9歳の夏 2
咽るほどの緑の香りが立ち込める夏。
深呼吸するのさえ億劫になりそうなほどに香るそれは、前世では考えられないほどのものであり、生命の息吹をこれでもかというほどに主張する草花は、最盛期を迎えている夏の日差しを浴びてよりいっそう育つ。
呼吸をするのが辛いというわけではないが、どこにいようが関係なしに侵食するかのような緑の香りに、多少なりとも辟易するというのは贅沢な悩みなのだろうか?
先日ファーガスと掘削してきた粘土と、砕石を大量に含んだ土砂を台車に乗せて二人で引いて歩いていると、前方からムムルが道なりに歩いてくるのが見えた。
相手も気がついたようで、目が合ったので右手をあげて挨拶をする。
ディアリスの成人した女性は、麻で作ったシャツとパンツを着ている子供の格好の上から長い布を纏う。
その格好はインドのサリーの様な格好といえばいいのか、様々な着付けをするのでわからないのであるが、長い布を器用に巻きつけて着ているのだ。それぞれが自由に着ているために、作法があるのかもしれないが私は知る由も無い。
成人を迎えそうな女の子がいる家はこの長い布を作り、成人したあとに成人した女性は自らの手で刺繍を縫いこんでゆく。
つまり成人したての娘はこの布に刺繍が少なく、結婚していくらかが過ぎた女性は刺繍が多くより華やかに見えるというわけだ。
1枚の布だけというわけではなく、成人した後は何枚でもその布を繕うことは構わないのであるが、当人のセンス等が如実に現れる上に、その女性が器用であるか不器用であるかという部分も見て取れるというわけで、結婚前の女性はこれをいかに上手く作り上げるかという部分が、男性が注目する部分でもあるという点も面白い。
刺繍を上手く魅せるための着方のようなものもきっとあるのだと思うのだが、いかんせん私は男である上に、服装を評価するような選定眼も持っていないので、見た目が美しいかどうかで判断する部分があるということを自覚した上で、ムムルの纏う布の刺繍も着こなしも美しいと評価できる。
ムムルは私が生まれる少し前に結婚したという話を聞いたことがあるので、ギムリと結婚して凡そ10年経つということになる。彼女の纏う布の刺繍は独特で、ディアリスの女性はどちらかというと何かの木や花をあしらった刺繍を施すことが多いのであるが
ムムルの刺繍は魚と太陽をあしらった刺繍であり、南の群島出身であるということがわかるような模様である。
薄青く染められたそれは、肩口に光沢のある黄色の糸で刺繍した太陽があり、それを目標に跳ねる濃い青で刺繍された魚。魚の目はワンポイントのように白く、足元に垂れた布の下部に波模様を描いたような白い刺繍が施してあり、魚が勢い良く跳ねているような躍動感も感じることが出来る服装であった。
「こんにちはームムルさん」と挨拶すると
「こんにちは、ノル。今日も暑いのになにやら土を運んでまた・・・今度は何をするんだい?」
「ないしょだよ、出来たら教えてあげる」
「そうかい。えーっと・・・そっちの子は?」
「ファーガス。友達だよ」
「そうかい、ファーガス。ノルは変な子だけどよろしくね」
「変な子って・・・どこが・・・」
「自分で判ってない辺りがもう十分に変な子だよ、あんたは」
「そうだよノル君。最近僕も変な子と遊ぶ変な人扱いされ始めてるんだから気をつけてよね」
「ファーガス!?」
「あっはっは。それじゃあね、ノル」
そう言って腕をフリフリ別れようとするムムルさんが
「うぷっ」と道脇にへたり込み、何事か!?と心配になった私は彼女の様子を確かめるべく彼女に近寄る
吐き気を感じているようで、顔を下に向けて顔を真っ青にしているムムルは、先ほど話をしていたときのような雰囲気ではなく
「うっうっうっうぅぅぅぅぅ」と唸るムムルの背を、スリスリとさする。
一瞬、緊急事態にも思えるこの時であるのに、背中の肉感的な触感とへたり込む女性のうなじに凄まじい色気を感じたりしてしまったが、気を取り直すと
「ムムルさん、大丈夫?ホラットさんを呼んだほうがいい?」とさすりながら聞く
なおも「うーうー」と唸るムムルに、こりゃいかんと思い
「ファーガス!急いでホラットさん呼んできて!」と頼むと、ファーガスは集落の中心に向かって駆けてゆく。
台車に乗せてあったカバンから、噛むと清涼感を感じる薬草を取り出すと尚も唸るムムルに咥えさせて
「強く噛んで。それから息を吸って。その薬草の匂いを吸うと若干落ち着くと思う」
しばらくして若干落ち着いてきたのを見計らって彼女の正面にかがみこみ
「話せる?」と聞くと、口元を手で押さえながらフルフルと頭を動かしたので
「簡単な質問をするから、肯定なら縦に、否定なら横に頭を動かしてね。今まで今みたいにいきなり気持ち悪くなるようなことはあった?」
横にフルフルと頭を動かす
「今朝か昨日、いつもと違うものを食べたり飲んだりした?」
横にフルフル
「ヘビに噛まれたとか、変な虫に刺されたとかそういうことはない?」
横にフルフル
他に思い当たることは・・・と考えていたときに、ふと思い出したことがあった。
女性が急に嘔吐感を感じることの一つに、あれがあったはずである。
しかしそれを彼女に問うのはいささか気恥ずかしいものもあるのだが
「ムムルさん、最近、月のものはきてる?」
幾分落ち着いてきたのと唐突な質問に、顔を上げて私を見た彼女は、呆然としながら顔を横に振った。
少し時間を置いた後に
「もしかすると、絶対とは言えないけれど、可能性として、妊娠してるかも・・・?
