その瞬間。
誰もが息を呑んだ。
第一小隊長ヴァンゼは目の前の光景に目を疑った。
最弱、確かにそうなのだろう、汚染獣としては。だが、自分達にとっては恐るべき敵だった。殻は衝剄を伴った一撃を打ち込んでも僅かにへこみを見せるだけで、弾かれる。結局一撃一撃を加えて、隙を見て甲殻の隙間に一撃を打ち込むという手法が主となっていた。
だが、今、その殻は容易く切り裂かれていた。
もし、自身がつい先程まで戦っていた当の相手でなければ、その殻が硬いとは到底信じられなかっただろう。まるで柔らかいゼリーを切り裂くかのように易々と幼生体は分割されていった。
「信じられん……」
これが、レイフォン・アルセイフの力なのか。
第三小隊長ウィンスは呆けていた。
彼は先程までレイフォンに対して激しい怒りを抱いていた。
レイフォンの『何百匹集まろうとどうとでもなる』『最弱の汚染獣』という言葉をそのまま鵜呑みにしていた彼は、それが絶対的強者の立場から発せられたものなのだとは考えもせず、『新入生』でもその程度で対処出来る相手なのだと判断していた。
彼はあの大会におけるレイフォンの戦いぶりを見て尚、新入生という枠から外して見ていなかった。
その結果が、真っ先の自小隊担当戦域の崩壊であり、死者の発生だった。
『誤った情報』をさも当然のように言いふらした相手に対して、結果として仲間が死に追いやられた事に対して彼は義憤に駆られていたのだが……その『誤った情報』は『正しい情報』へと変わっていた。
自分達が殴っても斬ってもなかなか貫けず、結果として戦線を崩壊に導いた汚染獣はいとも容易く切り裂かれていった。
そう、『何百匹集まろうがどうとでもなる最弱の汚染獣』として……。ようやくレイフォン・アルセイフという新入生の実力を体感した彼はそれを呆然と見ているしかなかったのである。
第五小隊長ゴルネオは目の前で展開される光景に褪めた視線を向けていた。
彼はツェルニの中で最も天剣授受者という存在を知っていた。
一般の武芸者が決死の覚悟で赴く戦場に無造作に赴き、ただ一人で戦場を変える存在、それが天剣授受者だった。無論、彼らとて得意不得意はある。
だが、それでも。
それでも、ただ一人で一つの都市を滅ぼす事を可能とする存在、それが天剣授受者だ。
繁殖を放棄し、奇怪な進化を遂げる存在、老生体。老生一期のそれでさえ、普通に鍛錬を重ねた武芸者を揃えた都市が半壊を覚悟すれば勝てる、かもしれないという化け物。それを一対一で相手にする存在に如何に数が多いとはいえ幼生体如きで届くものか。
ただ一つ予想外だったのは。
「……鋼糸、とはな。まるでサーヴォレイド卿だ。いや……」
そういえば、ある意味最も器用な天剣、それが彼だったか、ふとそう思った。
第十四小隊長シン・カイハーンはあきれていた。
「参ったね、こりゃ」
目前で展開されている光景には笑うしかない。
余りにも圧倒的な光景。
自分達が決死で戦い、やっと持ち堪えていた戦場。今はそこは単なる草刈場だった。あれだけ苦戦した汚染獣が今度はお前達が刈られる番だとばかりに次々と切り裂かれていく。
一つだけはっきりした事がある。それはもうここに危険はない、という事だ。
第十七小隊長ニーナ・アントークにとって目前の光景は信じられないものだった。
レイフォン・アルセイフという自分の小隊所属の新人が恐るべき実力者であるという事は聞かされていた。それ故に制限を加えざるをえないのだと。
確かに前回の小隊戦で彼は圧倒的な実力を示した、かに見えた。
だが、それも目前の光景に比べれば色褪せる。
自分達は確かに目前の幼生体と戦っていた。自身の黒鋼錬金鋼の一撃にも幼生体の殻は僅かなへこみを見せるだけで、平然と向かってきた。それがどうだ、視認すら困難な細い糸が、眼をこらしてようやくそれらしきものが見える程度の糸がいともあっさりと幼生体を次々と或いは縦に、或いは横に輪切りにしてゆく。
正に先程までの自分達の苦労を嘲笑うかのような光景だ。いや、無論これを行っているであろうレイフォンがそんなつもりは毛頭ないのは分かっているのだが。
『ははっ……こりゃすげえな。なんていうか、もう笑うしかねえな』
シャーニッドの声もどこか呆れと恐れの混じったような声だった。
そう、戦場の全てで汚染獣は駆逐されつつあった。
彼らの光景は全ての小隊の眼前で展開されつつあったのだ。
レイフォンが柄だけにも見える天剣を振るうと、それだけで次から次へと汚染獣(幼生体)がまとめて輪切りになっていく。その光景を一番はっきりと見ていたのはフェリだったろう。
