任務帰りにこの間見知った二つの顔に出会った。
俺がランチタイムをとうに過ぎたファミレスで、サンドイッチ片手に端末をいじって仕事をしている理由の大半は、ここに集約されると思う。
だって、何事もなくいつもの通りに事が運んでいたなら、腹が減ったと駄々をこねる先輩に、はいはい早く帰って食堂で食べましょうねと手を掴んで引きずりながら言い聞かせているだけで無事に隊舎まで辿り着けていたはずなのだ。
けどしかし、今日は帰り着けなかった。
サンドイッチにかぶりつきながら、はぁと溜め息をついて、なんでこんな所でこんなことをと思いつつ、また端末に意識を向けた。
それもこれも、と思う。俺の向かいで食事しながらにこにこしている顔と少し不機嫌そうにしている顔をちらりと盗み見て、悟られないくらいに小さく嘆息した。
それからなんとはなしに周りにも目を向けて、ランチタイムを外すだけで随分と空いているものだと感心した。
まあ、ランチタイムを外れているということは、昼飯を目的に来店する客はいなくなっているわけで、客足が途絶えているのは自然の流れなのだろうが。
こんな中途半端な時間にファミレスに来たことのない俺としてはこの大半の席が空席であると言う状況は物珍しいところがある。
普段ランチタイムを外して昼飯を食べ損ねたら、そのまま夕食まで食事はお預けという生活を送っている俺なので、当然と言えば当然なのだが。
しかし店の中が空いているのは今の俺にとって好都合ではあったから、店側はどうか知らないが俺としては嬉しいところである。
先輩に無理やり連れてこられたときは、残りの雑務はどうしようか、言いだしっぺのこの人に押し付けてやろうかと思ったものだったが、これなら何とか波風立たずに片付きそうだ。
だから、端末にもう一度目を落としてこの場で出来る仕事にまた没頭する。相席している先輩達がなにやら和気藹藹と会話しているのは気になるが、集中すれば問題無い。と、自分に言い聞かせていると、
「こらセイゴ、食事中は端末いじっちゃダメっていつも言ってるでしょ、お母さんにそれ貸しなさい」
「……っ。だ、誰がお母さんですか誰が。使い慣れない名前の呼び捨てまでしておかしなことを口走らないでください……」
横に座って、ハンバーグステーキセットをナイフとフォークで器用に切り分けて口に運びながら文句を言ってきた先輩に動揺を悟られないようになんとか平静を装ってそう返しながら、ピッ、ピッと電子音を鳴らしつつ端末に流れ込む情報を見逃さないように速読する。
「えー、だってあれじゃない。みんなで仲良く食事しようって時に端末いじってるってのは無粋じゃないのよー」
「仕方ないでしょう、仕事が溜まっているんです。私はもう嫌ですよ、居残りの徹夜で残業なんて」
「そんなことしたのあれ一回きりじゃない。しかもあんたのせいだったし」
「ぐ……」
事実を突き付けられて言葉に詰まると、先輩がしてやったりという顔をして切り分けたハンバーグを口に運んでいた。
このくそったれと口の中で小さく呪詛のように唱えながら、俺はいろいろと作業をしていた端末の電源を仕方なく落とした。
どうせこのまま仕事を続けたって、隣や向かいに座っている彼女たちに返事をしながらではどう考えても効率が悪い。精度も落ちるだろう。
それにいくら事前に仕事をする許可をもらったとはいえ、他の管轄の上官の人の前でこういうのはあまりよくない気もする。当の本人はそんなことを気にした様子もなく、隣の赤髪三つ編みの少女と仲良くランチセットを食べていたが。
「あ、ちゃんと仕舞うんだ。いい子でちゅねー」
「……くっ」
怒鳴りたいのを我慢しながら端末を懐にしまうと、手に持っていたサンドイッチに齧りつく。……が、ヤケ食い気味にバクバクと食べていたらあっという間に皿に残っていた分もなくなってしまった。
もともと仕事をしながら食べられるからという理由で注文したものだったので、食事だけに集中してしまうとこれだけでは何だか物足りなかった。
仕方なくもう一度店員さんを呼んで追加でスパゲッティを注文する。
「あら、今日はやけによく食べるわね。……もしかして、いま口喧嘩に負けたからヤケ食いとか?」
「いや、さすがにそれはねーだろ」
