ロイ・エントリオ。
彼は学園都市マイアスにおける都市警察強行機動部隊の第一隊隊長を務めている。
まず、マイノスという都市においてエリートクラスと言って良い立場にある。
容姿も整っているし、割と面倒見も良い。
そんな彼だが、実の所深刻な悩みがあった。
彼は実の所、出身都市へと帰りたくない、というより帰るのが困難な状況に置かれている。
今でもそうなった時の事を時折夢に見る。
当時、彼の出身都市は長らく汚染獣の襲撃を受けてはいなかった。
しかし……。
それは、その後も襲撃を受けないという事を意味してはいない。
知識としては知っていた。
それまでロイは優れた才能を発揮し、鍛錬では常にトップクラスの成績を維持していた。
同年代を相手としては早々負ける事もなく、周囲からは誉められ、次代を担う者として期待されていた。
――その全てが、一瞬で水泡に帰した。
あの日。
汚染獣が襲ってきたその日に。
経験の豊富な都市からすれば、大した襲撃ではない。
当時襲ってきたのは汚染獣の第一期が一体のみ。
槍殻都市グレンダンどころか、法輪都市イアハイムでもそう苦労するような相手ではない。
だが、長く戦った事のない……鍛錬しか経験のない都市には強敵だった。
全員が懸命に戦った。
特に戦いを決定づけたのは、ロイの同年代の生徒達だった。
彼らは自分達が経験不足の都市の武芸者の中でも、更に足手まといな事を自覚してはいたが、それでも自分に出来る事をした。
汚染獣に強い技をなかなか放てない最大の理由は相手が空を高速で舞う事だった。
一撃離脱をかける汚染獣に、武芸者達は回避が精一杯だった。
何とかしなければならない、それを目の当たりにして、彼らは大人達の制止を振り切り、より強い技を放てる大人達に都市の未来を託して、同期五名の内四名で突撃をかけたのだ。
囮を務めた一人が汚染獣に喰われた。
次の一人が取り付く前に尻尾の直撃を受け、大地に叩き付けられ逝った。
残る二人の内、片方がもう片方の足場兼最後の囮となり、結果喰われた。
そして、最後の一人が空を舞う汚染獣に遂に取り付き、その羽に自らの全力を叩きつけ、羽を砕くと共に力尽きて地面に叩きつけられた所に、羽を砕かれたが故に遅れて落下してきた汚染獣の体に押し潰された。
だが、その時彼は恐怖の声など上げはしなかった。
その時の最期の言葉は念威操者を通じて皆に伝わった。
『やった』
『すいません、後はお任せします』
後に奇跡的に無傷で発見された彼の頭部。そこには苦痛ではなく、笑みが浮かんでいた。
これに発奮しない者はいなかった。
遂に大地に引きずり落とされた汚染獣に向け、都市の武芸者達は自らの全力を叩き込んだ。
無論、地に引きずり落とされたからといって、汚染獣は強かった。
更なる死者も出た。
だが、最早汚染獣は逃れる事が出来ず、遂に汚染獣は倒された。
都市は歓喜の声に満たされ、武芸者を讃える声が沸き起こった。
……ただ一人、戦いから逃走したロイ・エントリオを除いて。
そう、彼はただ一人戦いの場から逃げ出したのだ。
圧倒的な汚染獣の姿を見た時、彼はそれまでの自信も誇りも失い、恐怖に硬直した。それだけなら良かった。大人達であっても、そうなった者は大勢いたからだ。
汚染獣を地に引き摺り下ろしたロイとその同期への評価は一変した。
ロイを見習え、どうしてこんな事も出来ないのだ、と叱っていた彼らの親はこう言った。
『我が家の誉れだ!』
彼らの剄技の拙さに苦笑を浮かべ、溜息をついていた師範はこう言った。
『彼らは未熟な所はあったかもしれないが、立派な武芸者だった』
共に戦った武芸者達はこう言った。
