荒涼とした砂漠と水香るオアシスを繋ぐ日々が緩やかに過ぎていく。
昔は家と某電気街を無比の聖地と定めていた私も、砂を故郷とするルピタラ族に育てられたせいか少々アウトドア志向になったようだ。灼熱の砂上でも健気に生きる虫たちや水の乏しい大地にひっそりと咲く花などに心動かされることなど、昔だったら考えられなかったことだろう。萌絵にしか反応しなかった前世と比べれば実に心豊かになったものである。
それに大人すら根を上げると言われる砂漠越えを日常のものとして経験してきたおかげか、クラスメートにニート予備軍と噂された私も、今では大人に負けない体力と精神力を持つようになった。五分歩いても力尽きません。めげません。すごくね?
休むことのない勤労な太陽が辛かったのは確かに事実だけど、それにももう慣れちった。ルピタラ族は元来暑さに耐性のある民族らしい。発汗量が少なくて、乏しい水だけでも熱砂包まれる砂漠を長期間旅することができるのだ。すごいね、ラクダみたいだ。ただ底冷えする夜が来るたびに、その過去に経験したことのない気温差が私にはちょっと堪えた。毛布に包まれていても、太陽の沈んだ砂漠の夜は隙間を縫って侵入してくる。暖房のないことを切に恨みながら寒さにぷるぷる震えていた私。だからお父様が無言でそっと毛布と一緒に抱いてくれたりするのは嬉しかったです。あったかーい。
エルリオにはファザコンとか馬鹿にされたけど、黙れチビ、の一言で一蹴した。エルリオは泣きながら「覚えていろ!」とか叫んでいたけどそんな悪党の定型詩など覚えません。エルリオなどにお父様のギャランドゥの温もりはわからんのですよ!
そんなエルリオとの馬鹿げた掛け合いも、お父様との温かな触れあいも、いつしか年を重ねて砂のように流れていく。
チビ、チービ、と馬鹿にしていたエルリオもいつの間にかにちっこかった背が伸び始め、なよなよしていた体もがっしりとしてきた。今では不遜なことに私より1ミリ程度大きい。ちらりと自慢下に見下すエルリオ。1ミリ程度で人を見下すエルリオが哀れだ。
そんな私の体も年を経て変わっていき、少しずつ女の子してきた。今まで子供なだけあって男女の性差を考えていなかっただけに、子供から青年期への成長具合にはちょっぴりショックを受けた。
少しだけ、胸も膨らんできたし。
とはいえ、この年頃にしては………いや、何も言うまい。考えちゃダメ、ゼッタイ。エルリオの視線もちらちらと胸に向く。この思春期め………
ずっと子供のままだと思っていた。だけど、子供もいつまでも子供のままではいられない。ネバーランドから遠く隔てられた砂漠の上だしね。風が吹き、砂が舞う砂漠。砂の流れは川のように、川の流れは時の流れのように、止まることがない。
気付けば六年という年月が経過していた。もう私も、十二歳。
結婚まで、あと一年。
………あぶねえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! マジであぶねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!
平和な日常に浸っていて忘れていた! おじさんの「ホタルちゃんももう十二歳か。いやはや、来年には娘になると思うと感慨深いね」の言葉で思い出したよ! 子供たちで集まって誕生日会開いていたのに! 一気にテンションがた落ちですよ!
馬鹿エルリオこっちみんな!
そんなわけでとうとう来ました、私の部族大脱出。もう一年ゆるりとしていこうかな、とか思っていたりもしていたけど、無理無理。絶対このままだと流されて結婚までノンストップだ。そして両親に手取り足取り教えられてエルリオと衆人環視の中ギシアンしちゃう。そんなのは死んでも御免だぁぁぁぁぁぁぁ!
「お父様。私、旅に出ます」
夜。砂漠の空に三日月佇む中、お父様と一緒にテントに入った私は床につこうとしたお父様に向ってそう言った。明日、外と砂漠を繋ぐ街道のオアシスに着く。そのまま部族を離れ、雲隠れする次第である。【纏】と【絶】は覚えたし、必要な神字はもう全部描ける。それに、例のものも当の昔、二年前に完成しているのだ。あとはここを脱出するだけ。
お父様は眉を顰めて無言のまま、そんな計画を脳内で進める私を眺めていた。
「なぜだ?」
「見聞を広めるためです」
嘘じゃないもん!
