ここはいつ来ても変わらない。
あるのは墓石と、申し訳程度に植えられた花や木。
高層ビルが立ち並ぶ都市部に比べ、遮るものもない空が余りにも大きく開いている。
普段ならば解放感を感じるだろう。
だがむしろこの場においては茫漠とした虚無を思わせ、訪れる者に感傷を強いる。
ティアナもその一人だ。
「それでも、兄さんが眠ってる所だしね」
せめてお墓くらいはキレイにしてあげなければ。
もう十分に頑張ったのだから、ゆっくり休んでもらいたい。
「あれ?」
そう思い、列石の中を歩いて行くティアナの足がふと止まる。
兄の墓前に一人の男が立っていたからだ。
敬礼の姿勢で固まっている為、腕が邪魔をして顔はよく見えない。
兄さんの同僚の人?
だがそれにしてはおかしい。
兄の所属は首都航空隊。
制服は白が基調である。
一方兄の墓前で敬礼する男の制服はカーキ色。
つまりは地上部隊の制服に身を包んでいる。
そして男の腕が下ろされ、ティアナの目にもその正体が明らかになる。
「――――!」
息を呑む、というのが正しい表現だろう。
体は金縛りにあったように動かない。
ただ目だけがいつも以上に働き、向こうに見える男の姿を克明に捉えていた。
ティアナが見間違える筈がない。
ゲルト・グランガイツ・ナカジマ……!?
**********
その瞬間、彼女に走った衝撃は筆舌に尽くし難い。
それほどにティアナ・ランスターにとってゲルト・G・ナカジマとは縁深い人物なのだ。
或いは彼女こそゲルトが世に知られる出発点とも言えた。
彼をして人は言う。
“鋼の騎士”
“アーツオブウォー”
“ストライカーゲルト”
彼が現在どれだけ注目を浴びているかはその異名の数で明白だろう。
最近ではそこに“ナカジマ兄妹”という名もまた含まれる。
しかしどこまでいっても彼がテレビの向こうの人間だった事には違いない。
例え同じクラナガンに居ると言っても一般の感覚とはそんなものである。
ただティアナに限っては少し違った。
いや、テレビの向こうの存在だったという事に違いはないのだが。
それでも、あの言葉は忘れない。
事は二年前、彼女の兄であるティーダ・ランスターが職務中に殉職を遂げた事から端を発する。
それ自体ティアナにとって大きな悲劇であったが、問題は更にその後に起きた。
ティーダの上司が凶悪犯を市街地で取り逃がすという失態、その責任をあろうことか兄一人に擦り付けたのである。
この件はテレビ他マスコミに大きく取り上げられ、命を掛けてまで戦った筈の兄の名誉は失墜。
死人に口無しとばかり弁護の機会も与えられず、市民の批難を受け止めるスケープゴートに供せられたのだ。
若くして才能溢れ、華々しく出世街道を歩く優しい兄を誇りにしていただけに、当時のティアナはまさに絶望の淵に叩き込まれた。
そこに現れたのがゲルト・G・ナカジマだ。
兄を殺した凶悪犯を逮捕した功により、彼は壇に上った。
彼は兄の尽力を称え、死を惜しみ、兄を侮辱する風評の全てを否定した。
そしてあの言葉をくれた。
『……君のお兄さんは、英雄だ』
世界でただ一人、自分だけに贈られた言葉。
そしてその言葉はティアナの世界を変えたのだ。
気のせいだけではない。
空の色が、風の匂いが、彼女には確かに変わったと感じられたのだ。
その彼が今、ティアナの目の前にいる。
「あっ……!」
兄への敬礼を終えた彼は振り返ろうとするようにこちらへ爪先を向けた。
帰るつもりなのだろうか?
時間を考えると今から仕事なのかもしれない。
何にせよ彼は自分を視界に収めるだろう。
その事に高まる期待。
そして膨らむ不安。
耳の奥で聞こえる鼓動はどちらのせいか。
もし……もし、私に気が付かなかったら?
自分は彼を知っている。
一目見て彼だと分かる程に。
だが彼はどうだろうか。
ティーダ・ランスターには妹がいた、とその程度の認識“かもしれない”。
このまま何事もなく横を素通りされる“かもしれない”。
いや、
何期待してんのよ。
分かる訳ないでしょ。
心の冷静な部分はそう訴えていた。
なにせ直接彼と会った事などないのだ。
彼が自分の顔を知っている筈がない。
自分にとっての彼と同じように、彼にとっても自分が特別だ、などというのは思い上がりも甚だしい。
だというのに……ああ、もうすぐにも彼はこちらを向いてしまう。
行ってしまう!
