねー」
管理局の白い悪魔、台所の黒い執念(生命力的な意味で)に負ける。
字面に起こすと微妙にカッケーなとか思いながら、俺を引きずる様子があまりにも必死すぎてなんかちょっとかわいそうになって来た。
ていうかそういえば、俺今日こいつと会ったの初めてじゃね?
いつもなら朝っぱらに訓練場行けばばったりと会って挨拶くらいは交わすし、暇なら高町の方から昼飯に誘ってくることもあるし、移動で廊下歩いてれば二度か三度くらいはすれ違って世間話することくらいはあると思ったが。
だから、今日はいろいろと忙しかったのかねーとか思いながら、そういえば脅迫状のこと言おうと思って忘れてたなーとか思いつつ、会って最初の話題がゴキブリってのも何とも言えねー状況だなーとか思ってた。
まあゴキブリが出た程度でうろたえる人生送って来たつもりも無いし、仕事上がりでお疲れのはずのフェイトさんが迷惑を被るってのはちょっとアレな気もしたので、さっさと行ってさっさと片付けるかーと認識を変えつつ高町の部屋に行くと、どこにも黒光りする生命体の姿はなかった。
なんだ高町の妄想か……。困ったものです。と肩を竦めながら踵を返して部屋を辞そうとしたら、肩を掴まれて押しとどめられ、「絶対いた、絶対いたのっ!」とか連呼されて耳が痛い。
いや、絶対いたのとか言われても、今見当たらないもんをどうしろと言うのか。
ていうかその辺服とかものとか散乱しすぎててこいつどんだけゴキブリ相手に錯乱したんだよと呆れざるを得ない。ヴィヴィオさんマジお疲れ。
……なんか下着のようなものまでちらほら見えるが、とりあえず床を見ないようにすれば問題はないと思うので視線を上げた。
こんな状態の部屋に男を入れようとは、本当こいつの情緒がおかしいのかそれ以上にゴキブリへの恐怖心が勝ったのか。
てか、まさかこの荒れに荒れた部屋の中から、クローゼットからなにからなにまで全部ひっくり返してでもGさんを探せとおっしゃるか。
まあ、その辺にばらまかれてる服とか、俺が手出しすべきじゃないものとか、そういうのを高町が担当してひっくり返すってならやってもいいけど、その場合高町がさっき見たらしいのとは別のGさんがわんさか出てきそうな気がするんだが気のせいだろうか。
ほら、一匹見たら三十匹はいるとか言うし。
と言う感じの説明したら、高町が絶望通り越して蒼白な表情になって息を呑んでたが気にしない。
「じゃ、俺この場に居ても仕方無いと思うんで、部屋に戻りますね」
片手上げてさよならしつつそう告げると、その上げた手を両手でつかんで握り込んでから超涙目でこっちを見上げて来た。
「……なんですか」
「い、いつでも対処できるように、今日は泊まっていってくれないかなっ!?」
「お前、もしかして脳の代わりに頭の中に糠味噌でも詰め込んでんのか? いい年こいた男が年頃の女の部屋で一晩過ごしていいわけねーだろ」
フェイトさんとかはエリ坊の部屋に行ってもらえばいいからまだいいけど、高町関係のことで士郎さんに殺されるわ。おまけに桃子さんにも軽蔑され────いや、あの人なんかきゃーとか面白がりそう。
「だ、大丈夫だよ! せーくんなら!」
なんかデジャビュだった。フェイトさんにも以前同じようなことを言われたような……。というか言われたよなとか思いつつ高町を説得する作業に戻る。
「落ちつけ高町。もしお前が、俺とこの部屋で一晩過ごすのがおーけーだとかいうしみったれた阿呆な神経を持っていると断ずるのなら、一晩ゴキブリと過ごすことだってどうということはないはずだ」
だから明日にでも殺虫缶焚けやと言うと、高町は眉根を寄せた。
「せーくんをゴキブリなんかと一緒にしないでっ!」
「なんかすんげー微妙な気分にしかならないんですけどそのセリフ」
比較対象がゴキブリとかなんの自慢にもなりゃしねー。とかやってたら視界の端にカサカサカサと妙な気配。
うん? と思って足元に視線を落とすと、頭についた触手をウロウロさせながら六本の節足をカサカサ動かす、黒光りするちっさな小判型の生き物が。
それ見て思わず「あ、ゴキさんだ」とかぼそりと口走った次の瞬間、俺の言葉の理解までに一拍置いて、高町が声にならない声と言うか超音波と言うかそんなニュアンスの音を発しながら俺の正面から思いっきり抱きついてきたので流石にこいつのこういう行為に随分と耐性のある俺も顔が熱くなる。
シグナムさんとの訓練のおかげか不意打ちではあったのに回避方向に体は反応したのだが、それでも避けきれないレベルの素早さに高町のポテンシャルの高さを再認識しながら、けれどそれ以外にも、誇張など全くなく密着しているせいで色濃く匂う高町の香りとか、鳩尾の辺りに押し付けられる柔らかい感触とか、そういうものに動揺して、叫んだ。
「────バ……ッ! おま、離れ────!」
「いやいやいやいやいやいやいやいやぁぁぁぁ!」
「オィ!? 嫌なのは俺っ────────!?」
おい背骨折れるぅぅぅぅっ!? フィジカルエンチャント全開で抱きしめるんじゃねェェェェっ!?
