「孫娘の護衛を頼みたい」
そのときの道哉にとって、状況は既に怒りや悔しさを感じさせることもなく、ただ緩やかな諦観と共に受け入れるしかないものであった。
古びた骨董屋のカウンター越しに向かい合う老人と青年。
外からかすかに聞こえる喧噪とは対照的な静寂がその場を包んでいた。
しわがれた老人の声が響く。
「名は翠鈴。活発な娘なのでな、少々護衛には骨が折れるかもしれん」
差し出された写真を見ながら道哉は無感情に質問を返す。
「まさか四六時中張り付いているわけにもいかないでしょう。見知らぬ男一人を大事な孫娘に近づけるのですか?」
慇懃無礼とも取られかねないその態度も、老人にとっては感情を殺したプロフェッショナルの行いに見えたようだった。
こちらを推し量るような視線が多少緩む。
「道士からの紹介だ。疑うことなどせぬよ。あなたには恩人の孫、という演技をしてもらいたい。親を亡くし路頭に迷った所を引き取ったという設定だ」
白くなったひげをなでながら、老人はゆっくりと幼子にでも言い聞かせるように語る。
「昔のつてを頼ってわしの所を訪ね、身元保証人を引き受けてもらったという立場だ。翠鈴が働いている店にはコネがある。未だ香港に不慣れなあなたのサポートを孫娘に頼んだ、ということでどうだろうか」
なるほど、と表面上は相手の作った筋書きに無感情を貫いていたものの、道哉の内心は必ずしも穏やかではなかった。
老人は「引き取った」という表現を使った。
つまりそれは老人の家に住む可能性が高く、孫娘というのなら彼と同居している可能性も高い。
もしそうなった場合、四六時中一緒にいる理由ができてしまった。
だがそれはあまりにも道哉に対する負担が大きすぎる。
流石に感情を抑えきることができず、無言で眉をひそめた道哉を見、老人は安心させるように言葉を付け足した。
「本来ならば誰ひとり来てもらえずとも文句は言えない立場だ。大きな負担をかけるつもりはないから安心してくれ。エリクサーも以前の礼として道士に差し上げるつもりであったしな」
その重要度が低いともとれる発言に、道哉ははっきりと不信を示した。
「わざわざかの道士に依頼をするほどの状況にあるのではないのですか?私はエリクサーの対価として命一つ分守り抜くつもりでいたのですが」
この世の全てに興味がないかのような口調で道哉が問う。
良くない傾向だ。
自暴自棄とでもいえばいいのだろうか、礼を尽くすことすら満足にできていない。
仙人の修行場にいた者にとって自らの依頼は筋違いなものと理解しているのだろう。
老人はその態度を咎めたり不審に思ったりはしていないようだ。
「今のところは保険以上に意味はないのだ」
どこか疲れたような口調で彼は語る。
「近頃、翠鈴の働く店のある地区を中心に妙な事件が頻発している。人が消える、特殊な力を持つ物品が盗まれる、などのな」
個人ではなく組織的な手口だ。
忌々しげな顔で老人が吐き捨てた。
先ほどの疲れたような顔といい、どうやら思ったように捜査が進展していないらしい。
引退したといっても香港の表と裏の中間に位置したとされる顔役。未だに多大な影響力と責務、気苦労が絶えないのだろう。
「わしの家にいるときは好きにしてもらって構わない。護衛をしてもらいたいのは店にいる時だ。何か違和感などを感じたり、直接的な被害があったら対処と報告をしてもらうだけでいい」
住居と仕事が用意され、仕事の最中にだけ同居人と周りに気を配っていればいいということか。
___それにしても「対処と報告をしてもらう『だけ』でいい」か。
呆れたような笑みを浮かべるのを間一髪で抑え込みながら道哉はひとりごちた。
___ただの強盗、窃盗団からの護衛と秘密結社からの護衛、どちらにになるかわからないのに気軽に言ってくれる。
人が消えた、と言っていた。
記憶が確かならば原作ではアルマゲストの首領が翠鈴の心臓を手にしていたはず。
もしも既に消えた人間が生贄にされたのだとしたら、既に儀式は終わっているのではないか?
