道哉が去った夜の公園。
そのベンチに二人の男女が腰をおろしていた。
一人は神凪最強の男。
もう一人は神凪時期宗主。
いかつい中年と可憐な女子高生という組み合わせは、その外見からも職務質問を受けそうな程に違和感がある。
しかし、彼らにとって互いが気まずい間柄と言うわけではない。
むしろ炎術の修練においてある程度『まとも』な相手として成り立つ人物が少ないため、実戦形式の場ではよく炎をぶつけ合い、闘い方について議論を交わしていた。
綾乃にとって大神雅人が『気安いおじさん』ならば、厳馬は『尊敬すべき年長者』とでも言うべきか。
先ほど「帰るぞ」と綾乃に言った厳馬だったが、ふらついたところを綾乃に支えられるという失態を犯し一時の休憩をとることになっていた。
夜11時をまわり、周囲に静寂が満ちても遠くに見える街の明かりは美しかった。
うつむいて表情が見えない綾乃と対照的に、厳馬は深く椅子に腰かけてその光を眺めていた。
長時間続く沈黙。
それでも、二人にとってそれは苦痛ではなかった。
「綾乃」
ためらうように、厳馬が切り出した。
「……はい」
「道哉も、お前も、あの日からまるで変わっていない」
彼は冷徹に断言する。
それは道哉に負けた彼が言うべき台詞ではなかったのかもしれない。
それとも、負けたからこそ出る言葉だったのだろうか。
「だが道哉は一歩進んだ。お前は進めなかった。それだけの違いだ」
その言葉は綾乃を叱責するような内容ではあったが、彼女はそれに傷つくわけでもなくむしろ笑みすらこぼした。
厳馬に似合わないその声の柔らかさに、彼女に向けたもの以外の感情を感じ取る。
「親馬鹿ですね、おじさま」
「……何を馬鹿な」
クスクスと笑いだした綾乃に、厳馬が憮然とした表情で反論する。
一通り笑い終わって顔を上げた彼女は、先ほどよりかは幾分かマシな表情をしていた。
「やっぱり、道哉さんとあの日の決着をつけないと……私は前に進めない」
今にも泣きそうな顔でそう言う綾乃に、厳馬は何も言わなかった。
究極的に言えばこれは綾乃の自己満足である。
だからこそ、他者が介在する余地は無いと考えたのだろう。
「帰るぞ、綾乃」
「はい、厳馬叔父様」
迎えの人影を認め、彼らは立ち上がる。
もてあましていた感情を自覚し、決意を新たにした綾乃。
息子の成長を認めた厳馬。
激動の事件。そのなかにおいて、彼らの胸中には穏やかな風が吹いたのだった。
東の空が青い。もう半刻もすれば太陽が顔を出すだろう。
封印の地京都。
その山奥、木々という遮蔽物の少ない場所で二人の男が陣取っている。
「来る」
「わかるのか」
風の精霊と同調しているのだろう、どこか茫洋とした目をした流也が緊張に満ちた声を上げた。
気配を察知するのが苦手な炎術師たる和麻にはわからないが、その声は確信に満ちている。
煙草の煙をくゆらせながら、和麻は半分地面に埋まっている岩から立ち上がった。
ズボンのすそを両手で払うとゴキリッと首の骨を鳴らす。
「妹の気配だ。死んでも忘れないよ」
その言葉に何を思うのか、和麻は何も言うことなくゆっくりと気を高ぶらせていく。
「狙いは俺だろう。流也、お前は逃げろ」
「何故!あれほどの風術師が不意打ちを仕掛けたら炎術師に防げる道理はない!」
わざと神凪を単身で離れ封印の地に向かい、狙ってきた妖魔を仕留める。
そんな命知らずな計画を立てた友の決意に共感したからこそ自分はここにいるというのに。
自分の命をかけてサポートする気でいた流也は和麻の言葉に色を失う。
「あいつにとって俺は格下だ。不意打ちなんてあり得ない」
妖魔はときにずる賢い。
それは弱いからであり、退魔の者を退けて人間を食らうことにすら難儀し、正面から力持つ人間に挑むことができないからである。
人間の絶望を至上の喜び、餌とするものが多いということも確かではあるが、あれは違うと断言してもいい。
あれほどの存在規模を維持するためには、たかが数人の負の感情程度では何の足しにもならないからである。
さらに言えば、格上に妖魔になればなるほど賢くはあっても不意打ち等を純粋に勝利のために使用することは少なくなっていく。
そもそもの力として上級妖魔が人間に負けることなどあり得ないからだ。
