霧香が現場に到着したのは、道哉と別れてから約10分後だった。
思ったほど時間がかからなかったのは喫茶店から現場までの距離が思ったより短かったことに加え、事件を一人で解決するつもりだったために用意していた多岐にわたる道具の数々が役に立ったからである。
車の中にあった式盤と道哉の髪の毛を使い大まかな位置を特定することで彼女はテムズ川沿いの自然公園へと到着する。
既に薄暗さが際立つ夕暮れ時。
車外へと出た彼女は鞄の中から一枚の符をとりだし、道哉の髪の毛を包むように複雑な形の折り紙とした。
そうして出来上がった5センチ四方ほどになった符を手のひらに乗せ、つぶやいた。
『彼の者の分け身、彼の者の元へ。急急如律令』
その言葉とともに吐きだされた吐息が手のひらの上の符をやさしく吹き飛ばす。
ふわり、と重力に逆らうかのように浮き上がった符は空中で滑らかに開花した。
それは蝶だった。
まさに脱皮するかのごとく形をなした紙の蝶は、しばし霧香の周りを漂っていたものの唐突に思い出したかのごとく公園の中に向けて羽ばたき始める。
向かうは公園の一角。
特に見通しの悪い木々が生い茂る場所は近接戦闘が不得手である霧香にとって鬼門だが、進まないという選択肢はあり得ない。
そして黄昏の公園から感じる違和感が、ためらっていた彼女の足を前に進ませたのだった。
その人影は実にわかりやすい不審人物だった。
全身をこげ茶色のローブで包み、見た目の体格以外一切の身体情報を与えない。
イメージではタロットカードの隠者とでも言えばいいだろうか。
魔術的な隠蔽がしてあるのか本来見えるはずの顔は影に隠され、存在感すらあやふやだった。
「八神」
公園の土の上で15メートルほどの距離をあけ相対するローブの人影と道哉。
人影の足元には気を失っているであろうスーツ姿の男が一人横たわっていた。
道哉の背後から近づく形になったものの、彼は視線を向けるわけでもなく無造作に返答した。
「道哉でいい」
「……この状況で返す言葉じゃないでしょう」
平坦な言葉は心臓に悪い。
それでもあきれたような声を出せる程度には、彼女は道哉に耐性をつけていた。
自身を鼓舞するかのように不敵な笑みを浮かべてやる。
「なら私も『貴女』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて霧香、と呼んでくれるかしら?」
「そんなことを言う方も人のことをとやかく言えないな、それは」
「あら、他人のことなんてなんとでもいえるものよ。知らなかった?」
道哉の無感情だった声に少しだけ笑みが混じった。
彼の後方にいるため表情こそ見えないものの、きっとその顔は少しばかり優しげになっているだろう。
「これは評価を改めないといけなくなったか」
どのような評価がどう変化したのか気になるが、そろそろ時間かせぎも限界だ。
目の前の人影がじりじりと何かしらの行動をとるために場所を変えようとしている。
後は協力して捕縛するだけ。
そして彼女は最後の確認をとった。
「それで、『それ』が犯人ということでいいのかしら?」
その問いに反応したのは以外にも道哉ではなく、
「『それ』?この身を『それ』といったか!」
歪んだ声。
男女の区別もつかず、それでも聞く者を奈落に引きずり込むような声だった。
グルルルル……と手負いの獣のように喉を鳴らす人影。
叩きつけられる殺意。
子供が癇癪を起こして暴れるように、相手は驚くほどあっさりと怒り狂った。
「俺もお前も、目的は捕獲じゃなかったか」
怒りに支配された相手は殺しやすい。いや、殺るか殺られるかという勝負になりやすい、とでも言うべきか。
攻撃の威力こそ上がるものの、リズムは単調で誘いにも乗りやすい。
だが無力化となると格段にその難易度が増す。
怒りは簡単に気絶することすら許さず、その気力は時として入念に仕掛けられた罠すらも食い破る。
「じ、事故よ」
面倒なことになったと言わんばかりに道哉に、霧香は気まずげに返した。
まさかこの程度で……などと不満げに口の中で呟くのも忘れない。
人影は顔が見えずともわかるほどの怒りを振りまきながら四足獣のごとく両手足を地面につけ、全身をたわめていまにも飛びかかる寸前の体勢をとっていた。
やけに白い腕がローブの端からのぞく。
「だが、手間は省けそうだな」
そんな相手の態度を一顧だにせず、道哉は無造作に足を踏み出した。
