鋭い呼吸音
板張りの床を蹴る音
空気を裂いて振るわれる拳
振り回された鈍器のような音を立てながら通過していく蹴り
ギャラリーなんて一人も存在しない道場において、鏡に写したようにそっくりな2人が舞踏を踊る。
小手先の技術なんて通じない。
炎を持たぬがゆえに、その体術を妬まれた。彼にとって卑怯な手などすでに既知。
気の量が違う。
どれほど体をいじめたのだろうか、道場で倒れていたのを発見されたこともある。
技術が違う。
天才などと言われていたが、日ごろの修練においてどれだけ技を盗み、どれだけ反復し、どれだけ考えを巡らせたのか。
心が違う。
日頃から怪我が多いとは思っていた。信じたくはなかった。兄が死にかけたあの日。初めて実際に現場を押さえたが、あれほどの暴力にどれだけ耐えてきたのだろう。
神凪和麻は兄を思う。
兄は強い。
生半可な使い手では相手にならぬほどの体術。
兄は弱い。
浄化の力を持つ神凪一族。その宗家に生まれてなお欠片も使えぬ炎。
兄は賢い。
幼いころから大人顔負けの立ち振る舞いをし、妖魔の特質や相対した敵に応じた戦術、古代の術の知識などを貪欲に吸収している。
兄は愚かだ。
例の事件の後、分家どもが俺がいないときにお礼参りに来たらしいが、全員を殴り倒して骨の2,3本も折ってやったらしい。
神凪家での立場が悪くなるばかりか有数の実力を持つ分家の長までが数人敵に回っただろう。やられたガキも怪我が治り、ほとぼりが冷めたころに来るだろう。体術しかない兄に次の勝利はあり得ない。
幼い頃は共にいた。引き離されたのはいつだったか。
煉は道哉とはめったに会うことがない。
和麻は双子だからこそ技を盗めるだろうと炎術以外でよく組まされる。
双子とは言え自分とは何もかもが違う道哉を見ることは、和麻にとって兄との距離を感じさせるものであった。
そのような感傷は致命的な隙となり和麻に牙をむく。
強化された床に穴をあけそうなほどに踏みしめられた軸足
一片の躊躇もなしに頭部を狙う蹴り足
込められた気の量____防御不能。
多数の布石を用いて巧みに崩された体勢____回避不能。
今まで30分以上にわたって殴り合った疲労____耐久不能。
それ見たことかと言わんばかりににやけた口もと____遠慮不要。
長い長い打ち合いの末、後頭部に砲弾のような蹴りを食らった和麻が意識を刈り取られ、倒れがけの頭突きが股間に直撃した道哉が15分にわたって悶絶することとなる。
「何が悪かった?」
意識を取り戻した和麻は開口一番に悔しさをにじませながら兄に聞いた。
「しばらく自分で考えてろ」
対する道哉はふてくされた様子で顔をそむける。
彼は、ともすればうずくまりそうになる腹筋を強靭な背筋で抑えつけながら股間の痛みと闘っていた。
思わず和麻が笑みを浮かべかけるが、次の瞬間自らの股間手前で寸止めされた足を見、慌ててまじめな顔を作った。
「あー、ごめん」
「お前男のくせに腹いせで股間狙うとか何考えてやがる……」
軽く口元を引きつらせながら必死に余裕そうな表情を作っている道哉を見ながら、和麻は兄に知られぬよう心中で感嘆の声を上げた。
可能な限り予備動作を削った攻撃、自然に立ち方を改めたと思ったらいつの間にか整えられている姿勢。
一つの極みともいえる無拍子には遠く及ばないものの、十分に通用する体さばきである。
深呼吸を繰り返し、激しい動きで再発した何とも言えない痛みを押さえているという間抜けな姿を見ながら、和麻はまた一つ兄との距離を感じていた。
大きくため息をつくように深呼吸を切り上げた道哉は、ガリガリと頭をかきむしりながら弟に向き直る。
「全く、相変わらずの負けず嫌いだな」
