どうすれば、自分はもっと強くなれるのか?
そう問い続けながら鉄鞭を振い続けた。
基本の方から始め、応用へともっていく。
武器というものは、結局のところ“引き”、力を“溜め”、“放つ”という三段階の動作にバリエーションを持たせているだけにすぎない。
刃ならば薙ぐために、槍や棒ならば突き、叩くために武器に応じて動きのバリエーションを増やしていき、それを組み合わせ、相手の動きを制する動きを出すことに終始していく。
それを繰り返すことに意味がないわけではない。
武芸者同士の対戦、汚染獣との戦闘。どのような戦いでも思考の追いつかないギリギリの状況というものは必ずある。
そういう状況になれば、自然と考えるより先に、体が馴染んだ動きをする。
その時こそ、今している反復練習は有効となるし、繰り返すことで基礎能力も上がっていく。
基礎能力が上昇すれば、それだけで相手に対して有利に進められるということだ。
「ふっ……はっ、はっ、はっ……………」
荒くなった呼吸を整えながら都市を包む不可視のエアフィルター越しに夜景を眺めた。
するとそのまま倒れてしまった。
硬い地面は当たり前に冷えていて、剄を巡りに呼応して熱っていた肌に心地よい。
疲労の極地でこのまま起き上がれないかもしれないと思いながらも、そのまま夜空を眺め続ける。
「遠いな……」
天壌を覆い尽くす夜の切り取られたような半欠けの月に手を伸ばし、呟いていた。
手を伸ばせば届いてしまうのではないかと錯覚させてしまう月。しかし、現実として絶対に届くことのない遠い月。
自分が生まれるよりも遥か昔からこの世界を見守っている淡い月の輝き。いつも変わらず其処のある輝き、それを“最近”目にしたことがあると感じた。
「これでは……駄目だ」
脱力していた身体に再び剄を巡らせる。
自分が習ってきたことの反復練習に意味がないとは思わない。
こういったことを日頃から積み重ねることが、確実な成長につながることも理解している。
しかし、自分が武芸者を志してから続けている鍛練をこれからも続けて、それで劇的に強くなれるとは思えない。
「間に合わない」
学園都市ツェルニが保有するセルニウム鉱山は、たった一つ。
次の武芸大会での敗北は、そのままツェルニの死を意味する。もちろん、敗戦から即都市機能が停止するわけではない。数か月から一年間は保つはずだ。
しかし、そこから先はない。
セルニウム鉱山の保有数がゼロになった時点で、その都市は新たな鉱山を得る資格を失う。
この学園都市に後はない。
次の敗北は、この都市の電子精霊であるあの幼子の死だ。
それだけは駄目だ。
私は、あの子を守ると誓ったんだ。
そのために自分の小隊を作った。自分なりのやり方でツェルニを守るために……。
オーバー・ザ・レギオス
幕間03 ニーナ・アントーク
「何ともなくて良かったよ」
病院の待合室で待っていたハーレイが安心したように言う。
「心配をかけてしまったな」
私の故郷である仙鶯都市シュナイバルからずっと一緒に居る幼馴染のハーレイ。
学園都市に来てからも、小隊を作ってからも不器用な私をサポートしてくれている彼には感謝してもし足りない。
「気にしないでよ。何ともなかったのならそれでいいんだし」
「そうか」
いつもの笑顔で言ってくれるハーレイに頷きで返す。
そして、気になっていたことを口にする。
「どうでもいいが、お前が制服を着ていると違和感があるな」
「ヒドイね」
病院内をいつもの汚れた作業服でうろつくことが許されるはずもなく、私の見舞いのために着替えて来てくれたのだろう。
単なる感想として出た言葉だったが、ハーレイは気を悪くした様子もなく、苦笑していた。自分でもそういう自覚があったのかもしれない。
私が病院で目覚めた時、そばには医療科の生徒がいた。
その生徒に訊ねると私が外縁部で倒れているところを通りすがりの生徒が担ぎこんだそうだ。
実際は、剄の使い過ぎで一時的に意識が落ちただけで病院に運ばれずとも自然回復できる範疇だったのだが、丸一日意識が戻らないというのは問題だろうとついでに精密検査も受けさせられた。
結果は、特に問題なし。医療科の先輩には、身体を壊すようなやり方では強くなれる者も強くなれない、と釘を刺されてしまったが。