べリアルが召喚された時も有象無象の若者100人程度を捧げただけで、限定的とはいえあれほどの強大な悪魔を召喚出来ていた。
特殊な力を持つ物についてはわからないが、どう転ぶのか未だ確定していない状況。
「わかりました。受けましょう」
元から拒否する気はなかった。うじうじとためらっていただけ。
「そうか、それはよかった」
肩の荷が一つ下りたように老人が安堵の息を漏らした。緩んだ頬が、いかに孫娘を心配していたかを物語っている。
「周りには客人として扱うように言い含めておく。必要最低限の護衛さえ果たしてくれるならそれなりの便宜を図ることができるだろう」
この老人の一言はどれほどの影響力となって返ってくるのだろうか。
「何か、恩を返しに来たのにそこまでしていただくと申し訳ない気持ちになりますね」
老人につられるように道哉も自然な笑みを浮かべた。
そうして彼らは契約を結ぶ。
期限:事件の概要がつかめるまで。
報酬:依頼中の住処と食事。(道哉が遠慮したため)
内容:対象の護衛と受動的な捜査。
簡単に確認を済ませ、道哉は差し出された手を握り返した。
「頼むぞ、道哉」
「俺に任せれば百人力。安心しろよ爺さん」
これからの生活のための予行演習。
どこか芝居がかったやり取りとともに、その契約は交わされたのだった。
「こいつを5番テーブル!」
「はい!」
「道哉!2番のお皿片付けて!」
「了解!」
そうして1ヶ月後、そこには店にすっかりなじんでしまった道哉がいた。
人気店とは聞いていたが、平日休日を問わず食事時には異常に忙しくなる店だとは思わなかった。
素早く食器を片づけながら道哉はチラリと翠鈴に視線を向けた。
若干のあどけなさが残るものの間違いなく美人。
どんなときにも笑顔を絶やさず、どんな客にも嫌な顔一つしない。
初めて会ったときも同じだった。
___お爺ちゃんに引き取られたんでしょう?だったら今日から私たちは家族。よろしくね、道哉。
家族。
前世の知識が穴だらけの道哉にとって、その言葉は困惑に足るものだった。
父≒敵
母=路傍の石
弟=半身
弟=庇護対象
そんな家族しか経験していない彼は翠鈴の取る行動の一つ一つが新鮮で、驚きで、そして確かな安らぎを感じさせてくれていたのだった。
友人より近くて、恋人とは種類が違い、尊重しながらも遠慮はない。
この世に生を受けてから初めて訪れたある種の安心感が、道哉の心の傷を確かに癒していた。
ここ1ヶ月の生活を思い出しながらも道哉の手は止まることなく動き続け、人の多い店内を足音も立てず滑るように移動する。
仙人の修行の成果。
まさに技術の無駄遣いだった。
それにしても、と道哉は店内を見渡した。
「野郎どもの多いこと多いこと」
大衆向けの飲食店だからと言ってここまで男だらけとは。
「それもこれも、看板娘のおかげってやつかな」
そんな独り言を口の中で呟きつつ、道哉は困ったように笑いながら昼間から酔っ払っている男の相手をしている翠鈴に再び目をやった。
最近は勤労意欲に目覚めてしまったのか働くことに熱中しがちだが、本来の仕事は翠鈴の護衛である。
意識を出来るだけ彼女から離さないようにしなければ。そんなことを考えた瞬間、不意に翠鈴がこちらを向いた。
まるで元からそうであったように重なった目線が、喧噪を遠くへ追いやって時を止める。
世界にたった二人しかいなくなったような錯覚。
見つめ合ったまま固まった二人を解凍したのは、やはり不満の音色を含んだ野次だった。
「見せつけてくれるじゃねーか!」
「おいおい、俺に望みはないとでもいいたいのかこの野郎~」
「翠鈴ー、こんなひょろい兄ちゃんじゃなくてこの俺と!」
「いやいや、ここは俺が」
「てめぇ彼女に言いつけるぞ」
「こいつ彼女持ちだったのか!裏切り者め!」
あっという間に混沌と化した店内に、道哉はやれやれと溜息をつきながら事態の収拾をはかった。
「俺と翠鈴は家族です。やましいことはありませんよ」
嘘つけ。という視線が道哉に集中する。
