はやてが本を開いたせいで書きかけになってしまった文章の主は、シャマルという名前だった。
シャマルが言うには、妖精さんはシグナムとシャマルに、更に二人を加えて合計四名。その二人は、それぞれヴィータとザフィーラというそうだ。ザフィーラだけ男性で、残りは女性だという。実はシグナムはイケメン侍だと勝手に思い込んでいたはやてだったが、それは言わないでおくことに決めた。
あと、なんだか彼ら、魔法使いらしい。騎士と自称するが、それは優れたベルカ式の魔導師に与えられる称号のようなものなのだとか。ベルカ式がどういうものなのかはわからないが、とにかく凄腕ということなのだろう。
「まあ、いまさら魔法くらいで驚いたりはせーへんけど」
なにせ始まりからして返事をくれる日記帳である。しかも、これが飛ぶ。気づけばクラゲみたいにはやての周りを漂っていたりする。現にいまこの瞬間、キッチンで包丁を握る主の斜め後ろあたりで、見守るようにふわふわしていた。ときどきすり寄ってきたところを指先でつつけば、くすぐったそうに逃げたりもする。はやてはこれに、大いに喜んだ。昔から犬を飼いたいと思っていたのだ。
この日記帳の名前は、しかし、そんな可愛らしい挙動に反して闇の書という凶悪なものだった。そのアンバランスさもいいかもしれないが、もう少しマトモな名前をつけてあげたくもある。
「うーん、どんな名前がえーのかなー」鼻歌を歌いながらネギを刻む。今日の昼食はインスタントラーメン。お湯が沸くのを待っているところである。「みんなにも食べさせてあげられるなら、もうちょっとえーもの作るんやけどねー」
一人だと、どうしても手を抜きがちになるのが昼食だった。主戦力は朝の残りやインスタント食品。それに、いまは騎士たちとのやり取りが楽しいので、わずかな時間が惜しい。こうして遅めの昼食を作っているのも、騎士たちに心配されたからだった。
ミトンを装備して、はやては湯気を立てるドンブリをテーブルまで運ぶ。
席に着いたら、両手を合わせて頂きます。
ずるずると麺を啜る音が部屋に響く。この音は、騎士たちには聞こえない。どうやら闇の書の中からは、映像だけしか捉えられないらしい。つい先ほど腹の虫が鳴いたときに、はやてはそのことを知った。
『美味い? vita』闇の書が勝手に開き、そこに文字が連なる。署名から、ヴィータの発言だとわかる。
「うまうま」はやては携帯していたペンを抜き、さらさらと文字を綴る。『ヴィータにも食べさせてあげたいです。 はやて』
はやてに限っては署名は必要ないのだが、後で見返したとき、皆の名前に自分の名前が混ざって並んでいるのが嬉しいので、きちんと書くようにしていた。
『もうちょっと栄養バランスに気をつけた方がいいとシグナムがいってます。 vita』透明人間が透明のペンで書くように、文章が組み立てられていく。
「なんと……」
『言っていません。 signum』
『ばれた。 vita』
『しかし、バランスに気を遣うべきだというのは事実です。 signum』
続けざまに書き足されていく文字を目で追って、はやてはくすくす笑う。まだ付き合いは短いが、だいたいの傾向は掴めてきた。
悪戯さんなヴィータと、彼女を諫める真面目なシグナム、それを見ながらはやてと一緒に微笑むのがシャマルで、寡黙なザフィーラはけれどもしっかりと皆を見ている。
人付き合いが極端に少ない自分が鋭いとは思えないし、彼らがわかりやすいのだろう。
『今度から気をつけます。 はやて』にっこりと笑って、はやては返事を書いた。
◆
「ふわぁ……」はやては口元を押さえた。あくびを逃がすまいとしたわけではなく、マナーである。
目に突き刺さる茜色。この色に包まれると、どうしてだろう、あくびが出る。夜が近いことを体が察知するのか、それとも単純に疲れが出やすい時間帯なのか。たぶん前者だ。少なくとも、後者ではない。なぜなら、今日はちっとも疲れるようなことをしなかったにも関わらず、こうしてあくびが出たからだ。
「あ、買い物」疲れていない理由を考え、買い物に行き忘れていたことに気づいた。そして、それが鍵であったかのように、次々と忘れていたことが思い出された。「図書館も洗濯物も……、うわぁ、やってもうた。あああ、私のふかふかの布団が……」
想像するだけでよだれの垂れそうなお日様の匂いのする布団は、諦めるには大きすぎた。ならば、それを忘れさせた闇の書の魅力はいかほどのものか。
そう、はやてはこの時間まで闇の書の騎士たちと、ずっとお喋りをしていたのだ。彼女は同年代の小学生と比べて遙かに強い自制心を持つと自認していたが、それは外部から働きかけて諫める母なるものが存在しないというのが理由であって、複数のセーフティネットを張れない代わりに一枚の頑丈で広いものを使うという苦肉の策だった。だから、万が一にも自分というたった一つの関所を突破されれば、当然ながらあとは行くところまで行く。具体的には、朝から晩までチャットに没頭する、などということになる。
