ガハルドにとって、サヴァリスという存在は憧れだった。
ガハルド・バレーンはルッケンスという槍殻都市グレンダンにおいても、その最初期より存立し続ける古い流派で師範代を務めているという、まずもって強いと称される武芸者だ。
そのルッケンスにおいて現れた、初代に続く二人目の天剣授受者、それがサヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスだ。
彼の事をガハルドは彼が未だ幼い頃から知っている。
最初に彼と初めて会った時覚えたのは、感嘆だった。
まだ幼い少年がルッケンスの技を見る見る間に取得していったのだ。それは『ルッケンスに新たなる天剣授受者が誕生するか』という期待を十分に感じさせるものだった。
そして、それは嫉妬へと変わった。
自分が一月二月、或いは数ヶ月、数年をかけて到達した高みへ彼は軽々と昇って行くのだ。ガハルドとて武芸者である。それが悔しくない筈がない。
だが、それはやがて諦観に変わった。
彼は違う存在なのだと。
グレンダンの名門ルッケンスの血の結晶とでも言うべき彼は自分とは違う存在なのだと何時しか諦めに転じた。それはたちまちにして追いつき、追い越されたガハルドなりの自身の誇りの守り方だったのかもしれない。
そして、それはサヴァリスが当時の最年少記録でもって天剣を得た時、憧れへと変わった。
サヴァリスに追いつき追い越すのだと願うのではなく、その横に並びたい、共に戦いたいと願うようになったのだ。
しかし――。
ミンス・ユートノールが味わったように、ガハルドも失意を感じる事となった。
サヴァリスすら上回る更なる最年少天剣授受者、レイフォン・アルセイフの誕生である。
今なら分かる。
自分はレイフォン・アルセイフに嫉妬していたのだと。
サヴァリスと同じ立場に立ったと示す天剣と共に、サヴァリスと共に汚染獣と戦えるその立ち位置に。それ故にガハルドはレイフォンが闇試合に出て、金を稼いでいると知った時……怒った。
まるでサヴァリスを汚されたような気がして。
だが、怒りを感じる中、彼は次第に心の内から湧き出る囁きに気付く事になった。
『この事を元とすれば、天剣を自身が手にする事も可能なのではないか?』、と……。
それは甘美な誘惑だった。
彼自身が憧れとしてきたサヴァリスと共に戦う、という夢が今正に手の届く所にあるような気がしたのだ。
無論、自分の理性は五月蝿くがなりたてていた。
『それは間違っている』、と。
だが、結局ガハルドは誘惑に屈し、レイフォンを脅迫し……そして敗北を喫した。
その後になってガハルドはレイフォンの行為を告発した。
だが……それがガハルドにもたらしたのは屈辱の日々だけだった。
真面目な武芸者からは『負けた後でなど、何と惨めな奴だ』と嘲笑を受けた。
闇試合に密かに出ていた武芸者達は罰金を支払い、闇試合を中断させた彼への怨みから悪評を流した。ただし、真実を多分に含んだ。
市民達はレイフォンへの当初の驚愕と嫌悪が王家からの発表の後で薄れる中、告発者の真相……流された真実を含む悪評からガハルドを『脅迫が失敗したから、腹いせに告発した』と蔑んだ。
そして、彼の誇りを粉々に打ち砕いたのが、サヴァリスから突きつけられた真実だった。
レイフォンは彼との戦いに措いて手加減していた。そして、自身はそれに気付く事さえ出来なかった。気付けない程に自身は全力を尽くし、気付かせない程に圧倒的な実力差があった。
そして、彼には否応なく目を逸らしていた事実、ガハルド自身の醜い内心が突きつけられた。
『何を言おうと君がレイフォンを脅したという事実は変わりない』
『武芸者の律とやらから外れていたのだから、しょせんは君も同じ穴のなんとやらだ』
何より辛かったのはそれに反論出来ない現実だった。
何時しかガハルドはルッケンスの道場に姿を見せる回数が減り、闇試合に出るようになった。
闇試合は表向きは閉じられた事になっている、が、実際にはしばしほとぼりを冷ます期間を置いただけでまた何時しか復活した。
そして、彼も気付く。
とうの昔にグレンダンの市民もまた、少なからぬ数が闇試合の事を知っていたのだと。そしてそれはイコールで、闇試合に出場する天剣授受者の存在もまた人々は知り、あの時までそれを肯定していたのだと。
闇試合にレイフォンが出たのは何故か?