そして、和麻には奇妙な確信があった。
あの妖魔は真正面から自分を打ち砕くために自分の元を訪れると。
その根拠のない自信に、流也はため息をひとつ吐くと目を合わせ言った。
「僕のサポートはいらないんだね?」
「そうだ」
「僕を守りきることができないって?」
「そうだ」
「僕がいると、本気が出せない?」
「……そうだ」
わかった。
そうして、流也は何の未練もないかのように身をひるがえした。
「そうそう、どれくらい離れればいい?」
「あの化け物だ。余裕を見て20kmは離れておいた方がいい」
真面目な顔をしてそんなことを言う友人に、流也は思わずといった風に噴き出した。
今から20km離れるとなると、下手をしたらその前に勝負が終わってもおかしくない。
背後から一撃をもらう可能性もある。
「ずいぶんと厳しいけど命は惜しい。やってみようかな」
「ああ、幸運を祈る」
それはこっちの台詞だと笑い、流也は風に乗って舞い上がる。
そして、妖魔を感じ取る方向とは逆に全速力で離脱を始めた。
振り向けば既に米粒大になったにもかかわらず、とても雄大に見える男の背中があった。
彼には才能がなかった。
炎術師なら持っていて当然の才能、それが決定的に欠けていた。
「姿も見せず、さんざんやってくれたな」
対峙するは暴風の化身。地獄の底から湧き出した正真正銘の化け物。
わざわざ姿を見せたのは何のためか。
風術師ならば炎術師に気取られることなく一瞬で首を落とすことも不可能ではないはずなのに。
もちろん神凪の宗家が常日頃から纏う火の精霊たちは、風牙衆の通常戦闘員程度の攻撃ならば例え不意打ちであろうと突破することはできない。
純粋に精霊を扱う精霊術師同士の場合、相当に実力が離れているのでもなければ攻撃の意思を伴った精霊を感知することが可能であるためだ。
感知した瞬間に周囲を漂う精霊に意識を向けるだけで、放たれた風の刃は一瞬にして燃え尽きるだろう。
だが、こいつは格が違う。
「全力で行く。油断するなよ?」
神凪の術者が殺され、自身を上回るかもしれない相手とたった一人相対してもなお、和麻の胸の内には戦いへの期待感があふれていた。
山の麓にある広大な土地で、普段は決して出せぬ全力をぶつけ合う。
流也はとっくの昔に5km以上は離れただろう。
ならば、遠慮することはない。
肉食獣が舌なめずりするかのような獰猛な笑みを浮かべて、和麻が炎を召喚した。
___≪覇炎降魔衝≫
瞬間。
和麻の手のひらに生じたライターほどの火が、周囲を飲みこんで荒れ狂った。
それは妖魔すらその裡に取り込み、それでもなお止まらず広がってゆく。
ようやくその広がりが停止したとき、その大きさは半径にしておよそ2kmにまで達していた。
かすかに金色に染まった炎が、巨大なドーム状となり空間を飲み込む。
無音の咆哮とともに、妖魔が風の結界に力を注いだ。
もう一度言おう。彼には才能がなかった。
黄金の炎にたどり着いて、しばらく後に判明した欠陥。
その並はずれた炎術の適性によって、一定以上の力の行使に彼の制御能力が追いつかない。
ゆえに精霊との感応は際限なく広がり、彼を起点に莫大な土地を薙ぎ払う。
幾重にも耐火の紋が刻まれ、内と外を隔てる結界があり、なおかつ火の精霊の扱いに長けた神炎使いが二人もいる神凪の屋敷でなければ大変なことになっていただろう。
強者を相手にするには収束が足りない。
弱者を相手にするには制御が足りない。
黄金の炎の行使こそ最近になって無意識レベルまで上昇したが、雑魚の思わぬ反撃に家一つを灰にしたこともある。
そう、彼には『収束』という才能が決定的なまでに欠けていた。
「油断するなって言っただろうが!!」
狂った風で浄化の炎を相殺しつつ、緩やかに火の海から離脱しようとする妖魔は『空中に炎で足場を作った』和麻のかかと落としで地面にたたき落とされた。
風術師ならともかく、召喚速度の遅い炎術では足場を作るだけで時間がかかる。
だがここにはもともと莫大な数の精霊がそれこそ風の精霊以上に存在している。
ただ意思を伝えるだけで、彼らは思う通りに力を貸してくれた。
「手加減などするな、油断などしてくれるな!次の標的でもなく、神凪の滅亡でもなく、今この瞬間の俺を殺しに来い!!」
炎の本質が怒り?
