悪いこととは重なるものである。
そしてそれは、重なるほどにより強く心を穿つ。
結局たった12時間程度しか離れていなかった修行場の一室で、道哉は目を覚ました。
降り注ぐ木漏れ日、穏やかな小鳥の鳴き声。
今日も世界は人の意思など気にせず回る。
粗末なベッドに横たわる道哉。
現状を把握し、周囲に誰も存在していないことを理解していながらも、彼はとっさに額に手をやった。
力の入らぬ手の甲で目元を隠す。涙は出ない。いや、出してはいけない。
それをしたら己は崩れる。
避けられぬ別離を惜しむのも良い。力の無さを嘆くのも構わない。
だが戻らぬ者に追いすがり、彼を求めて泣いてしまったら、きっと自分はこの道を踏み外す。
そうしたらどうなるだろう。
今は亡き幻影にすがって生きるのか。それともあの吸血鬼を全力で殺しに行き、無様に殺し返されるのだろうか。
奥歯を噛みしめる。まばたきを止める。手のひらに爪を立て、喉元までせりあがった叫びを封殺した。
耐えきれぬ事柄に涙することが許される者は幸いだ。傍らに人がいるのだろう。
涙した後に立ち上がれるものは幸いだ。それは、そもそも心など折れてはいない証拠。
幼いころから知識を憎んだ、一族に疎まれた、炎を妬んだ。
流れのままに大切な者たちと別れ、たった一人になった自分。
何の支えもなく、己の力のみでここまでたどり着いた自分にとって、一度の挫折は己を殺して余りある。
そこに、自らの決意を穢してなお止まらない浸食を予感する。
あの時~していれば。
あの場面で~という状況だったなら。
弱った心のままに、彼は無意味な仮定を繰り返す。
不毛であると理解していても止められない思考が空回り。いや、俺の今までの行動が全て空回りなのではないか。
運命にとらわれた。
弱さを突き付けられた。
約束を思い出し、同類を見つけた。
そうして最後に残ったのは『奴から命からがら逃げ出した』という事実。
最近、自分で自分を追いつめることが多くなった気がする。原作にある事象を回避、または踏破できなかっただけで傷つく心。
怖い。
全力を尽くしても救えないかもしれない人々。
注意していてもわずかな隙に付け込まれる者。
無視していても付きつけられるであろう事実。
最初は、自分自身の存在を肯定するためだった。運命の操り人形を拒絶する、そのためだけに力を磨いた。
今は、彼らの為だ。
和麻。原作になかった位置にいる彼は、それゆえに運命から嫌われて命を落とすのではないか。
煉。この世界でも初めて愛した人を亡くし、その慟哭が力の呼び水になるのだろうか。
操。兄が死に悲しみに暮れ、憎しみをもって多数の人を死に追いやり消えぬ罪を背負うのだろうか。
大切な人。
彼らの行く末を予期してなお何もできずに見守るしかない、そんな絶望は御免こうむる。
「無力。泣きそうだよ、ホント」
軽口で自己が特定の感情に塗りつぶされるのを防ぐ。
そうして体を起こすと、軽い違和感。
いたる所が傷ついていたはずの体が完治している。
奴に付けられた傷はともかくとして、自らの気によってついた傷は体がそれに対して鈍感になる。
自然治癒力を高めたり、生命力や一定のエネルギーを与える治療では完治まで時間がかかるはずなのに。
実際、神凪を出てしばらくは体を動かすたびに微妙な鈍痛が走ったものだ。
「気がついたか」
師の声で我に帰った。
神出鬼没。
仙人の行動は常人には知覚できないことが多い。相変わらず心臓に悪い。
「流石ですね。あの傷は簡単には治せるものじゃないでしょうに」
道哉は自身の爪によって滲んだ血を拭いながら、かすかな溜息をついた。
最近ため息も多くなった。不幸を呼ぶのだろうか。そんな言い伝えを思い出す。
「我が術ではない」
益体もない思考を弄んでいた道哉は、その言葉に不意を突かれた。
「昔、命を救ってやった者からとり急いで霊薬を入手した。治癒の効きにくい自滅の傷に加えて全身が妖気に侵されておったのでな。間に合ったのが奇跡と思え」
道士の口から出た思わぬ言葉に、道哉は呆れたような笑みを浮かべた。
「エリクサー、ですか。あなたなら簡単に作れると思っていましたよ」
「馬鹿を言え、わしが作ったら汝はとっくの昔に死ぬか水銀中毒になっておる。ふん、未熟なものよ」
西洋の錬金術に近い術。どちらがどちらを取り込んだのか、それとも関係などないのかは不明だが修行を積んだ仙人にもエリクサーは精製可能だ。
