睡眠不足は乙女の天敵だとかなんとか誰かが言っていたのを最初に聞いたのは、一体いつのことだっただろうか。
覚えのある限り最近では、とあるニュース番組の女性の嗜み特集で、俺には到底理解の及びもつかないというか興味もないというか、そんな感じの肩書きを持ったカリスマなんとかとか言う赤のスーツを着た見た目きつそうなおばさんが「睡眠不足は乙女の天敵ザマス!」とかなんとか言っていたような気がするが、一番最初の記憶となると定かではない。
そもそも人というのはものを忘れながら生きていく生きものであって、日常生活に必要な知識やらその他諸々の覚えていなければならない事象ならばともかく、この程度のことを後生大事に覚えている方が異常というか凄すぎるというかなんというか、とにかく俺は覚えていないわけだがまあそれはいい。
だって俺は凄くもなければ異常でもない。記憶力そのものは他人のそれと比べると多少いいとかそれくらいのものであり、昔完璧に覚えたつもりのことだって最近では思い出すことすらできないか、思い出せても無意味に時間がかかったりする有様なのである。
まあそれもどうでもいいんだが。
俺にとっての今の問題であり、さらに言えばこの件について俺以外の他人に同意を求めたいことというのは、睡眠不足は乙女のみの天敵などでは断じてなく、人類そのものの、ひいては大多数の生物たちの天敵なのでは無いかということであり、それ以外のことは些事以外のなにものでもない。
そう、睡眠不足は人類の天敵だと思う。
少なくとも俺はそう思う。
ただ、世の中ってのは広い。
無意味なくらいに広い。
無意味なくらいに狭い時もあるんだが、今この場では無意味なくらいに広い。
無意味なくらいに広すぎて、中には寝なくたって大したことなどないと公言して憚らない化け物のような人もいる。というかいた。
俺がまだ学生という身分で生活していた時のとある教授のセリフである。
三度の飯より研究が好きという彼の、「睡眠など後に回せ! 今は研究が全てだ!」というセリフは、今でも俺の心の奥底に根付いている。というか刻まれてる。と言うより蔓延っている。
トラウマ気味の迷言として。
何せアレだ。本来は授業の時にしか接点のないはずのその教授になぜか気に入られていた俺は、あの人の研究室に連れて行かれて雑用こなしたり他のことをしたりしていたわけだが、そんな折、在学中の功績として少しでも何かしてやろうと意気込んで、そんな人類の限界稼働時間に常時挑戦しているような人に付き合ったせいで、俺他数名の研究チームの人達と共に四日間授業と研究詰めになって完徹したあげくぶっ倒れて医務室に運ばれて目が覚めたら次の日の朝でしたなんてこともあったりして大変だったのだ。
いや、まあ、そんなこともどうだっていい。今の議題は『睡眠不足』だ。
睡眠不足ってやつは本当に面倒くさい。そこで寝溜めと言うやつが出来るようになるプロセスを誰か生み出してくれないだろうかと期待していたりもするのだが、そんなものが出来るはずもない。
そう、出来るはずが無いのだ。だから今俺は、こんなことになっている。
昨日徹夜なんてしなければよかったなあと心中溜め息を吐きながら、俺は詰め寄ってくるちっさい赤髪と先輩の赤髪二つと、それを頑張って止めようとしてくれているもう一人の少女を見て、なぜこんなことになったのかを回顧してみようと思った。
……こういうのを現実逃避と言うのだろうが、気になどしない。
始まりは、そう、医務室のベッドで横になっていたところからだった。
目が覚めると知ってる天井があった。
俺の脳ミソを構成する海馬組織に重大な欠陥が無いと仮定するのであれば────要するに記憶障害にかかっていないのであれば、ここは隊舎の医務室だ。何回か利用したから覚えがある。
ではここからが問題である。俺はなぜそんな場所のベッドに横たえられて気絶していたのか。
目覚めたばかりで頭が混乱しているせいなのか何なのか、俺の脳内の記憶処理中枢は若干さぼりの気を出しており、どうにも記憶がはっきりとしない。