「それで……私を運んだ当のリグザリオはどうしているんだ?」
外縁部から私を病院まで運んだ通りすがりの生徒、リグザリオは目覚めた時から現在に至るまで姿を見せていない。
ハーレイは、リグザリオに知らせを受けてきたらしいが、待合室には一人で待っていた。
「リザなら今朝方、都市警に連れていかれたってさ」
私の何となくの質問に笑いを堪えるような様子で答えるハーレイ。
言葉の意味を理解するのにわずかばかりの時を要した。
「……あいつ、何かしたのか?」
リグザリオとは知り合って間もないが、都市警に連行されるような行いをするような輩には思えない。
しかも、そのことをハーレイが面白がるように話すことにも違和感を感じているとハーレイが、笑いを漏らしながら答えを教えてくれた。
「真夜中に意識のない女生徒を抱えて走ってるところを目撃されたんだってさ」
「……………」
不覚にも軽い眩暈を起こしてしまった。
つまり、リグザリオのやつは誘拐容疑を掛けられたということか。
私が知る中で最強の武芸者である男は、実はどうしようもない不器用な存在なのではないかと思ってしまった。
「話は戻るんだけど。ニーナが初歩的な間違いをするのって珍しいよね」
リグザリオのことで話を逸らしたと思ったが、さすがにハーレイを誤魔化せるほどの口を私は持ち合わせていなかったようだ。
「ニーナは十分に強くなってると思うよ。いくら活剄があるからって、無茶な訓練を続けて身体を壊したら意味がないだろ?」
医療科の先輩と同じようなこと言う。
私の身を案じてのことだと理解していても、ハーレイの言葉を素直に受け入れることができない自分がいた。
「分かってる……分かってはいるんだ」
「だったら、もう無茶な訓練は――「間に合わないんだ!」……ニーナ」
私は何をしているのだろうな。
こんなところで声を荒げても何も始まらない。
ハーレイは、私の考えを知っているし、理解も示してくれている。その上での労わりなのだ。
そんなハーレイに怒鳴るのは八つ当たり以外の何物でもない。
「今のツェルニに必要なのは未来の可能性じゃない! いまそこにあるものなんだ!」
それを理解していていも私の声は激しい感情に押し出された。
「だから、強くなろうとしたの? ニーナだけで?」
「っ……そう、だな」
武芸者でないハーレイが私の苦悩をすべて理解することなどできようはずもない。
だが、ハーレイは彼に理解できる範囲で、私の間違いを正そうとしてくれている。
私の掲げる願いは傲慢なのだ。
“ツェルニを守りたい”
ただそれだけならば、私のやったことにそれほど意味はない。
むしろ現状の第十七小隊の戦力を考えれば、もっとやるべきことは多くある。
今の第十七小隊には、ツェルニに存在する武芸者の中でも最強の二人が揃っている。
ひとりは、槍殻都市グレンダンの元天剣授受者であるレイフォン・アルセイフ。
私など及びもつかない力を有しているにも関わらず、武芸に対して否定的な考えを持ち、訓練や試合でも一歩引いたところで戦っている。
シャーニッドほどではないが、小隊対抗戦をそれほど熱心にやっているようには見えない。
“武芸で失敗した”から武芸をやめるつもりでツェルニにやってきたレイフォンだが、生徒会長のカリアン・ロスの計略に嵌り、そのまま流される形で私の小隊に所属することになった。
だから、レイフォンにやる気がないのは当然だ。
そんなレイフォンも最近、少しはやる気を出しているように感じることもある。
訓練でも、試合でも、常に一定以上の緊張感を持って動くようになった、のだと思う。
このレイフォンの変化が何を意味するのかは、私には分からない。
しかし、レイフォンをそうさせているのは、もうひとりの新隊員であることは間違いない。
自称、城郭都市イーダフェルト出身という武芸者、リグザリオ。
リグザリオは、何もかもが正体不明の新入生だ。
彼の素性が書かれているはずの書類には、名前と出身地以外にほとんど何も書かれていない。しかも、書かれている二つも偽名と詐称の可能性が高い。
それでもツェルニの学生として、普通に編入できたのは、これまた現生徒会長のカリアン・ロスが手を回したからだ。
学生証に書かれている名前は、『リグザリオ・イーダフェルト』。
