(……何だろう、この感じ……?)
急速に広がっていくベタつくような汗を感じながら、宮永咲は同卓する内の二人を見て思う。
一人はついさっき来た、薄着の黒い女性だ。彼女が店に来たとき、姉と同卓するときのような圧力を感じた。それはそれで驚いたが、しかしそれについて、咲が何かを考える余裕はあまりない。
何故なら店に足を踏み入れた瞬間から、吐き気を催すほどの醜悪な気配を感じていたからだ。そしてその発信源は間違いなく、もう一人の女性だった。
彼女はさっきまで別の卓にいたらしい。この時期には少し暑そうな感じもする、それでいておへそや膝などを存分に見せたファッションの女性だ。
昔、姉に会いに行った東京でよく見た服装である。
悶々。
(原村さん、こういう服着てくれないかな……? おっぱいはみ出るかも……じゃなくてっ!)
気分の悪さも忘れて思わず妄想してしまったその姿を振り払う。いや振り払わない。しっかり頭の隅に保存しておく。
それはともかく、
(……気持ち悪い。空気がドロドロしてる気がする……)
東一局 0本場
ドラ中
東家:おっさん
南家:宮永咲
西家:藤田靖子
北家:大中直子
十一巡目、気分の悪さとは裏腹に、欲しい牌が綺麗に集まっていた。
手牌
①②③④⑤⑥⑥⑦⑧⑨北北北西
「リーチ」
打西。
(聴牌。さっきから感じるコレ……気のせいならいいんだけど……)
麻雀が始まっても、彼女からの嫌な感じは止まらなかった。むしろ酷くなっているようにも思う。
(お姉ちゃんの感じとも違う……。肌にざらつくこの空気、まるで――)
次巡、北をツモる。
「カン」
(まるで首筋に刃物でも突きつけられてるみたいだ……)
「ツモ」
①②③④⑤⑥⑥⑦⑧⑨ ツモ⑥ カン■北北■
「……4000・8000です」
あっさりと倍満をアガって尚、その感覚が消えることはなかった。
(この女……何を笑っている?)
点棒を出しながら、藤田は下家に座る直子を見る。
良いもの見たな、とでも言うかのように、直子は薄く笑みを湛えていた。
(久の頼みで来てみたが、随分ノーレートらしくない客がいたものだな)
まこの反応からして何度か来ているようだが、藤田とは初対面だった。
一目見てなんとなく、分かった。
(……まだ若く見えるがこいつ――)
この女はここにいてはいけない、と。
(相当壊れた人生送ってるな……)
職業上、色々な雀荘に出入りしている。昔と違って競技人口が多いのでゲストなどの仕事も少なく、無名時代は柄の悪い場所でも依頼があれば行くしかなかった。
直子には、そんな掃き溜めのような雀荘で会った人達とどこか似た雰囲気があった。
先はなく、未来もない。別の道を歩んでいった者達を羨み、妬み、それでも自分の生き方を変えない愚かな輩。
(…………)
博打の泥沼に飲み込まれた人間の果てを思い出しながら、藤田は牌を取った。
東ニ局 0本場
ドラ⑤
東家:宮永咲 41000点
南家:藤田靖子 21000点
西家:大中直子 21000点
北家:おっさん 17000点
咲
一三四五七九③③⑥4445
藤田
三六九九②⑤⑦⑦23東東西
直子
ニ五八④⑦⑨1599西西西
おっさん
一一四七八②③④東南北白中
配牌は悪い。点差も広い。だが今の藤田には、そんなことどうでもよかった。
(この半荘、勝つのはこの女だ……)
直子を盗み見ながら、藤田は目を細めてそんなことを思う。
この類いの人間は、人前で自分の負ける姿を見せるのを極端なまでに嫌う。たとえノーレートといえど、最悪イカサマしてでも勝利をもぎ取りに来るだろう。
(まともにぶつかるだけ時間の無駄だ。まこも嫌な客が常連になったな)
後で忠告だけはしておくかと、そんなことを思いながら、とりあえず②を切る。
そしてそれは、七巡目に起きた。
咲
一③北九南五⑥
藤田
②3北六六三
直子
1八⑦⑨北ニ
おっさん
南四北中中⑥
九九⑤⑤⑦⑦2東東白白西發 ツモ2
(西も發も初牌か。聴牌だが、リーチをかけても微妙だな)
ダマで6400点。まだ東二局なら、それで十分だろう。
(西……鳴くか?)
直子を軽く見てから西を切った。
その時、
「カン」
予想通り直子から、しかし予想外の宣言がかかった。
(……カン……っ!?)
直子の晒した西が、乱暴に卓の端に叩きつけられる。
パァン! と、耳に障る派手な音が卓上に響き、その音に藤田は反射的に目を瞑った。
それは見ようによっては、目の前で何かが閃光り、それに対して目を瞑ったようにも見えたかもしれない。
(まさか、こいつっ!?)
「宮永さん、カンドラめくって」
「……あ、はい」
反応の遅かった咲が新ドラを表示させた。
めくられた牌は何かの冗談のように、南。
(この娘と張り合っているのかっ!?)