むくり、と体を起こしたお父様は正座する私に向うように体を向けて、一刻、沈黙を通してから口を開いた。
「………ホタル。お前は幼い。見聞を広めるにしろ、もう少し時を置いてからにしておけ」
「でも、お父様。私はあと一年で婚姻を結びます。結婚したら、部族をそう簡単に離れることはできないでしょう?」
正論に、お父様は目を閉じた。お父様と話すとき、たびたび静かな時間が流れる。寡黙なお父様は言葉を選んでちゃんと口にする。感情のままにお父様が強く言葉を放ったところを、私は見たことがない。
「その気持ち。軽いものではないのか」
「はい、もちろんです」
「理由は、見聞を広めるため。そうなのだな?」
「はい、もちろんです」
「結婚が嫌だから逃げだすわけではないのだな?」
「はい、もちろんです」
「なぜ目を逸らす?」
「虫が居たんです」
ちくちくと刺さる視線に体を小さく丸めていると、お父様が疲れたように息を吐いた。上目遣いにちろりとお父様の顔を窺う。凝り固まった眉間を解すように父様は指で眉間を揉んでいた。
「ルピタラの男は危険な砂漠で女を守る。それは女が子を産む部族の宝だからだ。ゆえに男は女を、命を賭して守らねばならん。ホタル、お前は部族の誇りと義務を捨てるのか」
「………」
そう言われると何も言えない私。
十を越えてから、エルリオは部族を襲う魔獣を相手に戦うようになった。それが部族の男の義務だからだ。大きな傷をこさえて戻ってきたことは数知れない。命の危機もあっただろう。それを私は泣きながら手当てしていた。この世界は、やっぱり死が近い。それがとても怖かったのだ。お父様が死ぬのも、エルリオが死ぬのも、怖かった。近しい人が死ぬことがとってもとっても怖かった。
私は戦いに出ていない。私が女だったから、それが許されていなかった。歯痒い思いをした。この部族では男が戦うことを義務とするなら、女は子を産むことが義務である。古い習慣はしかし血を守るための重大な儀式でもある。それを一概に非難することは、ここで育った人間なら無理だろう。
「………ごめんなさい、お父様。ホタルは嘘をつきました」
頭を下げる私に、お父様は叱責しない。ただぽつりと零した。
「エルリオは、悪い男ではない」
「わかっています」
「何が気に食わないのだ」
皆の前で男とえっちするのが。
言えたらどれだけ楽か……!
しかし恐ろしいカルチャーショック。ここではそれが当然なのだからそれを口にしたら「は? 何言っているのこいつ?」みたいな目で見られるのだ。何かエッチ=スポーツくらいの爽やかさに考えている節がある。お前ら、それでいいのか! 尊い恥じらいの心はどこにある! 恥じらいこそ萌え!
悩んだ。部族としての誇りは、正直そこまで高くないけど、感謝はある。家族の中で役に立ちたいという気持ち。私も何だかんだ言って、ルピタラが大好きだ。ここが居場所だと、心の底から思える。
だけど、それでも、公開エッチはちょっと……。
悩んだ末に、私は心を決めた。お父様なら私の気持ちも汲んでくれる。そう信じて、口にした。
「………お父様。私、実はまだ、あの、来ていません」
お父様が見るからにうろたえた。
そこはそれ。これはこれ、らしい。私、正直よくわかりません。
ルピタラ。なんて神秘な種族。
「そ、そうか」
「だから、もう少し時間を置きたいんです。まだお役目も果たせませんし。子供は、えっと、いつか。そう、いつか。気が向いたら生もうかなぁとか思わなくもあったりなかったりなかったり」
「ないんだな」
「ないです」
無理でしょ! 私前世は男だったからね! そう簡単に男としろと言われてもできません!