「にゃあああっ!? にゃああああああっ!? にゃあああああああああああっ!?」
「ひぎぃやああああああああああああああああああッッッ!?」
数十秒後。
「へへっ……やっぱ俺って……不可能を可能に────」
「せ、せーくん?」
あ、台詞間違えた。
「……くそ。お前のせいで、俺の背骨が犠牲に……」
結局、ゴキブリさんが目の前から消え去るまで高町に全力で締め上げられた俺の背骨が犠牲になったのだ……。
相手が高町とは言え抱きつかれたわけだから儲けもんだろとか思ってる連中は甘い。
全く感触楽しむ余裕なんて無かったからね。締め上げられる激痛に全てが塗りつぶされてる感じ。
そりゃ少しくらいは俺も抵抗したけど、それでも腰を押さえながら床に突っ伏すという何とも情けない状況に陥ることに。
まさか怪力少女マンホールヴィヴィオさんよりも先に、その保護者(仮)の方に背骨をやられるとは全くの想定外。
てかこの調子で行くと高町の被保護者(仮)であるあの少女も他人の骨を恐怖で折り曲げる系の癖を覚えてしまう可能性があるわけで、ああ、なぜ俺の周囲って奴は針の筵だけはこんなにも完成が早いのだろうかと天を仰ぐしかない。
これなら数年前に、高町がロストロギアの変な影響受けておかしくなってたあの事件の時の方がまだ平和だったと思う。
まあ、平和だったとは言ってもそれは肉体的な話であって、精神的にはそれまでの俺のいろんなあれをずったずたに引き裂いてくれるような事態に陥っていたわけなのだが。
今でも見事なまでに黒歴史である。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
「……しかも、当のゴキブリには逃げられた……」
「うぅ……ごめんなさい……」
ようやく落ち着いたらしい高町に、いくらなんでも過剰反応過ぎるがどういうことですかと質問すると、ハッとした反応をしてから目を驚異的なまでに泳がせて、すごく思い出したくない過去を思い出すようにというかまんま思い出したくない過去を思い出しつつ語り始めた。
「昔、寝てる間に服の中に入り込まれて、体中を徘徊されて……。それ以来、ゴキブリを見かけるだけでさっきみたいな発狂状態に……」
「事情が深刻過ぎんだろ……」
ついでに俺の背骨の状況も深刻過ぎんだろ……。
「……とにかく、この部屋で俺が寝るなどあり得ない。フェイトさんにも迷惑だろうし、何より俺が嫌だ」
来るたび思うけど、この部屋女性特有の甘い匂いが充満してて激しく居心地悪い。
大体ここ広すぎるし。昔からの癖か知らんが狭いところのほうが落ち着く俺なのであった。
ていうかそんなことしたら、キャロ嬢曰く最近まことしやかに囁かれているらしい噂が勢いを増しかねない。それは勘弁してほしいわけで、故にこの頼みは聞けない流れ。
「だから、お前がエリ坊の部屋にでも転がりこめ。俺は隊舎の仮眠室で寝る」
どうせ昨日もそこで寝てたわけだしとか思いながら、痛む背中を押さえながら立ちあがって言うと、高町は「そんなっ!」と声を荒げた。
「そんな迷惑、掛けられないよっ!」
「既に俺の腰にかけられた迷惑のこともたまには思い出してあげてください」
「ごめんなさい……」
ていうか、もう今の時点で十分迷惑かかってるから今更そんな事言われてもという感じである。
「と、とにかくっ。せーくんはエリオの部屋でちゃんと寝てっ! 隊舎に行くなら私が……」
「仮眠室にもゴキブリいるかもしれませんよ?」
「────っ……!」
高町が目を見開いて顔色をざあっと青褪めさせた。
「それに、んなことしてるとまた風邪ひくぞ。あそこ言うほど空調効いてないし」