「そうでもないのよヴィータちゃん。こいつこう見えて負けず嫌いだから、なんかに負けるとすぐに態度に出るわけ。だからこの間のあれのせいで最近のく────ッ!?」
「余計なことを言わないでください」
小さく悲鳴のようなものを上げた先輩が、眼尻に小さな涙の粒を溜めて恨めしそうな目でこちらを見た。
俺はちょうどそのときスパゲッティを運んできてくれた店員さんから料理を受け取りながらお礼を言い、皿をテーブルの上に置いて素知らぬ顔で右手に持ったフォークを使って麺をぐるぐると巻いていく。
そんな俺の左の肩を、先輩がグワシと掴んだ。
俺は掴まれた場所のあたりで鳴っているミシミシという音と痛みを完全に無視しながら、巻き取った麺を口に運びつつ表情をにこやかにして先輩の方を見た。
すると先輩もものすごくいい笑顔を浮かべている。ああ、これはマジギレしている時の顔だとか思いながら、俺はフォークを皿に置いて表情をそのままに口を開いた。
「……なんですか、先輩? あなたの右手のその恐ろしい握力を俗世間に見せびらかしたいと言うのであれば、ここで私の肩を掴んでいるのは筋違いですよ?」
「あらあらわざわざ紳士的に御忠告をくれてどうもありがとう。けれど、先ほどの紳士的とは言えない行動はあまり関心いたしませんわね」
こういう時には気後れしたら負けるので、とりあえずジャブ程度に言葉の応酬。恐ろしいくらいのいい笑顔を継続している先輩のこめかみのあたりに怒りマークが刻まれたと同時に力も増幅された気がするけれど気にしない。
というか。紳士的とは言えない行動と言うのは、どういうもののことだろうか。まさかあの足を踏みつけてぐりぐりとやったことを言っているのか?
あれは正当防衛だ。先輩の口を秘密裏に止める権利くらい、俺にだってあるだろう。というかそれよりも気になったことが一つ、
「先輩」
「なにかしら?」
「淑女口調が死ぬほど似合っていませんね、爆笑してもいいですか?」
「そんなに私の右手に血を吸わせたいのかしら?」
「私の肩はそんなに貧弱ではありませんから心配無用です」
うふふと嗤う先輩を見ながら、俺はあははと空笑いした。
「あははははは……」
「うふふふふふ……」
「あ、あのぅ」
前から掛けられた声に反応して、表情はそのままゆらりと前方を向くと、エースさんが「ひっ」と小さく悲鳴を上げたが気にしない。横で空曹さんが、おお、怖い笑顔だ。はやて達以外で久しぶりに見たとか言っているんだがこちらも気にしない。
「け、喧嘩はダメです、二人とも!」
俺たちの笑顔を見て泣きそうになりながらそう言ったエースさん。しかし先輩は、いやだわなのはちゃんと笑いながら、
「この程度喧嘩でもなんでもないわよ。ほら、スキンシップよスキンシップ」
なんということだろう。この人のスキンシップにはこの骨の軋むギシギシという音が不可欠だというのか。
スキンシップと言うには余りに過激だと突っ込みたい。なんかもう骨とかいつ折れてもおかしくないんじゃないかって気がするくらいの力が加えられているようなそうでないような。
まあ、ここでそんなことを言ったら負けたような気がするので話を合わせた。
「そうですよ空曹長、スキンシップですスキンシップ。ただ、その行為のせいで私の肩の骨が取り返しのつかないくらいの複雑骨折を起こす寸前まで追い詰められていると言うだけです」
「ダメだよねそれ、ダメだよね!?」
安心させようと思って笑いながら言ったのに、慌てて立ちあがったエースさんに仲裁される形で体を離す俺と先輩。そのまま通路側に座っていた俺は席を立たされ、先ほどエースさんが座っていた席に無理やりつかされた。ちなみにエースさんは俺の座っていた場所に腰を下ろす。
で、
「喧嘩両成敗です!」
とか言われて俺も先輩も互いに謝ることに。
……なぜこんなことに? こんなことは割といつものことだから、どうせそのうち殴り合って罵り合って疲れたら適当に仲直りとかそういう風に終息するから放っておいてくれてよかったのに。
仲良くしなきゃダメだよ!とか怒られたのですみませんでしたと頭を下げてから、とりあえずさっきまで俺が座っていた場所の前に置かれた皿を取ってフォークを手にしてまたぐるぐるとやり始める。
それを見てうーとか唸っているエースさんの頭を、ごめんごめん、悪かったわね、と先輩が優しく撫でていた。