ゆらり、と彼の周囲を軽く歪ませるほどに濃密な気が彼の体を取り巻いた。
霧香に殺意を向けていた相手が弾かれたように道哉に体を向ける。
「邪魔を……」
するな、と新たな怒りとともに意識が完全に道哉へと向けられた瞬間、霧香が動いた。
既に組み立て終わっている力の流れ。
気づかれぬように取り出された5枚の紙。
動いた腕は神速で符を放ち、刃のような鋭さで地面に刺さったそれらは遅滞なく効力を発揮した。
『禁!!』
力の流れが五芒星を描き、一瞬にして被害者と加害者を隔離する。
距離が近かったため力場に弾かれた影が獣のようなしなやかさで距離をとった。
すそからのぞく左手にはうっすらと火傷のような赤みが差している。
焦れたように荒々しく立て直される体勢。
だが、既に道哉は人影の眼前に肉薄していた。
被害者の保護と敵の牽制、そこからつながる攻撃という流れが人影に余裕を許さない。
「眠れ」
道哉の蹴りが空気を貫通しながら一直線に迫る。
狙い。
体の中心。
威力絶大。
回避不能。防御不能。
気付いた時にはすでに手遅れ。
予測されるダメージは容易に意識を奈落へと運び去る。
着弾の刹那、人影は吼えた。
「Wooooooooooooooooooooooooooooo!!!!!」
コンマの後にいくつも零を重ねた時間の流れ。
コマ落としのように、途方もなく無様で鮮やかに人影が体をひねった。
本来ならば遅すぎる動作を、人影の内側から湧き出る何かが補った。
そして、避け得ないはずの攻撃を人影は右腕部分の布を犠牲にして回避することに成功する。
青白い腕に刻まれた朱線から、ジワリと血がにじんだ。
「ビンゴだな」
トンットンットンッと地面を蹴って霧香の傍に戻ってきた道哉が言った。
「喜べ、協力体制の継続は確定なようだ」
「どうして?話し合いよりも殴り合いの方がお互いをわかりあえるなんて言わないでしょうね」
霧香から見ても完璧に決まったと思えたタイミングを並はずれた加速で回避した相手。
___手の内がわからない以上、迂闊には動けないか?
常にあの速度が出せるとしたら自分も危険だ。
緊張で手に軽く汗をかきながらも、霧香は全く態度が変わらない男に呆れたような視線を向けた。
「道哉。あなたって罠は壊して進むタイプ?」
この臨時の相棒は、どうもそのようなことを気にせず突き進みそうな予感がする。
「右腕だ」
否定も肯定もせず、軽く肩なんかをすくめながら道哉は簡潔に言い放った。
それにつられて視線を移したものの、相手は逃れるように自らの右腕を隠す。
瞬間、霧香の瞳にその腕に刻まれた刻印が焼きついた。
「ウロボロス……」
自らの尾を食らう蛇。
自身の終わりを飲みこむ竜。
古き書は語る。
『其は無限。其は不滅。其は永遠。完全にして流転の象徴。そして“世界”』
「刺青……ではないか。ということは」
一瞬しか見えなかったが、明らかに異質なものを霧香は思い返していた。
錬金術のシンボルマークともいえるウロボロスはありふれたものであり、様々なものに刻まれる。
ただしそれは必ず意味を持ち、書物やシンボルに描かれるのが一般的だ。
そして例外として、『精製物』が生まれる時にその証明として刻まれる。
目の前の相手にある刻印は物質的なものではなく、神秘を宿した奴の根源だった。
「お前が何だろうと俺にとっては関係ない。だが質問には答えてもらおう」
ゆっくりと道哉が足を踏み出す。
「俺が知りたいのはただ一つ。お前の『製作者』はどこにいる」
脅すように、けれど穏やかに問いかけた。
人影が気圧されたように後ずさる。
「やっぱり……」
霧香は信じられないという顔で相手を見た。
錬金術の結晶。
完全なる存在。
フラスコの中の小人。
偉大なるパラケルススの成功から500年の時を超え、歴史上2例目に作られた人型。
目の前に存在するはホムンクルス。
苦しみながらも生き続ける、ただ一人の『人間』だった。
あとがき
ずいぶん間が空いてしまいました。作者です。
今回は少々分量が少なめ。
ですが今夜もしくは明日には続きを投稿できると思いますので、楽しみにしてくださっている方はご勘弁を。
ロンドン編は閑話みたいな扱いでサックリ終わらせるつもりが何故か細かい設定まで考えてしまって、もう少し続きそうなのは秘密。
皆様からの叱咤激励、感想や指摘をお待ちしております。
追記
申し訳ない、もう少々お待ちを……(汗