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睦月にとっては嵐のような、そして悪夢の時間がようやく終わりを迎えた。
「ありがとうございました」
「お疲れだじぇ」
「お疲れさん」
三校の挨拶を意識の遠くに聞きながら、睦月は俯いたまま固く拳を握りしめていた。
(──く、そ……っ!)
実感はあった。
昨日までの不調は確かに抜け出せていたし、開始前の直子の言葉で全ての恐怖は払拭出来ていた。
だが──、
「……ありがとう、ございました……」
51200点。
大敗というのも生ぬるい、最悪の結果である。直子から受けたぬくもりも、優位時に抱いていた全能感も今はない。
ただ往生際悪く席に着いたまま、空調設備の整ったこの部屋ではまずあり得ない“寒気”を感じながら、心を凍てつかせているだけだった。
とその時、
「──ほい」
「……む?」
目の前で陰鬱な表情で沈む睦月を見かねて、純が遠慮がちに彼女の頭を小突く。
「いや、そんなに落ち込まれたら、こっちとしても何か悪い気になるじゃねーかよ」
「…………」
ポリポリと頬を掻いて、純は困ったように苦笑しながらそんな風に声をかけた。本来ならこういう場面、敗者はそっとしておくのが吉なのだろうが、休憩時間一杯に情緒的な睦月を見ていたせいか、何となく後ろ髪を引かれる思いだったのだろう。
「……むぅ」
清澄も風越も対局が終わったらとっとと出ていってしまった。いや、風越の人はチラチラとこちらに視線を送っていたようだが、結局特に何を言うわけでもなかった。
(……なるほど──)
彼女らの様子を思い返すに、少し居心地の悪い思いをさせていたのかもしれない。
(…………)
確かにここでいつまでも凹んでいては、当て付けと思われても仕方がない。とっとと自校の控え室にでも帰れば、いくらでも仲間の元で泣けるのだから。
──いや、
「……帰れないんです……」
それを分かった上でなお、蚊の鳴くような声で睦月は言った。
「ん?」
「みんなの──直子のいるところには、もう帰れません……」
多分誰も怒りはしないだろうが、だからといって平気な顔で部屋に戻れるほど図太くはない。
「…………」
純は鶴賀の麻雀部内のチームワークがどのようなものかは知らない。故に、大量失点を犯した部員にどのような態度を取る連中なのかも分からない。
流石にこんな序盤から部内の雰囲気を悪くする待遇は与えないと思うが──、
例えば、透華を数段改悪した感じの、我が儘で目立ちたがりのナルシスト、それでいて変に実力もある暴君のような部員が内部にいるのなら、今はまだ仲間の元に帰りにくいというのはあるかもしれない。
(……まぁ、別に俺には関係ないんだが──)
関係ないのだが、何だろう。仔犬属性とでもいうのか、この少女、こうして見てるとつい何かと構いたくなるオーラを出している。
身内以外には大概薄情な純がそんな気になるのだからよっぽどである。よっぽどの構ってちゃんである。
あるいは──、
「……すみません、何か愚痴っちゃって」
不意に顔を上げると、睦月ははにかんだようにそう言って純に軽く頭を下げた。
「……ん。いや、いんじゃね?」
「はは、やっぱり私、まだまだだね。みんな強いよ──」
シュンとした雰囲気は薄れていないが、それでも形だけの笑顔だけは作って、睦月はゆったりと立ち上がる。次鋒メンバーに鉢合わせたくないなら、そろそろ移動しなければならない。
正直、睦月は今部員の誰とも会いたくなかった。
「……じゃあ、失礼します」
「おう、お疲れさん──楽しかったぜ」
ペコリと頭を下げた睦月に手を挙げて応えて、純は部屋を出ていこうとする彼女を見送る。
実を言えば彼女とはもうちょっと話していたかったが、初対面から距離感を考えない女と思われるのは気に入らない。
────
(……ふん?)