ここまであからさまな偽名を堂々と本人認証のための学生証に記載できたものだ。
しかし、リグザリオにはツェルニに招き入れるだけの価値があった。
リグザリオの武芸者としての実力は、レイフォンに同等かそれ以上のものだ。
千を越える汚染獣を刹那のうちに瀕死状態に追い込み、生身で汚染物質に満たされた自律型移動都市の外に跳び出した。
常人ならば数分で死に至る世界に飛び出し、汚染獣の親玉を倒して帰還した。
汚染物質に晒されたリグザリオの身体は、日焼け程度のダメージしかなかったらしい。
もはや人間であるかも怪しい存在だが、実際に接してみたリグザリオの人となりは普通の学生と何ら変わらなかった。
強大な力を持つからと言って、冷徹な部分も、達観したところも、選民思想のようなものもない。
しかし、自分が強者であることを自覚し、それを誇ってもいる。
レイフォンとは良くも悪くも正反対の武芸者だ。
小隊対抗戦では、レイフォンもリグザリオもそれぞれ多くの制限を受けている。
ふたりが本気を出したら試合にならないからだ。
そして、そのことが対抗戦に勝っても素直に喜べない原因でもある。
私が小隊を立ち上げたのは、私なりのやり方でツェルニを守りたかったからだ。
レイフォンとリグザリオがどれほど制限を受けていても、十七小隊が他の小隊の戦力をあらゆる意味で凌駕していることに変わりはない。
しかし、そこには本来、最も必要となるチームワークが存在しない。
先の試合もリグザリオが旗を守り、私とレイフォンが敵を足止めし、シャーニッドが狙撃で第十四小隊隊長を撃破した。念威操者であるフェリは、私とレイフォンが接敵してからは、シャーニッドの狙撃とリグザリオの防衛をサポートしていた。適材適所といえば聞こえは良いが、その実態はそれぞれが自分のやるべきことをやっただけ。確かにそれもチームワークの一つだろう。
しかし、ここでも問題となるのが“制限を受けた中で全力を出す”リグザリオの絶対的な守りだ。リグザリオは、フェリのサポートがなくてもほとんどの攻撃を察知し、防ぎきる。
現在のツェルニには、リグザリオの防御力を越える攻撃力を持った武芸者は、レイフォンくらいしかいないはずだ。そのレイフォンが同じ部隊に在籍している以上、こちらの旗を奪える小隊は存在しないということだ。そして、それは攻守が入れ替わっても言える。
レイフォンはまだ適度に手加減をしているので、問題がないわけではないが許容できる範囲内。
しかし、リグザリオの間違った真面目さはどうしようもない。
確かに傍目にはリグザリオの防御力は、あの楯を避けて攻撃すれば良いようにも映るだろうが、訓練中のリグザリオの楯捌きは尋常ではない。
少なくとも“本気”のリグザリオのディフェンスを突破することは不可能だ。
「でも、リザとレイフォンにケチをつける人はほとんどいないんじゃないかな」
その通りだ。
リグザリオとレイフォンの存在は、ツェルニに在学するほとんどの学生が認めている。
自分たちが暮らす家を守護する武芸者が強すぎて困るということはない。
前回の武芸大会で大敗していることもあり、卒業を控えた最上級生の6年の間では、上級生が多く含まれる他の小隊より、新入生で強力な武芸者を二人も有し、部隊員のほとんどが下級生という新設の第十七小隊を応援する者が大半だ。
「まあ、ニーナの言いたいこともわからないわけじゃないよ。僕だって自分よりずっと優秀な錬金鋼技師が突然現れて、十七小隊の専属になりますって言われたら結構ショックに感じると思うし」
例えそのような存在が現れても私たちがハーレイをくびにするわけがない。
そんなことは私が言わずともハーレイ自身よく理解している。だからこその喩なのだろう。
私は、突然現れた自分より遥かに強力な武芸者であるリグザリオとレイフォンに嫉妬している。それは間違いない。
しかし、彼らに嫉妬を感じることを私は恥じているわけではない。
まだまだ未熟なツェルニの武芸者ならば、ほとんどの者が彼らの力に羨望を感じずにはいられない、嫉妬せずにはいられない……そして、彼らと己を比較して劣等感にさいなまれる。
「だったらどうして、あんな無茶な訓練をするようになったんだい? リザやレイフォンと同じ小隊で戦いながら一緒に訓練をして強くなる、でも良いんじゃない?」