こうして見ると先輩も奇麗なお姉さんなんだけどな。普段のガサツなイメージが強すぎてどうにも違和感がある。
なでられてうーからうにゃーとか気持ち良さそうな声を出し始めたエースさんを見ながらそんなことを思っていると、先輩がじゃあ適当に話でもしましょうとか言い出した。
「別に構いませんが、私には提供できるような話題はありませんよ」
「あたしもねーな」
「えー、なんかあるでしょなんか。ほら、例えば、先日感動的な出会いをしたはずの相手と町中で運命的な再会をしたので、近くのレストランに誘ってどうのこうのって浮いた話の一つくらいないの?」
気が利かないわねプレマシー。とか無茶を言うのもほどがある。
大体なんだその捏造話は。俺の中には任務帰りに先日完膚なきまでにぶっ飛ばされた相手にばったりと会って、「あれ、こんな所でどうしたの」とか言う先輩の言葉を皮切りに、「えっと、任務の帰りなんです」「あら奇遇ね。こっちもなのよ」とかなんとか会話してるうちに、このあと非番で暇だから、一緒にご飯でもどう?という話になって、あ、大丈夫ですという返事が来たので、俺がそういうことなら片付けたい仕事があるのでお先に失礼するついでに報告書も出しておきますねと言うのを無視した先輩に首根っこ掴まれて近くのファミレスに連行された記憶くらいしかない。……自分で思い返してなんだが、なんて夢の無い話だ……。
ちなみに報告書の件で文句言ったら、私がやるから気にしなくていいわよと言われては沈黙するしかない。
なんてことを愚痴気味に言ったら、仕方ないわねーと肩を竦めながら溜め息を吐かれた。なんでだよ。
「なら適当に小さい頃の夢でも言ってく? まずはプレマシーね」
「なぜ私が……」
「こういうときは不愛想なやつから言うって決まりがあるのよ、さ、早く言いなさい」
どこのどんな決まりだ、それは。とか納得はいかなかったんだが、どうせ今言おうと後で言おうと変わりはないので昔思っていたことを思い出してみた。
「えーと、確か……」
……て、なんで先輩もエースさんもそんなにわくわくした顔をしているんだろう。面白くもなんともないのに。とか思いながら、俺はフォークを口に運びつつ言った。
「安定した安全な職につくこと?」
「え?」
「は?」
「わー……」
……なんだろう。先輩が俺をすげえ可哀想なやつを見る目で見てるんだが、何か間違ったことでも言っただろうか。
と言うか、エースさんも空曹さんも変な顔をしているんだがいったいなんなんだ。
「プレマシー、前から思ってたんだけど、あんたってさ」
「……なんですか?」
「枯れすぎよ、全体的に枯れすぎ。何なのその30代半ば過ぎた中年みたいなセリフ。とても『子供の時の夢は?』って質問に返ってくるべき返答じゃないじゃない」
……そんなことを言われても困る。あまり鮮明に覚えているわけではないが、当時の俺は確かにそんなことを思っていたのだ。多分。
じゃあ、あなた方はどうなんですかとまたスパゲッティを口にしながら聞いたら、先輩が「私はお嫁さん」とか言い出したせいで咀嚼していた麺が変な所に入ってむせた。先に注文してあったコーヒーで押し込んでなんとか持ち直した。
それが気に食わなかったのか、何よ、あたしの夢がメルヘンチックだとなにか文句でもあるの?と机越しに飛びかかってきそうな気配を出しながら聞いてきたので、目を逸らしながら「いいえ、ないです」と無難に答えたのになぜかさっきまでハンバーグを切ってたせいでデミグラスソース塗れになっているナイフを投げて来たのでひやひやしながら親指と人差し指で掴んで止めた。
「危ないじゃないですか……」
「……ふん」
近くにあったテーブルナプキンでフォークと指を拭きつつそう言うと、先輩はつまらなそうに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
……なんなんだろう。いつも直球で物事に取り組む先輩にしては珍しい態度だ。普段ならこのまま第二ラウンドに突入してもおかしくないというのに、一体どうしたというのか。
とか首を傾げていたら、前に座っていたエースさんに睨まれているのに気付いた。