『彼らは己の全力を尽くした。この勝利の半分は間違いなく彼らの献身のお陰だ』
都市の住人達はこう言った。
『彼らは都市の英雄だ』
ロイを私達も鼻が高い、自慢の息子だと語っていた両親はこう吐き捨てた。
『我が家の恥だ』
ロイを誉め、他の者達への見本として持ち上げていた師範はこう嘆いた。
『彼は技術は一人前だったかもしれない。だが、心は未熟もいい所だった』
彼の逃走を目の当たりにした武芸者達はこう罵った。
『武芸者の恥だ』
都市の住人達は或いは嘲笑と共に、或いは怒気と共にこう言った。
『恥知らず』『都市の武芸者の汚点』
もし、これが他にも逃走した者がいれば、ロイへの非難は分散されただろう。より責任のある大人が非難されていただろう。
実際には、他にも逃走を考えた者はいただろう。
だが、逸早く逃走したロイの姿が、そうした者の足も止めたのだ。
『ああはなりたくない』
それが他の武芸者を一致団結させ、逃亡者をロイ一人に食い止め、結果としてロイ一人に非難を集中させる事となった。
エントリオ家がそれでも名誉と栄誉を多少減衰させつつも維持出来たのは、一重に息子の醜態を拭わんとばかりに奮戦し、汚染獣に止めを刺した父と、汚染獣を叩き落した英雄となった四人の少年の中にロイの一つ違いの弟がいたからだ。
その結果として、エントリオ家が非難されるのではなく、エントリオ家の恥部として周囲から認識されたのだ。
……逆に言えば、家の名もロイを庇うものではなく、むしろ非難の対象となった。
『親父さんは勇敢なのに、何であんな出来の悪いのが混じっているのか』
『弟さんは命を賭けて都市を守ったのに、兄として恥ずかしくなかったのか』
ロイの居場所は最早都市にはなかった。
両親も汚物を見るような視線を向ける中、まるで廃棄物のように、ロイは学園都市マイアスに送られた。
彼が都市を発つ際、見送りに来る者は誰一人としていなかった。
彼の事を誰も知らぬ学園都市マイアスに来て、初めてロイは再び穏やかな日々を手に入れる事が出来た。
だが、同時に『もしや、また何時か汚染獣が襲ってくるのではないか』と恐れてもいた。
だが、学園都市は汚染獣に遭遇する事はなかった。
汚染獣との戦いがなければ、ロイ・エントリオは如才なく日々を過ごし、何時しかマイアスでもそれなりの有名人になっていった。
だが、卒業が近づくにつれ、ロイの不安は高まっていった。
卒業したとて、どこに行けばいいのだ。
故郷の都市へは戻れない。
戻った所で待っているのは冷ややかな視線か蔑む視線。無視と罵声、陰口だ。
では、他の都市へと移り住むのか?
どうして?そう問われるだろう。その時、自分はどう説明すれば良いのだろう。
学生同士ならば誤魔化せても、移住の際の審査はそうはいかない。何故、故郷を離れたのか。そのあたりは厳密な確認が行われる。理由は単純で、何らかの犯罪を犯して都市を逃亡乃至追放された可能性もあるからだ。
いかに罪そのものは、都市を離れれば実質問われる事もないし、母都市に確認する方法もないとはいえ、誰とて殺人鬼を、詐欺師を、泥棒を自分達の都市に迎え入れたいと思う訳もない。
放浪バスでの通りがかりならば我慢もしようが、定住となれば、きちんとした審査を受けねばならない。
もし、そこで審査を通過したとしても、故郷での醜態を隠せても、武芸者である事は隠せない。汚染獣が襲ってくれば、健康な彼は自然と戦力たる事を求められるだろう。
――そして、また都市を逃げ出す日が来るのか。
いやだ!
いやだ、いやだ、いやだ!
何故武芸者だからって、汚染獣と戦わないといけない!
何故この世界には汚染獣なんてものがいるんだ!