「あ、あの――――!」
内の衝動に逆らえず、気付けば声を張っていた。
呼びかけに気付いたか、ゲルトもこちらを向く。
その視線は間違いなく自分を捉えていた。
これで少なくとも無視される事はなくなった訳である。
だが、どうする?
ま、まずは挨拶?
それともお礼の方が先?
そうだ自己紹介もしないと――――ってああもう何言えばいいのよ!?
もう声は掛けてしまった。
今更逃げるわけにはいかない。
だが千々に乱れたティアナの頭は色よい回答を出してはくれなかった。
ぐるぐると心中で回るのみで、呼び掛けて以来ティアナの唇は何事も紡いではいない。
「君は…………」
混乱の泥沼に浸かったティアナをよそに、結局先に口を開いたのはゲルトだった。
彼もまた目を丸くして眼前のティアナを見つめている。
不安が頭をもたげるには十分だった。
もしかして、呆れられた……?
有り得る可能性である。
こんな場所でいきなり話しかけて、あげく何も言わずに黙り込むようではまるきり不審者そのものだ。
ゲルトにそう認識される。
そう思うとティアナの心臓は冷たい手で握られたように縮みあがった。
だからこそ、続いた彼の言葉に受けた衝撃も大きかったのだとも言える。
「ティアナ……ランスター」
私を知ってる!?
どうして。
何故。
でもそんな事はどうでもいい。
こちらが名乗るより早く、見ただけで彼が分かってくれた。
その事実が今は何より大事なのだから。
「ティーダ・ランスター二等空佐の妹さんだろう?」
「は……はいっ! そうです!」
間違ったかと思ったらしい。
やや自信なさげに聞き直してきた彼に、ティアナは今度こそ慌てて返した。
答えてから、眼尻に浮かんでいた涙を乱暴に拭う。
幸いゲルトは気付かない振りをしてくれたらしい。
「そうか……やっぱりな。
二年振りだ。
覚えてるかな?
君とはここであった事がある」
「え?
ここで、ですか?」
「ああ」
やっぱり会った事があるらしい。
失礼ながらティアナには全く覚えがなかった。
しかし二年前、それもここで、というならその場など一つしかない。
「ランスター二佐の葬儀の席で、な」
やはり。
「す、すみません!」
「いや、覚えてないのも仕方ない。
気にする必要はないよ。
それより元気になったようで良かった」
「はいお陰さまで……何とか」
これを小さい声でしか言えないから自分は駄目なのだ。
どうせならはっきりと言えばいいものを。
眼前の彼のおかげで兄の名誉がどれだけ回復されたか。
どれだけ自分が救われたか。
言葉でなど到底言い尽くせぬほどにあるだろうに。
「それは何よりだ。
今はどうしているんだ?」
「ええっと学校寮は出まして、今は部屋を借りて住んでます」
「一人でか?」
「ええ、まぁ……。
あ、でも両親や兄さんが残してくれたお金があるのでまだまだ生活の方は大丈夫です」
「そうか……」
寂しくないといえば嘘になるが、目標もあった。
だから辛くはない。
少なくとも今は、まだ。
「ならせめて俺の連絡先を渡しておこう。
何かあったら遠慮なく相談してきてくれ。
出来る限り力になる」
「あ……はい。
ありがとうございます」
恥入ったティアナが浅く視線を伏せるも、別段ゲルトは気を悪くした様子もない。
ティアナは手渡された名刺を大切に鞄にしまった。
が、このままお別れとなる気配が濃厚だ。
果たしてこのまま行かせてしまって良いものか。
まだ、肝心のお礼一つも言えてないのに……!
歯を食い縛って頭を上げる。
駄目だ。
断じてノー。
今日を逃せばもう言えないだろう。
自分の事だ、それはよく分かる。
「いつ……連絡しても構いませんか?」
「一応、その番号ならいつでも取れるようにはしている。
会議とか出動があれば話は別だけどな。
まぁ基本的には大丈夫だと思ってくれて良い」
今日しかない。
今だけしか。
「なら――――」
その思いに賭け、ティアナは口を開く。
舌が渇くというのを味わうのは今日何度目だろう。
「今、ご相談してもよろしいでしょうか!?」
「今……?」
ゲルトはふぅむと唸ると悩むように動きを止めた。
やはり非常識だろうか。
ゲルトの格好は今から出仕という感じである。
自分程度に構っている暇などないだろう。
薄々分かっていながらこの様。
「あの……グランガイツ・ナカジマ准尉にもご都合があるでしょうし、今からお仕事かもしれませんが……その、もしそうでなかったら少しお時間を頂ければ、と思って……」
ティアナは誤魔化すようにわたわたと手を振る。
ゲルトは相変わらず無言。
何かを思案するように黙り込んでいる。
ティアナの寒気はいよいよ堪らないものになってきた。
先の決心も吹き飛ぶ程に。
「や、やっぱりご迷惑でしたよね!?