……マジでなんなんだ。なんであんないつもと同じような会話をしただけでこんなに不穏な雰囲気になっているんだ。
俺は助けを求めるように隣で食べ終わったランチセットにくっついてきていたおもちゃの旗を手持無沙汰にいじっていた空曹さんに、「私、何かおかしいこと言いました?」と小声で聞いてみたんだが、
「知らねーよ」
と切り捨てられては諦めるしかない。
しかしなんというか、女心は複雑怪奇だなぁと、改めて思い知らされたとある日常の午後だった。
夜。
隊舎から帰宅して着替えをし、家事もそこそこにベッドに倒れ込んだところで、プライベート用の端末が着信をがなりたて始めてうんざりとした気分になる。
俺のこの端末の連絡先を知っているのは父親か先輩、あとは学生時代の知り合いくらいだ。
今の気分としては、そのどれとも話をしたい状態ではなかった。
なにしろ、疲れていた。
あのファミレスでの一件。あのあとすぐに表面上は機嫌を直したように笑顔を浮かべてエースさんたちと会話をしていた先輩だったのだが、付き合いが長い分俺には機嫌が悪いのが丸わかりで、相当に気をつかうことになってしまった。
俺がなにか余計なことでも口走ってしまったのが原因なのだろうってことは分かるんだが、それでもあれだけ神経を尖らせ続けていては流石に俺もグロッキーにもなる。
こんな状態の時に、父さんや他のやつら、まして機嫌が悪いはずの先輩相手に喋る気が起きるはずもなく、けれど無視するだけの気概も無く、俺は寝台に放ってあった端末を枕に顎を埋めながらぼんやりと手繰り寄せて通信相手を見る。
「……ん?」
けれど、通知相手はunknown。なんかの勧誘かなんかだろうかとか思いながら通話に応じると、
『────あ、こ、こんにちはっ! ……あ、じゃなくてこんばんはです!』
「……は?」
通信画面の向こう側に現れたあまりに予想外の人物に、俺はポカンとしながら首を傾げた。
その通信の相手。ついこの間知り合った最近話題の管理局期待の新人、高町なのは空曹長は、俺が茫然としているのを見て、「えっと、あれ? 今は夜だからこんばんはで合ってるよね?」なんて、見当はずれなことを言っていた。
俺が驚いているのは、なぜエースさんが俺のこの端末の連絡方法を知っているのか分からなくて戸惑ったからなのであって、別に挨拶の使い方が間違っていたとかそういう理由で言葉を失っているわけじゃない。今は夜だし、こんばんはで合っているわけだし。
「あなた、なぜ私のこの端末の連絡先を……。プライベート用のこの端末を知っているのなんて────って、ああ……」
何が嬉しいのか楽しそうに笑いながらエースさんは頷いた。
『うん、ロロナさんに教えてもらったの』
……いや、うん。別に勝手に俺の個人情報が漏れだしたのはまあ構わない。この少なくて薄くて短い付き合いの中でも、この子がかなり自分の芯を曲げない類の人だというのは察しがつく。
要するに、先輩が教えなかった所でどうしても俺の連絡先を知りたいのなら直接俺の所に来るのは時間の問題だったはずだ。
多分俺の連絡先がばらされた手順としては、先輩といつの間にか連絡先を交換しており、俺に連絡を取りたくなったので先輩に聞いたら教えて貰えたとかそんなところですかと聞くと、どうして分かったのと聞かれたんだが少し想像すれば誰でも分かると思う。
まあいつまでもこんなこと話していても仕方ないので、そこまでしてなぜ私に連絡を? と聞いてみるとなぜか昼のことについての説教が始まった。
かなり長い話だったので一通りエースさんが喋っていたことを要約すると、女の子のかわいい夢は絶対に馬鹿にしてはいけない。らしい。
だからちゃんとロロナさんに謝らないとダメだよと諭された。
なるほど、つまり俺はあの場面で、先輩の乙女心の分水嶺のようなものをプライドなどと一緒に最大限読み取って言葉をかけなければならなかったという事か。
……随分と高いハードルだったんだなあ。少なくとも、俺のスキルであの場で咄嗟にどうにかなるようなことではなかっただろう。
なにせ、本当に俺からしてみれば予想外過ぎた夢だったのだ。勿論、勝手な先入観でしかなかったわけだが。
俺は、それにしてもそうなると明日どう謝ればいいものかと頭を悩ませながら、