それは多額の賞金が出るからだ。
多額の賞金が出るのは、いや、主催者が出せるのは何故か?
それはそれだけ大勢の人間が賭けをしているからだ。
……そう、天剣授受者が受ける褒賞金と比べても尚多額の賞金を出しても、十分に胴元が儲かる程の賭け金が動く程に大勢の市民がこの闇試合を見に来ている。
グレンダンは、動く地域に汚染獣が余りにも多い。故に他都市との交流も少ない。
それが意味する所は、多額の金が動く闇試合が成立する程にグレンダンの市民がそれに当たり前のように来ているという事。果たして何人に一人がここに来た事があるのだろう?少なくとも何十人に一人、というレベルではあるまい。数人に一人……一度ぐらいは来た事がある、や聞いた事がある、ぐらいの者も含めればもっと多いだろう。
分かってしまえば、グレンダンでのあの告発が然程混乱を招かなかった理由もよく分かる。当たり前だ。とうに知っていたのだから。
何はともあれ、ガハルド自身はあれから天剣に挑んではいない。
別段、あの試合で再起不能の大怪我を負った訳でもなく、今では彼も普通に汚染獣と戦える。特に支障を感じた事もない。
では何故か?
あれから幾度か天剣へと挑む試合そのものは行われた。
ガハルドも或いは直接に、或いは映像で見た。
そして分かってしまった。
挑戦者の技量と自分の技量に大差はない、と。
以前にサヴァリスが多少本気を出した途端に、自分は手も足も出ずにやられてしまった。そして、サヴァリスは自分が善戦した筈のレイフォンはサヴァリスと真っ向遣り合える相手なのだと言っていた。
そうして見てみると、いずれの天剣戦に措いても、以前に自分がされたような絶対的な力の差で叩き潰されるような試合は一つもない。いずれも、その全てが挑戦者が善戦し、その上で最後は天剣授受者が勝利を納める、という形だった。
分かってしまえば、何とも馬鹿らしい。あれは単なる演出だ。
今、自分が出た所で、起きるのはアレの繰り返し。自身の技が巧妙に天剣授受者を苦戦、しているように見させてもらって、そうして最後は地に倒れ伏す自分が目に浮かぶようだった。
そして、その日。
それは起きた。
ガハルドはその日もまた、闇試合に出た。金ばかりは遥かに稼げるのだが、ガハルドに贅沢の興味はない。生活に必要な分を引いた後の金はあれ以来街中に設けられるようになった寄付の箱に放り込み、そのまま帰路についた。毎日やっている訳ではない。今、参加している闇試合の関係上、大怪我を負って寝込むような可能性は常にあるから、十分な蓄えは用意している。
『………ルッケンスの秘奥をせめて実戦で使えるようにならねば話にならん……』
闇試合は危険度で言えば、汚染獣戦と公式試合の中間に位置していると言える。
人間が相手である以上、倒れた所で生きていたからといって、止めを刺されたりする事はない。だが、公式試合と比べ重傷を負う危険は
高い。そうした意味では、下手を打てば死ぬ、実戦に近い感覚で技を試せる実践の場としてガハルドは闇試合を利用している。逆に言えばここで使えもしない技ならば、汚染獣戦で或いは天剣との試合で使うなど夢想に過ぎないという事だ。
ガハルドはルッケンスの高弟故に奥義書を閲覧する許可を得ていた。
練習では成功した事がある。
だが、所詮それは偶然の産物に過ぎず、威力も甚だしく低いものだった。
「どうする……どうすれば……」
考え込んでいたからだろう、一瞬反応が遅れた。
「!」
それでも体が咄嗟に動く。
上から突然飛び込んできた何か、おそらくは武芸者が力任せに打ち込んでくる拳を受け流す。……重い。武芸の名に値する技などではない。力任せの一撃だ。それでもガハルドの腕には戦闘には支障がない程度とはいえ、微かな痺れがある。自身の技はこの程度の相手ならば完璧だった筈だ、それなのにこの感覚、という事は膂力という、ただ一点においてこの目前の男は自分を大きく凌駕している事になる。
