「こんなホテルに泊まってたんですか」
「口を閉じろ口を」
数十分の空中散歩の後、道哉は煉とともにホテルへと戻ってきていた。
夜の10時を過ぎていても依然美しい照明がついたロビーに煉が感嘆の声を上げる。
正直子供の相手があまり上手とは言えない道哉だが、そんなちっぽけな心配など吹き飛ばすほど彼の弟は良い子だった。
あんなの(父)とあんなの(母)の間からどうやってこんなのが。
___どちらにも似なくてよかった。
万が一の場合を思わず想像してしまい、道哉は今にも目元からあふれ出そうな熱い雫をこらえる。
もちろん、煉は不思議そうな顔していたが。
スイートルームの前でスリットにカードキーを通す。
簡素な電子音ではなく、耳触りのいいメロディとともにロックが解除された。
「おかえりなさいませ、お怪我はありませんか?」
「あー、いや、その」
「そういえばベッドが一つしかないのはどうしましょうか。いえ、道哉様を信用していないわけではないのですよ?」
「いや、だからだな」
「服が埃まみれですよ。まずは上着を脱いで……」
「……」
「……操、さん?」
時間が、止まった。
中途半端な笑みを浮かべ、『下に何も着ていないバスローブを少し着崩した操』が空気に接着されたようにその動きを停止する。
道哉は「あちゃ~」とでも言いたげな表情をし、煉は茫然とした表情で道哉にしなだれかかるようにしている操を見つめていた。
三者三様の表情で固まった3人のうち、最初に動きだしたのは操だった。
目を前髪で隠し、ぷるぷると震えだす。
じわりとその肌が赤みを帯びた。
「煉、出るぞ」
「え?え?」
……パタン。
操を刺激しないように、かつ迅速に道哉は部屋から退場する。
静かに扉を閉めた直後。
『◇※△○×☆Ψ~~~!!!!!』
羞恥ゲージが限界を突破したのか、言葉にならない叫び声が防音加工の壁を貫いてかすかに響いた。
「……兄さま」
じと~、という擬音語が聞こえてくるほど白い眼をした煉が道哉を見つめる。
その頬が僅かに赤く染まっているのは御愛嬌と言ったところだ。
「なんというか……誤解だ」
何をどう説明したらいいかわからない道哉は、うめくようにそう言うしかない。
「今度から操さんのことを『操姉さま』と呼ぶことにします」
「勘弁してくれ!」
そこから煉の誤解をある程度解くまで10分ほどの時間を要するのだった。
運よく誰も通りがからなかったことを、道哉は神に感謝したらしい。
「……操、もういいか?」
道哉は彼にしてみれば驚くほど慎重にドアを開けた。
右よし、左よし。
まるで泥棒かなにかのように周囲をうかがいながら慎重に歩を進める。
後ろについてくる煉はと言えば、周囲の調度品や間取りなんかを興味深そうに眺めていた。
リビングにも操はおらず、何となく予想しながらも彼らは寝室に足を踏み入れた。
「これじゃあ着替え終わってるかもわかりませんね……」
「……そうだな」
キングサイズのベッドに、巨大なかたつむりがいた。もちろん比喩であるのだが。
毛布の端っこを引っ掴み、くるりと丸まって震えている様子はどこか子犬を思わせる。
「操、着替えたんなら出て来い」
もぞもぞもぞっ
どうやら嫌らしい。
ここまで拒否されると意地でも布団をひきはがしたくなるのが人情というものである。
手の指を使ってボキボキと派手な音を鳴らしながら、布団にくるまった操に覆いかぶさるように___
「……兄さま?」
「冗談だ」
苦笑しながら道哉はベッドに腰掛ける。
操が入っている毛布がすすすっ……と遠ざかった。道哉軽くショック。
煉はリビングから椅子を持ってくると、ちょこんと座ってこちらを見た。行儀のいいことだ。
そうして彼は、躊躇うように口を開いた。
「それで、お二人は結婚を前提としたお付き合いを……」
「そのネタはもういい」
「では私の体が目当てだったのですね!」
「人聞きの悪いことを言うな!」
真面目な声でそんなことを言う煉と、布団から顔だけ出してそんなことを言い出した操に頭を抱える。
