男の一人暮らしともなると、家事なんてものは窓のサッシの埃とともに溜まっていくもので。
狭いアパートの一室が相手とはいえ、放っておいたらすぐに自分の手だけではどうにもならなくなってしまうから、必要最低限、本当に最低限の、掃除や洗濯、食器洗いなんかだけは、仕事から帰宅しての僅かな残量の体力を振り絞ってでもこなしている。
が、そんなものは所詮応急的なものでしかないわけで、どうしても根本的にいつでも部屋の中の全てが完璧に片付いているという状況は作りにくい。
さすがに足の踏み場がなくなるほど床に何かを放置したりはしないものの、床に置いてあった書類を踏んで転ぶとか死ぬほど恥ずかしいこともしてしまった記憶もあるし(それ以来、床に物を放置しないように気をつけている)
では、平日にどうしようもなく片付けきれない家事をどうしているか。
まあ、分かりきった答えではあるのだが、次の日が暇な日に全力をもって事に当たることにしているのだった。
要するに、休暇の前日の夜に全精力を傾けて夜中近くまで家事に没頭するという方法をとることで、なんとか室内の秩序を保つというのが、俺のとっている次善の策というわけだった。
で、通例としては家事を無理やり全てこなした後の俺はテンションが異常に上昇して目が冴えきってしまっているので眠れなくなってしまっている。仕方ないからそのまま別の些事に手をつけて時間をつぶす。
それは、読みかけの本の続きを読んだりであるとか、持ち帰ってきた仕事の処理であるとか、デバイスの細かい整備であるとか、そんな小さなことだ。
しかしこの時間潰しの些事というやつがくせ者で、どうせ次の日は休みだからと没頭してしまって、気がつくと明け方になっていたりする。
そして御多聞にもれず、その日も寝たのは空に光がさしてからだった。
だからそれは、久し振りにとった休暇の日の朝のことである。
朝方までデバイスの細かい調整に時間を割いていた俺が貪っていた短な睡眠時間に終止符を打ったのは、プライベート用の端末ががなり立てた着信の知らせだった。
ベッドの横に置かれている台の上で無味乾燥にピーピーピーピーと鳴り続ける着信音に沈んでいた意識を無理やり浮上させられた俺は、引っ手繰るように端末を手にしてサウンドオンリーで通話に応じた。
で、
『あ、もしもしプレマシー? 今日暇よね、むしろ暇よね、て言うか暇だって言えやコノヤロー』
通話相手の聞き慣れた命令口調に条件反射でつい通話をぶったぎる。
今の声、先輩だったなぁとか思いつつ、端末を元の場所に置いてもう一度布団をかぶって寝ようとしたところでまた端末が鳴り始めたので、「メンドくせえ……」と毒づきながらもう一度通話に出た。
『……私ロロナ。今、あなたの家の目の前にいるの……』
「……怖ぇよ……」
文字通り耳元で囁くような声でそんなことを言うものだから、流石に気味が悪くて目が覚めた。
本当はまだ寝ていたいところではあるのだが、どうせ先輩のことである。俺がまともに応じるまでは、何度でも通話をしてくるに違いない。
仕方ないから睡眠不足で霞む目を擦りつつ、ベッドから這い出ながら話をすることにした。
「……何の用だよあんた。せっかくの休日に人が気持ちよく寝てたんだから、暫く放っておいてくれるのが大人の優しさってやつなんじゃねーのか……」
言いつつ着替えを適当に引っ張りだしていると、先輩は心外だとでも言うように拗ねた口調で、
『なによー、どうせ放っといたらあんたなんて、貴重な休日一日寝て過ごす気なんでしょうが。そんな勿体無いお化けが出そうな休日の過ごし方は却下よ却下。だから私の買い物に付き合いなさい』
「……俺が勿体無いお化けが出ないように苦心することと、あんたの買い物に付き合うことのどこに関係性があるんだよ……」
あまりに呆れてしまってため息混じりに呟くと、『私は買い物がしたい。あんたは無駄な時間を過ごさないようにしなくてはならない。ほら、ここで私の買い物に付き合ったら、利害が一致するでしょ』とか言い出した。
「俺としては、あんたと一日過ごす方が時間の無駄に思えて仕方ないんですが」
