リィロ・ロイドは走っていた。力のかぎり、あらん限りの速度で走っていた。抱えていたボストンバックを足がつられた拍子に取り落とし、中身の一万ジェニー札が地面にばら撒かれる。それでも拾い上げる暇は無い。もうダメだ。あんな怪物を敵に回した時点で勝ち目はなかったのだ。とっとと逃げなければ、奴らはどこまでだって追いかけて殺しに来る。「よぉ」と、その時、リィロの最も聞きたくない声が、聞こえた。「おわァああああああ!!!」同時に、足元が前触れなく爆発。空中高く投げ出され、受身を取ることもできずに地面に叩きつけられる。痛みに呻くリィロの足下に、転がる何か。それを見て、思わず悲鳴を上げた。「アニキなんだろ?ひろってやったらどうだ」最初、それが何かわからなかった。酷い悪臭を振りまく、腐りかけた何か。頭蓋骨をかち割られ、目玉は飛び出て、腐りかけた脳漿がはみ出した、それ。兄、マイケルの首。首元から千切られた生首が、空ろな眼孔を晒していた。言葉も無いリィロに、男は、とても柔らかな口調で微笑んだ。「家族ってのは、大事だよなぁ。俺もな、この世で一番家族が大事だ」男の手が、リィロの顔面を鷲掴みにする。腕に滴っていた血が、べったり付着するのを感じて、リィロの顔は恐怖でぐしゃぐしゃに歪んだ。恐ろしいほどの力がかかり、顔面を地べたに押さえつけられ、悲鳴を上げることもままならない。「ご、ご、ご、ごめんなさい!!許して!!殺さないで!!」涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながらリィロは叫んだ。男は軽く肩をすくめ、リィロの顔面を路面に叩きつけた。グシャリという音がして、鼻の骨が砕けた。歯が砕けて、舌の上に転がる。「ゆ、ゆふして、くだひゃい・・おねひゃい、しみゃふぅ・・・!!」涙混じりに懇願することしか今のリィロには許されない。男はリィロの顔面を掴んだまま、アスファルトにグリグリと擦り付けた。恐ろしい腕力で、とても抜け出せそうにない。まだ舗装して間もないアスファルトの臭いを間近に嗅ぎながら、リィロは前後に摩り下ろされた。デコボコしたアスファルトの表面に、ジャリジャリとリズミカルに踊る顔面。その間、リィロはこの世のものとも思えない悲鳴を上げ続けた。だが、徐々に唇と鼻が完全にムースになるにつれ、物理的に声を出すことが不可能になった。やがて血と皮膚と肉が下ろされた塊がアスファルトの目地に溜まり、リィロが痙攣すらしなくなると、男はその顔を掴み上げて覗き込んだ。瞼は飛び散って眼球は地に落ち、目の部分にぽっかりと空いた孔だけが残る髑髏顔。鼻は白い骨から二つの鼻腔が除くだけだった。唇は完全にすりおろされて、前歯は全て抜け落ちている。「なかなか、男前になったぜ」バトゥは笑いながら、血まみれの髑髏に銃口を突きつける。「ちょいと虫の居所が悪かったんだ。苦しめて、悪かったな」銃声が、響いた。その数日後。海パンはこの日、組織のボス、キャスリン・ボーモントに初めて面通しされた。あの後、彼の身分はボーモント・ファミリー預かりの食客ということで落ち着いたが、組織の連中は事件の後始末に東奔西走していたようで、妻達ともども釈然としない心持のまま穏やかな日々をすごさせてもらった。その影で、どんな扱いが待っているか、戦々恐々としていたのも確かだったが。「やあ、久しぶりだね、海パン君?」キャスリンは、いかにも機嫌よさそうに、朗らかな笑みを浮かべている。この幼女に首を圧し折られそうになった時の感触が未だに忘れられない海パンにとっては、恐怖を煽るだけだったが。「こちらはミスタ・リッポー。ボクの古い顔見知りで、今でも多少仕事の付き合いがある、という程度の仲だ」幼女の後ろに控えていた男が、申し訳程度に会釈する。「どうも」リッポーと紹介されたのは、奇妙な髪型の小男だった。背丈は彼の腰から少し上くらいしかなく、時代錯誤な丸目がねの向こうの瞳は、笑みの形にゆがめられている。笑顔を職業的に作りなれた人間の顔だ、と海パンは思った。特徴的なのは、やはりパイナップルのヘタのような形にまとめられた髪型だろう。頭頂部の毛だけを伸ばし、それ以外を見事に剃りあげている。この特徴的な外見に、リッポーという名前。もし、この男が、海パンの知っている人間と同一人物だとしたら、それは高額の賞金首を専門的に狩るブラックリストハンターの上位に位置する男だ。「で、実はボクはこんなものを持っている♪」幼女は指先で弄ぶように、一枚のカードを取り出して見せた。それは、ハンターランセンスだった。ハンター、それは稀少な事物を捜し求める事に生涯をかける者達の総称である。ハントの対象は財宝、賞金首、美食、遺跡など幅広く、中にはライセンスを持たない自称・ハンターも数多いが、キャスリンが提示して見せたのは、数百万分の一の難関と言われるハンター試験を突破したものだけが得る事のできるプロの証。それは通常のものとは異なり、表面に一つの星が描かれていたのだが、そこまでの違いは海パンには分からなかった。「特別に認められたハンターは、政治取引によって死刑囚を含む重罪人を社会奉仕に従事させることが出来る。もし、君が豚ちゃんのところでしてきた"お仕事"とやらを一切合財ゲロしてくれるんなら、リッポー君にとりなして司法取引を仲介してやってもいい」・・・読めた。この連中、自分をダシにして、一切の責任を豚に擦り付けるつもりなのだ。「正解。でも、悪い話じゃないだろう?その場合は、ボクの『保護下』で自由の身にしてあげることが出来るヨ♪」幼女はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。「どうするのかは、君が選びたまえ。どちらにしろ、ボクらボーモントからの不干渉は守ろう。ただし、この条件がのめないなら、警察やハンター協会が動いてもボクらは君を庇い立てしない。君の情報を渡すことにも一切ためらわない。そういう話だ、アレクサンドル・ミュラー君?」自分の素性も何もかも、この相手にはばれているらしい。海パンは、深く頷きながら、自らの首に特大の首輪がつけられたのを思い知った。Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 epilogue『・・・続いては金融に関するトップニュースです。