毎日が日曜日な八神家の主であるから、日曜日の朝だけ素早く目が覚めるという経験をしたことがなかった。元より朝に弱いというわけでもない。毎朝がフラットである。
そんな彼女が、どうしたことか、この日、朝早くに勢いよく上半身を持ち上げて目覚めた。
「初・体・験!」わーい、と両手を挙げてはしゃぐ異常なテンションのはやて。枕元の時計に目を向ける。「あらー、まだ四時半やった」
カーテン越しにもわかる、白み始めた空。
部屋の空気は既に暑い。薄い生地のパジャマを着ていても、うっすらと汗をかいている。窓は開いているが、せっかくの網戸も風がなくては威力が半減だった。
くぁ、とあくびを一つしてから、はやては目尻の涙をぬぐう。
眠気はすっかりと退散していた。二度寝をする気分ではない。昨晩眠りに就いた時刻が早かったので、睡眠不足の心配もない。
「んー……、シャワーでも浴びよかな」
朝からというのは彼女には珍しかったが、今日は積極的になる条件がいくらか揃っている。
着替えの服に涼しげなものを選び出し、つま先を扉へと向ける、より先に机に近づいた。
眠ったように動かない闇の書をそっと開き、最新の書き込みをチェックする。昨日の日付は7月24日。日記の最後に騎士たちへの質問を添えたので、目にするのは彼らからの返答だろう。
「ありゃ」という予想は当たらず、はやてが見たのは自分の文字だけだった。「そっか、いつもはみんな、早起きして返事書いてくれてたんかなぁ」
今日は自分の方が早起きだったので、こうなったのだろう。そう考えて、はやては先ほどと同じように静かに本を閉じた。そのとき、動物の背中をそうするように闇の書の表紙を撫でる。手に馴染んだ感触は、それだけで一種の安堵をもたらしてくれた。スポーツ選手には、勝負に臨む前にいつも同じ動作を見せる人がいるが、あれは意識を変容させるための儀式なのだと聞く。闇の書に触れるのも同じことだ、と彼女は自身を分析した。ただし、緊張と弛緩、方向はまったくの逆であるが。
ぬるま湯のシャワーを浴び、浴室を出る直前に温度を下げた水に切り替えれば、身も心も引き締まった。更衣室では、すぐに乾いたタオルで全身をぬぐう。そして、清潔な衣服を身につけ、ドライヤーで髪を乾かす。
こうして爽やかな朝を手に入れることに成功したはやては、有り余る時間を使って朝食を強化しようと思いつき、さっそくキッチンを目指す。到着するまでの道のりで、だいたいの方針は決定していた。
冷蔵庫から食材を発掘して、目録の制作を待つ宝物のように並べる。完成したときに元の形が残るのは、鮭の切り身と豆腐だけ。それらを飾ったり、あるいは極めて小さく細かく細くなるのが他の材料だ。
「ふふふ、この根菜め、観念しー」朝っぱらからゴボウを握りしめて妖しく笑うはやてである。
彼女はまず、鉛筆をナイフで削るみたいにして、愛しのゴボウを斜めに切って切って切った。それをボウルに満たした水に放り込み、次にニンジンの皮をむいて薄切りにし、続いて赤唐辛子を刻む。ゴボウのアクが抜けるまで、十分と少し待たなければならないので、その間に別の材料をやっつけることにする。
大根と少量のショウガを頑張って摺り下ろす。次いで水気を切った豆腐を適当なサイズに切り分け、片栗粉をまぶしてから、転がしながら油で焼く。全面が焼き上がったところで火を止め、豆腐の油を切れば、再びゴボウとの戦いに戻らなければならない時間だった。
ごま油を敷いたフライパンを強火にかけ、ちょっと待ってから水切りしたゴボウをそこに加える。そして、水攻めを耐え抜き強気だったゴボウがついに根を上げ始めたところでニンジンを追加し、更に痛め、もとい炒めた。とどめに調味料、すなわち酒と砂糖と醤油と赤唐辛子を適量追加し、汁気が飛ぶまでどんどん炒め合わせる。
「わーい、でけたー」
完成したきんぴらごぼうを僻地に追いやるや否や、はやては鮭の切り身を魚焼きグリルに突っ込む。そして、ジュウジュウと焼ける音を聞きながら、餡作りに取りかかった。先に作っておいた大根とショウガおろしは、ここで使った。