それをものともせずに新たな料理を運びながら言葉を重ねる。
「なんなら本人に聞いてもかまいませんが」
すぐさま自分に向けられた視線に慌てながらも、翠鈴は早口で疑惑を否定した。
「そう、そうです家族です。あなたたちが想像しているようなことは決して。それと道哉はひょろい兄ちゃんなんかじゃありませんよ。結構筋肉がついてて胸板とか厚「ちょっとその口を閉じようか」痛い痛い痛いいたいいたい!」
ギリギリと音が鳴りそうなほど強くかけたアイアンクローを外し、また道哉は仕事に戻る。
幸い店内に響き渡るほど大きくはなかったようで、売上が落ちるほどではないようだ。
店長が親指を立てているのが見える。グッジョブ。あ、親指が下向いた。
恐るべし翠鈴、すでに店長まで虜にしていたらしい。まさに魔性の女である。
と、くだらないことを考えていると先ほど彼女持ちがバレて集中攻撃に合っていた男が見えた。
「翠鈴ー!昨日彼女に振られたんだ、慰めてくれぇ~」
実に情けない声で翠鈴の腰のあたりに抱きつこうとする振られ男。
瞬時に道哉は翠鈴が回避不能な位置にいることと、手には熱い料理があることを見て取った。
加速。
するりと人の隙間を縫い、地面を蹴って一瞬のうちに翠鈴のもとへ到達する。
彼女の手からそっと料理を奪い、近くのテーブルに素早く滑らせながら翠鈴の腰を抱いて体を入れ替えた。
ここに依頼主がいれば手放しで称えるほどの刹那の早業。
初めての護衛ということで、老人の人脈を使って人種や人柄を問わずに教えを請うたことが見事に実を結んでいた。
もちろん、1ヶ月程度では突発的な事態への反応と自らの体を盾にすることしかできないが。
驚いた顔で自らの腰に抱きついている男を冷めた目で見ながら、道哉は丁寧な口調を崩さずに大きな声で死刑宣告を下した。
「お客様、セクハラはご法度です」
途端に殺気立つ店内。
蒼白になった振られ男の顔が実に哀愁を誘う。
体格のいい男が数人席を立ってこちらに歩いてくる。
無言で近づいてくるところが怖い。真顔なところが実に怖い。
問答無用で振られ男改めセクハラ男を捕まえると、店の外に引きずっていく。
「店の評判だけは落さないようにしてくださいねー」
冗談とも本気とも取れる一言に筋肉質な男たちはニヤリと笑うと、返事をせずに出ていった。せめて肯定してから行って欲しい。
「み、道哉、大丈夫なのあの人!?」
自分が抱きつかれかけ、危うく火傷を負いそうだったことも忘れて翠鈴が声を上げる。
「大丈夫だよ。彼は傷一つなく、しかし驚くほどに礼儀正しくなって再登場するから」
左手で十字を切りながら道哉は返答する。
実際彼らから悪い噂を聞くこともなく、話した限りではいたって善良な人物だったので本当に心配はない。
客観的に見たら明らかにコメディタッチな脅しを受けるだけだろう。
はっはっは、と笑いながら翠鈴をからかう道哉には、1ヶ月前にあった影など欠片もなかった。
久しぶりに心の底から浮かべた笑顔。それを再び亡くしたくはないと強く思う。
___我が力は守るために。
その言葉の意味が、自分にはどれだけ分かっていただろう。
その言葉の重みが、自分程度に支えられるなどと思いあがっていたのだろうか。
宝石のように輝く時間を過ごしながら、道哉は再び運命に抗い始めようとしていた。
家族としての距離感がつかめぬまま翠鈴の腰にまわしている右手と、殺意のこもった視線を必死に無視しながら。
あとがき
どうも、尿に血が混じった挙句真昼間に倒れた作者です。
流石に1日1食で睡眠時間を削るのはやりすぎたか……。
動き、というか躍動感の無い展開が続きました。こういう面倒な場面を飛ばしたら薄っぺらい話になるような気がするので進まない筆に苦労しました。
キンクリの使い方も考えものですね。
とりあえず2章の山場が近づいてきました。
ええと、翠鈴の性格の微妙な変化は原作和麻の子供っぽさと無駄に精神年齢の高い道哉との違いだと思ってください。
爺さんの立場とかそういったところはぶっちゃけ覚えてな(ry
皆さんの感想お待ちしております。