長く一族経営を保ってきた投資信託銀行ボーモントキャピタルが100年以上続いてきた「伝統」に終止符を打ちました。その伝統とは、一族のメンバー以外が経営の采配を振るうというものです。今回、初めてボーモントの姓を持たない社員、グレース・コードリー女史がCEOに任命されました。コードリー氏は大手金融某社からの引き抜き社員で、社歴は3年と短く、この人事は辞任した前CEO、ベノア・ボーモント氏の英断と噂されています。かつてボーモント一族は1900年代に直系の血を引く幹部達をそれぞれ5大陸主要都市に派遣し、ダイナスティー(王朝)を築いたことで有名です。つまり同族経営というのが同社のコア・バリューなのです。そして、ボーモントにはもうひとつ新しい変化が起きています。それは新たな本社屋の建設です。そう言うと、「本社を新しくすることくらいどうした」と思われる方もおられるかも知れません。ですが、これは同社にとって極めて重要なことです。最近では薄れてきた伝統ですが、ヨークシンの"シティ(金融街)"では、著名なバンキング・ハウスの住所がどこかというだけで、どのライバル会社の話をしているのか業界通ならたちどころにわかるのです。つまり、金融界のある種の「隠語」なのです。例えばヨークシンでタクシーに乗り、「ミッドの60番街へやってくれ」と伝えれば、それだけでタクシーの運ちゃんは「ボーモントですね」と、背筋をピンと伸ばして応えてくれますし、商社マンが上司から「ミッドの動きを探れ!」と言われたら、ボーモントキャピタルの事を指しているわけです。しかし、90年代初頭の金融ビッグバン以降、金融業界再編の流れが加速し、著名な老舗銀行の多くが次々と買収され、統廃合を繰り返しました。その関係でオフィス・スペースの移転が相次ぎ、最近では立地の伝統がすっかり薄れてしまった感があります。その中にあって、ボーモントキャピタルは同族経営を堅持し、M&Aにも巻き込まれず、これまで昔ながらのスタイルを堅持してきました。従って今回の新社屋建設も新しい場所に移るのではなく、旧社屋を取り壊して同じ場所に立てなおされるとのことです。著名な建築家トーマス・ライト氏の設計した新社屋は、これまでの古き良きヨークシンを体現する煉瓦作りのレトロな雰囲気から一転、未来的なデザインになっています。その斬新なデザインにこそ、時代の波に取り残されず、旧体制からの脱却を図るボーモントの決意のようなものが感じられます。以上、ミッドランド・ガーデンよりチャンネル6のエイプリル・オニールがお伝えしました』・・・付けっぱなしのラジオから、ニュース番組が流れてきたことで、アンヘルは目を覚ました。ベッドから這い出て、冷蔵庫から大き目のケースを取り出す。中身は濃い目にいれたインスタントを覚ましたアイスコーヒー。冷たいままのそれを一気に胃に流し込むと、寝ぼけた頭が動き始めた。 時刻は早朝。日が出てまだ間もない。向かいのビルの隙間から、狭い路地のアスファルトが冷気で白く輝いていた。春先といっても、まだまだ肌寒い。この時期のヨークシンは厚い雲に覆われているのが常だが、珍しくいい天気だった。昨夜はカフェのバイトが長引いて、帰ってくると同時にベッドにダイブした。商品の棚卸しを手伝うと、時給に加えてささやかなボーナスと、賄いが振る舞われるのでありがたい。でも、重い荷物を積み卸す単純作業の連続は体にこたえた。酷使した左手がかなり重い。右腕の拳に少し力を入れたが、曲がったのは2本の指だけだ。小指と薬指、そして中指は震えながらも動こうとしない。まだまだリハビリが必要らしい。包帯が取れたのはつい最近の事なので、無理はいけないといわれたばかりだが、財布の中身がごく僅かだったというのも同じくらい切実な事情なのだ。まあ、たまにこんな重労働もあるが、暇なときには本が読める。今の仕事には満足しているのだが、お金はあまり貯まらない。そろそろアパートの家賃を払わなくてはならなかった。財布を開いて中身を確かめる。広告のチラシから切り取ったクシャクシャの割引券にまぎれて、擦り切れた1000ジェニー札が数枚。平和なバイトも結構だが、もうすこし実入りのいい仕事がほしい。ひとまず今日の飯代が在ることを確認すると、シャワーを浴びて、外向きの服に着替えた。ショートニットにデニムのミニ。その上から薄手のパーカーを羽織る。みんな、バイト先の店長のお古だ。退院してから、手持ちがほとんどなかったから、処分しようとしていた古物をもらえたのは正直ありがたい。モード系のファッションが多いのはあの人の趣味だと思うけど、何気にどれも値が張るんじゃないだろうか?身支度をすませると、アンヘルは机の上に目を移した。そこにあるのは、元の形が判別できないくらい溶け落ちた黒い塊。かろうじて、かつてそれが手袋だったと判別できる程度のスクラップに、砕けて焼け付いた刃の欠片。どちらも退院する際、かかりつけの医師に持たされたものだ。自分の持ち物だったというの話だが、これが何なのか、アンヘルには見当もつかなかった。「・・・・ドー・・・?」不意に、口を突いて出た言葉に、自分でも驚く。何を呟いたのか思い出そうとしても、頭に靄がかかったようにその部分だけ思い出す事ができない。ここ一ヶ月、ずっと悩まされ続けてきた現象なので、もう慣れっこになっていた。「・・・本当に、こんなんで思い出せるのかね?」ため息をつくと、部屋を後にした。アンヘルが暮らしているのは、ヨークシンのハーレムにある安アパートだ。毎晩、天井でねずみが暴れているようなオンボロで、退院してからもう一月あまり住んでいる。他に入居者のいないアパートを出ると、街はとうに動き出していた。土地がら、背広を着た勤め人の姿はなく、道を歩くのはブルージーンズの労働者や貧乏な学生が多い。角の小さなキオスクのレジから、馴染みのおばちゃんが手をふって挨拶してきた。「おはよう、ケイト。景気はどう?」アンヘルはスタンドのミルクパックと、ソーダブレッドを一つとって差し出しながら笑顔で挨拶した。「いいもんか!三件先にコンビニが建ってから客はみんなそっちに引っ張られちまった!」ジェニー硬貨を受け取りながら、彼女はイライラと頭を振った。相変わらず早口だ。ハーレムの人々は初見の人間には極めてドライだが、少し仲良くなるとフレンドリーに接してくる。最初の頃は戸惑ったが、今ではそれが心地いい。