『そんなの過ごしてみなきゃ分からないでしょ』
そうして一日過ごした後で時間の無駄だと思ったとしても、「時間なんて返せないんだからしょうがないじゃない。さあ前を見てひたすら突き進むのよ!」とか言い出す先輩の姿が鮮明に浮かぶ。
まるで新手の詐欺か何かのようだなとまた溜め息をついたら、それを了承だとでも勘違いしたのか、
『さあ、分かったら早くこのドアを開けなさい。いい加減立ってんの疲れたのよ。いくらインターフォン鳴らしても起きてこないから連絡までしちゃった私を褒めて褒めてー』
「って、ホントに家の前まで来てるんですか!?」
そりゃそうでしょ、あんた相手に待ち合わせ場所なんか決めても、適当に言い訳されて逃げられるのがオチだしとか先輩が言ってるのを尻目にようやく着替えを終えて玄関に向かう。
今の職場に通うためだけに借りたこの安物アパート、インターフォンの室内スピーカーがぶっ壊れてた気がする。大家さん以外誰も訪ねてこないから忘れてた。
買い物に行くならついでに直す道具とかでも買っておくべきか。
とか思いながらロックを外してドアを開けると、なぜか先輩の横には最近見慣れ始めた小さな少女の姿が。
予想外の展開に頬を引き攣らせる俺。
しかしその少女はそんな俺の内心に気付くことなく頭を下げてお辞儀した。
「えっと、こんにちは……」
「……」
俺は無言で静かにドアを閉め、目を閉じて深呼吸した。
……おかしい。なぜエースさんと空曹さんが、先輩とともにこんな場末のアパートを訪ねてきてるんだ。
……いや、大体予想はつく。予想はつくが認めたくは無い。て言うかこの状況だとさっきの俺のプライベートモードの会話完全に聞かれたよな。いやまあそれはいい、それはいいんだがこの展開だと今日一日一緒に行動する感じか?
そこまで考えて玄関で頭を抱えて蹲った。
直後ドンドンドンとドアを叩く音がして、性質の悪い借金取りでも来たみたいだなとガックリ肩を落としながらもう一度ドアを開けて三人と対面した。そしてとりあえず定番の質問。
「……高町空曹長、ヴィータ空曹、なぜあなたたちがここに?」
「そんなの私が誘って連れてきたからに決まってるじゃない」
「しれっとした顔で言うんじゃねえ……!」
流石にくらっときて壁にもたれかかるように肘をついて体勢を保つ。
「せ、せーくん大丈夫!?」
「……大丈夫、大丈夫ですから今は放っておいてください……」
「え、でも……」
俺が本当に大丈夫ですからとエースさんをなだめている視界の端で「せーくん、せーくんだって! あっはははははっ! 聞きましたそこのあなた、せーくんだって!」とか丁度外に出てきたお隣の年若い奥さん(話を聞くにご主人と二人でどっかから駆け落ちしてきたらしい)に話しかけている先輩に向けて口の中でいくつか呪詛を唱える。誰のせいでついたあだ名だと思ってるんだ……。
ていうかエースさん、せーくんって呼び方は笑いどころじゃないですとか突っ込みどころおかしいですから律儀に突っ込まなくて結構です。
「……とにかく、準備してきますから全員ここで待っていてください」
「えー、中に入れてくれないのー? 別にいいじゃない入れてくれたって。私エロ本とか見つけても生暖かい目をしたままそのブツをテーブルの上に置くくらいのことは出来る自信あるわよ?」
「────……シネ」
いろいろ限界だったのでそう毒づいて勢いよく扉を閉める。
扉を閉める寸前、なんかエースさんが「え、エロ本……」とか真っ赤な顔で言っていた気がするが無視だ無視、知った事か。
前々から、俺の休暇に合わせてみんなで休みをとってどこかに行こうと、先輩と他お二人でそう計画していたのだという。まあ正確には、先輩が無理やり誘って、だそうだが。
無論俺には秘密という体面を保って、だ。
高町さんあたりは仕事を休むことを渋っていた面もあったようだが、どうやら俺と仲良くなるチャンスだとか言って無理やり連れてきたらしい。
実に小賢しくて面倒なことを計画していたものだと感心するが、だったら普通に誘えよと言いたい。
もし俺が出かけていたらどうするつもりだったんですかと聞いたんだが、休暇は基本的に家で寝て過ごしていると俺が公言していたせいで今日もそうだろうと思ったのだとか。