「ツモ」
『!?』
ドラ⑤・西
三四五④⑤⑥5999 ツモ5 カン西西西西(↑)
「惜しいな。3000・6000」
「嶺上……開花っ!?」
ありえないものを見たかのように咲が呟く。
「フフフ。嶺上に花を咲かすのは、お前だけじゃないよ」
艶然と微笑んで、直子は静かにそう言った。
(ううぅ、私の嶺上牌~)
二三四五六七②③④4445
ツモられた5を、咲は涙目で見つめていた。
流れだ勢いだという話をするならば、どう考えてもソレは、前局に倍満をアガった咲にあった。
その考えで話を進めると、この局は咲以外、聴牌は出来てもアガれないという状況になるはずなのだ。アガリ牌は誰かが抱えているか、山の深くに眠っているか、あるいは見えたとしても、それは咲のツモ宣言牌ということになる。
こういう場合に、流れ論に傾倒している人間が行うのは、とりあえず鳴いてツモ巡をずらすことである。ついでにその好調者のツモを、自分のツモにすることが出来れば言うことはない。
しかし、この場合それはあまり意味はない。
咲のツモ巡をずらしても、彼女はカンで有効牌を持ってくることが出来るのだ。そして今好調者の彼女なら、配牌で暗刻の一つや二つあってもおかしくはない。カンが間に合えば即座に嶺上開花が来るだろう。
どうしようもないように思えるが、付け入る隙はある。
前述の通り、咲以外の聴牌は、たとえアガリ牌が生きてても咲にツモられてしまう。そしてそのツモる牌は、嶺上牌。
つまり自分のアガリ牌も嶺上牌にあるのだ。アガリ牌ということは、張っていない状態でも有効牌である場合が多い。
ならば咲より速くカンをすればいい。咲が行うのはほとんどがアンカン。張っていればダイミンカンもするだろうが、張っていなければポンしてからのミンカンである。こちらがダイミンカンで対抗すれば、勝機十分にあるのだ。
こじつけの説明が続いたが、要するにこういうことだ。
『カンは流れを変える!』
そして咲に新ドラはほぼ乗らないことを、直子は知っている。
カンで自らの首を絞める可能性は、限りなく少ないのだ。
「――ツモ、1000オールは1100オール」
東四局 1本場終了
東家:直子 50600点
南家:おっさん 8000点
西家:宮永 30000点
北家:藤田 11400点
(……何だ、このアガリはっ!?)
ドラニ
捨て牌
346719⑦⑤發白
手牌
一ニ三八八①②③④⑤西西西 ツモ⑥
いきなり3467を手出しで切っていた。他家の手など読めない状態でこの形を捨てるのは、明らかに不自然だった。
まるで牌山に何があるかを、全て見通しているかのようである。
偶然と言えばそれまでだが、何の迷いもなくこんな打ち方をしているのを見ると、嫌でも一人の少女を思い出してしまう。
――天江衣。
直子の理不尽なアガリの連続は、感覚に任せた打ち方をする彼女に通じるものがあった。
(イカサマはしていないはずだ。一応気を付けてはいた)
藤田は自分の認識が甘かったことを悟った。
この女は敗北する姿を見せたくないのではなく、単純に負けるのが嫌なのだ。そしてイカサマも、彼女にとっては敗北と同義なのだろう。
(単なる人生の敗北者じゃない……)
博打打ちとしては損な性格だろうが、だからこそ、ともすれば本当に博打で生きていけそうな、そんなプレッシャーを直子から感じた。
(この態勢では、逆転はキツいか……?)
まくりの女王といっても、逆転可能な点差でなければ話にならないのだ。場所的に山越しも狙い易いので、無理というほどの点差ではないが、決して簡単ではない。
それに問題は点差じゃない。 連続とはいえ、高々四回程度の安手を含めたアガリだが、藤田には分かっていた。さっきまで思っていたのとは別の意味で、自分は勝てないと。
それはもう、配牌を見ればよく分かる。
ニ五九①⑤⑧369東西北白
十三不塔聴牌である。こんな配牌を貰っているようでは、この半荘は無理だろう。
(戦えそうなのは、この娘くらいか……)
上家に座る咲に目を向けて、藤田はそんなことを考える。
(というより、この女は最初からこの娘を意識してる感じがするな)
さっきのアガリ形にしても、役なしの癖にやけに捨て牌を気にしていた。おそらく西のダイミンカンから嶺上開花を狙っていたのだろう。
(……ん?)
違和感。
(嶺上開花を狙っていた……? 何故だ?)
あんなもの普通狙うものじゃない。
東一局に嶺上開花をアガった咲は、それからずっと大人しくしている。
大人しく、カンもしていない。
(まさかあの嶺上、偶然ではないと思っているのか?)