それでも容易には精製できない別格ともいえる霊薬。
手を加えれば不老不死の薬にもなり得るとされるそれに手を伸ばし、不完全がゆえに水銀中毒で命を落としてきた歴代の中国皇帝たち。
「あなたが作れないなら、現代には作り手が存在していなさそうですね」
全身で意外だ、と表現している道哉に道士はどこか不機嫌そうに返答した。
「世界は広い。わしを上回るものがどこにいるかわかったものではないぞ」
そうやって道士は己を戒める。
こういった所も見習わなければな、と道哉は自身のはるか遠くに位置する背中を見た。
「さて、回復したばかりで悪いが次の仕事だ」
その言葉に道哉は片眉を上げることで答えた。
おかしい。このような頻度で道哉が動くほどの事件が起こるほど、ここは開放的な場所ではない。
「そうだな。だが今回はわしに直接的な関係のない話だ」
どこか道化を感じさせる口調で彼が笑う。
「では、なぜそのようなことに手を出すのですか?」
今までにない『道士』の態度に不信さを隠そうともせずに道哉が問う。
しかし実際はそのような顔を見せていても、内心ではこの事態を歓迎していた。
今という時で過去を一時的にでも忘れてしまいたい。時間は優しくて残酷だ、そう前世からの知識がささやいた。
___今だけ、今だけは起こってしまったことから目を逸らすのを許してほしい。
眼を閉じ、年の離れた親友に心の中で頭を下げる。
次にその眼を開いたとき、彼の思考は戦闘用に切り替わっていた。
「エリクサーだ。無理を言って譲り受けたのでな」
「なるほど、命の恩人へ直接恩返しに行けということですね」
道哉は返された言葉に納得の表情を見せるが、対する道士は首を横に振った。
「少し前から依頼は来ていた。だが我らは己の高みを目指すもの。どのような対価であっても関わる気はない、と断った」
以前に依頼者の命を救ったというのも成り行きだったのだろう。
当然のことだという態度を崩さない道士に、日ごろの言動を加味して当時の状況を予測していた道哉は「だが」と続けられた言葉で我に帰った。
「汝はそこに当てはまらぬ。エリクサーを求めなければならない理由も出来た」
これは既に結ばれてしまった契約なのだ。その言葉に道哉は静かに頷いた。
『道士』にまで声がかかるほどの事件と己の命。主観的な天秤は水平を指した。
文句など有るはずもない。
「依頼内容はどのようなものでしょうか」
期間は長い方がいい。
今回ばかりは冷却期間が必要だと、弱りきった意識が悲鳴を上げる。
「ある者の護衛だ。本来ならば定期的に護りの術をかけてほしいというものだったのだがな」
依頼内容を説明しながら、道士はどこか遠くを見るような眼で道哉を見る。
瀕死の重傷を負った道哉を転移させてきた符より感じられた命の残滓。
濃厚な血の匂いのする妖気に、先ほどまでの道哉の様子。
帰還時に絞り出した「生き残りは0です。なすすべもなく敗北しました」との言葉。
それらから推測した出来事を一切会話に出すことなく、道士は事務的に話す。
長い時を過ごし、ある程度感情を読める彼にとって、それでも消えることのない道哉の奥底に灯る炎は興味の対象だった。
これから道哉が向かうであろう場所に式を放ち、依頼人の周囲に妙な気配が漂うことを知りながらも、彼は道哉にそれを伝えることはしない。
手助けなどせず、求められるままにそれなりの力を与え、興味のまま傍観に徹する。
彼の感じている多少の執着を除けば、まさしく自由気ままな仙人といえるだろう。
「護衛……ですか」
先の吸血鬼事件に至るまで、自分すら明確な意志のもとに守ったことがない道哉にとって未知の行為。
闘争の中でひたすら前へのみ進まんとしてきた弊害がそこにあった。
それでも、やらなければならない。
「わかりました。命をかけて依頼を果たしましょう」
命には命で返さなければならない。
本気でそう思っているわけではないが、恩知らずにはなりたくないな、と道哉は思った。
心は決まり、あとは向かうだけ。
今までになく調子のいい体で立ち上がり、少ない荷物を手に取りながら道哉は最後の質問をした。
「それで、どこに向かえばいいのでしょうか」
あくまで生き急がんとする青年に苦笑をにじませながら、老人は口を開いた。
___香港へ行け。そこの引退した顔役が依頼人だ。
点はつながり線となり、抗えぬ道筋を定める。
道哉の心を置き去りにして、物語は静かに加速してゆく。