レイフォンが参戦した段階で汚染獣は未だ九八二体を残していた。
それが瞬きの間にそれこそ数十匹単位で減っていく。
「……レイフォンにとって、この危機は危機ではなかったという事ですか」
眼前の光景が何よりの証。
「……レイフォン、あと八十です。第一と第五の担当戦域に二匹ずつ残すのを忘れないよう」
『了解』
最後は掬い上げるようにして、両サイドの脚を切り飛ばし、角を切り落とす。これで幼生体は戦闘不能だ。翅が残ってはいるが、元々この幼生体と呼ばれる汚染獣は飛行が得意な様子ではない。油断さえしなければ、広げた瞬間に翅を破って万が一の事も起きまい。実際、カリアンからその注意が飛んでいるし。
「誘導します」
『お願いします、フェリ先輩』
続けて母体への侵攻。
エアフィルターを抜け、都市の外へと飛び出す。外縁部からそのまま飛び出した高さはそのまま落下すれば即死必死な高さだが、鋼糸を絡ませ、舞うように降下していく。その姿を見ながら、少し意地悪をしたくなった。
「そういえば」
『?』
「今、私は貴方の手伝いをしていますね」
『え?ええ』
何やら戸惑ったような様子だ。まあ、いきなりではそれも仕方ないだろうが。
「なにか、お礼をしてくれてもバチは当たらないのではありませんか」
『え、ええ!?』
驚きながらもその手は的確に動き、その動きは危なげない。
『え、ええと、お礼って何を……』
「そうですね、別に金品を要求しようというつもりはありませんので」
これは本当だ。実家は裕福だし、親からは十分な仕送りを貰っている。
「では、呼び名を考えてもらいましょう」
『え、ええっ!?ふぇ、フェリ先輩じゃダメなんですか?』
「ダメです。他の人と大差ありません。ほら、さっさと決めなさい、フォンフォン」
『それ僕の呼び名ですか!?』
「そうです、今決めました」
困惑した雰囲気が伝わってくる。何故、このような事を突然言い出したのか自分でも分からないのだから、レイフォンが分からなくて当然だが。
え、えーとじゃあ……とそれでも幾つかの呼び名を次々とレイフォンが口にする。基本的に生真面目なのだろう。
フェリちゃん、小さい頃から言われなれてます、却下。フェリっち、馬鹿にしてますか?却下。フェリやん、私に面白話でもしろと?却下。フェリりん、今度は笑顔でも振りまけと?却下、フェッフェン、私は笑い声ではありません、却下。フェルナンデス、もう私の呼び名とは思えませんね、却下。フェリたん、死にますか?
『……えー……フェリ』
…………。
『……先輩?』
「……創意工夫の欠片も、先輩に対する敬意も、私に対する親愛の情もありませんが……まあ、それでいいです」
『え?』
「ただし、親愛の情を込める事、いいですね?フォンフォン」
『あ、は、はい…っていうか、その呼び名で決定なんですね…』
「当然です。では、行って来て下さい」
『はあ』
……本当に私はこんな時に、レイフォン相手に何をしているのだか。
そして、地下深く。
レイフォンは汚染獣の雌性体、通称母体を目の当たりにしていた。
先程までのどこか気の抜けた気持ちを引き締め直す。どうにも先程は調子が狂った。フェリもいきなり何を言い出すのか……。
その一方で、先程の会話とその様子は見事に二人の間以外にはシャットダウンされていたので、そんな事は露とも知らない生徒会メンバーや小隊員は母体の巨大さとそこから感じられる重厚さに息を呑んでいた。
実際、その気持ちも分かる。
その体躯の三分の二を締める腹部は無残に裂けている。そこから幼生体が溢れ出したのだから当然だ。
傷を負い、本来ならば汚染物質のみで傷を癒す事が可能な汚染獣をして尚手遅れなその無残な傷。だが、それでもなおそこにいるのは幼生体を圧倒する存在感を放つ巨大な汚染獣だった。
仲間を呼ぼうとする気配は、ない。
それは我が子の反応が未だ消えていないからか。我が子に栄養を独占させる機会を逃すまいとしているのか。……最早彼らが死に体である事を知る由もなく。
「生きたいと思う気持ちも、死にたくないという気持ちも同じなのかもしれない」
そう呟きながら、天剣へと剄を込めていく。
「それだけで満足出来ない人間は贅沢なのかもしれない」
近づくレイフォンに反応して、母体が動きを見せる。或いはそれはレイフォンの膨大な剄に恐れを為して、仲間を呼ぼうとしたのか、だが、それは永遠に分からない。
