「答えは、無いようだね」
沈黙に沈む世界。再び浮かべた笑みとともに、アーウィン・レスザールが憐れむように首を振った。
「だがこれでわかっただろう。私たちは対立する必要などないと」
見た者に安らぎを与えるような微笑みが道哉を縛る。
「見たまえ。今宵世界はその装いを変え、真理への道を開くだろう」
世界は自力で真理に辿り着いた者にしか究極の知識を与えない。
どのようにその知識を手に入れようが、辿り着いていないものには決して理解できない情報の波。
到達者の知識を強奪したところで意味はない、悪魔から知識を得たところで意味はない。
なぜなら、手に入れても理解できなければ意味がないのだから。
世界によって、真理は保護されるものなのである。
解読することすら不可能な流動する知識を理解するために、彼は世界を欺いた。
「さあ、これが始まりだ。これからの壮大な戦いの序曲が奏でられる」
巨大な魔法陣が発光を始めた。
渦巻く矛盾、逆巻く力。
『開け。閉じよ。歪み、生じよ。
我らここに供物を捧げ、虚無の知識を欲す者なり。
古の盟約。残滓を基に再び破滅への道程を刻まん。
穢れよ。穢れよ。穢れよ。
三度繰り返すは重ねの言葉。我らは重なり、共に得る。
均衡の片翼。交わらざりしもの。悠久の時の流れに漂う汝』
道哉には理解できぬ言語。
頭の中に直接意味を響かせる声が、空間を超えて広がってゆく。
『供物は世界。世界を創造する御魂。
貴きものよ。尊きものよ。二元の頂点、世界の結晶』
行使される世界を改編する力。
この世界はアーウィン・レスザールの支配下にある。
道哉の体にすでに自由はなく、声帯すら凍りついていた。
見開かれた目に映るのは数歩の距離にある魔法陣と、中に渦巻く力の渦。
動くことなど出来ない。世界の呪縛はそれを許さない。
絶望の声さえ口に出来ない。
『汝に請う。契約を』
瞬間、世界が震えた。
ズルリと空間が裂け、圧倒的な力の塊が姿を現す。
アーウィン・レスザールの顔が歓喜に歪んだ。
「そう、これだ!我らが悲願はこの知識で成就する!」
悪魔から彼に向って伸びる光の帯。
脈動するそれが知り得ぬ知識を流し込んでゆく。
そして翠鈴を使うことでアーウィンが限定的に手に入れた権能が、彼に理解できぬ知識を噛み砕く。
止めることなど出来ない。
儀式が始まったためか呪縛こそ解けているものの、魔法陣の周囲に渦巻くエネルギーは触れた瞬間道哉を焼きつくして余りある。
世界の法則と異界の法則がお互いを食らいあう儀式の中核において、人間など波間を漂う芦にすぎない。
___だから、どうした。
俺の命以外、全部まとめてくれてやる。
覚悟など生まれたときから決まっていた。
一瞬生じた躊躇いにも似た感情を笑い飛ばす。
そうして彼は、光り輝く儀式の中心に身を躍らせた。
それは、至極当然の光景だった。
荒れ狂う力の波が、音を立てて道哉の体を侵食してゆく。
奇跡は起きない。
奇跡は起きない。
奇跡なんて決して起こらない。
我知らず瞳に涙が浮かぶ。
無力。
その言葉が胸をえぐった。
世界とは、運命とは何か。
自分がここにいる意味は何か。
「………それ、でも」
内圧に耐えきれなくなったかのように皮膚がはじけ血液が飛び散る。
ひとりでに骨に亀裂が入り、臓腑からにじむ赤が口からあふれ出る。
楽になってしまいたい。
何も考えずに身を任せてしまいたい。
運命という流れがあるのならば、それが自分に有利に働くのならば、流されることを肯定しろ。
「俺…は……」
これが終われば、力が手に入るかもしれない。
何にも侵されざる強大な力が絶望を対価に与えられるかもしれない。
たかが他人の命一つ。
言葉にすればそれだけだ。
己の命に換えることはできない。ただそこにあるもの。
「無駄だ」
目の前の男が、抑揚のない声で言う。
「その行為に意味はない。我が使い魔を倒したことは称賛に値する、未だ術の余波に抗い続けていることも評価しよう」
この世界の主。
神にも等しい権能を所持する男が、それをもって道哉を縛る。