横になったまま一切動かずそんなことを考えていたのだが、とりあえず靄のかかった頭を覚ますために顔でも洗おうかと思い立って体を起こそうと掛け布団を引っぺがそうとして違和感。
俺の体の右側でなんかが引っ掛かって布団がはがせなかったのでそちらを見ると、誰かが丸椅子に座ったまま布団に突っ伏して眠っていた。
誰だよこいつと思って、脳裏に電流奔る。
肩に毛布をかけられて穏やかな寝顔を浮かべている少女の頭の横にぴょこんとくっついている、小さく括ったツインの髪の毛に見覚えがあった。
で、俺の頭はその辺を足掛かりにでもしたのか、唐突にさっきまで全くと言っていいほど思い出せなかった記憶の山がボロボロと零れ落ちてくる。
人間の脳ってのは不思議なものだ。思い出せない時はどれだけ踏ん張ろうが頑張ろうが絶対に思い出せないくせに、こうやってどうでもいい時に一つでもヒントが目の前に転がっていると不要なことまで無意味に思い出すことが出来る。
まあそれは今はどうでもいい。問題なのはアレだ。
どうして今俺が、こんな状況になっているかだ。
気持ち良さそうに眠っているのを起こすのもあれなので、横になったまま気持ちを落ち着けて頭の中を整理する。
確か俺は、部隊長にお願いされた戦技教導隊の人達との模擬戦をするはずだった。
だから玄関まで模擬戦相手の人達を迎えに行って、俺の相手の少女と挨拶をして、先輩の軽口に辟易したり救われたりしながら会話して、それから演習場へ向かった。
俺は先鋒だったから、上司の人達にがんばれよーとか応援されながら相手のエースさんと一緒に演習場に入って、時間制限無しの模擬戦をやったはず。
と、そこまで思い出したところで、
「ん……?」
横で寝てたエースさんが目を覚ましたようで、体を起こして目を擦りながら俺を見た。
「うゅ……?」
とろんとした目を俺に向けながら首をかしげる。完璧に寝ぼけている。
とはいえ、どう起こしたらいいものかもよく分からないので、とりあえず「おはようございます」と挨拶してみたんだが、
「……おはよう、ございます?」
「ええ、おはようございます」
「……あれ、ここは……」
俺と会話して少しは頭に酸素が回ったのか、きょろきょろと周りを見回してから目をぱちぱちやりながら動作を停止させて十数秒後、
「……あ」
「あ?」
「あああっ!」
寝ぼけまなこをバチリと開いて、いきなり俺に飛びかかってきた。
「うわっ!?」
「せ、誠吾くん起きたんだね! どこか痛くない!? 大丈夫!?」
「は、ちょ────!?」
布団を引っぺがして人の体を押し倒すような勢いで触りまくりながら安否を確認して来るという訳の分からん行動をしてきたので、とりあえず伸ばしてきた手を両方とってから「落ち着いてくださいっ!」と声を張り上げた。と言うかいきなり名前呼びか、別にいいけど。
大きめの声量にビクンと反応したエースさんはピタリと動きを停止し、それから自分がどれほど恥ずかしいことをしているのかに気付いたのか顔を盛大に赤くしてからもの凄い勢いで頭を下げて「ご、ごめんなさいっ!!」と謝ってきたのでとりあえず手を離す。
唐突な出来事の連続に、いったい何がなんやらと事態の端っこすらつかめずに俺が困惑していると、しばらくしてから頬のあたりを赤く染めたまま頭をあげたエースさんが、恥ずかしそうに事情を説明してくれた。
なんでも、俺がそれなりに頑張って彼女にくらいついて行ったものだから、俺が自分に出来る一通りの戦法を駆使し尽くしてとりあえず形としてはエースさんを追い詰めたと勘違いしたあたりで、彼女が反撃の一手として出した一発逆転の超絶収束砲撃を俺がモロに食らって吹っ飛ばされて地面に激突してそのまま気絶してしまったんだとか。
そういわれてみれば確かに覚えがある。
エースさんの収束した、壮絶とも言えるほど凝縮させた魔力と、その利用法。