ややとろみの弱い餡ができあがり、それをカリッと焼けた豆腐にかけてから刻んだネギの緑色を散らせば、揚げ出し豆腐のできあがりだった。最初は冷や奴にするべきか迷ったが、昨晩の味噌汁を冷蔵庫で冷やしていたので、ちょっと手間をかけて別の方角へと進んでみたのだ。
最後に、鮭が焼き上がるのを待ちつつ卵焼きを作り、朝ご飯は完成した。
はやては見事に多面作戦を勝ち抜いたのだった。
「ヒャッハー! 炊飯器セットしてなかったー!」
誰が言ったか、戦いは始まる前に勝敗が決している。
真に至言である。
◆
この朝、遠足の日を迎えた小学生が如き早起きをはやてにもたらしたのは、一つの約束だった。
知り合ってから二週間ほどが経ち、ついにすずかが八神家に遊びに来ることになったのだ。
元気が迸ってやまずにいたはやては、ご飯が炊けるまでの時間でもう一品、すなわち手作りドレッシングのサラダが増えた朝食を食べ終え、そわそわしながら自室に戻った。より正確にいえば、そわそわしたまま自室に戻った。いつもより少しだけ手の込んだ食事を前にしているときから、ずっとソワソワモジモジしていたのだ。
ちなみに、目覚めた瞬間からの奇妙なテンションは、炊飯器の失敗で跡形もなく消え去っていた。あのままでいたら、すずかを歓迎するためにトゲトゲを装備し、ついでにモヒカンになっていたかもしれない。いまとなっては思い出したくもない黒歴史である。炊飯器をセットし忘れた昨晩の自分が偉大すぎて、なおさら酷さが際立つというものだ。
部屋に戻って最初にしたのは、時計を見ることだった。
まだまだ約束の時間までは長い。
することもなく過ごす時間は長いが、楽しみを待ちわびる時間もまた長いものである。ただし、前者はじれったい退屈に、後者はくすぐったいもどかしさに満ちている。
視線を時計から引きはがし、机の上に。この時になって彼女は初めて気がついた。いつもの起床の時間を大きく過ぎているのに、闇の書が眠ったままだ。
「今日はみんなお寝坊さんやなぁ」はやてはのほほんとして言った。
しかし、数時間後に同じ言葉は口にはできなかった。
まるで眠り姫のように、闇の書はぴくりとも動かない。
ページをたしかめてみるが、騎士たちの新しい書き込みは見あたらない。
以前そっくりな状況になったことがあるから、その時ほどは動揺が大きくない。けれども、今回は予兆がなかった。シャマルが再び個人用のポストを作ろうと試みるなら、一声かけるぐらいはするはずだ。
そのとき、はやてはふと思いついた。仕事を一晩で終わらせ驚かせようとしたところ、見事にドツボにはまったシャマルの図。
「ありそう……」
今の内に、しょんぼりなシャマルにかける言葉を考えておかねばなるまい。
まるで保護者みたいなことを考えている自分がおかしくて、はやては小さく笑った。
いつの間にか、変なところで心が強くなったようだ。きっとヴォルケンリッターのおかげだろう。新しく得たその前向きな部分が発揮されるのが、専ら闇の書の騎士たちに対してであるあたり、彼らは自給自足しているといえなくもない。
では、自分は自給自足できているだろうか。はやては考える。自分は騎士たちに、良い影響を与えることはできただろうか。
ちょっと自信がなかった。
皆は楽しそうにしているが、それは最初からだ。
いや、違う。すぐに思い直す。最初の最初だけは、彼らは畏まっていた。
最初の数ページほどを、互いの距離を測るために使った。たったそれだけで、打ち解けることができた。
よく覚えている。
目を閉じれば、すぐに思い出せる。
でも、閉じなくても、思い出せる。
そのための日記だった。
闇の書はタイムマシン。表紙を開けば、いつでもタイムスリップできる。
「あはは」最初のページを開いたはやては、すぐに声を出して笑った。「そやそや、このときのヴィータ、まだぎごちない丁寧語やった」
皆の発言を追いながら、しばし記憶の漣に身を任せる。