「う……」
そう言うと、気まずげに表情を変えた。
「ていうか、高町も一応女性なんだから、仮眠室で無防備にってのはちょっとやめた方がいいんでないか?」
士郎さんと桃子さんが泣くぞと言ったら、高町が撃沈する。
「うぅ……。せーくんが正論すぎるよぅ……」
「人を丸め込むのが俺の得意技だよね」
「昔はそんなこと無かったのに……」
「お前と出会った頃の話か? あの頃も口に出してなかっただけで、心の中でいろいろ屁理屈こねてたけどね」
そ、そうなの? と聞いてくる高町にああ、まあと返事をしていた時だった。
再び視界の端にカサカサ動く黒い物体を確認したので、咄嗟に借りてたストレージデバイスを起動してソニックムーブを発動。
戦闘起動させたストレージの杖をすっと振りおろして目標を粉砕。
うわー、きったねーと毒づきながらデバイスを待機状態に戻し、それを呆然と眺めてた高町を無視して、近くに置いてあったティッシュの箱から数枚ほどそれを拝借。
つぶれたゴキさんを処理して、ゴミ箱にポイしてから高町の方を見る。
「終わった」
無感動にそう言ったら、
「え、あ……。あ、ありがとうっっ!」
なんかめっちゃ感極まった感じの高町が涙目で俺の方に近寄って来ようとしたらしいのだが、その途中で床に落ちてた服踏みつけて滑ってこけた高町に胸のあたりを突き飛ばされ、背骨の痛みのせいで踏ん張れずに後ろに倒れ込んで床に尻もちをついたら、次の瞬間いろいろ頑張って極力被害を減らそうとその場で踏ん張って悪戦苦闘したらしい高町が遅れて倒れ込んで来て口のあたりにヘッドバッティングを食らわされた俺だった。
ごっとか言う音と共に一瞬視界が白くなり、それから痛みで悶絶した。
気が付くと、額に手を当てて「い、いたい……」とか何とか言って瞳に涙をためて「ぅー……」とか唸っている高町にのしかかられながら口を必死で押さえて痛みをこらえる俺。
……なんなんだ。
せっかくたまの善意で働いてみたというのにこの仕打ち。
唇が高町の額と己の歯にサンドイッチされてブチ切れたのか知らんが、口の中めっちゃ血の味するんデスケドとか思ってると、ようやく額の痛みが引いてきたのか今の状況を把握したらしい高町が俺が口を押さえて呻いてるのに気付いて「ご、ごめ……っ!」と慌てた様子で口ごもった。
それから「だ、大丈夫っ?」とか聞かれながら頬のあたりに手を伸ばされたのだが、口を開けそうもない俺が先程からに続いて悶絶してると、「……ぁ」とかなにかに気付いたのか知らんがなにか言いかけた感じで固まった。
その様子を見て何か異常でもあるのかと、痛みに打ち震えながら口を覆っていた掌を離して見てみるも、冷や汗に混じって微妙に血が滲んでいる以外は特になにも異常はない。
それに口の中の水分の量がなんだかいつもよりも多い気がするのでどうやら切れてるのは唇の裏側らしいと推測。
それはまあぶっちゃけ喉がざらざらするのを我慢しつつ唾液ごと飲み込み続ければいいわけだからどうでもいいのだが痛みの方はマジでヤバくてヤバい。
とはいえ、しかしそれなら今の高町の反応は一体何の流れだろうかと思って痛みで顔を顰めながらもう一度高町を見ると、なぜかめっちゃ顔を赤くした高町がまた額のあたりを抑えて声にならないという感じで「ぁ……ぅ……」とか吐息っぽい声を漏らしてた。
そんなに顔が真っ赤になるほど痛みが後から襲ってきたのだろうか。
まあ俺の方の怪我してる場所から考えて口の上から激突したのだろうが、結果的には歯に向かって頭突きしたわけだからかなり痛みはあるのだろうけどもとか思いつつ、とりあえずなんでもいいから早くどいてくださいと言いたいのは山々だったのだがマジで口が痛くて喋れそうにない。