「……で、どこ行くんすか」
アパートを後にして道を歩きながらそう聞くと、先輩はバツが悪そうに眼をそらしながら苦笑した。
「……あはは、あんまし怒んないでよー。さっきもごめんなさいって謝ったじゃない」
「ゴメンで済めば管理局はいらねえと思いますが」
いらつき混じりにそう言うと、先輩はうぐっと言葉に詰まった。
どうやら普段怒らない俺が珍しく感情を剥き出しにしているので若干ビビっているようである。
そんな様子を横から見ていていたたまれなくなったのか、エースさんが苦笑しながら俺の顔を覗き込んできた。
「えっと、ごめんねせーくん。わざわざ押しかけちゃって」
「……いえ、別に私はあなた方が押し掛けてきたことに対して憤っているわけでは……」
てか別に訪ねてきただけなら突然だろうがなんだろうがここまで機嫌が悪くなったりしない。問題なのはいちいち挑発的な先輩の態度である。
俺の場合、休暇とは言っても、別に体が疲れているからとったというわけじゃないのだ。具体的に休めたいのは心のほうで、たまにはいろんなしがらみに関係なくストレスの極力少ない一日を過ごしたいと俺だって思う。
だけど俺の場合、一人でぼうっとしていると下らない思考がいろいろと巡って、最終的に自嘲と自己嫌悪で気分が最悪になったりすることもあるから、わざわざ訪ねてきてくれて、いろいろと理由をつけて外に連れ出してくれたことには感謝していたりもするくらいなのに。
たまの休日に家に引きこもって惰眠を貪っているだけでは、気分転換もくそもない。俺だって子供じゃないし、先輩のそういう言い分だって少しはわかる。
……なのに、なぜこの人はこうも俺に感謝をさせないような方法でしか気をつかってこられないのかと文句の一つも言いたくなる。
俺にだっていろいろと準備があるのだから、事前に連絡の一つも欲しい。大体わざわざ家にまで来てもらわなくたって、どっかで待ち合わせれば時間の無駄もないのに……。
勘違いされているようだが、俺は一度約束したらよほどのことがない限りそれは守る。人間関係は信頼が重要だからだ。
特にドタキャンは自分にも相手にもいいことがまるでないから嫌いだった。
だからできないことは約束しない。
……しかしこの人、どういう思惑かは知らないが、エースさんと空曹さんが俺と接する機会を極力多くしようとしている節があるのな。
本人の独断か、二人から頼まれているのかは知らないが、俺としてはどうにも調子が狂う。
俺にだってペースがある。
それは仕事のことだとか、訓練のことだとかそういう方面のことだけじゃなくて、当たり前だが対人関係のことだって含まれている。
人との付き合い方だって、俺には俺のやり方がある。何を思ってかは知らないが、それを無理やりこういう風にやられては、若干反発心が生まれるのも無理からぬことじゃないだろうか。
……まあ、こんなこと言ったって無駄だろうから、言わないけど。
と、
「……むぅ」
思考の耽りあけにエースさんが俺のほうを見て何やら不満そうな表情を浮かべながら唸っていたので、首を傾げて聞いてみる。
「……? どうかしましたか、高町さん」
「……敬語」
「は?」
と、俺は首を傾げたまま、さらに片眉を上げた。そんな俺を見て、エースさんは食いかかるように俺のほうへと近づいてきて、背伸びまでして顔を近づけてきた。
で、
「せーくん、なんで私に敬語使うの?」
……いや、なんでといわれても。
「上司相手に敬語を使うというのは当然かと思うのですが……」
「ここでは上司とか関係ないよね。プライベートだもん」
「……いや、プライベートでも目上の相手にはですね……」
「でも、ロロナさんには敬語使ってなかったよね?」
だから私にも敬語はいらないよ────とでも言いたげな視線で俺の方を目も逸らさずに見つめてくるエースさん。
俺は言葉を詰まらせて黙りこむ。
確かにそう言われては返す言葉もないが、しかし先輩とは付き合いの長さが違う。そして、認識の仕方も違う。