「だがそれ以上のことは決して起こし得ない。君にはもはや、残された手段など存在しないのだから」
そうだ。
反論さえ浮かばない。
いまだに立っていることが不思議なほどの傷。身を苛む世界の反発の余波。底が見え始めた力。
状況全てが己の敗北を指し示す。
手段も無しに飛び込むことは愚かだ。
敵わないのならば、自分の出来る範囲で代替手段を用意するか諦めるしか道はない。
全ての道が閉ざされたならば今は素直に諦めろ。
それでも闘志を燃やし、雌伏の時を耐えて、いつの日か必ず_____
___いつの日か?
たった今、目の前で繰り広げられる絶望
それに対していつの日かだと?
くだらない。
ああ、くだらない!
「笑わ、せるな」
拳を握れる。己の足で立っている。耳は音を捉え、目は敵を睨みつけている。
この意志が、この程度で折れるようなものだと思っているのか。
目の前には運命がある、世界がある、絶望があり、希望があり、敵がいて、家族がいる。
ならば十分だ。
さあ心を震わせろ。感情を爆発させろ。限界を超えた力を振り絞り、完璧に制御して叩きつけろ!
「世界がどうした」
運命がどうしたというのだ。俺はここにいる。俺はここにいる。俺はここにいるんだ。世界が変わろうが俺は決して変わらない。自身を飲み込む世界を見ろ。黄昏に沈む歪んだ世界。既存の世界と反発し、すぐにでも限界が訪れる程度の世界。ハッ、鼻で笑う。表面だけ取り繕った不完全な景色。この程度が世界を左右するなどと言うのならば底が知れる。
奴は言った「世界を解き放つ」と。嗚呼、それは尊い願いだろう、敬意に値する意思だろう。世界最高の魔術師、その称号を手に入れるまでにどれほどのものを捨ててきただろうか。だがそこに優しさはない。ただ気に入らぬと遊び半分に破壊する餓鬼。人類を救う?世界を解き放つ?人類を救うために人間を殺し、世界を解き放つために世界を壊す。それを高笑いしながら行う彼らを、俺は決して認めない。
力を失っていた両腕に血液という名の炎を流し込む。
今にも崩れかけていた両足に意志という名の鋼を纏わせる。
心臓が、脳髄が、魂が、奴を叩き潰せと猛って吠える。
「が、あ………あああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
天を衝いて轟く咆哮。
鉤爪のように曲げられた両手をもって、道哉は世界という名の縛鎖を引きちぎった。
「馬鹿な!!」
目の前の男が初めて笑み以外の表情を浮かべた。
純粋な驚愕。
現在進行形で手に入れている知識も、悲願の達成までの計画も全てを吹き飛ばすような驚きが伝わってくる。
余裕などない、いつ倒れてもおかしくはない。
滴る血液が思考能力をガリガリと削っていく。
「は、はははは……」
けれどアーウィンの表情を変えてやったことがどこか可笑しくて、道哉は楽しげな笑い声をあげた。
命以外で払えるだけの対価をすべてくれてやり、ついに彼は世界を改変する術式の中核に足を踏み入れた。
「このようなことが!」
驚愕の表情を張り付けたまま、世界の主が手をふるう。
触媒や術式を大幅に短縮して、混沌とした輝きをもつ地獄の炎が召喚される。
だが、それより一瞬早く
___お前がこの世界で神に等しいというのなら
道哉はゆらりと地面に膝をつき
___俺は、その源泉を破壊する。
全身全霊で目の前の淡い光を放つ魔法陣に拳を振りおろした。
それと同時に、圧倒的な力で意識の8割が消し飛ばされ―――
世界の権能が混線する。
乱れた術式が無差別に世界を改変していく。
無秩序な力は、新たに発生した焦点を求め殺到する。
それは所々欠けた場所から入り込み、蹂躙した。
自然は不自然に、4大元素はその要素を入れ替え、道哉の中の形なきものが意味を変えていく。
霊的欠陥という不自然が自然という名の不自然に書き換わる。
彼の有するありとあらゆる属性がランダムに変換されていく。
「が、ぁ……ぐぅ……」
自分の根源が全て混ざり合い、無限に分岐していく感覚。