失礼しました!
お引き留めしてすみません!」
がばっ、と擬音が似合う動きで頭を下げるティアナ。
見つめる先はゲルトの爪先である。
しかし頭上から投げられた言葉は彼女の予想に反するもので。
「……いや、構わない。
伺おう」
「いい、んですか……?」
「昨日色々あって多少の遅刻は多めにみると言われてる。
一、 二時間なら問題ないだろ。
――――ナイトホークもそう連絡しておいてくれ」
『イエス、マスター』
彼の右手の指輪から機械音声で了承の返事が聞こえた。
噂に名高い鋼の騎士の黒槍、ナイトホークに間違いあるまい。
と、ゲルトは何かを思い出したような素振りを見せた。
「そういえばここを出てすぐの所に喫茶店があったな……」
『はい。
徒歩にしておよそ三分の距離です』
「俺はそこで待っている事にしよう。
話もそっちで聞く。
こちらこそお兄さんとの時間を邪魔して悪かったな」
「いえ、そんな……」
そもそもが無理な提案だったのだ。
さっきから自分の事ばかりで、ここまで気遣われると恐縮してしまう。
「それじゃあ失礼する。
焦らずにゆっくり来てくれ」
「はい、ありがとうございます」
言ってゲルトはティアナの横を通り過ぎた。
足音は正確なリズムを刻み、乱れるという事がない。
姿勢の良さはバランスよく鍛えられた体の証だ。
「――――そうだ“ティアナ”」
「は、はい!?」
何かを思いついたらしい。
立ち去りかけたゲルトがやおら振り返ったかと思うとこちらを呼んだ。
「俺の事はゲルトでいい。
仕事でもないんだ、階級もいらないぞ」
半身のゲルトはそれだけを言うとそのまま外へ足を向け、歩き去った。
ただ大きく伸ばされた腕だけがじゃあな、とでも言いたげに振られている。
「――――はいっ!」
振り向きざまに見えた笑みはテレビの向こう側にいた彼では無い。
鋼の騎士でもなく、地上陸士部隊の准尉でもなく。
多分あれが本当の、
「ゲルト、さん……」
暫し呆然と後ろ姿を見つめていたティアナがはっと我に帰る。
ここに来た本来の目的を忘れてはならない。
「久し振り、兄さん」
ゲルトが捧げた花束の隣に自分の花を置き、兄の墓前に立つ。
傍には父や母の名が刻まれた墓石もあるが、正直ティアナには二人との記憶が殆どない。
ティアナにとって家族とは即ち兄の事だった。
「話、聞いてくれる?」
話す事は沢山あった。
ここ最近の事。
ゲルトとの事。
そして、これからの事。
自分の夢。
どうしたいのかを。
**********
結局、ティアナが喫茶店に姿を現したのはゲルトの注文したコーヒーが半分ほど無くなってからの事だった。
穏やかなBGMが流れる店内に、カランコロンと独特の鐘の音が響く。
朝早い時間という事もあるだろうが、さして広くもない店に客はゲルトを除くとあとは二人だけ。
それも店主の馴染みらしいご老人である。
ティアナもすぐに見つけたられたのか、足早にテーブルを挟んだ正面に立った。
「すみません。
お待たせしてしまって……」
「それほどでもない。
座ってくれ、何か注文するか?」
「はい。
それじゃあ、私もコーヒーを」
少しの間でティアナの元にもコーヒーが届く。
流石に砂糖抜きという訳にはいかない。
ミルクも入り、ゆるゆると独特の模様を描く表面を見つめる。
言わなきゃ。
今しか?
いいや。
“今なら”。
「ありがとうございました」
「ん?」
驚くほど言葉はスムーズに流れた。
目もしっかりと眼前のゲルトを見つめている。
多分、兄さんが背を押してくれたのだ。
そう思う。
「二年前のあの時……兄さんが死んだ時、ゲルト……さんがテレビで言ってくれた言葉、今でも覚えてます。
一言一句、間違いなく」
忘れるわけがない。
あれがあったから前を向けた。
胸を張れた。
走り出せた。
まるで昨日の事のようだ。
「兄さんこそ英雄だと言ってくれましたよね?