操はといえば、まだ恥ずかしさが治まらないのかすぐに引っ込んでしまったが。
赤い顔とうるんだ瞳がぷりてぃ。
それでも危険な冗談が言える程度には落ち着いたようなので、道哉は複雑な表情で述懐した。
「まったく、お前たちはどうしてそんな風になっちまったんだろうな」
基本的に遊びが少なく、誇り高い神凪一族においてこのようにどこか自由な心を持っていてくれることが彼には嬉しかった。それが良いことなのかは置いておくにしても。
そこに含まれた感情は万感を込めた優しさと喜びであったのだが、それを向けられた二人は不満げな表情(一人は毛布の中で見えないが)をする。
まるで『お前のせいだ』もしくは『お前が言うな』と言わんばかりのじっとりとした目線が、正面とベッドの隙間から注がれた。
「にしても、操はどうしてあんな格好だったんだ」
そのような視線など道哉の防御力を高めた心に毛筋ほどの傷をつけることもできない。
と、見せかけて地味に傷ついているピュアハートを持った男であった。
「だって……だって道哉さまが昔わたしをからかうから!」
もぞもぞと動きつつ、毛布の中からくぐもった声で操が言った。
その幼子のような声に煉が目を丸くする。
昔散々からかわれた仕返しに、無理をしてまであんなことやってたのか。
道哉はと言えば煉の手前、浮かびそうになる笑みを必死に噛み殺していた。
___これだから操は面白い。
本人に聞かれたら激怒間違いなしの感想を抱きながら、道哉は呆れたような口調を装った。
「それで俺が動揺しないからあんな痴女まがいな……」
「言わないでください!」
毛布の中から聞こえてくる声は既に涙声である。
その声に道哉ゾクゾク。危ない趣味に目覚めてしまいそうだ。
「あの……そろそろ僕の話を聞いてもらってもいいでしょうか」
すっかり忘れ去られていた煉がついにしびれを切らして切りだした。
「おお、すまんすまん。で、さっきも言ってたが話って何だ?」
「……ヨーロッパのオカルトサイトで見たんです」
煉は重々しげに言った。
これか。と道哉は思う。
どういう話になるかは大体わかったが、果たしてこれから語られる情報が信頼に足る情報筋からのものなのかだけが心配だった。
自分の情報だ。信頼性の低いところにすら細かな情報が出回っているとなると当事者として不安がある。
「『ニンジャマスター』は若い日本人だって」「ちょっと待て」
予想の斜め225°の角度で繰り出された話題に道哉は頭を抱える。
「待て待て待て、何がどうなってそうなった」
そんな道哉の様子を一顧だにせず、煉は少々高めのテンションで言葉をつづけた。
「だって『素手でドラゴンを撲殺した』とか『蹴り一発で空間にヒビを入れた』とか『気づいたら後ろに回り込まれていた』とか!」
「何だその無敵超人」
めくるめくガセ情報のオンパレードに眩暈までしてきた道哉。
「他にも『気づいたら隣にいた奴の首が掻き切られていた』とか、『瞬きする間にその身一つで妖魔の群れを全滅させた』とか!!」
その話は留まることを知らず。
「確か他にも『爵位持ちの悪魔を気合でぶん殴った』なんていうのも……」
「まぁ落ち着け」
鼻息荒く、まるで憧れのヒーローでも語るように話す煉を嫌々ながら制止する。
「兄さま……なのでしょう?」
「なんでその情報と俺を結びつけようと思った!」
期待するかのように一拍溜めてからの言葉は、計り知れないほどのダメージを道哉に与えた。
断固として抗議すれば煉は残念そうな顔で元凶の名を語る。
「兄さんが……」
「オーケィわかった理解した。なぁに、殴る理由が増えただけだ」
ふははははは、とまるで魔王のような笑い声を上げる道哉に煉と操はどん引きである。
「煉」
「はいっ!」
どす黒いオーラをにじませたその声に、煉は思わず背筋を伸ばした。
「その『ニンジャマスター』だとかいう変人は俺じゃない。わかったな?」
「はい、『ニンジャマスター』は兄さまじゃありません!」
「よし、魂に刻みつけろ」