例えるなら、全身全てのパーツの区別がなくなり、手足は断たれ、その瞬間に治癒し、さらには各部分が増加しては消え去っていくような果てしのない違和感。
実際の世界からの抵抗力も相まって道哉の体と魂が悲鳴を上げる。
無茶をやったツケ。運が良ければ助かるだろうな、と道哉は薄れゆく意識の中思った。
助けなど求めるべくもない状況。
全ての結果は、己の力で起こすべきことでしかない。
だが、脳と魂の処理速度が絶対的に追い付いていない。
その情報量は容量からとっくの昔に溢れ出し、制御が甘くなった全身がガクガクと震えている。
かりそめの世界に干渉し、その機能を簒奪した道哉は既に道哉ではない。
彼は世界であり、核である翠鈴であり、一部であるアーウィンであり、同時に異物である悪魔でもあった。
膨大な力に飲み込まれ自己が喪失する。
体こそ形を保ったままだが、果てしなく拡散した彼の中身は自身を自身として認識できない。
2割だった残りの意識が1割となり、5%になり、ついには消えようとしたその時
『道哉!』
大切な人の、声を聞いた。
___道哉は、風みたいな人ね。
1ヶ月と少し。
共に過ごした中で出た、過ぎ去った瞬間に忘れてしまうような何気ない会話。
___なぜって?
彼女はいつものように穏やかに笑って、彼を表現した。
___だって道哉はいつも私たちとは違うものを見てる。
だから近づいて触れても触れたような気がしないし、同じものを隣で見ても隣にいると確信できないの。
目の前に立って、男の頬に触れる彼女。
___あなたは、ここにいる?
その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
けれど彼女は取り繕うかのように言葉をつづけた。
___それが寂しいわけじゃないの。
風や空気っていうのは、触れられなくてもそこにあるのが自然なものだから。
でもあなたはいつか、風みたいに私の手の届かないところに行ってしまいそう。
その言葉とは裏腹に、彼女の顔は儚く。
___もしそうなっても忘れないでね。私たちは家族なんだって。
それほど長い時間を共に過ごしていないにもかかわらず、彼女の瞳に他人に向けるような光は何ひとつ無く。
やがて避け得ぬ別れが来る。そう確信しているかのような一抹の寂しさが浮かんでいた。
自分を包みこもうとした炎が、何らかの干渉を受けてかき消される感覚。
いつの間にか閉じていた瞳を静かに開く。
目の前には冷え切ったまなざしの男。
暗黒を宿した瞳をもつ悪魔。
そして、雲霞のような使い魔の大群がそこにいた。
空を仰ぐ。
いつの間にか完全に日は落ち、空には星が輝いていた。
道哉は己の血にまみれた手で、涙をこらえるように目元を隠した。
ため息のような、音と意味をなさない声が口をつく。
___運命の流れに身を任せ、抗いながらも流され、そして、ここまで辿り着いてしまった。
アーウィンの口が動く。
使い魔の群れが脈動する。
___それでも、確かに変わっている。あとは結果唯ひとつ。
血の気こそ失せているものの、いまだ呼吸をつづける翠鈴を見る。
ありがとう。
心の中で静かにつぶやいた。
ゆらりと立ち上がり、軽く足を開く。
「さあ、来いよ」
異形の声が空気を震わせ、彼らの足が大地を踏み鳴らす。
1対100
目の前に迫る絶望。
死を予感させる殺意。
かき消された炎の残滓が宙を舞う。
そして、荒れ狂う暴風が断末魔ごと異形の群れを叩き潰した。
あとがき
皆さんは、運命というものをどう思いますか?
私のスタンスはこの作品に示しているような考えなのですが、友人にとってはロマンのようです。
歳を考えろって突っ込むのが楽しい楽しい。
どうも、本格的に時間が足りない作者です。
展開の速さを売りにここまでたどり着きました。ひとえに皆様の応援のおかげです。
2章もついに終わりを迎えそうです。次の更新は8月中旬になるかも?
今回の話は自分の中で改善の余地があるものなので、皆様の感想や意見をお待ちしております。
7/26 初稿
3/13 誤字修正