嬉しかったです。
そう言っていただけて」
誰に憚る必要もない。
ティーダ・ランスターは、兄は英雄だ。
只の一人も市民への犠牲を出さず、そして只の一発も市街地に流れ弾を飛ばす事はなかった。
一片の疑いも無く、そう言ってくれたのはこの人だ。
他の誰でも駄目だった。
他ならぬ彼、仇を討ったゲルト・G・ナカジマが言ったからこそ意味があったのだ。
「ありがとうございます、兄さんを信じてくれて。
そして……私を助けてくれて」
「あ……ああ」
ぎこちなく応えたゲルトが半分になったコーヒーをわざとらしく揺さぶる。
テイスティングでもするような円運動だ。
カップの中の液体は遠心力から来る動きで波を作っていた。
それはまるでゲルトの心の内を表しているようで。
「そう、か」
どこか思う所でもあったのだろうか。
相変わらずの仏頂面ながら、どことなく安堵したような様子だった。
ようやくカップを止めたゲルトは中身を一啜り。
「……正直に言うとな」
そうしてゲルトは言葉を続けた。
半ば独白染みた声音が、未だ熱を残した吐息に乗って外へと滲み出る。
顔には自らを嘲るような苦笑が張り付いていた。
「君は絶賛してくれたが、あの時の俺は自分が何をすべきかなんて分かりやしなかった。
どうすればいいのかもさっぱりだった」
ティアナにとっては慮外な話だ。
自分の記憶にある、今の彼より一回り小さいゲルトは、それでもとても大きなものに思えたというのに。
まるでそれが幻想だったかのような口振りだ。
「がっかりしたか?」
「いえ!
そんな事は……!」
それこそまさかである。
慌てて表情を繕ったティアナとは対照的に、ゲルトは力を抜いた顔で肩を竦めた。
「所詮十三の子供だったからな。
助言なんかを貰ったりもしたが、100%の保証なんてある訳もない。
不安だったよ。
あれで良かったのか、どうなのか」
しかし目だけは真剣だった。
それが何よりの証拠である。
彼にとっても笑い話などではないのだろう。
と、そこでゲルトは弁解するように口調を切り替えた。
「――――いや、もちろんお兄さんの事は別だ。
ランスター二佐については少しも譲る気は無かったし、彼自身の功績は疑いない。
世間にはどうあっても認めさせるつもりだった」
そしてもう一度コーヒーを含み、一息。
「だが君の事は分からなかった。
いっそ触れてやらない方が良かったかもしれない、とかまぁ色々考えてたんだが……」
やれやれ、とゲルトは頬を掻いている。
あるいは恥じているのかもしれない。
「何ともな……。
君は俺なんぞが思うよりずっと強かったらしい」
「きょ、恐縮です」
面と向かって話す事すら期待の範疇外だったティアナである。
まさかここまで気に掛けられていたとは想像だにしなかった。
無論リップサービスも含まれてはいるのだろうが、尊敬する人物にこう言われて悪い気のする訳がない。
だからこそ、
「さて、そういえば本題だったな。
相談というのは?」
「…………」
今度はティアナが言葉を濁す番だった。
空気を入れ替えるようゲルトが極力明る気な声を出したというのに、それに付き合う事ができない。
彼女は届いたコーヒーに手を付ける事すらなく、テーブルへと視線を落とす。
「実は、来年士官学校に行こうと思っているんですが…………」
「士官?
まさか、局入りする気なのか?」
それを告げた瞬間、ゲルトの声音が変わったのをティアナは敏感に感じ取った。
非難というほどでは無かったが、訝しむ様子は隠しようもない。
そりゃそうよね。
愚かな選択なのだろう。
兄のあの死の経緯を見てなお、進んで局に入ろうなどとするのは。
ゲルト自身、部隊壊滅という憂き目を見ているだけに心配してくれているのかもしれない。
だがこれは自分に誓った自分の夢だ。
引くつもりはない。
「はい。
目標は執務官です」
「な―――――!」
啖呵を切る。
事この件に関してはゲルトでも誰でも変わりはしない。
「――――っく」
身を乗り出したゲルトも、結局は喉まで来た言葉を飲み込むように口を閉ざした。
瞑目し、背もたれへ体を預けたのは自分を落ち着ける為か。
彼が自分を抑えるのにそれほど時間はかからなかった。
「いや……俺が口を挟む事じゃないな。
すまない」
「いえ、自分でも馬鹿な事を言ってるのは分かってます」
むしろ咎められなかっただけ良かったと思う。
命の危険は当然あるだろう。
どれだけ懸命だろうと名誉すら損なわれる事もある。
しかし、それでも。
「執務官は兄さんの夢だったんです。
でも私が一人立ちできるようになってからでいい、ってずっと言ってて。
結局挑戦しないままだったんです」
「…………」
もうあの頃には寮暮らしだったから別に構わなかったのに。
それでも兄は受けなかった。
もちろん試験を受ければ必ず通るかといえばそんな筈はない。
だがティアナは知っている。
兄さんは我慢してた。
遺品の整理中、偶然執務官試験の参考書や問題集、それにびっしりと書き込まれた大量のノートを見つけた時にそれを確信した。
多分空隊にいたのも出来る限りミッドから離れたくなかったからだろう。
妹である自分の為に。
それでも何時かは飛び立ちたいと思っていた筈だ。
兄を束縛していた自分が一人で生きていけるようになって、ようやく彼自身の人生を歩めるようになった、その時には。
けど。
それは叶わなかった。
自分の夢を遂げた時、兄は一体どんな顔を見せてくれたのだろうか。
今はもう知る由もない。
「だから」
そう、だから。
「私は執務官になりたいんです」
兄の代わりに、とは少し違う。
ただ見てみたい。
あの自慢の兄が目指していた執務官になれた時、自分はどんな顔をするのだろう。
己の成功を喜ぶか?