頭をがっしりと握られた煉は、その得体の知れない迫力にコクコクと頷くしかない。
そんな様子を見て満足した道哉はゆっくり手を離すと、眉をしかめてため息をついた。
「そもそもだな、そういった噂は見間違いとか誇張された話がほとんどだぞ」
「そうなんですか?」
きょとん、とした表情で煉が首をかしげた。
あたりまえだ。全く、誰がニンジャマスターだ失敬な。
「竜ってのは力の象徴だからな、使い魔の形にする奴は多い。けどそういった外見だけ取り繕った使い魔なぞ素手で十分なほどに弱い場合がほとんどだ。空間にヒビ?起点さえ見つければ徒手空拳だって結界は壊せる。その様子がそう見えたってだけだろう。一般的とは言えないが仙術を2年もやれば超限定的な状況下でなら高速移動が可能だし、他にも手段は多い。風術師や地力の低い術者にとって相手に見つからないようにするなんて基本だ。それに大量の妖魔なぞ足止めのための三下だろう。その程度さっさと倒せなかったら俺はここにいない」
「…………」
「…………」
早口で語る道哉を煉と布団から顔を出せるまで回復した操が形容できない視線で見つめた。
そして、煉が意を決したように口を開く。
「兄さま」
「なんだ」
「……それって実体験ですか?」
「そりゃそうだが、それがどうかしたか?」
何でそんなことを聞くのか。と疑問顔の道哉に向けられるかわいそうな人を見るかのような視線。
そういう種類の視線を向けられる心当たりがない彼としては、ただただ困惑するばかりである。
「心を落ち着けて聞いてください」
重要なことを告げなければならない。例え兄のためにならないことでも!
悲壮なまでの決意を込めて煉は宣言した。
「話を聞く限り……どう考えても兄さまが『ニンジャマスター』です」
「…………………………馬、鹿な」
はぁ?とでも言いたげな顔をした道哉は、次に待てよ?と自分の話を思い返し、最後に愕然とした表情で瞳の焦点を消失させた。
それなりに派手なことをやってきた自覚はあるが、いや、まさかそれは……。
自身の行動に対して第三者視点と日本人→忍者というフィルターをかけ、尾ひれをつければ。
「それは俺じゃない」
脳裏に浮かんだ結論を八つ裂きにすると、平坦な声で道哉が言った。
その瞳に何を見たのか、煉と操は無言で視線をそらす。
コホン。
「で、まぁ俺らしき強い術者の情報を手に入れたから協力を請いに来た、と。そういうことでいいのか?」
「……はい」
思わず言いたくなった様々な言葉をやっとのことで呑みこむと、煉は短く肯定した。
しかし彼の期待とは裏腹に、兄は考え込むように沈黙する。
道哉ならば二つ返事で了承してくれると根拠なく思いこんでいた煉はその様子に目を見開いた。
「兄さま!」
「操、どう思う」
「……わかっていることは、綾乃様でも厳しいということだけでしょう」
焦った様子の煉を無視して操に聞けば、遭遇時における自らの精神状態も加味した答えが返された。
さらに操が続ける。
「主観ですが、あの妖魔は時代が時代ならば伝説になってもおかしくないほどです。場合によっては……負けることも」
「ですから、兄さま!」
「煉、覚えておけ。この世界で情などという根拠のないものを一番最初に使う奴ほど信用されないってことをな」
血のつながった弟の懇願を一言で切り捨て、道哉は立ち上がった。
そして迷うことなく出入り口へと歩き出す。
「どこに……!」
「外の空気を吸ってくるだけだ。すぐ戻る」
混乱によりぐるぐると回る頭で、それでも道哉に追いすがろうとする煉をベッドの中から伸びた操の繊手が引き留める。
うなだれる煉。
それを無視するがごとく、無情にも扉は閉じられたのだった。
「流石一等地。いい地脈があって助かった」
ふわり、と道哉は音もなくホテルの屋上に降り立った。
ひとつ伸びをすると準備体操なんかをしつつ上空に意識を向ける。
「で、やるのか」
彼の言葉と同時に、ホテルの結界に静電気のようながノイズが走る。
その中心から芋虫のような何かが這い出してきた。
ミシミシミシミシッ!!
