私の前世はサソリ座の女。
そして今生の私の正体はサソリ。ザフィーラがオオカミであるように、私はサソリなのです。
なめてかかると恐ろしい目にあいます。もうこれでもかというぐらい刺しまくります。ザクザクです。
毒だってあります。これを受ければ地獄みたいな灼熱の中でもがき苦しむことになります。ドクドクです。
主はやても気をつけてください。
Signum
◆
6月28日。月曜日。
水無月最後の週明けの朝は、驚愕から始まった。
「……シグナムご乱心」はやては思い出す。昨日、誤って闇の書を机から落としてしまったのがいけなかったのだろうか。衝撃で壊れてしまったのかもしれない。頭をぶつけるようなものだ。
それにしても、シグナムの正体はサソリだったのか。ザフィーラがオオカミだというのは聞いていたが、彼女については初耳だった。この分だと、シャマルやヴィータにも隠された真の姿があるのかもしれない。それぞれウミヘビとハンマーブロスあたりだろう、とはやては睨んだ。
いやしかしハンマーブロス座なんて星座は存在しなかったような気が……。
「カメつながりでミズガメかな」闇の書が音声を拾わない仕様だからできる発言だった。
真の正体以外にも、気になるところがある。文章の最後の部分だ。
はやてはそこをもう一度読んだ。
「気をつけてください? どういう―――」剣で切り落とされたかのように、言葉がぴたりと止まる。
まさか、これは警告文?
月のない夜は……、という類の文章なのだろうか?
「ひぇぇぇ」はやては震えた。車椅子の上で、上半身を大げさなほど仰け反らせる。
知らない内になにか恨みでも買ってしまったのか。いや、知らない内などということはない、昨日の闇の書への無体な扱いが気に入らなかったのかもしれない。
そして、シグナムは凄腕の剣士である。その同胞たるシャマルが闇の書の中から治癒の魔法を使えるぐらいなのだから、シグナムだって剣戟を放てるかもしれない。いやいや、サソリの毒針だった。
はやてが生まれたばかりの鹿みたいにプルプルしていると、闇の書が浮かび上がった。そして、はやての正面、視線より少し高い位置に浮遊し、厳かにページがめくられていく。紙のこすれる音は、まるで背後から近寄る足音のようだった。
「うひぃぃぃぃ」ガクガクと大きく震えるはやて。
やがて、十三階段さながらにめくられ続けていた動きが、
止まる。
そこには、このように書かれてあった。
『ごめんなさい。全部あたしの仕業です。今シグナムにめちゃくちゃ怒られたところです。反省してます。もう二度としません。許してください。 vita』
「なんやー、もう怒られとったんかぁ」はやてはあっさり演技を止めて、ペンを握る。『最初からわかっていました。私は怒ってないので安心すべし。あと、シグナムにはちゃんと謝って許してもらうこと。 はやて』
『あれ。なんでわかった? vita』
『事前に止められず申し訳ありませんでした。 signum』ヴィータの前に立ち塞がるようにシグナムが割り込む。
『超反省してます。 vita』即座に謝るヴィータ。
『筆跡をまねしきれていなかったし、内容もシグナムらしくなかったからわかりました。 はやて』
『次までに練習しておきます。 vita』
その書き込みを最後に、沈黙がしばらく続く。無言がうるさいとさえ感じられる、恐ろしい静寂だった。
外で水に濡れた道路を車が走る音がした。家の前を通って、遠ざかっていく。
かばうタイミングを逃したはやては、ヴィータが毒針の餌食にならないことをただただ祈るばかり。
ゆっくりとした呼吸を六度ほど終えたとき、ミミズがのたうち回ったような文字が、塩をかけられたナメクジみたいにゆるりゆるりとページの上を這った。
『二 度 と し ま』文章はそこで途切れた。元から途切れていたのではなく、一画一画と書き足されていく途中で途切れたのだ。
今度こそはやては心の底から震えた。
◆
はやてを恐怖のどん底に陥れた最後の書き込みがまたも悪戯だったと判明し、哀れヴィータは夜まで姿を現せなくなったそうだが、闇の書の内側でなにが起きたのか、起きているのかは神のみぞ知る。あまり鍛えられていないはやての嗅覚でも、敢えて知ろうとはしない方がいいことを嗅ぎ取れたのだから、さぞかし厳しい状況なのだろう。はやてにできるのは、怒り心頭のシグナムにヴィータの減刑を控えめに求めることだけだった。
以上のような経緯で、一人が姿を消して残るは三人となったヴォルケンリッターであるが、ザフィーラが発言することはほとんどないので、実質的にシャマルとシグナムの二人がこの日のはやての話し相手だった。しかし、会話はいまいち弾まず、すぐに風船みたいにしぼんでしまう。その度に誰かが空気を入れるのだが、焼け石に水とはこのこと、ついには会話と沈黙との比率が逆転してしまった。
意識を向ける先が定まらないと、部屋の静けさがやけに耳につく。その静けさの中には、家の外から聞こえるわずかな雨の音が、紅茶に落とした角砂糖のように溶け込んでいた。