「双子なのに負け続きなんて俺のプライドが許さない」
そういやって笑った彼の言葉は、実際には道哉のものでもある。
なぜ俺は弟のように炎が使えない。
なぜ俺は兄に比べこんなにも心身ともに弱い。
なぜ俺には弟のような才能がない。
なぜ俺は兄に近づけない。
ここで注意しておきたいのは、彼らの兄弟仲は実に良好だということだ。
主に道哉が原因だが、双子であるにも関わらず圧倒的に中身が違う二人は、外見の差異の少なさからお互いに無いものを羨まずにはいられない。
もしかしたら自分も持っていたはずのもの。
目の前にあり、自分の手に入りそうに見えても決して手に入らぬもの。
実に危うい関係の上に成り立つこの双子は、それでもやはりお互いを尊んで切磋琢磨出来る仲のいい兄弟なのであった。
「和麻」
脳裏に重くのしかかる何とも言えない気分を振り払って道哉は弟に指導を与える。
「神凪で使われる体術ってのは炎術が前提だ」
「そりゃそうだろ」
何を今さら。とでも言いたげな和麻を「少し黙ってろ」と注意して道哉は話を進める。
「炎術の最大の特徴は何だ?そう、力だ。
炎術師は他の系統の精霊術師と比べ圧倒的なエネルギーを持っている。
炎術師の家系に生まれた奴は大抵気においても恵まれている奴が多くてな、一撃一撃が必殺と言ってもいいほどに高められる系統なわけだ」
ほー。とばかりに和麻は興味深げに聞いている。前半は耳にたこができるほど聞きなれているが、後半の気については初耳だった。
「お前自分の属する系統の特徴くらい知っておけよ……。
それでだな、うちの家系の武術は一撃の重みに比重を置いてる。莫大な気と圧倒的な炎を纏う体術なんて近づいたら一瞬で消し炭だな」
ま、それでも体術に重きを置く奴なんていないが。と、道哉は心の中で呟いた。
気や体術と言ったものは圧倒的な炎の加護をもつ神凪家の術者にとって、生半可なものでは補助にもならない。
そんなものを極めようとするよりも炎を適当に鍛えていれば並みの妖魔なら一撃で葬れるのだから。
そんなことを思っている兄に気づかず、和麻は「へぇ~」とでも言いたげな顔をしてうなずいている。
「でもな、お前いくら一撃一撃が必殺だからと言っても全部を必殺にしてどうするよ。
一撃一撃は確かに重いがコントロールが稚拙すぎる。それも炎術師の特性ではあるが、克服しておくに損はない。
布石、フェイント、本命、全力、様子見もろもろを使い分けてこそ流れができる。
一発ごとに必要以上の力がこもってるから流れも途切れるし、隙もできやすい。もっと精進だな」
そう言って締めくくると納得したようにコクコクと頷く和麻を見て、今日はおしまいとばかりに息をつく。
「和麻」
と、嫌な声が聞こえた。
「はい、何でしょうか父上」
かすかに緊張しているような和麻の声がどこか遠い。
「炎術の修練の時間だ」
何の温かみもない父親の声。何も感じ無くなったと思っていたが、違うのだろうか。
心がざわめく。制御できない感情。
「わかりました」
和麻の了承の声を聞いて、父、神凪厳馬は道哉に一瞥も与えずに立ち去った。
いつものことだろうに、和麻が軽く眉をひそめて道哉を見つめた。
___そんなにひどい顔してるかね。
実際には道哉の表情に何の感情も浮かんではいないのだが、双子の直感か、和麻は兄に違和感を感じとった。
「ほら、早くいかないと小言をもらうぜ」
なるべく気楽そうな声を出して和麻を促す。
いつもと同じようで違う道哉の様子に不審を抱きながらも、和麻は小言をもらうのは嫌なのかそそくさと道場を出ていった。
「ちっきしょうめ……!」
道場にただひとりとなった道哉が絞り出すように声をもらす。