黒い風を纏って輪郭しかわからない。
しかし道哉はこの暗闇の中、それが指であると見てとった。
まるで布を引き裂くように簡単に、されど圧倒的な力をもって最高級の結界が無効化される。
余計な壁が取り払われた時、彼は月を背に浮かぶ力の塊を見た。
断続的に響く異音。
結界が力を失った刹那、両者から放たれた6つの風の刃が互いを食らい合って消失する。
しかし。
「おっと」
転がるようにその場から道哉が跳んだ。
油断なく体勢を立て直せば、視界の端にコンクリートに刻まれた3条の傷痕が映った。
___やはり地脈からある程度力を取り込んだとはいえ万全には程遠いか。
ギシリ、と突き出された妖魔の腕から真っ黒な爪が伸びた。
ここからが本番だ。
そう言わんばかりに妖気を高ぶらせる相手の一挙手一投足を、道哉は全ての集中力を使って……
「そんなわけないだろうが」
「ぐぁ!!」
「ちぃ……!」
結界が解けたホテルに入り込もうとしていた風牙衆を風の刃で切り捨てる。
様々な防御が敷かれ霊的に安定したこのホテルにおいて、目の前の妖魔本体ならともかく妖気を含んだ風に守られた術者程度ならば簡単に見つけ出せた。
「さぁ、時間稼ぎは失敗だ。次はお前が直接来るか?」
タネさえ分かっていればこの程度。
問題は道哉がこの妖魔に殺される可能性があるというだけだろう。
逃げる程度の体力は残すつもりでいるが、どう転ぶかは運次第。
「来ないなら、こっちから行くぞ」
出し惜しみなどする気は一切無い。
道哉は今出せる全力をもって膨大な数の精霊を召喚し始めた。
しかし一方の妖魔は唐突にその妖気を薄れさせる。
瞬間、あっけなく夜空にその姿を消した。
ご丁寧にも妖魔の風に相殺され、殺しきれなかった風牙衆まで回収していったらしい。
「さて、次はどう出る」
大騒ぎになっている従業員たちの気配を感じながら、道哉は屋上を後にしたのだった。
翌日。
あの後、部屋に帰った瞬間に迫ってきた煉を「眠い」の一言で黙らせ、3人川の字になって寝た道哉は携帯の着信音で目を覚ました。
登録されているアドレスではない。
睡眠が足りないと愚痴を言う脳味噌を黙らせると、乱暴な手つきで通話ボタンを押す。
「もしもし」
『ようやく繋がったか!』
「あぁ……宗主ですか」
気心の知れた相手だからか、彼は回転の遅い思考のままに応答した。
『今回の事件の犯人を知らせておこうかと思ってな。そちらは無事か?』
「ええ、昨日襲われましたが……」
宗主の声の調子に違和感を感じるものの、睡魔がその思考を許さない。
『ならば安心だ。道哉、今すぐお前を雇いたい』
「応相談ってやつですね……午後には行きますよ」
やけに落ち着きのない宗主に、どこかゆるい雰囲気をした道哉。
『それでは遅い!!』
大喝が彼の脳に突き刺さる。……起きがけにこれは辛い。
脳を揺らす大声にうめきながらも、道哉はのそのそと身を起こした。
「一体何があったんですか」
『今回の主犯は風牙衆だ。昔我らが幕府の勅令で討伐し、力の源の神を封じて取り込んだのだが』
まくしたてるように早口で話す宗主。
概要を把握している道哉でなければ理解が追いつかないだろうに。
「それがどうかしたんですか」
『綾乃がさらわれたのだ!!!!』
「…………は?」
『既に妖魔は和麻が倒した、神の封印である三昧真火の破壊も許可してある!!!』
「はぁ!?」
『頼む、いくらでも払うから綾乃を探し出してれ!!!!』
「はああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?!?!?!!?!?!」
その宗主に負けないほどの大声に、操と煉がベッドから転がり落ちた。
あとがき
別に連続更新は構わんが、さらに続きを書いてしまってもかまわんのだろう?
3/17 初稿&修正 指摘に感謝