ああ、それも一つの解釈だろう。
だがこの体の奥底で燃え上がるこれはなんだろう。
心臓から噴き出し、筋肉を燃やし、脳髄を焼き尽くすこの感情は何だろう。
炎の領域がさらに広がり、すぐさま収束の意思に従ってその範囲を狭めてゆく。
密度と温度は中途半端な妖魔など魂ごと焼きつくすほどに上昇する。
情報屋は言った。
『情報が錯綜している。だが、彼は文句なしに世界最強の風術師だよ』
自分には適性があっても才能がない。
厳馬には敵わない。
炎雷覇を持った綾乃にも敵わない。
いつか、煉にすら負ける日が来るだろう。
『全力が出せない』
それが負け惜しみ以外の何であると言うのか。
それでも、全力を出さぬ訓練や戦いにおいて着々と地力を伸ばしていく和麻はまさに神凪の宗家にふさわしい。
周囲の被害を気にしなくて良い環境。父ですら負けるかもしれない相手。
___道哉と同じ、最高の風使い。
自身が継承の儀に参加しなかったことで、どれだけ道哉は怒っただろう。
その弟がこの程度で、どの面下げて兄に会えるというのか。
自分をどうやって誇れるというのか!
「それで俺とお前は対等だ!!」
内に秘めた激情が、自制心を突き破って吐き出された。
それは、必ずしも目の前の妖魔にあてた台詞ではなかったのかもしれない。
それでも目の前の妖魔はそれに応える。
オォォォオォォオオォォォォォォ!!!!
人間の声帯では成し得ない咆哮。
妖魔の周囲を巡る黒い妖気が力を増し、浄化の炎を押し返して猛り狂う。
風と炎の力関係。
___収束の差を補うエネルギー量が発現する。
妖魔と浄化の炎という摂理。
___歪みに対して圧倒的な優位に立つ力は彼の血に刻まれていた。
精霊を狂わせてから力とする相手と、既に召喚した莫大な火の精霊に命じるだけでよい和麻。
___浄化の炎が満ちるこの空間において、妖魔の妖気の大部分は風の精霊を狂わせる前に相殺された。
この瞬間、火は風の速度を上回り、神凪で唯一確実にこの妖魔を倒すに足る存在が顕現した。
風を使う妖魔の天敵。
炎には足りず、火としてはあまりにも鮮烈。
ポテンシャルは神炎に匹敵し、一部では上回りながらもその頂には至れぬ神凪の異端児。
それは紫炎でもなく、蒼炎でもなく、炎の名を与えられなかった出来そこない。
容赦なく周囲を薙ぎ払う暴虐の炎術師。
『烈火』の和麻。
神凪において神炎使いのみが名乗ることのできる二つ名を例外的に許された唯一の男。
壮絶な親子喧嘩の果てに発現した力が、ついに妖魔に牙を剥いた。
父しか知らない全力。
誰も実態を見たことのない二つ名の意味を、今ここで世界に刻みつけよう。
「来やがれ三下。てめぇを倒して俺は進む」
いつになく乱暴な口調と獰猛な笑み。
神凪の誰もが苦戦するであろう強大な風術師との戦いを、ただの殴り合いへと引きずりおろして彼は疾走する、
溢れんばかりの気を発しながら、次の瞬間には周囲の精霊を握りしめ、炎を纏った和麻の拳が妖魔の顔面にめり込んでいた。
あとがき
まだだ!まだ終わらんよ!!