四枚目が他家から出れば、嶺上牌を潰せる。つまり直子は、咲が確実に嶺上開花をアガると思っているということだ。
(そしてその嶺上牌は自分の当たり牌とも確信している……)
自分の欲しい牌が好調者に流れてしまうことはよくあることだ。それを頑なに信じている打ち手もいる。
そして少なくとも今は、彼女が信じる通りに動いている。
(……このまま負けるわけにはいかない。目的は変わった。今はお前のオカルト理論だけでも……潰す!)
選んだ第一打は、五。
(……久の頼みを無視することになるが、まあ一回くらいはいいだろう)
十巡目
ドラ6
直子
捨て牌:⑨西西①西九九北6七
手牌 :二二四五六①②③④⑤⑥67
おっさん
捨て牌:八八三四五⑦⑦七八白
手牌 :123345679南南中中
咲
捨て牌:南④③②⑥2474⑦
手牌 :三三⑨⑨⑨888東東東發發
藤田
捨て牌:五六⑤③二二36⑧
手牌 :一九九①19東西北北白發中 ツモ南
(張ったが、これはどうなんだ?)
対面のおっさんが思い切り索子の染め手気配。直子はおそらく6切りで聴牌で、咲も今の手出し⑦で聴牌気配。
直子が西を三枚切っているのが気になった。
(三枚目はツモ切りだが、最初の二枚は対子落としだったな。嶺上狙いは止めたのか? さっきのアガリで、流れはもう自分に来たと?)
どちらにしても、さっきまでの直子の打ち方でこの局も進んでいるとしたら、不調者である藤田はこの国士をアガれない。誰かが⑨を抱えているということだ。そして同じように不調者のおっさんも、これ以上手は進まないはずだ。
(なら、ここで私がこれを切れば――)
打南。
「っ!?」
「ポン」
今度こそ思った通りの宣言がなされた。
そしてその瞬間、本当にその後の一瞬だけ、直子がこちらを睨み付けた。
(流れは変わる。お前はそう考えているのだろう?)
その視線を無視して、藤田は目を細める。
確かに、運に左右されるゲームにおいて、流れや勢いといったものを意識してしまうことはある。博打打ちはそこで勘違いする。
普通に考えて、前局誰がアガってようと、それによって次にツモる牌が変わるわけがないのだ。
日によってうまくいかないことは確かにある。負けが込むこともあるだろう。だが、それがゲームとしての面白さなのだ。
全ての半荘を勝とうとしている直子には、どこまでいっても破滅しかない。
咲がツモる。
本来直子がツモるはずだった牌を。
(見ろ。お前の理論はここで破綻す――)
「カン」
(る――っ!?)
手牌から8を三枚、そしてツモった8を晒して、咲は言った。
そして、
(な……にっ!?)
「ツモ」
三三⑨⑨⑨東東東發發 ツモ發 カン■88■
「8200・16200……です」
「あの二流プロ、マジでありえないっ!!」
帰宅中、直子はずっと不機嫌な表情をしていた。
合宿が終わって覚醒した咲には勝てそうもなかったし、大将は加治木に譲るつもりだったので、今のうちに軽くひねって優越感に浸ろうと思ったのだが、予想外な奴に邪魔をされてしまった。
あの南は四枚目である。状況的に国士を張っていたとしか思えない。
「何で崩すんだよもうっ!」
「まあまあ、七対子だったかもしれないし」
珍しく声を荒げている直子に苦笑しながら、睦月が諫めるように言った。
いつもの胡散臭い笑みのない直子は、拗ねたり頬を膨らませたりと、いちいち動作が幼く見える。
そんな微笑ましい姿を見ると、偶に感じる妙に不気味な雰囲気は気のせいなんだと思えた。
「……ふん。まあいいよ、いいですよ。ゆみには悪いけど、こうなったら大将戦出てリベンジしてやる」
「え?」
「なんでもないよ。それで、原村和はどうだった?」
面倒な話になりそうなので適当に誤魔化しつつ、直子はそう聞いた。
すっかり忘れていたが、今日の目的は睦月の強化である。
「いや、駄目だったよ。後半は手も入らなくて、勝負にもならなかった。直子に勝ったときはなんか掴んだ気がしたんだけどな」
あははと乾いた笑いをしながら、睦月は答えた。
「ふん? たとえばどんなの?」
「いや、結局気のせいだったわけだし」
「教えて?」
「いや」
「教えて」
「……えーと」
「教えろ」
「…………」
私が年上なんだけどなぁと思いながら、睦月はため息を吐いた。
「いいけど、笑うなよ?」
「笑わんよ」
「まず一つ。『見逃された奴はツく!』 」
「…………何?」
反応遅く、直子が驚いた表情をして聞き返した。
「いや、何度か高目狙って見逃ししたんだけど、その後大物手に振ることが多くてさ」
「……ふーん。他には」
「あー、食い流された場所はもう引けない……かな?」
「……死にメンツ」
「そう、それ」
「……フフッ」
それを聴いて、直子が薄く笑った。
「あ、こら笑うな」
「いや、感心した」
「へ?」
「なるほどねぇ。よく分かった。いや、さっぱり分からないけど」
「???」
うんうんと頷いて、何やら納得(?)している直子に、睦月は戸惑うしかなかった。