『或いは……リミッターが外れているのか?』
人の体はその本来の力の大半は通常使われる事なく眠っている。
火事場の馬鹿力、という言葉があるが、これは一時的に脳内のリミッターが外れた事により、通常の自分では想像もつかないような怪力を発したりする事だ。例えば、普段数人がかりで持ち上げるような中身の詰まった大きな箪笥を一人で燃える家から運び出すような。
とはいえ、それは諸刃の剣だ。
常にそんな力を出し続ければ、筋繊維は断裂し、間接は壊れ、やがては人体そのものの破壊を生むだろう。それを理解した上で、男を見れば、明らかに尋常の状態ではない。
おそらく、既にいずこかで戦闘を行ったのだろう。
左肩から先はダラリと力なくぶら下がっている。動けば強引に振り回しでもするだろうが、既にそれをやった事を示すかのように左腕はそのあちこちで歪な方向に曲がり、どす黒く鬱血している。おそらく筋繊維はズタズタになってまともに動かない筈だ。
先程打ち込んできた右はこちらはまだマシな部類だが、それでも白い骨拳の先から突き出している。
そして、何より異常を示すのが目だ。血走っているとかそういう事ではない、白目を剥き、明らかに正気どころか意識を保っているかさえ怪しいものだ。
ならば、強力な一撃で粉砕するのみ。
相手の攻撃を油断して喰らわぬよう慎重に捌きながら、剄を練り上げてゆく。
『一撃で決めてやる』
この程度の相手にそれが出来ねば、自分の求める高みに至るなど不可能だろう。
そんな決意と共に踏み込んだガハルドは獅子吼を叩きつける。
『内力系活剄の変化、戦声』
叩き付けられた大音声に一瞬、相手の動きが止まった。
その瞬間に瞬時に相手の内懐に飛び込む。ルッケンスの技は格闘術、この超至近距離こそがその本来の距離だ。
存分に練り上げられた剄を叩き付けた拳を通して打ち込む。
『剛力徹破・咬牙』
ルッケンス武門における浸透破壊剄技の一つ。
外からの強力な衝剄と内からの徹し剄によって内外から相手を破壊する剄技だ。汚染獣にさえ通じる一撃を受け、男の上半身は殆ど吹き飛ぶ。残された頭部は一瞬宙に浮いていたかのようにも見えたが、次の瞬間重力に負け、落ち、地面に転がる。下半身はしばらく呆然と立っていたが、間もなくバランスを崩し、こちらも地面に倒れた。
その光景に目もくれず、自身の両の掌を見詰め自嘲する。
所詮、己はこの程度だ。これがサヴァリスだったらどうだっただろう?おそらく、だが、この程度の相手ならばきっとただの一撃でその全身を吹き飛ばしていただろう。
彼はこの瞬間、死体となった残骸から目を離していた。
彼はこの瞬間、自身の力を嘲笑していた。
だから、それに気付かなかった。
『チカラガホシイカ』
突然頭に響いたそれは言葉でさえなかった。ただ意志を叩きつけてきたというのが相応しい。
『チカラガホシイカ』
再び繰り返す声に、彼の心の奥が叫ぶ。
彼の心が吼え立てる。
ああ、そうだ、自分は力が欲しい。のろり、と動くガハルドの頭が転がる頭部へと向けられる。そこにあるのは――。
ズルリ、と頭部を割るようにして現れる異形。
『チカラガホシイノナラバ――』
汚染獣。
そんな言葉が頭に浮かぶ。だが、今ガハルドはふらふらとそれに近づく。
『クレテヤロウ!』
槍殻都市グレンダン。
その薄暗い路地の一角で、微かに誰かの咆哮が響いたような気がした。
『後書き』
何と言いますか、リーリンがツェルニにいたりするとこの後の展開が大分違ってきますよね
ここからはレイフォンの性格は違うし、ゴルネオとの関係とかも大分違うし……殆どオリジナルになっていきそうな気がします
しかし、暑い
仕事が終わって、帰ったら後はご飯と風呂と寝るだけです……。