一人暮らしの寂しさを、彼らが紛らわせてくれた。「じゃあね、また来るよ」 「そうかい。いつでも寄ってくんな!」寒さに身を震わせながら、ミルクパックをあけた。歯がしみるほどに冷たいが、残っていた眠気がそれで消し飛んでいく。次いで、ビニールを破ってソーダブレットにかじりついた。レーズンにナッツがたっぷりと入った柔らかいパンはケイトのお手製で、ヨークシンの朝にはポピュラーな食べ物だ。バイトに、急がなくては。「記憶喪失?」「ああ。一時的なものだと思いたいがな。具体的には、一年と少し前から、彼女が目覚めるまでの間・・・あの人と過ごした一年あまりの記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているようだ。俺は体の方が専門だから、それ以上のことは分からん」心の事は、特に。そういうと、ヤマダはタバコに火を点した。あの日から、数か月。一事は危篤状態だった少女は、なんとか持ち直した。今ではハーレムの一角で療養を続けながら、日々を生きている。その間、キャスリンはヤマダのもとを定期的に訪れ、経過の報告を受けていた。実際、少女が死地を脱出したのはキャスリンの能力に拠るものが大きいとはいえ、ほぼ不眠不休でオーラを注ぎ込み続けたヤマダの献身あってのことだ。もしキャスリンの能力だけで人を治す事ができるなら、そもそもカルロを死なせる事は、なかったのだから。あの頃のヤマダは、目元は落ち窪んで濃いクマに覆われ、細い顎は無精ひげが伸び放題。白衣もくたびれたようにクタクタだったが、目の光だけは鋭く、ギラギラと輝いていた。医者の不養生と言っても、聞かないだろうと思ったので何も言わなかったが、ポックリいっても不思議ではない雰囲気だった。その甲斐があってか、少女は一月ほど前に意識を回復したのだが、一つ問題があった。彼女は、一部の記憶を失っていた。「記憶か・・・さすがにそっちはボクも専門外だね。ざっとカルテをみさせてもらったけど、体のほうは今のところ問題なさそうだが・・・出来る事は全部やったし・・・」血も肉も、ボクに与えられるものは全部与えた、と。人間の細胞はおよそ3ヶ月で全て入れ替わる。所謂、新陳代謝だ。欠損部や破損部に取り付かせて擬態させたキャスリンの細胞は、順調に行けばもうそろそろ全て少女自身の細胞に置き換わっていることだろう。ただし、とキャスリンは重い口調で続けた。「君も気付いたとは思うが、生命力がごっそりと削り取られたように消失している。ある程度は回復する見込みもあるが、どうしても欠けてしまった部分は残るだろう。こればかりは、ボクにもどうにもならない」削られた命、寿命は、二度と元には戻らない。蝋燭の火を人の命に例えるなら、蝋に油をぶち込んで、一時的に無理やり火を大きくしたようなものだ。そのせいで、残された時間が短くなってしまった。「彼女が後十年生きられるか、二十年生きられるか、さもなければ五年も持たないのか、ボクにもわからない。もちろん、それ以上に生きられる可能性だってあるが・・・・・・ただね、少なくとも当たり前の人間よりはずっと短くなるだろう。それが、あの子が求めた奇跡に支払った代価だ」事件後、戦闘の跡地にできた直径数キロあまりのクレーターを見て、キャスリンは戦慄した。ダウンタウン地区の半分以上は吹き飛び、今や跡地は巨大な入り江になっている。直接その瞬間を見たというミツリによれば、火事場の馬鹿力にしても、とても念を覚えて一年やそこらの人間に出せる出力じゃ無かったそうだ。こんな形で才能を発露させた人間は、キャスリンも初めて見た。体、心、命、記憶・・・そのために、いったい何をどれだけ差し出したのやら、見当もつかない。しかも、そこまでして得たオーラの全てを、あの子は破滅の力に変えてしまった。オーラを爆薬に変化させる能力。こういった直接攻撃力に長けた能力は、オーラを手放すことを苦手とする変化系の抱えるジレンマだ。自分が傷付かないよう、体をオーラで保護して加減をすれば、相手に届く力も半減する。といって、全力で能力を使えば、自身の破滅を招く。そんな能力を使い続ければ、いつか身も心もボロボロになってしまう。それでも、あの娘はそういう力を選択した。他人を傷つけるためには、まず自分が傷付かなくてはならない、そんな力を。「破滅的な人生観を持った子だね。・・・あいつめ、なんて能力者を育てちまったんだ」子供というのは難しい。何人育てても、未だに慣れたためしがない。精神的に未成熟な分、時にもろく、時に強く、融通が利かない。二律背反、アンバランスな心と体。子供のうちから念に目覚めたものの多くが持つリスクだ。「大事な記憶だからこそ、代価として持っていかれたのか・・・それとも、単に大事なものを失った記憶を忘れさりたかっただけなのか・・・」今となっては、恐らく誰にも分からない。だが、幸か不幸か、あの子はその絶望すらも失った。「・・・ま、生きてさえいれば、何とやらだが」キャスリンの言葉に、ヤマダも頷いた。生きてさえいれば、とりあえず人生というやつは続くのだ。「ちなみにそれ、彼女には?」「落ち着いたら、全部話す。患者には嘘をつかないのが、俺の主義だ」ヤマダは静かにそう言った。何かを受けれた人間の顔。それなりに長いつきあいのキャスリンにも、初めて見せる顔だった。 「人の生き方を決める権利は、医者にはない。死地に赴く事がそいつの選び取った人生なら、俺には止められない。だがな」そう言ってタバコの火を揉み潰したヤマダは、とても医者だとは思えない、奈落の底のような恐ろしい目をしていた。「それでも生きているのなら、何をしたって治してやるさ」キャスリンには、かける言葉が見つからなかった。「・・・精々高い診療報酬を請求するんだね、ヤマダ君。言っとくけど、書類はキチンと出したまえヨ。いつもいつも、どこの馬の骨とも分からない患者の分まで水増しして請求されては、会計士を誤魔化すのが大変だ」やるなら、もっとうまく誤魔化せ。そう、キャスリンは言外に伝えた。この国では、医者というのはあまり儲かる商売ではない。良くも悪くも自由主義を崇拝し、あらゆる社会保障を認めず、自由診療を続けてきたのがこの国だ。貧富の差は医療保険の差、受けられる医療の差となって、両者の間に溝を穿っている。儲かるのは一部の大病院と専門医だけだ。それでも、ここハーレムでの医療格差はマシな部類に入る。