恥ずかしいので絶対に言いたくはないが、俺にとっての先輩という存在は姉のようなものだというのが最も近いように思う。
つまり、それだけ特別な存在だった。
そうでなければ、あんな言葉遣いは絶対にしない。
先輩のほうが俺のことをどのように思ってくれているのかは知らないが、これだけいろいろお節介やらちょっかいやら出してくれてきているのをみると、それなりに気にかけてくれているのだろうなとは思う。
けれど、それを説明するのは、なんだか躊躇われた。こういうことは言葉にしたくないし、するものでもないと思った。
だからむすっと黙っていたんだが、エースさんのほうはそんな俺の態度から何か読みとったのか、「……うん、わかった」と呟いた。
……一体何がわかったんだろう。と、いやな予感をひしひしと感じながら黙って言葉の先を促していると、
「今日一日で、敬語を使わないくらいにまで仲良くなればいいんだよね! うん!」
満面の笑みでそんなことを言われ、ポカンと呆気にとられて目を丸くする俺。
エースさんはさっきの笑顔を浮かべたまま、空曹さんの方を向き「頑張ろうね、ヴィータちゃん!」「……は? 何をだよ」とか会話を繰り広げていた。
俺の方はと言えば、
「……なんか、すげー娘と知り合いになっちゃったんだなぁ、俺」
と、楽しそうにじゃれている少女二人を見ながら、心の底からそう呟いていた。
そんなこんなでいろいろと会話をしながら、四人でもって都市街へと向かった。
適当に入る店を選んでいる途中、何度か先輩目当てのナンパさんが絡んできたんだが、先輩が適当に俺をダシに使って追い払っていた。
何度でも言うが、うちの先輩は黙ってさえいれば外見はかなりレベルが高いのである。黙ってさえいれば。
職場内でもちょくちょく同僚からデートの誘いを受けたりもしているようだったので、なぜ行かないのかとこの間聞いたら、
「デートに誘ってくるときの愛想笑いが、どいつもこいつもあんたの普段の顔よりキモイからいかない」
一刀両断だった。頭痛に苛まれながらどんな理由ですかと額に手を添えてため息を吐いた俺だった。
というかその言い方は暗に、俺の普段の表情がキモイと言っているのだろうかと思ったんだが、「うん」と真顔で言われそうだから伺いをたてるのはやめた。
さすがに真っ向からそんなこと言われると俺だって凹む。
……で、そんな人が俺たち一行の先陣切ってズンズンと先頭を歩いていくものだから、当然それに無理に合わせる気のない俺や、俺を相手に話をしようとしているエースさんたちは置いていかれる形になるわけで、つまり先輩が一人で道を歩いているように見える構図になるわけだ。
となると後はさっきの流れ。先輩が一人でどこかに行こうとしていると勘違いしたとある下心をお持ちの男性の方々は、必死になって先輩にデートアピールを仕掛けるも後から追い付く俺を使って追い払われていくという寸法だった。
まあ最後のほうでは、
「あー、もう! メンドくさいからあんた私と手ェ組んで歩きなさいよ!」
とか言い出した先輩に引っ張られて腕をガッチリとホールドされて壮絶に痛かった。腕を組むとかそういう力の入れ方ではなかった。
「いででででででで! ちょっとあんた、そりゃいくらなんでも力入れすぎ……」
「あぁん? なんか言った!?」
「……なんでもねーです」
あまりの怒り具合に、今の俺の腕には声をかけられるたびに足を止めなければならなかったことへの怒りが込められていたのではないかと邪推したが、真相は闇の中である。
しかもそれを見たエースさんに、
「わぁ……。やっぱり二人とも仲いいんだね!」
にっこり笑われてそう言われ、「私も頑張らなきゃ!」と改めて気合を入れなおしているのを見て、なんかもうすごく帰りたくなった。
しかし、俺たちのぶらり四人で珍道中の旅はまだ始まったばかりで、当分帰してもらえないのはどこをどう見ても明らかだった。
視界の端で、「……何やってんだか」と呟きながら呆れた顔をしていた空曹さんだけがこの場の良心だなあと、俺は先輩に引っ張られて歩きながら溜め息を吐くのだった。
2009年12月21日 投稿
2010年8月29日 改稿
2015年7月27日 再改稿