まるでこれからも彼女と交流があるかのような自分の思考に戸惑いながら、純は誤魔化すように肩をすくめて苦笑した。
(──さて)
「……直子、ねぇ」
睦月が出ていったのを確認し、一人残された対局室で、純は懐疑的な声音でその名前を呟く。
大中直子。
睦月が全幅の信頼を置く、鶴賀の大将。
確かに昨日の対局でも他と比べて圧倒的ではあったが、それでも純からすれば衣を越えるほどとは感じなかった。故に龍門渕の勝利は揺らがないにしても──衣はそれで満足だろうか?
最近の衣は、以前にも増して麻雀を惰性的に打っている気がする。他人の感情の機微には疎い部類の純ですらそう感じているのだから、おそらく透華たちも何かしら感じているはずだ。
それでも何かする気配がないというのは、つまり現状、何も打つ手がないということなのだろう。
(ってことは、もう他所の人間にどうにかしてもらうしかないわけだが……)
例えばこの先鋒戦、僅かにトップには届かなかったが、純にとっては満足の結果だった。これが大将戦や個人戦のような、そのまま勝敗が決まる試合だったとしても、今と同じ気持ちであると断言出来る。
悔しくはあっても納得出来る『勝負』であった、と。
要するに、衣にはそういった体験が無さすぎるのだ。彼女にとって勝利とは予定調和のようなもので、その結果にも内容にも、別段思い入れることがないのだ。
勝利に執着し、敗北への焦燥に駆られるような瀬戸際の『勝負』──純が直子に、そして清澄の大将に求めるのは、衣にそれを味わった先にある、勝利の達成感を感じさせることだった。
「……まぁ、期待だけはしといてやるか」
らしくなく思考に没頭したことを自嘲気味に嘆息して、純も対局室を後にした。
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「あら? 来るとき私ら、あいつと擦れ違ったっけ?」
蒲原と共に対局室前まで妹尾を見送りに来た直子は、そこで睦月の姿が見えないことに首を傾げた。
「いやー? 見なかったな」
「入れ違いになっちゃったんでしょうか……?」
「控え室まではほぼ一本道だし、そんな訳ないでしょう」
さては逃げやがったなと嘆息しつつ、ポケットから最近調達した携帯電話を取り出して彼女の番号を呼び出す。
──が、
『只今電話に出ることが出来ません──』
「まぁまぁ、いい度胸だこと。私に対してこの態度、見つけたらどうしてくれようかしら」
「ワハハ。怖いなー」
「睦月さん──うぅ、直子さん? あんまり彼女に意地悪しないであげてください」
握り締められてビキビキと音を立てる携帯にビビる蒲原だったが、妹尾の方は悩ましげに唸りながらそんなことを言い出した。
「今の睦月さん、冗談でもあなたに冷たくされたら自殺しちゃうかも……」
「かもね。何でまぁ私にそんな懐いてんだか……あ、いや」
「…………」
冗談混じりに鼻を鳴らして言った直子の言葉に、妹尾はムッと膨れた表情で彼女を見つめた。睨むというには彼女には迫力が足りなすぎるので、『見つめた』である。
それでも直子は、それこそ「あんまり意地悪しないでよ」とでも言うように、弱ったような表情でヒラヒラと手を振った。
「分かってるよ、もう。……優しくしたらしたでまた怒る癖に、調子いいぜ」
「あぅ、ご、ごめんなさい……」
ブツブツと不満そうに文句を垂れる直子に、恐縮したように妹尾が身体を竦める。
「さてまぁ、そっちのことはともかくだ──」
しかし、直子の不満はそれだけで済み、切り換えるように話が変わった。気に入らなければ数十分はゴネる彼女がこの程度で退いたのは、相手が妹尾だからだろう。
「佳織ちゃんがこのまま負けたらどのような末路を辿るかの話をしようか」
「末路っ!?」
「ワハハ」
(前から思ってたけど……)
話している二人を見て、ぼんやりと蒲原は思った。
(直子、何だかんだ言って可愛い娘には優しいよなー)
これである。
言うことは過激なことが多く、やることも強引なことが多いが、意外と直子は妹尾や桃子には甘い。今の注意をしたのが例えば加治木だったら、言われたことに頷きはしても、とりあえず鼻で笑って、どこか挑発めいた態度をとっているだろう。