ヤマダが、ここに住みだしてからは。「・・・ついさっき、市立病院から連絡があったよ。あの子が助けた女の子、持ち直したそうだ。一事は精神的にかなり危うかったそうだが」あの日、ヤマダ外1名が救った女性達は、市内の病院に搬送され、治療を受けていた。その多くには身寄りが無く、しかも心に深い傷を負っていて、アフターケアを必要としている。さすがのヤマダも体の傷は治せても、心の傷までは癒せない。「親御さんが見つかって、病院に駆けつけて来られてからは、なんとか快方にむかってるそうだ。助けてくれた人に、一言、礼が言いたいとさ」その話を聞くと、キャスリンはなんともいえない気分になった。「あそこの診療部長は医大の同期でね。堅物な男だから、なんと誤魔化したものやら・・・」困ったな、と口にしながら、どこかヤマダはうれしそうだった。事件の全貌は公には伏せられている。不用意に情報を流すことはできない。その点はヤマダも承知済みだ。何より、肝心のあの少女に記憶がないとあっては、会わせることもできないだろうが・・・それでも、「こんなクソみたいな世の中でも、何一つ救いがないわけじゃない。俺は、そう思いたいね」束の間、キャスリンはほんの少し、気持ちが軽くなったような気がした。しばらくこの気分に浸り、善人ぶっていたかったが、仕事はまだまだ残っている。「・・・じゃあ、そろそろボクは行くよ」「ああ、振込みはいつもの口座に」キャスリンがリムジンでミッドの屋敷に戻ると、既に日は中天に差し掛かっていた。約束の刻限には間に合ったが、屋敷の玄関には既に客が訪れていた。一人は見た目14、5歳程度の少女。腰まである黒い髪を後ろに流し、五本指の龍が描かれた紅いチャイナドレスを着ている。肌色は病人のように白く、血のように赤い唇に、長い煙管を咥えていた。もう一人は黒いスーツを着た男。細身で長身、ガリガリにやせているが、視線は凶悪なほどに鋭い。おまけにヤク中かなにかのように青白い顔をしていた。黒いスーツの首にだらしなくネクタイをぶら下げているが、両手はポケットから出している。目玉をぎょろぎょろと動しながらせわしなく周囲を警戒しているようだった。「お久しぶりです、媽媽(マーマ)」少女はキャスリンの姿を目に留めると、唇の端を優雅にゆがめて笑いかける。顔の造作はまるで違うのに、笑い方はキャスリンその人とあまりにも似通った笑みだったドレスの裾を翻してシナを作る少女を見て、キャスリンは思わず眩暈を覚えた。「ドラ息子め、また体を取替えやがったな・・・」「ええ、女になったのは初めての経験ですが、たまにこういう刺激もいいものです。長い人生、ちょっとした刺激が新たな生活の活力を生む。そして、久しぶりだな、妹よ」「お久しぶりです、お兄様。どうぞ、奥へ」皺でひび割れた顔をニコリともさせず、老女は少女達を部屋の奥へと促した。「病犬、お前はここでお待ち」紅いチャイナの少女はそういい捨て、不服そうな男をひとにらみで黙らせると、老女が差し招くまま扉の向こうへと消えていく。老女を後ろに控えさせ、キャスリンもその後に続いた。「まったく、だいたい何さ、王大人って。偽名にしてもひねりがなさ過ぎる。ミドルスクールの教科書並みだ」「上の名前は覚えやすいほうが下っ端連中にはいいのです。しかも、ありきたりで、目立たない。電脳ネットで検索されても、あまりに検索対象が多すぎてまともに引っかかりません。時代が変わったということですよ、媽媽」新緑の香りに包まれた長い外廊下を渡り、今までいた棟とは別の建物へ移る。広い屋敷に人気は無いが、廊下が面している広い中庭に設えられた庭園は良く手入れされ、絶妙のバランスで季節の木々が植えられていた。四方を二階建ての屋敷に取り囲まれた小さな中庭、その中央に、小ぶりのガーデン・ハウスがあった。木造の平屋で、くすんだ藁葺きの屋根に、古びた色合いのベイウィンドウ。壁の煉瓦はいたるところが苔むしていた。古く、重厚で、憂鬱なたたずまいを見せる巨大な屋敷の中で、まるでこの場所だけは、時代がかった民家を引っこ抜いて移植したかのように、素朴なつくりだった。中の家具も、高級ではないが、使い込まれた木のぬくもりを感じさせるものが揃っている。実際には、この家のあった場所に、後から屋敷が立てられたのだが。その事を知る4人のうちの1人は、先日、故人となってしまった。田舎屋敷のダイニングそのままの小さな台所で、3人はお茶を囲んだ。「さて、まずは例の薔薇の話だが」キャスリンは手ずからお茶を入れると、スコーンとジャムを出して振舞った。「流石に大統領府の連中が真っ青になって後始末に走り回ってるよ。今のところ目立った被害はヨークシン沖で大量の魚の死骸が上がったくらいだけど、一歩間違えば人口800万のこの街が全滅していたから無理も無い。おかげで情報部は上の首がまとめて入れ替わったらしいね。大統領は本気だ」スコーンを齧りながら、少女が真面目な顔で頷く。「去年の春に、ヤーパンでカルト宗教が地下鉄での化学テロ起こしたばかりでしたでしょう?連中、それを当てこすりにして追加予算を計上していたようですが、実際にはこのザマですから、そら大統領もキレます。正直「ざまあ」と思わないでもありませんが・・・あの男も二期目を控えているタイミングだ。冒険は避けるでしょう」キャスリンもそれに同意した。「もちろん、表ざたにはできないから、突発的な異常気象ってシナリオで通す気だ。またしても真相は闇の中。泥は現場の連中が被ればいいとして、ボクらとしては奴らに貸しが出来たと思えば、そう悪い取引でもない。後始末は奴らが何とかするだろう。ただ、流石にダウンタウンはもう放置できないってことで、再開発が決定した」「さもありなん」長らくヨークシンの闇を形成してきたダウンタウン地区も、これを機に抜本的に整理される事になった。今はまだ、政府内でも内々の決定だが、遅くても再来週には公式に発表されることだろう。その点、キャスリンは抜かりなく、グループ系列の不動産会社や建設業者に、開発特需を当て込んで、今から準備するよう密かに指示を飛ばしている。「では、本題だ」キャスリンが顎をしゃくると、チャイナの少女は持参のバッグから、書類の束を引っ張り出して二人に渡した。クリップ止めされた数枚のA4書類を手渡されると、キャスリンは無言で表面の文字を目で追う。