「でも生きたいんだ」
その前に振るわれた刃が全てを終わらせたから。
外力系衝剄の変化、閃断。
飛来した巨大な衝撃波の斬撃がただ一撃、母体を襲った。
ツェルニは歓声に満ちていた。
全員がその光景を共有していた訳ではない。だが、小隊員はその光景を共有していた。彼らからまず汚染獣の母体が倒された事が告げられ、更に幼生体が最後の片付けとばかりに止めを刺された後、正式に『汚染獣の殲滅完了』が告げられ、自分達が生き延びたのだという実感がこみ上げた結果の、生きている喜びの声だった。
続いて、シェルター内部から助かった事、日常が戻ってくる事への歓喜の声が上がる。
その一方で素直に喜んでいる訳にはいかない者もいた。
ツェルニ生徒会長カリアンと武芸長ヴァンゼは深刻な表情で会話していた。
「これで彼さえいれば何とかなってしまうという考えが出る危険があるね」
「ああ、自分達が出なくても彼がいれば何とかなる、そんな風潮が出てしまうのが怖い」
それは信頼ではなく、依存だ。
そして、厄介なのは事実、彼一人で何とかしてしまえる事だ。汚染獣戦にしても、武芸大会にしても、ツェルニの全戦力よりも彼一人の持つ武力の方が上回る。それどころか、汚染獣戦に措いては、下手に自分達が関わった所で彼の足手まといに為りかねない。
それでもまだ、彼がいる間はいいだろう。
だが、彼がいなくなった時どうなる?
レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフという個人は槍殻都市グレンダンの重要人物だ。そうして、そんな重要人物は時に必要だからと呼び戻される事もある。もし、そうなった時、彼一人に依存してしまった都市は果たしてどうなるのか……正直考えたくはない。
都市運営と防衛の責任者二人はしばらく頭を悩ます事になりそうだった。
第三小隊長ウィンスは震えていた。
だが、それは汚染獣への恐怖からではない。むしろレイフォン・アルセイフという規格外の存在への恐怖と言っていい。
自分がどう足掻いても遥かに遠く及ばない、そんな相手が出た時、人は憧れから尊敬の道を歩むか、或いは恐怖や嫉妬の道へと進むか。
彼には周囲で能天気に喜んでいる連中が信じられなかった。
よく聞けば、『彼がいれば大丈夫だ』、そんな声まで聞こえる。ツェルニを壊滅させかけた汚染獣全てより尚危険な相手。そんな相手を無条件に信頼してもいいものか?
……彼自身は気付いていなかっただろう。自身の過ちからの逃避でもあるという事に。
もし、これが出たのが怪我人だけだったなら、崩れたのが自分が最初でなければ、彼は或いはもう少し素直にレイフォンの事を見れたかもしれない。だが、実際には死者が出た。怪我ならば腕を失った小隊員も再生手術で復帰が可能だ。崩れたのが他からならば、自分も奮闘した結果として持ち堪えられなかったと自己を納得出来たかもしれないが、実際には他と比べても、懸命に抵抗を続ける他小隊を余所に脆くも崩れた。
それだけに彼は何かしら自分の責任から目を逸らす事実が欲しかったのだ。
かと思えば、またある者達はレイフォンの力に魅入られていたのは確かだった。
だが、同時にこうも感じていた。
『彼もまた自分達と同年代、ならば自分達もまだまだ上へと上がれるのではないか』
天賦の才はあるだろう。これまで生きてきた努力に差があるのかもしれない。或いはこれまでの経験に大きな差があるのかもしれない。事実、汚染獣戦の前、生徒会長はツェルニの武芸者の中で唯一汚染獣との戦闘経験があると言った。
だが、それでも。
それでも、手を伸ばしたい。あの力に少しでも触れたい。例え、それが太陽に近づくイカロスの如き所業だとしても諦めきれない。それは彼ら武芸者の根源、強さを求める気持ちであったり、ツェルニを守りたいと願う気持ちの現われだったりしたが、一つだけ確かな事があった。
今は未熟な学生の中にも依存ではなく、目指す者は確かにいたのだ。
『後書き』
レイフォン無双、になったかは分かりません
戦闘シーンだけにはなりませんでしたが……そのあたりはご勘弁を
今はフェリも自分が何故急にあんな事を言い出したのか理解出来ていません
レイフォンは鈍感帝王だからともかくとして
……っていうか、最新刊見る限り、クラリーベル・ロンスマイアもレイフォンに惚れてますよね……
次回は外伝です
希望にあった勉強会は……うーん、外伝二本ぐらい書いて片方をそうしましょうか……当初は別のを計画していたので