「あ、とれた……」はやては半ば呆然として呟いた。まさか成功するとは思わなかったのだ。
彼女の手には、古めかしい装丁の分厚い本。古めかしいとはいっても、傷みや汚れは見あたらない。ただ、市場に流通する大量生産品とは明らかに異なる、威厳みたいなものがあるだけ。普通、年月を重ねることが威厳の獲得につながるので、逆に、威厳のあるものは年月を重ねている、という推測が働いたのだろう。よくある論理誤謬だった。しかし、そんなことは、いまは関係ない。
車椅子に座ったはやての膝の上には、鎖がある。見つけてから今日まで、ずっと本を縛り付けていたのがそれだった。
ふと思い立ってぐいぐい引っ張った結果、何故か千切れたのがつい先ほどのこと。はやては自分が怪力に目覚めたのかと戦慄したものだった。ためしに千切れた鎖の両端を持って、恐る恐る引っ張ったところ、びくともしなかったのでほっと一息ついたのは秘密だ。
「えっと……、どないしよう」
どうするもこうするも、いままで本を縛っていた鎖が解けたのだ、することは決まっていた。
硬い表紙を開く。
ごくりとのどが鳴った。
最初に目に飛び込んできたのは、白紙だった。
「む……」
もう一枚めくる。
白紙だった。
もう一枚めくる。
白紙だった。
ぱらぱらマンガでするように、ページを流す。
白紙だった。
「むぅ……」はやては唸った。「よもや、こないな結末があろうとは」
こうしてその本は日記帳になった。
じゃぷにか闇の日記帳
なまえ:八神はやて がくねん:2年生 学校行ってません
・6月4日 金曜日 晴れ
さっそく使ってみることにする。
今日は8才の誕生日。石田先生が夕食に誘ってくれた。おしゃれなレストラン。
出てきた料理は、ちょっと家ではマネできないと思う。デザートはアイスクリーム。
値段はわからない。
めし、うま。
・6月5日 土曜日 晴れ
朝:パンを焼いて桃のジャム。コンソメスープ。
昼:スパゲッティをゆでる。インスタントのミートソースがないことに気がついた。おしょう油とバター。
夜:ご飯、おみそ汁、さわらのホイル焼き、野菜炒め。
お腹いっぱい、略すとおっぱい。
寝る。
・6月6日 日曜日 雨
一日中雨が降っていた。洗濯物は明日にする。
栞をなくしてしまった。
メニューを書くだけで満足してしまいそうなので、ご飯について書くのはやめる。
でも、そうすると書くことがない。
明日からは「今日は書くことを探した」と書くことになりそう。
・6月7日 月曜日 くもり
月曜日が来たぞー! とはいっても、私は学校に通っていないので関係ないのであった、まる。
本を一冊読み終わる。ミステリ。
ずんばらりんと首を斬られたけれど、きれいに斬られたので被害者はしばらく生きていた、という密室トリック。
あまり私を怒らせない方がいい。
◆
定期検診に意味があるなら、日記のネタになるということくらいだろう。脚は一向に良くなる気配がない。わざわざそれを確かめるという意味もあるかもしれない。
仕方がないという諦めと、良くならないだろうという悲観的な予測が、アブソーバとして働いて心を守るのだ。ローリスク・ローリターンは、弱い生き物が延命するコツだった。それがジリ貧であるとわかっていても、他に手がないのだから仕方がない 。
すっかり諦め癖がついているはやてだった。
しかし、それでも不安になることはある。ふとした拍子に、強烈な無力感を感じることが、ある。
それは、たとえば、寝る前に一日を振り返ったとき。今日成したことを思い出し、一年でその三百と六十と五倍のことしか行うことができないのだ、と考えたとき。十年では、そのたった十倍なのだ、と計算したとき。
そして、自分はなにをするために生きているのか、と考えたとき。
まるで、じわじわと水を吸うように、ぐずぐずと体の末端から腐り落ちていくように、不安が心を浸食する。
鉛を飲み込んだかのように胃が重くなり、呼吸が厳しくなる。
それを、じっと動かず、静かに耐える。
発作のようなものだ。乗り切れば、この嫌な気分もすっかりと姿を隠すことを、経験から知っている。
嫌なことを考えないように、頭の中で大声で数を数える。原色でカンバスを塗りつぶすように、数字で思考を上塗りし続ける。これが意外と体力や気力を搾り取る効果があって、心が平常に戻る頃には、はやては雑巾みたいにくたびれていた。いくつまで数えたかすっかり忘れてしまうのもいつものことだった。
「ふぅ……」一仕事やり遂げた職人の顔で、はやては息をついた。
今日はもう寝よう、日記なんて一日を見直す作業そのものだし、いまは避けたい。夕食を作って食べる元気もない。こうなったのがお風呂上がりでよかった。