だからこの体勢だけでもどうにかしようと、のしかかっている高町を押し返そうと空いている方の手を肩に伸ばそうとしたあたりで────
「なのは、ヴィヴィオ。ただい────」
ちょうど隊舎から戻ってきたらしいフェイトさんが部屋に入ってきて俺たちの状態を見てその場に停止した。
ところで、今の俺と高町のおかれている状況は、こうなった経緯を知らない人間から見るとどういう風に映るのだろうか。
顔を真っ赤にして俺の上にのしかかっている高町。
押し倒されながら口を押さえて高町を押し返そうとしている俺。
いろいろ散乱している状態の室内。
ああ、嫌な予感しかしないですネ。
そして、俺たちをしばらくマジマジと見続けて、それから荒れに荒れた部屋の中を見回して、もう一度俺たちを見て、それから、なにかが軋む音が聞こえてきそうな歪な笑みを浮かべた。
おそらくは数十秒程度だったろうフェイトさんのその所作が俺にとって永遠に近しいものに感じたということは言うまでもなく、また、その数十秒に裁判において死刑宣告を受ける直前の被告の気持ちを理解することになったこともまた言うまでもない。
とか思ってたら裁判長が口を開いた。
「えっ、と。なの、は?」
「ふ、ふぇ……?」
裁判長はなぜか高町の方へと話しかけ、呼ばれた高町は頬を赤く染めたまま呆けた様子で裁判長を見る。
そして裁判長は意を決したように、
「お、お邪魔だった、かな?」
困り果てたような苦笑いで、圧倒的なまでの勘違いを口にした。
このままいったら、キャロ嬢のあの荒唐無稽なデタラメ話が現実味を帯びるというカオスティックな展開はもう目の前である。
だが、否定をしようにも、痛みで口を開けない。
状況を説明できるだろうもう一人は、さっきから挙動が不審すぎてあてにならない。
とか思ってたら、さっきのフェイトさんの質問に完璧なまでにフリーズしていた高町の思考もようやく現実の方へと追いついたのか、今度は耳まで真っ赤にして暴れ出した。
「にゃっ、にゃっ!? ち、ちちちちがっ、ちがっ!?」
ああ、その通り。確かに違う。確かに違うのだが、その反応の仕方は勘違いを広めること以外に一役を買うことはないだろうし、そもそも俺の上でどたばたと手を振り回さないでください顔に当たる。
とか思いながら、痛みのせいか普段よりも狭まっているように感じる視界の中、振り回される手を首だけ動かして回避して、微妙にシグナムさんとの訓練の成果を認識する俺だった。
ただ、今はともかくさっき抱きつかれた時だとか、こけて突き飛ばされた時だとかにこいつの動きを回避しきれなかった所からして、普段俺が適当に高町をあしらえているのはこいつの手加減あってこそのことなのだなと認識して、なんとも居た堪れない気分になった。
高町の一応悪意の無い攻撃を避けながら、なんか知らんがいつもならこの手の話題はとぼけた様子で首を傾げる感じで難なくスルーするこいつにしちゃあ珍しく言葉の意図を理解してる上にエライ動揺してんなぁとか思いつつ、喋れないという状況はこれほどまでに歯痒いことなんだねーってのを身をもって理解した俺が、だったら念話を使えばいいじゃないという結論に達したのは、これより少しあとのことになる。
ちなみに。
俺と高町がそうなった所までの経緯を、全く役に立ちそうもない高町を放置しつつフェイトさんに全力で説明し終えてからヴィヴィオを部屋へと戻してエリ坊の部屋のソファへとダイブを決め込もうとした俺を待っていたのは、
『せ、せせせせーくんっ! また出たっ! また出たのっっ!』