しばらく、幼女と老婆は無言で書類の中身を頭に入れていたのだが、やがて少女が口火を切った。「D・Dの供給元は、ミテネ連邦、ネオグリーンライフの自治領でした」今回の騒動の一番の謎にして、そもそもの発端。新種の麻薬"D・D"の流通経路。「なんてこった・・・。キチガイじみた環境団体の中でも一番キレた連中だ」ネオグリーンライフ。通称・NGL。ヨルビアン大陸バルサ諸島の南端に位置する島、ミテネ連邦を構成する5つある国のうち、西端の一国だ。エコロジー団体が運営する自治国であり、200万人を超える人口のうち99%を占める構成員が、機械文明を捨て自然回帰と自然保護を目的とした、自給自足の生活を送っている。このNGLが、似たような目標を掲げる他の団体と異なっているのは、その機械文明排除に関する徹底振りだ。金属や電子機器はおろか、石油製品やガラス製品の持ち込みすら法律で禁じられ、違反した場合は最悪極刑もありうる。銀歯や整形用シリコンなどが体内にある者は、摘出しない限り入国も許可されない。そういった極端な自然回帰主義を掲げている組織だが、実は成立直後から、黒い噂が耐えない。「ええ、表向きは多少過激な環境団体を装っていますが、色々ときな臭い噂の耐えない連中です。今回の件を鑑みるに、黒で決まりでしょう」お茶で喉を湿すと、少女は「しかし」と続けた。「NGLは医者の診療すら拒否して自然死を受け入れる、本物のマジキチ集団です。そういうのを敵にまわすと厄介ですよ。何せ、原理主義者ってのは理屈じゃ動かない。しかも、まずいことに著名人や芸能人、一部の政治家にも奴らのシンパがいます。下手に手を出して、ロビー活動に走られたら目も当てられない」「だね。ボクも少し頭が痛いよ。うちの銀行にもNGLの募金用口座がある。毎月そこそこの金がまとまって送金されていたはずだ。顧客の中にもNGLの大口支援者がいるし」「仮に官憲に事情を伝えたところで、場所がNGLでは本土の土を踏むのも一苦労です。何せ、機械類が一切持ち込み禁止の国だ。仮に入国できたとしても証拠を掴むのが難しいとくれば、国際警察も二の足を踏むでしょうな」キャスリンは忌々しそうにスコーンにかぶりつき、少女は胡乱気に煙管を咥えて煙を吐き出した。「たぶん、D・Dに関わってるのは上層部のごく一部だけだろう。末端の構成員は教義とやらを信じてる真っ当な狂人・・・ボクならそういう手を使う」豚公の船、沈めるんじゃなかったと、キャスリンは今更ながらに後悔した。探れば、まだまだ何か出てきたかもしれない。「・・・なあ、この件、仮にマフィアン・コミュニティに情報を流したら、どうなると思う?」嫌な予感を覚えてキャスリンが問いかけると、少女は困ったように微笑んだ。「恐らく、媽媽が危惧されている通りになるかと。コミュニティにとって、麻薬がばら撒かれる事そのものは問題ではありません。コミュニティの影響下にないルートを介した流通が、商売に不都合なだけです。故に、どの組も我先に取り込みをはかるでしょう。D・Dの市場価値は計り知れません」「・・・やっぱり、直接的な干渉は危険すぎるね。しばらく放置だ。一応、それとなくボクから政府関係者に情報を流しとこう。豚からの供給は絶ったから、ヨークシンへの流入はしばらく抑えられる筈だし。とはいえ、いずれ同じことをやりだす馬鹿はでてくるだろうなあ・・・」キャスリンは喉の渇きを覚えて、茶を一口啜った。「それはさておき、媽媽。このところ『裏』の力が増しすぎていると思いませんか?今回の一件も、元をたどればそれが遠因です」少女が、迂遠な言い方をしたので、キャスリンは目を瞬かせた。「何が言いたいのさ?」人の悪い笑顔を浮かべ、少女が自分の首筋をトントンと手刀で叩いてみせた。「少々、毒抜きが必要ではないかと」二人の剣呑な視線が、空中で交わる。「正直な話、私は最近危惧していたのですよ。『裏』が力をつけすぎて、多少暴走する馬鹿が出るくらいならいざ知らず、やりすぎて『表』の直接介入を招くのはさすがに面白くありません」その危険は、内心キャスリンも恐れていた。「マフィアン・コミュニティーそのものは悪くないアイディアでした。本来なら絶えず争う筈の裏社会に、一定の相互利益を持たせることで、秩序を生み出すことができた。おかげでこの街のような例外を除けば、組同士の表立った対立も少なくなり、世界的にも治安が幾分改善できました。しかも、闇物資の流通も、ある程度監視が行き届くようになっている」かつてマフィアン・コミュニティ、その原型を準備させたのはほかならぬキャスリンだ。目の前の息子に命じ、犯罪集団にとって、互いに争いをなくし、目立たず潜在化することが相互利益に繋がることを説き、犯罪シンジケートの構築とその運営の合議制化、制裁機関の設置などを考案した。それが今で言うところの十老頭と陰獣だ。これにより、それまで血縁関係や古いしきたりに従って動いていたマフィアが、近代的なビジネス組織、即ちマフィアン・コミュニティへと変貌したのだ。キャスリンにしてみれば、抗争ばかり繰り返す馬鹿どもを、監視しやすいように一まとめに括りつけただけだったのだが。当時は、マフィア同士の過激極まりない抗争が日常茶飯事のように起きていた。それが「大量虐殺」として新聞をにぎわせ、表社会の関心を呼びつつあったため、ある意味では苦肉の策だった。しかし、と少女は続ける。「それが裏社会に力をつけさせ過ぎました。所詮、影は影。それを忘れて暴走しだしたら、後に待っているのは悲惨な悪循環が生み出す倍倍ゲームです。治安の悪化が税収の低下を招き、経済を落ち込ませ、それが更なる治安の悪化を招く。だというのに、若い連中にはそれが分からない」「経済と同じだね。誰もがバブルだと分かっていながら、過剰な投資を止められない。いずれ、破局が訪れるその日まで」「破局なぞ起きてもらっては困ります。何せ、私は媽媽よりだいぶ長生きをするつもりなんですから」「そうかい?・・・・で、どうしろと?」「処分しましょう。下手を打ちそうな連中を集めて、残らず全部」あっけらかんと笑いながら、少女はあまりにも過激な策を、いとも容易く口にした。つい最近、大量の血が流れたばかりだというのに、このドラ息子はまた抗争を引き起こすつもりらしい。「媽媽のところの顧客に一人、面白い男がいるでしょう?アレを使います」逆十字を背負った、イカレタ男が。と、少女が笑みを深くしたので、キャスリンは頭痛を覚えた。