安堵で緩むか?
それとも新たな出発に引き締まるのか?
何にせよそうして鏡を見た時、そこには兄の面影があるものと信じる。
その時は、ようやく自分も胸を張れるような気がする。
自慢の兄の自慢の妹として。
誰にでもなく、自分自身に誇れる自分であれる気がする。
「それが、私の夢です」
「―――――」
毅然としたティアナの決意を聞き、ゲルトは言葉を発せずにいた。
鷹揚な態度の現れかと思えばさにあらず。
ただ大きく打たれた胸に戸惑ってのこと。
彼女の告白はまるで電撃のような衝撃をゲルトに与えていた。
何だろうな、これは。
ふと純粋な疑問がゲルトの頭に浮かぶ。
何故ここまで心が乱されているのだろう。
もちろん暗い瞳をしていたティアナがこうまで見違えたのは喜ぶべき事である。
ティーダ二佐の件も含め、同情の念が無かったとは言わない。
身内を失う辛さはよく分かるつもりだ。
ただ自分自身、こうまで翻弄されるとは想像の外であった。
まるで、不明だった家族の安否でも分かった時のような。
――――ああ、なるほど。
そうか、家族か。
一つの苦い記憶と共にゲルトは気付いた。
何故自分がこうまでティアナの事が気にかかるのか。
その理由の大きな欠片。
得心のいったゲルトはティアナに気付かれぬよう、心中深く打ち込まれた楔の名を呟いた。
楔は小さな、本当に小さな赤ん坊の形をしている。
その名は、
「ルーテシア……」
**********
ルーテシア。
ルーテシア・アルピーノ。
ゲルトにとってその名は絶対の戒めであった。
どれほど研鑽を積もうと覆せぬ自らの非力の証明。
取り返す事も叶わぬ喪失の象徴。
自分があの子から全てを奪ったのだ。
そしてそれを償う事もできない。
病院で目を覚ました時にはもう親戚に引き取られ、別の次元世界へと立ち去った後だったという。
向こう側からの意向もあり、自分達ルーテシアの過去に関わる人間は一切接近せぬようにも決まった。
これであの子は何も知らず、何も悩まず、ごく普通の人生を送れる事だろう。
今更自分が謝りになど行った所で邪魔にしかならない。
妹のようにも思えたあの子との縁は完全に途切れたのだ。
決して吹っ切れるものとも思ってはいなかったが、
未練だな。
先のティアナの吐露ではないが、自分もまた重ねていたのだろう。
かつて墓前で立ち尽くしたティアナの姿に、見る筈もなかったルーテシアの姿を。
だからこそ彼女が立ち上がった事実にこうまで心動かされる。
悪夢で終わらなかった物語に言葉も無いほど安心している。
「立派な夢だ」
「そう、でしょうか?」
「ああ。
俺はそう思う」
だがそれだけだろうか?
自分にとってのティアナとはルーテシアの代わりに過ぎないのか?