とか、通信越しでの高町の、超涙目でのゴキブリさん大家族のご訪問についてのご報告だった。
この期に及んでまだ俺に頼ろうという気概はある意味素晴らしいと思ったが、それは勇気の類ではなくて蛮勇の類なので改めていただきたい所存。
ていうかさっき俺が部屋出てきた時には、なんだか知らんがこっちから全力で顔逸らしてたくせになんとも現金な少女である。
しかしアレだ。一匹見かけたら……とかいう伝説は嘘じゃないよねホント。
で、まあ。
さっきの高町の暴走っぷりを見るに、フェイトさん一人に任せて放置するってわけにもいかず、今度はエリ坊も伴って高町たちの部屋に行くと、フェイトさんが高町に抱きつかれてさっきの俺の再現状態だったけどそこは流石フェイトさんというか彼女は冷や汗流しながらも笑顔を絶やさない感じに高町の力に抗そうとしていた。
ちなみにヴィヴィオはそんな高町の背中にきゃーとか言いながら楽しそうに抱きついていた。気楽そうでなにより。
それらを尻目にもう一度ゴキブリさん(別)を処理する俺。
で、処理を終えたら高町が今度こそマジで俺にこの部屋に常駐してくれと懇願してきたからさあ面倒なことになって参りましたと言うかマジでどうすんのよこれという感じ。
なんだかんだでフェイトさんは高町ほどにGさんに対して恐怖を抱いているわけでもなさそうだったから彼女が処理すりゃいいんじゃねとか思ったけど、さっきみたいに錯乱した高町に抱きつかれてたらそれも出来ないし、いくらなんでもヴィヴィオに任せるわけにもいかないし。
まあ、結局どうなったかって言うと、俺一人が高町たちの部屋に泊まるのが問題なのなら、エリ坊とかキャロ嬢とかティアとかスバルとか伴っていけばいいんじゃね? とかいう、画期的なんだかそうでないんだかよく分からない解決方法が持ち上がったため、なんかあれよあれよとやってるうちに高町の部屋で簡易版修学旅行みたいなシチュエーションに陥ったのだった。
ちなみにこれなら俺いらないじゃんと思ったけど、高町的にゴキブリ退治は俺じゃないといけないらしい。なぜだゴルァ。
で、そんな理由で呼ばれたティア達に俺が掻い摘んで事情を説明すると、いつかにどこかで見た覚えのある、高町のそんな醜態が信じられませんとでも言いたげな表情を浮かべてたのでまたフィルターが剥がれましたねわっはっはとか思ってた。
そうでも思わないといろんな意味でやってられなかった。
そして、そんな流れで新人共と上司二人の懇親会的なお菓子パーティ的なものをやりながら高町のゴキブリへの恐怖を忘れさせる会が発足したものの、俺はソファを借りて横になってぐったりしながら、さっき高町にヘッドバッドをいただいた口のあたりに治療魔法をかける感じに。
女子たちの井戸端会議的な何かに、男子が安易に介入するもんじゃねーからね。いやマジで。
もし仮に恋バナとかそんな話になったとしたら、俺の言えるあれなんて他人が聞いても悲しみしか生み出さないので避けて通るべきそうすべき。
まあ、あのメンツじゃ恋バナなんて出やしないだろうけどな。全員彼氏いない歴=年齢っぽそうだし。
しかし俺はともかくエリ坊はと言えば、フェイトさんの熱烈なラブコールによって女性陣の輪の中に引きずり込まれていってたので、まあご愁傷さまとか思いながら今日ばかりは放っておくことにした。
ほら、たまにはフェイトさんもエリオと一緒に遊びたいだろうし、風呂とかそんなんじゃないならちょっとくらいは大丈夫でしょうという感じに言い訳しつつ、女子たちの会話の輪の外に位置するソファから、姦しい高町たちの会話声を聞き流しつつ、目を閉じる俺なのだった。
2011年7月8日投稿