「・・・アレはうかうかと使われる男じゃないよ。ヘタに手を出せばこちらが噛まれる。だから、わざわざボクは奴の動機をつぶして、標的になるのを避けてるんだ」奴の持ち込む盗品を扱うことで。『あの男』にとっては、『盗む』ことそのものが目的だ。一度盗んだものをまた盗むほど、酔狂ではない。それに、膨大で厄介な盗品を捌けるルートは限られる。ボーモント銀行の抱える盗品マーケットは、その分野でも老舗中の老舗だ。結果的に『あの男』がボーモントを狙う動機が消え、相互に利益関係が生じる。「流石に危険すぎるね。一歩間違えば、あの幻影旅団とコミュニティをまとめて敵に回しかねない」「媽媽はあれを過大評価しすぎですよ。所詮は盗賊です。うまそうな餌を目の前に投げてやれば、食いつかずにはいられない。私も流星街にはそれなりに顔がききますし・・・・まあ、仕込には何年か必要かもしれませんが、幸いにもこの街には毎年九月にアレがある。天の時、地の利、人の和。その全てを抑えられましょう。何も問題はありません」暢気そうな長男の言葉に、キャスリンは軽くため息をついて首を横に振った。どうにもこのドラ息子は他の兄弟の誰よりもキャスリンに似てしまったようで、ことの他陰謀を好む。それだけならまだしも、敵を見くびる悪癖があった。傍らの娘をチラリと見ると、僅かに眼を細めて頷いている。なんと、意外にも反対ではないらしい。この二人の兄妹仲は最悪なのだが、珍しい事もあるものだ。さて、どう説き伏せたものかと頭を悩ませていると、キャスリンはカップが空になっていることに気付いた。「ハンプティ、悪いがニルギリティーを・・・」そこまで口に出したところで、ようやく自分の無様に気付く。「・・・どうぞ、お母様」横合いから差し出された、新たなティーカップ。キャスリンはそれを受け取ると、淡い琥珀色の液体に目を落とした。息子と娘の顔を、まともに見ることも出来ずに。「ありがとうよ・・・」例え体は不滅だろうと、魂は劣化する。永遠なんて、どこにもない。それが証拠に今回もこのザマだ。それに引き替え、子供達は、いつまでも子供のままじゃない。そんな、何百年も前に分かっていた事を、もう何度、目の前に突きつけられたことか。ならば・・・一度、任せてみるべきなのかもしれない。「・・・分かった、お前が仕切りな、可愛い坊や」「謝々(シェシェ)」少女は老獪に笑った。「でも、面倒になりそうなら、早めにお母さんに相談しておくれ」「もちろんです。我らはファミリーなのだから」ミツリは午後の気だるい時間を過ごしていた、表に『closed』の看板をかけ、客の去ったテーブルを拭いて回る。砂糖の瓶の残りを確認してると、足元でポテポテと、捕まり立ちを卒業し始めた息子が、スカートの裾を掴んで自己主張しているのに気付いた。さっきまでクッションに触れて遊んでいたのだが、飽きたので構ってほしいらしい。息子を抱きかかえ、椅子の上に降ろす。視点が高くなったことで、息子はきょろきょろと周囲をうかがった。「けーたー、もう少しでお店終わりだから、それまでいい子にしてね~~」「あぃ!」ほっぺをぷにぷに突くと、息子はたちまち笑顔になった。最近、おしゃべりを覚えだした。子供の成長は、早い。あの日から、ミツリは基本的に暇を持て余していた。事後処理だとか、その手の面倒な仕事は戦闘要員の彼女には廻ってこない。おとなしくバーのママさん家業に戻るはずだったのだが、店の入り口が半壊しているので、営業再開にはしばらくかかる。そこで、隣の空き家を借りて、カフェなぞ始めてみたのだが、これが妙に性に合ってしまった。夕刻から始まる仮営業のバーよりも、売り上げも上なのだ。「アンヘルちゃん、それ終わったら、今日はあがっていいわよ」「はい、店長」コーヒーや紅茶を扱う店なので、渋がつかないよう洗物には気を使う。バイトの娘が水道を捻って、洗剤の泡を洗い落とすたびに、制服のミニスカートがふりふりと揺れた。こじんまりとした店だし、どうせ趣味のようなものなので一人で切り盛りしてもよかったのだが、バーの方の古馴染みが訪れたりと、そこそこ忙しい。そこで、リハビリがてら働く場所を探していた女の子の面倒を見る羽目になったのだが、そのウェイトレス姿が妙に似合っていて、はからずも結構な数の男性客を呼び寄せてしまった。もう、いっそのこと、このままカフェの営業を続けて、バーの深夜営業を自粛しようか。そうすれば、もっと子供と一緒にいられる時間が増える。それに、旦那はあれでコーヒーにはうるさい男だ。きっと嬉々として力になってくれるだろう。そんなとりとめもないことをぽつりぽつりと考えながら、彼女が洗い物を片付けるのを見守った。「店長、おわりました」「はい、ご苦労様」バイトの店員、アンヘルはぬれた手を花柄のタオルでぬぐった。食器はピカピカに磨かれていて、汚れ一つ無い。この子は案外几帳面で、家事には向いている性格だ。一月前、バイトの面接で再開した少女は、その数ヶ月前に共に激戦を繰り広げた人間と同一人物とは、とても思えなかった。それから一ヶ月、『初対面』のカフェの店長として接してみて分ったのは、よくも悪くも、当たり前の女の子でしかないということだけだ。ミツリは、かつてこの子が、自分の旦那に気のあるようなそぶりをしていたことに気付いていた。女は自分の持ち物には敏感だ。それでも、そ知らぬふりをしていたのは、別に悋気を隠していたからではない。それが恋愛感情などではないと、分ってしまったからだ。無意識のうちに、父性の愛情を求める代償行為。あの時、その事を指摘していたら、きっと彼女は傷付いただろう。そして、今では戦うことを知らない、ただの普通の女の子。背負っていた影も、絶望も、そしてあの男のことも、置き去りにして。それが、いい事なのか、悪い事なのか、ミツリには分からなかった。「・・・ねえ」ポツリ、と気付いたら口から言葉がこぼれていた。「わたしね、ちょっと前まで、戸籍がなかったのよ。ろくでもない所で生まれちゃって。そのせいで、少しだけ、苦労したわ」戸籍。それは、おおよそこの世界で、あらゆる人間が唯一平等に持たされるものだ。全ての人間の兵歴、学歴、戸籍、病歴、DNA、その他ありとあらゆる情報はデータ化され、社会的に管理されている。国民一人一人、捨て子でさえも国民番号がつけられ、そのデータは国際人民データ機構とよばれる機関によって運用され、そこには過去60年分以上ものデータが全て保存されているという。