次第に彼の思いはこの世界そのものへの憎しみとなっていった。
そして、そんな表だっては普段どおりに、内心が焦りと恐れと憎悪に満ちている中、それは現れた。
「我々は影だ」
夢の中のような。
茫漠とした世界の中、ロイ・エントリオに語りかける存在がいた。
「リグザリオの呪縛によってこの世に残された我々は、影としてこの世界にある。斜陽が生み出す長い影だ。持ち主をはるか彼方に置いたまま、その姿を真似る事しか出来ないものだ」
何を言っているのかよく理解出来ない。
けれど。
「そんな運命から逃れたいと思った事はないのか?」
ある。
「汚染獣と初めて相対した時、恐怖はなかったか?」
あった。
だからこそ、自分は逃げた。誰から非難されようとも、あの時自分は恐怖から逃げる事しか考えられなかった。
「危険を押し付けながら、その補償として与えられた生活を羨む事しかできない連中に怒りを感じた事はないのか」
あるとも!
何も知らない奴らに何故ああまで非難されなければならない!
自身がその生活に何も疑問を持たずに、あの時まで生きてきた事を。そもそも自身が危険を果たすという意味を考えていなかった事を。自身が役割を何も果たさず逃げた、本来の役割を果たさぬならそれは単なる寄生虫に過ぎない事をどこぞの棚に放り捨て。
受け取ったものを何一つ返していない自分に、そうした相手を非難する権利はないという事を忘却し。
同じ立場の武芸者が、父も自身を非難した事も忘れはて、ロイは叫んだ。
「どうして自分達がこんな危険な場所で生きなければならないのかと考えた事はないのか?」
ある。
こんな危険な。
こんな世界で。
何故自分達は生きねばならないのか。
「ならば我らと共にあるがいい」
伸ばされる手。
そこに掴まれる仮面。
それは既に滅びた狼を模していたが、彼はそんな動物の事は知らなかった。ただ、知識からそれが動物を模したものだという事だけが理解出来た。
「リグザリオの思想など」
「イグナシスの夢想の前には塵と同じ」
彼らの言っている事、その内容自体は時折理解出来ない事がある。
だが。
彼らの言葉。
その大元、この世界の崩壊。
無意識の内に、彼の内の世界への憎悪と結びつき、彼は仮面へと手を伸ばした。
「っ!?」
ロイ・エントリオは飛び起きた。
寝汗がべっとりと衣類につき、気持ち悪い。
「……夢?」
ぼんやりと呟く。
望みながら上げた手。しかし、そこに現れる確かな痕跡。夢でない証。
「は、ははっ、くくくくくくっ、くふふふふふふふふっっっ!」
笑い出しかけて、周囲に聞こえては拙いと抑え込んだ声がくぐもり、尚抑えきれぬ声が洩れる。
ああ、あれは夢ではなかったのだ。
そうだったのか。世界の真実とは、そんな所にあったのか。
ならば動かねばならない。
レヴァンティンに辿り着かれる前に、リグザリオ機関に達し、眠り子の夢片を全て破壊する一手を模索しなければならない。
その為には、リグザリオへと通じる縁を結ばねばならない。
ああ、そうだ、だからこそ彼らは自分に接触してきたのか。
この薄汚い世界を変える為に、あんな奴らの非難のその大元を破壊する為の一手を自身に与えてくれたのか!
「まずはマイアスの電子精霊を手に入れなくては」
そうすれば。
イグナシスの夢想を多くの武芸者が共有しさえすれば。
その時こそ、この世界に平和が訪れるだろう。
自律移動都市そのものが必要ではなくなる。オーロラ・フィールドがそれを可能とするだろう。
そう考える自分に何も疑問を持たぬまま。
その行為の意味を考える事もせず。
ロイ・エントリオは動き出す事になる。
『後書き』
ニーナのマイアス活動編の前に、原作では既に動いてた彼の行動です
この話では、ニーナが到着するのは、彼が正確にはまだ電子精霊を奪っていない状態からになります
次回はニーナと共に彼も登場です
……しかし、完全にオリジナルの展開って改めて難しいと実感しました
予想以上に時間がかかってしまいました
……まあ、レギオスの場合、まだまだ謎が完全に明かされてない事、話が複数の刊に渡ってリンクしてる事など色々あるのですが
とりあえず、なるだけ早く、次回を上げたいと思います
今後もよろしくお願いします