あの事件のおかげで、半端に混ざり合っていた前世と今世の道哉は完全に一つとなった。
だが、転生の影響かあくまで主体は道哉である。
厳馬が実は情に厚く、子のことを考えているという知識はある。
それでも、普段の行いからその片鱗も見つけることが出来ないのもまた事実。
愛されなかった幼少時代。トラウマに近いそれは【風の聖痕】の知識を得たためにかすかな期待を持ってしまったがゆえに、今まで以上に道哉を苦しめる。
風術を習得できていないことも彼をじわじわと追い詰める。
人知れず風の精霊を感じようともしている。だが全くと言っていいほど成果が出ない。
___お前は八神和麻じゃない。
悲観的になった心がつぶやく。
あの物語で契約者となったのは自分ではない。こんな世界に属さないような異端ではない。
「………」
ギリリと奥歯をかみしめて涙をこらえる。
まだ全力を尽くしてはいない。まだ余力が残っている。この程度でくじけるな。楽しむと決めただろう、笑って死ぬと決めただろう。
壁に背を預け、ズルズルと座り込む。
絶望とは、希望が見えた後に叩き落された方がダメージが大きい。
深呼吸をする。ひとつ、ふたつ、みっつ。
よし、これでいつもの俺だ。
心に仮面をかぶって前を向く。廊下から近づいてくる足音がする。
そこに、大神操の姿があった。
___悲しいのですか?
ひび割れて欠けた仮面。その隙間から本心がのぞく。
「わからないよ」
この子に対するとどうしても優しげな口調になってしまう。
緊張しているわけでもないだろうに。
軽い自嘲とともにうつむいていた道哉は、不意に抱きしめられた自分を自覚した。
「心が弱った人は、抱きしめてあげるといいそうですよ?」
耳元でささやかれる声。
冷たい床、女の子のぬくもり。
あの事件から数年。顔を合わせることなんてほとんどなかった。
避けていたわけではない、宗家で落ちこぼれの男と分家の有力者である大神の娘との間には純粋に接点がなかっただけだ。
何を聞くわけでもなく、何を言うわけでもない時間がゆっくりと流れる。
荒れ狂っていた心は凪いで、悲観的な思考はなりを潜めた。
___この少女は、本当にいてほしい時に傍にいてくれるんだな。
2度目。ただの偶然。ちょっと親切にされたら勘違いする男。
錯覚でもいいかな、と道哉は思う。今までは愛が足りなかった、かりそめでもそれは。
「ありがとう」
いつかと同じ響き。
操は一つ頷くとゆっくり道哉から体を離した。
そしてニコリと笑って道場の出入り口まで。
そこでふと立ち止まり、思い出したかのように背を向けたまま口を開いた。
「和麻さまが心配しておいででしたよ」
そうか、あのおせっかいめ。
ふと操に目を向ければ、彼女の耳が真っ赤に染まっていた。流石に思春期の少女には恥ずかしい行為だったらしい。
クッ、と思わず笑いが漏れた。操の肩が揺れる。
くくくくっ……抑えようにも抑えきれない笑いが際限なく押しかける。
し、失礼します!と慌てたように早足で去っていく操。その耳は先ほどの倍ほど赤みが増していた。
「ははっ、あははははは!」
ついにこらえきれなくて道哉は大声で笑った。腹を抱えて大いに笑った。
すでにマイナスの気分は蒼穹の彼方へ。
眼を閉じる。
和麻がいた、煉がいた。そこに操が加わった。
世界は思ったよりも厳しくて、思ったよりも優しかった。
自分は世界を俯瞰しているつもりで、ほんの少ししか見えていなかったらしい。
この日、道哉はほんの少し強くなった。
これは、たったそれだけの話_____。
あとがき
思いついたので3話まで一気に書き上げました。あれー外が明るいよー?
5/27 初稿
5/29 微修正