ペンを握り続けたせいで強ばった指をまっすぐに伸ばし、じわりと染み渡るような痛みに顔をしかめながら、はやては手をぶらぶらと振った。
『ごめんなさい。お話しするのが楽しくて、私たち全員がつい時間を忘れてしまいました。 shamal』
『ごめん。手は大丈夫? vita』
「大丈夫、大丈夫。もう、そんなに心配せんでもええのに」はやては握力の篭もらない手で再びペンを取る。『よくあることだから心配しないで。 はやて』
『ちょっと待っていてください。 shamal』
「うん……?」はやては首を傾げた。が、すぐに驚きに目を見開く。「え? うわ、凄い」
蛍みたいに淡い緑色の光が腕を包むと、魔法みたいに痛みが退いていく。十秒も経たない内に、気怠さの一欠片も残らずすっかり快調。これで明日の朝までペンを持ち続けることができる、ラッキー、と一瞬だけ考えたが、思い直して自重することにした。
「にしても、ほんまに魔法使いやったんやなぁ」彼女は右手を握っては開く動作を数回繰り返す。疑っていたわけではないが、しかし百聞は一見にしかずという言葉を実感できる体験ではあった。『ありがとう、シャマル。 はやて』
『これからは薬箱の代わりに闇の書を持ち歩けばいいよ。 vita』返事はヴィータから来た。
『私は薬箱じゃないです。 shamal』シャマルが反論する。
『なん……だと……? vita』
『なん……だと……? signum』
『なん……だと……? zafila』
コピペみたいにそっくりな書き込みが、間髪入れずに三つ続いた。
凄まじい連携だった。
まるで三連星だった。
『寝ます。 shamal』シャマルは不貞寝した。
「シャマル、可哀想な子」はやては目元を押さえた。
『ちょっとみんなでシャマルに土下座してきます。 vi』
はやてがそれを読み終わるや否や、扉みたいに本が閉じて動かなくなる。どうやら慌てているようだ。
「いってらっしゃい。あんまり虐めたらあかんでー」はやては三人分の見えない背中に向かって、手をひらひら振る。じゃれ合いだとわかっているので、それほど心配していなかった。「さぁて、私は……、とりあえず夕食、どないしようかなぁ」
あまり空腹は感じない。しかし、一日三食の習慣はできるだけ維持するようにしている。それが自制心であり人間であるということだ、とはやては信じていた。そして、人間でありたいと思っていた。
車椅子を操り、彼女はキッチンへと移動する。冷蔵庫の中には、まだ色々と材料が残っていた。頭の中を行き交うレシピの群からいくつかを掬い上げ、更にそこから絞り込む作業に入る。その間、手はがさごそと野菜室をかき回している。
「んー、みんなにも食べさせてあげたいんやけどなぁ」指先がトマトのツルツルとした表面に触れた。「……ケチャップで文字書いたら味わかるかな?」醤油、みりん、果汁や紅茶、様々な食用の液体、半液体あるいは半固体の名が挙がる。「それに、お味噌汁とかコーンポタージュとかも……、あ、サンドウィッチみたいにページにトマトやレタス挟めば……、それとも鍋で他の具と一緒に煮るとか……」
明らかに、一日中闇の書に向かっていたせいで頭が疲れてバカになっているはやてだった。このままでは、再び闇の書に熱中しかねない。
シャマルはどうやら、治療する場所を間違えたらしい。けれども、この心地よい疲労を手放さなくてよかったとも、はやては思った。
素晴らしい本を徹夜で読み通した直後に似た、余韻と興奮とが入り交じって頭の芯が痺れるようなこの感覚は、望んで得られるものでは決してない。むしろ予期せず遭遇するからこそ得られるものかもしれない。できることなら目の前の冷蔵庫に放り込んで、落ち込んだときのために冷凍保存しておきたいが、それは不可能だ。
なので、いまの内に美味しく頂くことにしよう。
◆
・6月9日 水曜日 快晴
結局、昨日の日記は書けなかった。その分、今日はたくさんの文字を書いた。それを読み返せば、日記になってしまいそう。
今日はヴォルケンリッターのみんなと出会った記念すべき日。
剣の騎士シグナム。
湖の騎士シャマル。
鉄槌の騎士ヴィータ。
盾の守護獣ザフィーラ。
この四人と、闇の書。
みんな、これからよろしくお願いします。
p.s.トマトケチャップは好きですか?
◆
翌朝はやてが見た返信より抜粋。
p.s.好き嫌いは特にありません。
p.s.トマトは美味しいですよね。
p.s.赤いから好きです。
p.s.何でも食べます。