グラス一杯の水道水を飲み干して、はやては自室に戻った。
車椅子からベッドに乗り移る。
一度、机の上に置かれている分厚い本を視界に収めてから、部屋の照明を落とす。
◆
翌朝。
カーテンの隙間から差す光の帯がまぶしくて、はやては目を覚ました。
気分は良好。
頭は軽い。
元気だ。
昨日みたいに"発作"があった翌日は、大抵こんな感じだった。あれがガス抜きの役割を果たしているのか、それとも反動で躁になっているのか。どちらにしても、この状態はしばらく続くのが経験則上わかっているので、有効活用したいものである。
天気がいいし、買い物ついでに散歩でもしてこようか。図書館に行くのもいい。洗濯もしたい。布団も干そう。
着替えながら今日の予定を立てる。その途中、机が目に入った。
正確には、机の上の日記帳。
いま考えれば、中身が白紙だったからとハードカバーの本を日記帳にしてしまうのは、ちょっとアレだ。だからといって、いまさら止める気もないのだが……。
着替え終えた彼女は、机に向かった。昨日さぼった分をいまの内に書いておこう、と考えたのだ。今日の夜には色々忘れてしまうだろうし、二日分を書くのも面倒かもしれない。
「んー、昨日は石田先生と……」回想しつつ本を開き、最後に書いた部分の次のスペースに目をやる。「うぇ?」そしてはやては奇声を上げた。
最後に書いたのは、6月7日のものだったはず。なのに、これから書き始める空白の前には、別の文。
もちろんはやてには、それを書いた覚えなどなかった。そもそも、筆跡からして別人のそれである。
「よ、妖精さん?」
見知らぬ誰かの文章を、はやては読んだ。
◆
達人が良い剣で斬れば、斬られた者がしばらくの間生き続けることは、実際にあります。
数秒くらいですが。
Signum
◆
妖精さんは、どうやら6月7日の記述に対して一言いいたかったらしい。
「数秒じゃ密室できへんやろ……」
部屋に鍵をかけるくらいならできるかもしれないが、はやてが読んだのはそういうレベルのものではなかった。もっとおぞましいなにかだったのだ。
首のない体がしばらく生きていて、その間に別の部屋に行くとか……。
「あかん、あれは忘れよ」はやては忘れたことにした。「それより、問題は妖精さんやな」
まさか自分は解離性同一性障害持ちだったのか、それとも家に侵入者がいたのか。どちらも完全に否定しきれないのが恐ろしい。
「どっちもなさそうなんやけどなあ……」
記憶の欠落や、別人格が行動したらしき痕跡は特に見あたらないし、家は荒らされていない。それに、日記に返事をする別人格や泥棒というのもなんだかなぁ、と思う。
さてどうしたものかと考えるも、どうしようもない。ちょっと不思議で不気味なことが起きたが、被害はないし、対処らしき対処も、有効そうなものはこれといってない。
まあ、ちょっと面白そうだし、こちらから更に返信してみよう、と思わなくもなかったのだが。
◆
Signumさん(?)へ
お返事ありがとうございます。
もしかして、Signumさんはそれができるのでしょうか?
剣をやっているのですか?
八神はやて
◆
Signum氏の返事の下にそう書いて、本をぱたんと閉じる。ページとページの隙間に挟まれた空気が押しつぶされ、潰れきってしまう前に外へと逃げ出した。
できることならこの場に監視カメラを設置したいところだが、生憎とはやてはそのようなものを持ち合わせていない。
「せいっ!」十秒ほど考える素振りを見せた後、彼女は勢いよく本を開いた。
また文章が増えていた。
◆
八神はやて様へ
申し訳ありません、うちのシグナムが出しゃばった真似をいたしました。
以後慎むよう、皆で言い聞かせますので、どうかお許
◆
「書きかけ?」
文章は途中で途切れていた。
どうやら妖精さんは本当にいたらしい。しかも複数だ。
まず、剣をやっているSignumすなわちシグナムが一人目。そして「皆で言い聞かせる」という表現から、これを書いた人物を含めて他に三人以上は存在すると推測できる。
「それにしても、なんというハリー・ポッ……、いやいや、おらワクワクしてきたぞ」右手は、知らぬ間にペンを取っていた。「えっと、とりあえず人数と名前かな……?」
◆
名前を知らないあなたへ
お返事ありがとうござます。書いている途中で邪魔をしてしまったようで、すみませんでした。
どうかシグナムさんを叱らないであげてください。
シグナムさんからのメッセージ、嬉しかったです。それに、あなたからのメッセージも。
私は八神はやてといいます。もしよろしければ、あなたや他の皆さんのお名前も教えてください。
八神はやて
◆
こうして奇妙な交換日記が始まった。