密度の濃い年代記は、しかし、これでも鍵でしかなかった。この鍵によって、心の奥底にある宝箱が開かれるのだ。
そこに仕舞われているのは、あらゆる感情の余韻。
ときどき取り出して、味をたしかめてみる。苦いものもあれば、甘いものもある。時間が経つことによって、味が変わってしまうものも少なくない。冷蔵庫ではなく宝箱なのだから、当然のことだった。もちろん、美味しくなることもあれば、味わえなくなることもあった。
ゆりかごみたいに安らかで、冒険みたいに手に汗握る時間は、あっという間に過ぎていく。
はやてを現実に引き戻したのは、メールの着信を知らせるメロディだった。そのとき、最初から読み進めた日記は6月28日まで進んでいた。奇しくもそれは、以前に闇の書が不具合を起こした日付であった。そして、その翌日にはきちんと元通りになったことをはやては思い出す。それが不安を追い払う力になった。
自分でもわかるほど、心は良い状態だった。
携帯電話のディスプレイを見る。
メールは、二時過ぎ頃にお邪魔してもいいですか、という内容。当然、すずかからのメッセージ。
「いつでもお待ちしています……と」めるめるめると打鍵して、最後に送信ボタンを一つ。
◆
日記を読み返すのと、すずかと共に過ごすのと、果たしてどちらの方が時間の流れが速かっただろう。
時計の中に住む妖精さんの存在を疑わずにはいられない一日だった。
すずかは先ほど、黒塗りの大きな車に乗り込んで帰っていった。彼女が来たときは玄関で出迎えたはやてだったから、見送るときに初めて目にしたそれには大変驚いた。言葉や仕草の一つ一つに、オリーブオイルのように丁寧に塗り込まれて体の一部となった上品さが感じられたため、いい家のお嬢さんなのだろうとは思っていたが、まさか友人宅に遊びに来るだけであの自動車が出動してしまう程とは。
そんな驚きも、既に太陽と共に地平の彼方に沈み込み、いまは静穏の空気が夜を満たしている。
そうなって初めて聞こえてくるのは虫の声。そして風の音。
不意に気配を感じて振り向くと、闇の書がすぐ傍にふわりと浮いていた。
「わっ!」はやては驚いた。「もう、びっくりやぁ……」胸をなで下ろす。それから闇の書を手招きして、背表紙を撫でた。「おーきにな。待っててくれたんやろ?」
たぶん、闇の書はずっと前に目覚めていたのだ。出てくるタイミングを見計らっていたのだろう。
理由は、すずか。
初めて出会ったときに目撃されたとはいっても、魔法なんて人に告白できる類の秘密ではない。すずかに隠し事をするのは気が進まないが、これは秘密にしておくべきだとはやての大部分が告げている。つまり、常識的な判断だった。
しかし、常識的で正しい判断でも、納得しがたいことは多い。
いつか友人たちを紹介してくれると言ったすずかに対して申し訳ないと思うと同時に、はやての胸には幽かな対抗心めいたものが生まれていた。もっとも、それは嫉妬と呼ぶには健全すぎるものだったが。
「ほんまにみんなのこと紹介できるようになればえーんやけどなぁ」
さておき、いまは紹介よりもおかえりの挨拶だ。
予想通りにしょんぼりしたシャマルの文字に苦笑しつつ、はやてはストックしておいた慰めの言葉を取り出すことにした。
◆
・7月25日 日曜日 晴れ
今日はすずかちゃんが遊びに来てくれた。
小学校がもうすぐ夏休みになるので、時間が取れるようになるとか。なので、近いうちに友達を紹介してくれるそうです。
すずかちゃんの学校では、夏休みの宿題がもう出たと言っていた。一方、毎日が夏休みの私にはテストも宿題もないのであった。
最近あんまり勉強していないし、ちょっとがんばらないといけないかも。
個人用のポストについては、またまた残念なことになったけれども、シャマルやみんなががんばってくれたことはちゃんと伝わってきました。
ありがとう。それに、おつかれさまでした。
おかえりなさい。
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