限界まで練り込まれ、貯めこまれた魔力が指向性を定められ、デバイスの先端から放出された艦首砲の如き巨大な一撃が俺に向けて叩きこまれた。
俺は前方に全開の全力で多重シールドを展開し砲撃を防ごうと試みるも、魔力の練り込みのケタが違い過ぎた。
数秒を耐えることもなくガラス細工を粉砕したような硬質な音とともに割れ散った数枚のシールド諸共吹き飛ばされて、俺の意識は光に呑まれた。……ような気がする
それで先鋒戦は一応終了。しかしここで問題が発生したらしい。
前日の徹夜の件がたたったのかそれ以外の理由なのか、気絶した俺はどれだけ声をかけてもゆすっても無反応に気を失っていたそうで、さすがに焦った分隊長や先輩の手で医務室へ運ばれたそうだ。
エースさんはその時から今の今まで気を失ってしまっていた俺を心配してくれたそうで、今日の分の任務を終えてからうちの課に戻ってきて、目を覚ますのを横で待っていたのだとか。
久しぶりにそれなりに戦える見知らぬ相手と出会えて興奮した結果、スターライトブレイカーというらしい彼女の出せる最強の砲撃を多少手加減したとはいえぶち込んでしまった手前────今までの模擬戦では殆ど使ったことは無かったそうだ。使ったことがあったとしても、その相手はその砲撃に耐えてしまうような猛者ばかりで、俺のようになった人はいないのだとか────医務室の先生にただの疲労から来る昏睡ですから大丈夫ですと言われても戻ってきたというのは、罪悪感が勝ってしまったのだろうか。
そして、俺なんかが目覚めるのをしばらく待っているうちに彼女も疲れていたのか意識を失い今に至るそうで。
最初は先輩がついていてくれたそうなのだが、彼女が来たのを見て「流石に私も限界だわ。ごめん、変わって」と仮眠室へ行ってしまったそうである。
となるとエースさんの肩に毛布をかけたのは医務室の先生だろうか、今この部屋にはいないが。
時計を見ると既に時刻は夜の8時。試合を始めたのが昼を少し回ったくらいだったから、都合8時間近く気を失っていたことになる。
最近残業も多かったし、昨夜の無理も手伝って、エースさんに多大な迷惑をかけてしまったようだった。
だからとりあえず面倒をかけてすみませんでしたと謝ってみたんだが、エースさんの方もまた私の方こそごめんなさいと頭を下げて謝罪の応酬に。
……これに似たやりとり、最初に会った時にもあったような気がする。
なんてことをエースさんも思ったのか、目が合うとあははと苦笑してから頬を緩めた。
「それにしても、誠吾くんてお仕事凄く頑張ってるんだね」
「は? ……いえ、そんなことは……」
「だって誠吾くん、すごく気持ち良さそうに寝てたよ? ロロナさんも幸せそうに寝ちゃってって笑ってたし、すごく疲れてたんだよ、きっと」
「……お言葉ですが、あなたも随分と気持ち良さそうに寝ていたように思いますよ。私が疲れていたと仮定するならば、あなたも相当お疲れなのではないですか?」
「え、あ、えっと、そんなことは……」
「ないんですか? では私も疲れていません」
「あ、ず、ずるいよその言い方! ゆっ、ゆーどーじんもん……? は、反対です!」
「誘導尋問って……。そんな大層なことはしていないと思いますが」
「し、したよ! だって……えっと、あれ……?」
な、何を言いたかったのかよく分かんなくなっちゃった。と、エースさんはあわあわと焦りだした。
ちょうどその時、仮眠を取れて気力が回復したのか元気溌剌とした先輩と、そんな彼女についてエースさんを迎えにでも来たのか一緒にやってきた空曹さんにエースさんを困らせているところを目撃され、弁解の場もなく糾弾される羽目になったのだった。
それにしても、模擬戦中の彼女も、先輩と空曹さんに怒られていた俺を庇ってくれていた時の彼女も、やはりそれほどおかしな雰囲気は無いように見える。
あの時の違和感は、やはり俺の気のせいだったのだろうな。
2009年11月24日 投稿
2010年8月29日 改稿
2015年7月26日 再改稿