お父様はもう誇りや義務といった言葉を使わなかった。結局、それに答えなかった私はただ駄々を捏ねただけ。何も答えてはいない。それでもお父様は私に強要はしなかった。確認してわかったからなのかどうなのか。そんなお父様はやっぱり私にとって自慢の優しいお父様なのだ。
沈黙の中、お父様が諦めたように首を振る。そしてお父様にしては珍しい、ふと頬を緩めた顔を私に向けて言った。
「砂漠の砂は決して砂漠を出ようとしない。吹かれようと、いつか必ず戻ってくる。今はそれを信じよう。帰ってこい。それでいい。それだけを、約束してくれ」
「………お父様っ」
抱きつく私にお父様は不器用な手で私の頭を撫でてくれた。お婆ちゃんみたいに優しくて、だけどお父様の手つきは全てを包み込んでくれるように大きかった。ファザコンと言われ様と、お父様が大好きです! お父様のツンデレ萌!
そして旅立ちの日。なぜか目の前にエルリオがいる。
「何でいるの?」
「お前の親父さんに聞いたんだよ」
信じていたのにお父様!
腕を組んで仏頂面のエルリオ。なぜか不機嫌な様子で忙しなく指で腕を叩いている。せっかくルピタラの人たちの目を盗んで街道まで出たと言うのに。私を止めに来たのだろうか。いや、それはないか。
「聞いたんなら話は早いね。私、ここを出るから」
「何で?」
「エルリオのお嫁さんになりたくないから!」
エルリオが仰け反った。心なしか顔が青い。
「お、俺だってお前を嫁に何かしたくねぇし!」
「あ、じゃあちょうどいいね。まあたまに帰って来るつもりだからさ、エルリオも元気でやりなよ。それじゃあ」
ばいばい、と笑顔で手を振ってすり抜けると、エルリオが慌てて私の肩を掴んだ。
「待てよ! 何だよ、そんなに俺と結婚するのが嫌なのかよ!」
「うん」
「即答!? いや、俺も嫌だけどな! でもほら何かこれって嫁に逃げられた男みたいで格好悪いし! 俺お前のこと幸せにするし!」
何言っているのこいつ!?
どうでもいいけど、ざわざわと人が集まってくる。幸い、ルピタラの子供たちはこんな娯楽の少ないところに集まらないし、大人たちは仕事中だからいないだろう。だから逃亡の問題にはならない。ならないけど「あらあら若いわねぇ」みたいな周囲の目がとてつもなく痛い………!
「エルリオ、落ち着いて。落ち着いて状況を確認しよう。あとこれ見世物じゃないので散ってください!」
「お嫁さんに養ってもらうのが夢だったけど俺働いて養うから! 待ってくれホタル!」
ちょっとごめん。私限界。
あまりの事態。何このダメ亭主から逃げる妻を追うセリフ。許容量パンクして頭働きません。
何? ホントに何? 一体何? エルリオのことだから悪態ついてじゃあさよなら、だと思っていたのに。文句の一つでも言うために来たんじゃないの? ここまで真剣に止められるとは私、思っていなかった次第である。
「何でさ。何でそんなに私が居なくなるのを、嫌がるの」
「だって、それは」
振り向いて、困惑しながら聞く。エルリオの顔にかっと血が上って赤くなった。エルリオの視線はきょろきょろと彷徨い落ち着かない。周囲の視線の生温かさが増した気がするのはなぜだ。そわそわした空気に当てられて、私まで落ち着かなくなってきた。
「だって、それはお前が、お前のことが……」
ごくり、と観客一同唾を飲む音。
私の背筋もなぜか伸びる。少し体が固くなってきた。
しーんと静まり返った場で、す、す、と口を窄めていたエルリオがぎゅっと目を閉じて、叫んだ。
「だって、お前が一番胸でかいし!」
殴りましたけど何か問題ありますか?
周囲から「あーあ」というため息とかエルリオの「ち、ちが、ちがうっ……」とかそんな声も聞こえてきたけど聞こえない。ぜーんぜん聞こえない。マウントポジンションで、エルリオの顔の原型なくなるまで殴りました。「やめて、彼のヒットポイントはとっくにゼロよ!」なんて言葉は私には届きません。
そんなわけで私の旅路は過去との決別と相成ったわけである。
またつまらぬものを殴ってしまった……。