七月も間近で日々の空気が熱を持ち始めたこの時期は、同時にしとしとと雨滴る梅雨の時期でもある。
今日も朝から雨降り模様。空は鈍色、外は蒸し風呂、車椅子で外出するに向かないことは明らかで、けれどもはやては人間、食料を補給せねば干からびてしまう運命にある。それに、明日はあまり意味があるとは思えない検診に行かなければならなかった。
憂鬱になるにはうってつけのコンディションである。
近ごろのシャマルとシグナムはあれやこれやと話しかけてきてくれるし、今朝のヴィータ大暴れも、元気のない様子を心配してのことなのだろう。申し訳なく思う一方で、意識する度に頬が緩むのは仕方がない。仕方がないと言い訳する度にため息がこぼれるのは、これもまた仕方がない。合わせ鏡みたいにどこまでも湿っぽさが連鎖する昼下がりだった。
こうなると、つけっぱなしのテレビの音もどこか空々しく聞こえるし、蛍光灯の白い光も薄暗く感じられてしまう。あらゆる感覚が、覆い被さった灰色のフィルタ越しにしか働かない。
はやてがぼんやりと窓の外を眺めていると、部屋に沈殿する陰鬱な空気を打ち払うような乾いた音を、彼女の耳が捉えた。ぱらぱら、ぱさぱさ、と闇の書のページが奏でる少しだけくすぐったい音だ。
『はやてちゃん、ちょっと協力してもらってもいいですか? shamal』
「んぅー?」本が勝手に動く光景にもすっかり慣れた自分を認識しつつ、はやては首を傾げた。
『ヴィータちゃんの悪戯で思いついたんですけど、個人用のポストと宛先を作ろうと思うんです。 shamal』
「ほほう……」なにやら新鮮な響きに、エンジンがアイドリングを始める。
『今日みたいなことを防ぐためというより、個人的なお話ができた方が便利じゃないですか? shamal』
いまの闇の書は、個人に向けた発言であっても他者の耳に届いてしまう。はやてから騎士へのものでも、騎士からはやてへのものでも、同じだ。例外は、騎士同士ならば日記帳のページを介さず言葉を交わすことができて、しかし、はやてはそれを聞くことができない、ということだけだった。
現状、特に不満があるというわけではない。けれども、シャマルの提案を敢えて却下する理由も存在しない、むしろ、積極的に受け入れたい種類のものである。人間が利便性を追い求めるのは、もはや猫がネコジャラシに飛びかかるのと同じ次元の習性だといえよう。
「ヴィータにこっそり、シグナムやシャマルの胸のサイズきけるようになるってことやしな」人肌のぬくもりと柔らかさが愛おしいお年頃のはやてだった。
守護騎士たちは、本来は肉体を持ってこの世界に存在できるはずだった、しかし、非常に残念なことに、その機能は原因不明の不調によって働いていない。彼女は守護騎士たちからそう聞かされていた。だから、シグナムとシャマルがちゃんとおっぱいを持っていることも知っているのだ。
ちなみに、シグナムとシャマルのが大きいことを知らせてくれたのはヴィータだったが、本人たちも聞いていたため、ヴィータはそのときも酷い目に遭っている。シャマルの案が実現すれば、便利なだけではなく、次からは尊い犠牲が出なくて済むようにもなる。
『そればかり使うようになるのはダメだけど、あると便利だというのは、私もそう思います。 はやて』
『それじゃあ、できるか試してみますね。ちょっと時間がかかりそうなので、しばらくの間、お返事できなくなります。 shamal』
『シャマルの仕事なので、なにか起きるかもしれませんが。 zafila』唐突にザフィーラが発言する。
「おー、珍しい」ザフィーラが発言すること自体が珍しいのだから、このような話題を振ってくるのは天変地異の前触れやもしれぬ。はやては密かにそんなことを考えた。
『ひどいです。 shamal』わずかに間をおいて、シャマルの書き込みがあった。思わぬ方向からのネタ振りに動揺したのか、文字が乱れている。
『とにかく、無理はしないように。 はやて』
『大丈夫ですよ。では失礼します。 shamal』彼女の文字は、まだ少しだけ崩れていた。
◆
・6月28日 月曜日 雨
夜になってもシャマルが出かけたまま戻ってこない、もとい闇の書がずっとだんまりのまま。
シャマルだけではなく、シグナムやザフィーラの反応もない。ヴィータも夜には出てこられるといっていたのに、返事がない。こちらは別の意味でも心配。
本当にシャマルがドジったのか、それともなにか急なトラブルでもあったのかもしれない。
とても心配で、思わずお蕎麦を茹ですぎた(時間ではなく量!)。三人分くらいになりました。明日の朝ごはんもお蕎麦になりそう。
朝になるまでには帰ってきてほしいです。
できればお返事もほしいです。
◆
翌朝、闇の書は相変わらず沈黙したままだった。
はやてはしょんぼりとしながらのびた蕎麦を食べた。
窓の外では、昨日からの雨がまだ降り続いている。
今日は診察日、壁のカレンダーがそう告げていた。