ゲルトは自分自身の性根というものをよく理解している。
それほど器用な訳もない、か。
同情もあろう。
共感もあろう。
投影も、敬意もあるのかもしれない。
特にこの娘の境遇や負けん気はよく自分のポイントを突いていると言えた。
つまるところティアナはランスター二佐の遺した妹であり、ルーテシアの影を負う鏡像であり、そして大志を抱く強い後輩でもある。
多分その全てが今この心を震わせているのだ。
ならば自分もまた選択をせねばならない。
「よし、分かった」
「はい?」
最後に一つ嘆息したゲルトも腹を決める。
「知人に執務官をやってる奴がいる。
そいつにアドバイスか何かを貰えるように頼んでみよう」
「本当ですか!?」
心意気も見せてもらった。
最早危険な職務がどうのだとか野暮な事は言うまい。
あとは先達として彼女の夢に手が届くよう、助けの手も出してやるのみ。
「もちろんだ。
しかもそいつのお兄さんも元執務官らしいからな。
色々ためになる話も聞けるだろ」
「――――ありがとうございます!」
喜色を浮かべたティアナが頭を下げる。
あるいは、それが初めて見た彼女の本気の笑顔だったかもしれない。
随分と現金かもしれないが、上昇志向の表れと思えばむしろ好感の持てる所だ。
「この際だ、聞きたい事があれば聞いてくれ。
流石に執務官の事はよくわからないが、局とか仕事の話なんかならある程度答えられる」
ゲルトも釣られてか、気が良くなってくるのを感じていた。
それこそ大概の質問に答えてやろうという気になる程。
「で、では戦闘についてのアドバイスなんかも頂けたりしますか?」
「まぁ君の戦種にもよるけどな。
確か二佐はミッドチルダ式だと聞いたが?」
噂では拳銃型のデバイスを使う相当な腕前のシャープシューターだったらしい。
となればティアナのそれも近いものだろうと予想できる。
往々にして血縁者となると魔法形式も戦闘スタイルも似通う事が多い。
だがティアナの告げたスキルはゲルトの予想を少々外し、
「はい。
兄さんからシャープシュートと、それから幻術も少し教わってます」
「ほう、中々珍しいな」
意外な才能に些か驚きの声が漏れる。
固有技能によるレアスキル程貴重とは言わないが、確かに使う者の少ない魔法ではある。
それでいて柔軟かつ応用性に富んだ便利な魔法だ。
上手く使えばかなりの効果を期待できるだろう。
「けどすまん。
そっちの方は俺も経験不足だから何とも言えない。
とりあえずシャープシュートの方だけでもいいか?」
嘘だ。
局員として幻術使いに相対した事はないが、研究所時代には幾度か経験がある。
無論、機械仕掛けの瞳に仕込まれた破幻の能力を計る実験だ。
そして実際にゲルトはそのまやかしを物ともしなかった。
ほぼオートで五感から弾かれるが故、経験がないというのもあながち間違いではないが。
「いえ!全然構わないです!
もうアドバイスを頂けるだけで光栄と言いますか」
「そうか?
なら何から始めるか…………」
咄嗟にも幾つかは思いつく。
何せシャープシュートと言えば現在主流のミッドチルダ式の中でも最もポピュラーな形式。
当然、それに対する術理などはゼスト達に叩き込まれていた。
対ミッドチルダ式の“狩り方”も、逆に教えれば弱点の補完になろう。
「そうだな、ティアナ。
まずは――――」
とはいえゲルトも分かってはいた。
結局の所、口で言うより体に覚えさせるのが一番なのだと。
**********
「ンンッン~~」
それから数時間の後。
同日正午前。
ティアナと別れ、隊舎に合流したゲルトは昨夜の報告書も含めて書類仕事を片付けにかかっていた。
それ自体は何もおかしくなどはないのだが。
「ン~ンンン~~」
108のオフィスに軽やかな鼻歌が流れる。
何となくその響きには聞き覚えがあった。
テレビかなにかでよく聞く流行りの曲だろう。
「なぁリィン、あれ……」
「ど、どうしたんでしょうか……」
しかしそれを聞いた部隊員の反応は驚愕以外の何物でもなかった。
はやて達だけではない。
信じられない物でも見たように皆瞠目し、音源を見つめている。
それは一つのデスクからで。
というか、ぶっちゃけゲルトからで。
皆の心は一つ。
何があった……!?
その程度、と呆れるなかれ。
ガチガチとはいかないまでも基本的に堅物で職務に忠実なゲルトである。
プライベートでの気分をそのまま仕事に持ち込むような事はまずもって有り得ないのだ。
「ンン~~、っとよし終わりだな。
ギンガ、これを部隊長に渡しておいてくれ」
「あ、はい。
分かりました」
それが、この有様である。
彼をよく知る仲間内だからこそ、誰もが驚きを隠せずにいた。
「あの、ゲルト准尉?」
一方、最も傍にいるギンガはというと嫌な予感を感じずにはいられなかった。
それが何に起因しているのかは自分にもよく分かっている。
「何だ?