──いや、別に加治木が可愛くないと言っているわけではないが。
(……うーむ、果たしてこれはむっきーにとって朗報なのかどうか……分からんなー)
睦月も睦月で可愛い女の子だが、妹尾や桃子とはちょっとジャンルが違うだろう。二人も別に同じ方向性ではないが、共通点はあるのだ。
胸の大きさとか。
(むっきーは贔屓しても標準だからなぁ……)
「おい部長、何か言ったれ」
「ワハッ!?」
考え込んでた時に急に話を振られ、蒲原はハッと顔を上げた。
「……あ、あー、うん、かおりん? どうせ負けてるし、無理に状況を良くしようとか思わなくていいぞー?」
「智美ちゃん……」
ありきたりな言葉だが軽く発破を掛ける。妹尾に対しては、余計な気を回したり遣ったりするよりも、とりあえず本心で話すのが一番であることを蒲原はよく知っていた。
「さっきも言ったけど、殆ど記念出場みたいなもんだったからな。変に気負って打ってもつまんないだろうし、普通に楽しんで欲しいなー」
というより、そういった腹芸の出来ない蒲原だからこそ、最後の一線で妹尾は彼女を頼るようになったと言える。
『──次鋒戦開始五分前です。代表選手は対局室へ──』
「智美ちゃん──うんっ!」
いずれにせよ、雰囲気と凄みでとりあえずその場しのぎをすることしか考えない直子には遠い信頼関係である。
(…………)
「ワハハ、頑張ってなー──?」
安心したように微笑んで対局室へと入って行った妹尾を見送ってから、蒲原は自分をジーッと、興味深そうに見つめている直子に気付いた。
「んー、どうしたー?」
「……思ったんだけど、お前って結構、ここぞという時に格好いいな」
「そう思うならお前とか呼ばないで欲しいな」
「日常的に格好いいゆみちゃんと対照的だな。いいコンビね」
「ワハハ、聞けよ」
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東家 風越 :113000点
南家 龍門渕:112400点
西家 清澄 :123400点
北家 鶴賀 : 51200点
「よろしくー」
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
「……よろしく」
次鋒戦、開始
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(……ああ、もう次鋒戦が始まるか……)
再び騒がしくなってきた会場内の雰囲気に、しかし睦月はつまらなそうに鼻を鳴らして仮眠室の隅に座り込んでいた。
何かもう全身で表現した、シュン、って感じの体勢である。
(……あー、もう……)
「──くそ……っ」
もう何度目になるのか分からない、無意味な毒づき。未だに睦月は自分が負けたことを受け入れられなかった。
勝負を左右した南一局、睦月の配牌はこうだった。
四⑤⑦⑨113456南白白
この手牌対して、一巡目に南引きである。
こんなもの、まず間違いなく染めに向かう。
九萬切り。その後に四萬や五筒の直近を引ければ和了優先の打牌にもなっただろうが、持って来たのは二索──。
あの最終形まで、迷うことなどあるはずがない。
つまり、清澄の四暗刻単騎に振ったのもほぼ必然だったということだ。その後の展開についてなど、さらに言うまでもない。
「────っ」
納得出来ない。配牌もいい、ツモもいい、欲しい牌は鳴ける──だが勝てない。
今日勝てないのなら、もう自分に勝てる日など来るはずがないではないか。今日が重要だっだのだ。加治木や直子の見ている今日勝たないで、一体いつ勝てというのだ。
「……う、うぅ──っ!」
嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えながら、睦月は一人、その部屋で涙を流し続けていた。
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