このコンピュータに不法侵入し、個人情報を消すことは殺人と同等の罪として国際法で認定されている。公にされているだけで、すでに20名以上の人間が侵入を試みただけで殺人未遂の罪で逮捕されていた。しかも、仮に侵入に成功してデータを書き換えたとしても、0.1秒後には元のデータに修復されてしまうほどの強固なシステム。一度このシステムに登録され、社会に存在を許された人間は、例え死んだとしてもその情報だけは永延に残る。ただ一つの例外をのぞいて。流星街。この世の何を捨てても許される場所。独裁者の人種隔離政策に始まり、1500年以上前から廃棄物の処分場となっている地域。政治的な空白地帯で、公式には無人とされているが、実際には廃棄物を再生利用することで、数百万もの住人が暮らしている。捨て子や犯罪者、住処を失った民族などが集まったことで、今では多人種のルツボだ。この場所で生れ落ちた人間は、誰一人、戸籍をもつことができない。「既に存在する戸籍データを書き換えることは不可能。でも逆に言えば、存在しない戸籍データを書き加えることも不可能」本来ならね、とミツリは天井を見つめながらそういった。あの街の主力商品は、人だ。戸籍を持たない人間が、非合法に売買されている。それは、日常的に犯罪を犯さなければならないマフィアたちにとっては、理想的な消耗品だ。加えて、念が使えるものは、高値がつく。ミツリの場合、売られた先が、たまたまテロ屋だっただけの話。「・・・でもね、今の私はただの主婦で、ジャポン出身のバーのママ。ヨークシン在住の一般市民よ」テロリストのバンシーでもなければ、流星街生まれのジェーン・ドゥでもない。旦那が無理をして、そこから連れ出してくれたおかげで、今の自分がある。まあ、戸籍を用意してくれた件も含めて、ボスには頭が上がらなくなってしまったが。「ええと・・店長?」何を言っているのか分からないと、不思議そうな顔をしているアンヘルを伺い、ミツリは頬を寂しげに歪ませた。「生きてさえいれば、何だって手に入るわ。人生はやり直せるのよ。いつだって、どこだって、何度だって・・・」世界は残酷なだけではないのだと。こうなる前に、教えてあげればよかったのだろうか・・・?「・・・ひぅ」悲しげな声がして我に返ると、息子が椅子の上で、ふるふると涙を溜めている。構ってくれないのが寂しくて、悲しくなってしまったようだ。「ごめんねー、けーたー」ほっぺをぷにぷに触ると、暖かい。張り詰めていた空気が、それで和んだ。「・・・ごめんなさいね、へんなこと話しちゃった。忘れてちょうだい」「あ、いいえ・・・」曖昧に笑う少女を見ながら、手を伸ばして抱っこをねだる息子を抱き上げる。最近気付いたのだが、この子はどうも女の子に触られると喜ぶのだが、男に触れられると大泣きする。いったいどこの誰に似たのやら。少しだけこの子の将来が不安になった。まあ、言ってしまえばその程度の悩みでしかない。この子のためならば、自分はいくらでもヒトデナシになれるのだから。バイトを終えて、店を出ると、既に日が摩天楼に差し掛かっていた。西日が目に痛い。カフェ・ミツリの営業は昼時の10時から15時まで。休憩を挟んで17時以降はバーの営業になるそうなのだが、未成年のわたしは、当然アルコールを出す店の営業には関われない。平日昼過ぎの中途半端な時間帯、人気の無い57番街のストリートを歩きながら、わたしは先ほどのやり取りを思い出していた。わたしには、ここ1年あまりの記憶が無い。具体的には、母シルヴィアとノーマンズ州で暮らしていた頃から、つい最近までの記憶のほとんどが。聞くところによると、母親を亡くしてこの街にでてきたところでハリケーンの事故に巻き込まれ、凄まじい大怪我を負ったそうだ。右腕が"もげかけ"て、全身傷だらけの酷い有様だったらしい。そして、今は遠い親戚だという人物に世話してもらいながら、この街で療養生活を送っている。かつての自分がどんな人間だったのか、顔見知りだったというヤマダ先生に教えてもらったが、ちょっとピンとこない。まるで映画の向こう側にいる人物の話を聞いているようで、現実感がないのだ。その代わり、時折、ワケノワカラナイ感情がわきあがることがあった。そんな時、何かをしなくては、と焦りにも似た気持ちがわく反面、何をしたらいいのか分からず、もどかしさを抱える自分がいる。たぶん、わたしは大事な何かを無くした。それだけは、漠然とわかった。まるで、胸の中央にぽっかりと穴があいたようで、しかもそれが何なのか分からず、気持ちが釈然としない。それが、母さんの事だというのなら、分かりやすくて納得できるんだけど・・・何かが、ささやいてくるのだ。それだけじゃないって。モヤモヤを抱えながら、わたしが小走りに帰宅の徒につく途中、教会の前で老いた神父と若い女性が話していた。「神父様、ありがとうございます!私、迷いが吹っ切れましたわ!」「いえいえ、あなたの道が開けたのなら幸いです」メガネで巨乳で白衣という、なんとも微妙な格好の女性だったが、顔の造作は悪くない。後ろ頭に二本たらしたお下げと、顔のそばかすがチャーミングだ。医者か薬剤師か、さもなければ大学やら何やらの職員だろうか。見た目は、おっとりとした印象を受けるので、教育関連の職種かもしれない。「先生が亡くなられて、私一人でどうしようかと思っていました。でも、私、先生の志を継ぎます!世界中をバラのお花畑で満たして見せますわ!!」花屋には見えないので、バイオ関連とかそういうインテリな職種だろうと思って、わたしはそれ以上の興味を失った。女性は神父の手をとって勢い良く握手すると、まさに頭がお花畑といった具合で、踊りながらその場を去っていく。その後姿を、なんとはなしに見送った。ふと、そこで角の公衆トイレから出てきたばかりの男と目が合った。男性の顔にまったく見覚えが無かったが・・・わたしは、痛々しさを覚え、思わず目を伏せていた。「ママン、ママン、女の子だ!女の子がいるよ!」「ホホホ、ドレイボットちゃん、ぶちのめしますよ。さ、下半身を露出したまま出歩いてはいけません」唖然とする他のスタッフを余所に、平然と男のズボンを引き上げさせたのは初老のシスターだった。やたらと筋骨隆々な大柄な女性。シスターというより下町の肝っ玉母さんといった感じなので、なんとなく親しみを覚える。