口元を押さえながら私を呆然と見ていた彼女の両目から、ふつふつと涙が溢れてきて、顔から涙が零れ落ちたかと思ったら、唐突に両手を広げた彼女に、ガバリと抱きしめられてしまった。
「うーうー」と言葉じゃない何かを唸りながら、私を抱きしめて唸る彼女からは歓喜の感情を感じた。
私のうなじや背中には、彼女がこぼしただろう涙が伝うような感触を感じ、私の胸で潰される彼女の双房の感触に妙に興奮したりもしてしまったが
「僕はピエフじゃないから、体調を見て正確な診断をすることもできないし、絶対に妊娠してるとは言い切れないけれど、多分・・・いや、絶対妊娠してるんだと思う。よかったね、ムムルさん」
そう言って背中をポフポフと叩いてあげると、首をブンブン振りながらギュウギュウと私を抱きしめてきた
若干苦しいとさえ思うほど抱きしめられていたが、男の子なので我慢である。決して胸の感触を感じていたいとかそういったやましい事を考えていたわけではない、ちょっと気持ちいいとか、ムムルさんはなんかいい匂いがするなあなんてことはほんの少ししか考えていない。
言葉になら無いのか「うーうー」唸りながら尚も背中に感じる涙の感触等をボンヤリと感じていると、前方からホラットを連れたファーガスが急ぐ様子で駆けてくるのが見えた。
手を上げて呼ぼうとするも、抱きしめられたときに私の肩を巻き込んでいるために上げることもできず、来るのを待とうとしたその時
「うっうっうー!」
背中に感じるこの感触は・・・
「ひーあぁぁぁうぁあああああああああ」
背中に思い切り吐かれてしまった・・・
その後、私の悲鳴に何事かと駆けつけてきた近所の男性に、ホラットに様子を見られていたムムルをギムリの家まで運んでもらい、その間に一度家に戻って水浴びをしてパンツを変えてギムリの家に行くと、吐いたために若干体力を消耗しているように見えたムムルにホラットが私がしたような質問をしていた。
いくらかの質問の後に、一呼吸おいたホラットは
「おめでたね、おめでとう」と笑顔で言った
両手で顔を押さえて、またも泣き出してしまったムムルを見ながら、私はさっき言った言葉が嘘にならなかった事に安堵していた。
これで違いましたなんて言われたら、私の面目丸つぶれである。勿論立っているような面目があるのかどうかは知らないが。
その後、ドアの前に佇んでいたら、誰かに聞いたのか大急ぎで飛び込んできたギムリに轢かれ、テーブルの角に頭をぶつけて全治3日のたんこぶができ、ムムルの心配をしながら何事かとホラットに聞いているギムリに、そこはかとなく呪詛じみた呪いの言葉を吐きたくなったりもしたのだが
事のあらましを聞いて、ムムルを両手だけで持ち上げているギムリの恐るべき怪力を見て、思いとどまったりした。
長い間子供が出来なかったムムルに待望の子供が出来たのがよほど嬉しかったのか、ムムルを抱き上げながら吼えるギムリを見て、よかったなあと思った。
一緒に居たファーガスと別れて家に戻り、家族に「ムムルが妊娠したみたいだ」等と話しながら夕飯を食べていたときに
引いていた台車をそのままに帰ってきてしまった事に気がついた。
そんな夏のある日の出来事