4歳の秋
死んで生まれて47年。長い人生で一度くらいは人生をやり直したいと思ったことは無いとは言わないが、できることなら前の人生の生まれに戻りたかった・・・と思うことは贅沢なのだろうか?
何が言いたいかというと、電気もガスも水道も無い田舎暮らしが普通の事と認識できてきている現状に、元現代人の自分としては思うことが無いのだろうか?と、自らに対して疑問を覚える今日この頃なのである。
大体からして自分は現在4歳児であり、体を動かして何か仕事をするというのは体格的にもツライものがあり、数十メートル走っただけで息が切れるありさま。
そりゃあ生きている頃の死ぬ直前の体力は、日々デスクワークに励む事務仕事が多かっただけにお世辞にも体力があったとは言えない。
日々のストレス解消のために、家に帰って即一本という勢いで毎日数本消費していた缶ビールのおかげか、下腹部が肥えていたというのもある。
今はもう、お酒がどうこう言う前に幼児体型であるからして、気にしても仕方が無いのだが、それでもできないことが多いというものはストレスが溜まるのだ。
今、私に任されている仕事といえば、毎日家の甕を覗いて水が足りなければ川に汲みに行く程度のものであり、毎日3~4往復していれば問題なく事は済んでしまい、大概が午前中に終わってしまい暇になるといったもので、川までの1km程度の距離を、休憩を挟みながらえっちらおっちら運ぶといったものである。
同じ仕事を任されている近所の同年代の子供たちは、道中小動物を見つけては追いかけ、何も無いところで転んで泣き喚いたり、数人で固まってワイワイガヤガヤと楽しげに運んでいるのであるが、私は粛々と水桶を運び、さっさと仕事を済ませたあとの暇な時間を、祖父母の部屋で家の中のものをゴソゴソと弄りながら、祖父母が手慰みにしつらえている糸やら反物を珍しげに眺めたり、機織機も無いのだなぁと思いふけったり。
結局のところ、暇を潰す手段が無い。
というよりも、暇を潰す手段に対してできることが無いというのが正しいのだ。
物を作るといった簡単な作業をするにも、刃物等が無ければある程度形の整ったものはできないのであるが、いわゆる子供である私がそういったものを手に取ろうとすると、どこからともなく両親か祖父母が現れて『めっ』と叱られてしまうのである。
自分で言うのもなんだが、同年代の子供たちと遊ぶこともせず、しかし与えられた仕事はきちんと済ませている子供らしくない子供なのであるからして、何かしら与えて様子をみてみようといった選択肢は無いものか?と、両親や祖父母に対して思うところはあるのではあるが、産み育ててくれている両親であるし、もちろん恩も情もあるのであり、反論するほど言葉が達者でないことも加わって、見つかってしまったら反省するふりをしてお茶を濁すという行動を覚えてしまっているわけであるが。
可愛くない子供だと思う。外面的にはどう思われているのかは知らないけれど。
そんなこんなで、日々気楽に過ごしているのが現状で、この先どうしていくのか。また、どうしていきたいのか。良くわからないというのが現状で、とりあえず日常会話をしっかりとこなせるようになろうというのが、今の目標なのだろうか。