「許してあげてね、お嬢さん。この子はうちに来たばかりなのだけど、だいぶ脳をやられてしまっているのよ」麻薬のせいでね、とシスターは悲しそうに付け加えた。見れば、神父とシスターが数人、首から募金箱を捧げ、横断幕の前で麻薬の撲滅と被害者救済のための寄付を叫んでいる。無言で1000ジェニー札を一枚、募金箱に入れると、シスターは驚いたように眼を丸くしてから十字を切った。「神様のご加護がありますように」その言葉が終わる前に立ち去り、数歩、歩いてからすぐに後悔する。あれはなけなしの金だった。財布の中身は素寒貧で、バイトの次ぎの給料日まで、もう少しある。明日からどう生活しようかと、素朴で深刻な疑問が脳裏をよぎるが、さほど不安はない。食うや食わずの生活には慣れているのだ。「「「Hail, Holy Queen enthroned above, Oh Maria!」」」きびすを返したその背後で、突如、合唱の声が上がった。声に後を引かれて振り返ると、シスターの一団が芝生の真ん中に並んで、歌声を響かせていた。ひとりひとりの技量はそれほどでもないのだが、普段から練習しているのだろう、統一感があってすばらしい。アコーディオンで伴奏を担当しているのは、先ほどの神父だ。恰幅のよいシスターが、オペラ歌手顔負けの声量であわせながら、ヒップホップを踊るかのように指揮をとっていた。ゴスペルにしてはあまりに明るく楽しそうな歌声に見物人が寄ってきて、手拍子をあわせて歌い出す。「「「Oh Maria!!」」」繰り返されるそのフレーズには、聞き覚えがあった。何年か前にヒットした映画で使われていたので、一時期リミックスが大流行したはずだ。確か映画のタイトルは・・・と思い出したら、トタンに一杯喰わされたような顔になるのが自分で分かった。「・・・ちょっと皮肉が効きすぎてないかな、神様?」天にましますファンキン野郎に心の中で毒づくと、今度こそ本当にきびすを返す。「よう」と、そこで今度は白衣の上から厚手のコートを着込んだ男性に出くわした。お世話になっている医師の、ヤマダ先生だった。今日は色々と出くわす日だ。「こんなところでどうした?」「バイトの帰りですよ。先生は?」「往診の帰りだ。ここのセンターの患者の。週に二回、ここのシフトに入ってるんだ」ああ、だからヤマダ先生のところは火曜と水曜が休みなのかと、わたしは納得した。教会の運営するメディカルセンターでは、重度の薬物依存症患者が隔離され、入院治療を受けているという。薬物依存の患者は、症状が悪化している場合には自殺のリスクもあって、24時間体性で治療を続けなければならない。いわゆる禁断症状のせいで、患者が暴れまわる事もあるので、これだけでも大掛かりな設備が必要となるそうだ。入院中は依存症の度合いによって、臓器の機能低下や感染症、合併症への対処が必要なので、医師の常駐を必要とするらしい。当然、維持するための経費も、莫大なものになる。「市からの補助金もスズメの涙だ。ここのセンターは、母体が教会だから、まだ経営が安定してるほうだが。それでも経費はカツカツさ。患者も、娼婦やホームレスが多い」どこぞの金満家からの寄付で、ようやく成り立っているようなものだと、ヤマダ先生は何故だか忌々しそうに呟いた。しばらく二人で立ち話をしていたのだが、急にわたしの胃が、くぅ、と鳴った。ヤマダ先生がプッと噴出し、私は思わず赤面してしまう。・・・くそう、これでも育ち盛りの女の子なんです、先生。昼時は忙しくて、余分に作っておいたランチ用のサンドイッチを二つ摘んだだけだったからなあ・・・。賄いを期待して、朝ごはんをパン一個で済ましたのが間違いだった。・・・いや、最近何故だが男性客が増えて、一気に忙しくなってしまったのだ。「なら、一緒に夕飯はどうだ?近くに安くてうまいパンケーキをたらふく食べさせてくれるダイナーがある。バターとブルーベリーのジャムを滝みたいにかけて食べると、うまいぜ。付け合せに出てくるベーコンにソーセイジ、ハッシュドブラウンなんかも結構いける」晩御飯に甘いもの・・・悪くないなあ。思わず唾を飲み込んだのが分ったのだろう、ヤマダ先生が目だけで笑っていた。「じゃあ、いくか。ここから10分くらいのところにある」先にとっとと歩き出した先生の後を、わたしは慌てて追った。話し込んでいる間に、日は摩天楼の向こうに落ちていて、巨大なビルの影が周囲を覆っている。わたし達は徐々に人の増え始めた通りを連れ立って歩いた。ときおり、蹴り上げられた木の葉が足元で舞い、生ぬるい風が髪を揺らす。もう、冬も終わりだなあ。急に、冬の最後の名残のような冷たい風が吹いてきて、わたしはつい首筋を縮めた。それを見て、ヤマダ先生が、 「体を冷やすな。風邪を引く」そういって、自分が着ていたコートを脱いで、"わたし/オレ"に着させた。突然、涙を落とした少女を見て、ヤマダは慌てた。一体何が悪かったんだろうかと自問自答する。まさか、コートの臭いが気になったとか・・?確かに改めて鼻を近づけると、汗に複数の薬品の臭いが染み付いていて、酷いものだ。女の子に渡すには都合が悪かったと認める。忙しさにかまけていたとはいえ、コートくらいはキチンとクリーニングに出すべきだった!!・・・とまあ、山田次郎はそのくらい混乱していた。何せ、女の子に泣かれるなんて、初めての経験だったから。少女はしばらく静かに涙を落としていたのだが、やがて「ごめん、なさい・・・でも」鼻をすすり上げ、青い瞳に涙を湛えて次郎を見上げた。「でも・・・昔、誰かに同じことを言われた気がして・・・」嗚咽を漏らしながら揺れる後頭部を、次郎は黙って抱き寄せた。あの日から、くすんだように変色してしまったアッシュブロンドの髪を撫でる。・・・いずれ、この子は全てを思い出してしまうのかもしれない。その時、自分には何が出来るというのだろう。しばらく、そうやって道行く通行人の人目を引きながら、少女の背中を撫でていると、震える小さな肩に淡いピンク花弁が一つ、はらりと落ちた。上を見上げると、名物のサクラの花が一輪、蕾をほころばせている。「・・・今年は、早咲きだな」それは、長い長い冬の終わり。春が、来た。fin.Next舞台は数年後、第287期ハンター試験。大人になった少女は、未だ煉獄の中にいた。次章、Chapter3 The TEST