報告書に間違いでもあったか?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど……」
うーん、と言い難そうにギンガは頭を捻る。
聞きたくもあり、聞きたくなくもあり。
「ええっと、何か良い事でもありましたか?」
結局ギンガは当たり障りのない所から切り込んだ。
仕方もないだろう。
過去ゲルトの機嫌が特別良かった時、大抵そこには誰か女性の影があった。
入院していた時しかり。
教会に赴いた時しかり。
自分を放って遊園地に出かけた時しかり。
そして今日も朝から一人で出かけていた。
それも仕事を放ってまで、だ。
尋常ではない。
まさか兄さん、また……。
だが当のゲルトはギンガの内心の事まで思い至った様子もなく。
人の目を意識してか多少表情を繕っただけだ。
苦笑するゲルトも自分で浮かれている事には気が付いていたのだろう。
「まぁな。
中々、人の縁っていうのは分からないもんだ」
「…………」
ただし出た答えは直球そのものだった。
ギンガの笑みにも若干の引きつりが走る。
「もしかして、今日は誰かと会う予定だったんですか?
例えば……女性とか」
再起動したギンガの言葉は丁寧だったが、どこか冷ややかな色が見え隠れしていた。
白けたような視線も言外に呆れを告げている。
ゲルトは気づいているのかいないのか、ただ首を振ってギンガの言を否定し、
「別に約束してた訳じゃない。
むしろ会わないようにする位のつもりだった。
結果的には話せて良かったと思ってるけどな」
そして思い出したように忍び笑いを漏らした。
「女性、ってのもな……。
くくっ、まぁレディには違いないが」
もって回った言い方である。
ひとしきり笑ったゲルトはようやくにしてギンガの望む答えを返した。
「女の子だよ、まだ十二歳の。
リトルレディが精々だろうな」
「なんだ、そうだったんですか」
誰もが胸を撫で下ろすように息をついた。
ギンガもあからさまに頬を綻ばせている。
「ティアナ・ランスター。
二年前に殉職なさったティーダ・ランスター二等空佐の妹さんだ。
今日が命日だったんでな、偶々墓前で会ったんだよ」
「ランスター?」
ギンガの記憶にもある名前だ。
確か、
「准尉がテレビに出た時の……」
「ああ、その人だ。
ティアナも葬儀で見た時より随分元気になっててな。
本当に色々、救われた気分だ」
ギンガから視線を外したゲルトは背を伸ばすように大きく伸び。
しかしなるほど。
そういう事ね。
ギンガはクス、と音を漏らして微笑んだ。
そういう事であればこの上機嫌も頷ける。
口下手なこの人が公共の電波を使ってまでメッセージを送った相手、それが彼女だったのだろう。
となれば感動もひとしおに違いない。
救われた人がいる事に救われる、というのもすこぶる彼らしい。
ギンガにとっても、彼を苛む鎖の一つが解けたというなら、それは何よりの朗報だ。
「あの放送の事、何か言われました?」
「かなり大袈裟に礼を言われた。
一言一句覚えてます、だとさ」
だろうと思う。
ギンガだって覚えているのだから。
あの時の兄さんは、格好良かった。
壇上に立った、今の自分と同じ年のゲルトを思い出し笑みを深める。
あんな風に言葉を贈られたら、それは当然痺れるだろう。
様々な事情を抜きに不謹慎とは思うが、羨ましく思っていたのは事実だ。
はたしてティアナという子はあの言葉をどう受け取ったのだろうか。
どうにも嫌な予感はする。
が、ともあれ。
「着実にファンを増やしてますね。
部下として“は”嬉しい限りです」
からかい口調の中にも多少の本音が零れていたが、概ねにおいてギンガは今回の件を良い事だと捉えていた。
結局の所、ゲルトがこんなに嬉しそうにしているなどそうある訳ではない。
「それじゃあそろそろ書類を届けに行ってきますけど、ついでにコーヒーでもいかがですか?」
「そうだな、頼む。
熱いやつで」
「分かりました。
それじゃあ行ってきます」
ギンガはようやく踵を返した。
胸に報告書を抱え、落ち着いた速度で歩き出す。
そうしてふと頭の端に引っ掛かっていた疑問が浮かんだ。
十二歳でお嬢さんなら、私はどうかな?
今の自分は十三歳。
そのティアナとは一つしか違わない。
ゲルトから見ればどちらも大して変わらないのではないだろうか。
やっぱり大人の人じゃないと駄目かな……?