「承りました。先輩には明日、言葉をよく選んで謝罪しておきます。ではいろいろと考えたいことがありますのでこれで失礼させてもらっても────」
『あ、あのっ!』
「はい……?」
通話を切ってもらう旨をやんわりと伝えようとしたのだが、その流れをぶったぎられて面喰っていると、エースさんは何か決意したように厳しい表情をしながら頬を上気させつつ言った。
『あの、今日はもう一つ大切な用事があって……』
「そ、そうですか。何のことかは分かりませんが、一応拝聴します。ではどうぞ」
そう言って続きを促すように端末の向こうのエースさんに向けて掌を差し出す。
エースさんはそれを見て「はい。じゃあ言います」と意気込んでから一拍とるために深呼吸を一つ入れて、
『い、今から誠吾くんに、ニックネームをつけようと思います……っ』
言いにくそうにつっかえつつ、けれどはっきりと口にした。またもや俺にとっては意味不明な要望を。
……まあ。こんなことを言い出した理由くらいは、心当たりがあるわけだが。
「……はあ」
『……え、えと。何でそんなに反応が薄いのかな?』
「……いえ、別に深い意味はありませんが。それよりも高町空曹長」
『え、はい』
「先輩に何か吹き込まれたのですか?」
『う……』
「……やはりですか」
俺が溜め息をつきながら肩を落とすと、エースさんは頬を膨らましながら眉根を小さく寄せて言った。
『だって、誠吾くん私のこと名字か階級でしか呼んでくれないんだもん。名前で呼んでって言ってるのにっ!』
「名字だって立派な名前ではないですか」
無表情にそう言うと、そ、そうだけど……と、エースさんは一瞬口ごもる。が、すぐに息を吹き返して、
『けど、私と仲のいい子は、みんななのはって呼んでくれるんだよっ?』
「へえ、それはおかしいですね。……ああ、つまり私とあなたはそこまで仲が良くないということでは?」
というか、会ってそんなに経ってもいなければ、深い付き合いをした覚えもない。
ただ少しどつきあって、それでちょっとした知り合いになっただけだ。
『……誠吾くんはまたそういうことを言う……。けど知ってるんだからね』
「……? 何をですか」
『誠吾くんのそういう態度は、照れ隠しだっていうこと! ロロナさんが言ってたもん。えーと確か……つ、ツンデレって言うんだっけ?』
……あの人は、この年頃の初心な少女になんて俗語を教えているんだ。いったい何を考えているのか……。
俺は目頭を押さえて前頭葉に響く鈍痛を緩和しながら言う。
「そもそも私は、仕事上の付き合いだけの相手と、必要以上に仲良くなる気はありません」
『……私は、そう言う考え方が嫌なんだよ』
落ち込むように俯いて、絞り出すようにエースさんは言う。
せっかく知り合えたのだから、もっと仲良くなれるように。俺との距離を縮めていけるように、こんな提案をしたのだそうだ。
仲良くなりたいならお互いに愛称を使うべきね。とは、先輩の弁だそうである。いかにもあの人のしそうなアドバイスだった。
だけど俺としては、呼ばれ方はともかくとして、呼び方まで相手に強要されるのはどうにも性に合わない。
相手を呼ぶときは名字か階級、そうしてこの数年を生きてきたのだ。今さら一朝一夕で変えられないし、変える気もない。
だから俺はこう言った。なら、呼び方は好きにしてください。ただし、
「私は私で、好きなように呼びます」
最大に妥協してそう告げると、エースさんはぱあっと表情を輝かせた。
そんなに嬉しがるようなことだろうかと呆れつつ、俺はそれならどんな風に呼ぼうかなと悩み始めた彼女を眺めながら黙っていた。
……で、エースさんがすんげー悩みに悩んで出した結論が、
『────じゃあ、せーくん! せーくんって呼ぶね!』
「…………」
てな感じになってしまった時に、俺は始めて自分の選択を後悔したのだった。
せーくんとか呼ばれるくらいなら、俺がなのは空曹長とでも呼べばよかった。
しかし今さらそれを言うのもありえない。仕方ないので我慢の方針。
まあまさか、こんな子供時代につけられた愛称が、こののち8年以上にも渡って使い続けられるようなことになろうとは、この時の俺が想像だにしていなかったのは、言うまでもない。
2009年12月7日 投稿
2010年8月29日 改稿
2015年7月26日 再改稿