色々と念の籠った息が漏れるが、こればかりはギンガにどうする事もできない。
心に刻み付けられた人物が大き過ぎたのだろう。
ゲルトのデスクの上には今も首都防衛隊期の写真が飾られている。
その写真の中、ゲルトが憧れの眼差しで見上げているのは恩師たるゼスト、ではない。
クイントの隣に立つ、荒事には向きそうもない柔らかな笑みを浮かべた長髪の女性である。
ギンガは母の親友だったという彼女、メガーヌ・アルピーノがゲルトにとってどういう存在か、おぼろげながらも理解はしていた。
少しは成長できたと思うんだけど。
一応それらしく髪は伸ばしているし、言葉遣いも改めてみた。
“妹”を意識させ過ぎぬよう、“部下”としての振る舞いにも気を付けている。
しかしそれでもゲルトからあんな視線を送られた事はない。
遠い日、あの観覧車の中以外では。
そういう意味では、多少の希望が持てるだけマシと言えなくもないが。
などと考えながらギンガはゲンヤの部屋を訪ね、給湯室に寄り、手慣れた仕草でマグカップにコーヒーを注いでいく。
そもそもどうしてああ女の人と縁があるんだか……。
湯気と共に広がる香りを味わいつつ、ギンガの思考は更に続く。
あまり口数が多い方ではないし、顔立ちだって甘いマスクの優男には程遠い。
むしろ鍛え抜かれ、既に百八十にも届こうとしている体躯は相応の威圧感すら放ち出している。
幾ら名前が売れているとはいえ、普通の女性の感覚からすれば敬遠される元でしか無さそうなものだろうに。
ぶつぶつと呟きながらもその頃には再びゲルトのデスクまで戻って来ていた。
それまで熱心に書類と格闘していたゲルトも後ろに立ったギンガに気付いたらしい。
「助かる、ギンガ。
そこに置いといてくれ」
はい、と応じてトレイからカップを下す。
必然ギンガの顔は座ったゲルトのそれへと近付き、手入れの行き届いた髪がくすぐるようにゲルトの頬を掠める。
ここで赤面するようであればギンガも随分と楽なのだが、そんな殊勝さは首都防衛隊壊滅以来めっきり姿を見せなくなった。
「うん、美味いな」
「お粗末様です」
ゲルトは満足そうに頷き、ゆっくりとコーヒーを嚥下している。
やはり異性を意識したような素振りはない。
横目に様子を窺っていたギンガは嘆息と共にその現実を受け入れていた。
今はこの距離でも仕方がない。
うん……“今は”、まだ。
いずれこの人が過去を思い出に昇華できた時、その隣にあればいい。
多分だが、その時が来るまでは本当の意味でこの人が誰かに傾く事はあるまい。
ゆっくり進んでいけばいいのだ。
これまでのように、ゆっくり進んでいけば。
と、
「そうだギンガ。
言い忘れた事があった」
突然思い出したようにゲルトは口を開いた。
踵を返しかけていたギンガもその足を止める。
「さっき話したティアナの事なんだが」
「その子が何か?」
「ああ、弟子にした」
一秒、二秒、三秒。
「…………はい?」
あっけらかんと言われた言葉を消化しきれず、ギンガは硬直した。
何といったのか、この人は。
弟子?
つまり面倒を見るつもりなのか?
「といっても、殆ど母さんに頼む事になるとは思うけどな。
流石に、毎日見てやる程は時間も都合がつかん」
「で、ですよね!
結構忙しいですし!」
なんとか平静を装って頷く。
そうだとも。
単純に仕事が山積みな上、ゲルト自身の鍛錬もある。
スバルにだって毎日見てやれない位なのだから更にもう一人は相手しきれまい。
何も、そう何も焦る事はない。
「ただ徹底的にしごいて欲しいそうだからな……。
スバル共々、休みの時くらいは精々泣いてもらおうか」
…………えーっと。
本当に大丈夫、なのだろうか?
楽しそうに哄笑するゲルトをよそに、ギンガは天を仰いだ。
彼女の苦悩はまだまだ始まったばかりだ。
(あとがき)
とりあえず前編完・遂!
今回はまたえらい時間かかったなぁ……。
簡単に言うと、ティアナ弟子ルート → 後のストーリーに重大な齟齬発生 → 全リセットして書き直し → 齟齬の回避法を閃く → 予定通りに弟子に
という変遷が問題だったんですがね。
あとギンガも絡めたりで女性視点が多かったのも理由の一つかも。
いっそゲンヤ視点にでもしてればもっと早かったのかねー。
後編はもう少し早くしたいもんですな。
まぁ、多分次もティアナとかスバル目線多くて大変そうですが……。
そんな訳でまた次回、Neonでした!