そう。自分が劣っているのならば訓練をすれば良い。
それも無茶苦茶な自己流の訓練ではなく、実際に強くなった者たちの訓練を参考にすればもっと効率も良くなる。
私とて年下の者に師事することを恥と感じるほど安いプライドは持ち合わせていないつもりだ。だが、彼らと一緒に訓練するようになって気付いた。
「二人は特別な鍛練は全くしていない」
「まあ、確かに」
「私とそれほど変わらない訓練で、レイフォンは就労も私と同じ場所だ。シフトでいえば、私より長時間働いている」
リグザリオに至っては、生徒会長と交渉して給付金を多めに貰って、休日の日にはツェルニ中を散策しているところが目撃されているらしい。
訓練は私と同程度で、私より多い就労(機関部清掃の他に都市警の臨時出動員枠にも入ったようだ)をこなしているレイフォンと私生活ではだらだらと都市内を歩き回っているリグザリオ。
片や疲労で、片や怠けで、普通ならば多少なりとも戦闘時に影響が出てくるはずだ。
しかし、二人は戦闘が始まったとたんにそれまでの疲れも、だらけも見せなくなる。
「私は、彼らが就労や休息に使っている時間も鍛練をしていた。だが、彼らに近付いているのかどうかさえ分からない。戦闘をこなすたびに差が開いているようにさえ感じてしまう始末だ」
「ニーナ……」
私がこんな弱気や愚痴を見せることは幼馴染であるハーレイにもほとんどない。
本格的に武芸を始めてからは一度もなかったことだ。
気心の知れた相手であってもこんな自分を見せたくはなかった。
その後、ハーレイと別れた私は自分の寮へと戻ることにした。
医療科の先輩からもニ、三日、どんなに少なくとも丸一日は剄の使用を禁止されてしまっているので、今日の訓練に参加することはできない。
他のベンバーが自主訓練する分には自由だとハーレイに言伝ておいたが、自主的に訓練をするような者は十七小隊にはたしているだろうか。
自分の仲間をこういうのは良くないのだが、シャーニッドやフェリが自主訓練をするとは思えないし、レイフォンも今日は就労のシフトが入っていたはずだから時間まで休みたいだろう。そして、リグザリオも……
「……あいつは、都市警に連行されたのだったな」
倒れていた私を心配して病院まで運んでくれたのだろうが、何故かリグザリオの身を案じることができなかった。
リグザリオが都市警に連行される様を思い浮かべると笑いが込み上げてくる感覚さえある。
その感覚には不思議と後ろめたさが伴わないのは何故だろう。私はそこまでリグザリオを嫌悪しているというのだろうか?
幼少のころに見たアニメーションのような捕まり方をするリグザリオを再度想像して笑いを堪えながら寮の扉を開けると聞き覚えのある声が出迎えた。
「それは間違っているぞ、ニーナ・アントーク!」
というか想像の中の産物だった。
「よう、隊長。体調は大丈夫か?」
それから僅かな間、寮の玄関ホールを沈黙という名の空白が通過していった。
「……おい、七三デコメガネ。あんたのせいで恥をかいたじゃないか」
「ひちさ……?」
「あたしが言わせたみたいに言うな!!」
聞きなれない呼称に首をかしげ掛けた私の先を越して、ユニークなニックネームで呼ばれた同じ寮に暮らす一般教養科のレウが抗議の声を上げる。
「そうカリカリしなさんな。心配しなくてもちゃんとレウ攻略ルートも存在している」
「うわ、異次元的発言出た! というか、誰もあんたに攻略されたいなんて思ってないわよ!」
「安心しろ。あんたの90%を占めるメガネという属性と10%のN●R要素を加えれば、一線級まであと一歩だ」
「あり得ないから! 90%メガネとか意味身不明だから!! 何? メガネを失くしたあたしは汚れキャラ扱いになるわけ!? というかN●Rとか言うな!!」
「いや、一概にそうとも言えな「というか、あたしをニ次元に引き込むな!」……ふ、強気属性は嫌悪か。初期状態ならこんなものだろう」
普段とは似ても似つかない言動を繰り返すリグザリオと何やらそれに対抗してハッスルするレウ。
何だろう。私の周りでは比較的貴重な一般常識者であるレウが、どこか遠い国に行ってしまいそうな小劇場が展開されている。
「ニーナちゃん、おかえり~。とりあえず、こういうことなのよ~」
何が“こういうこと”なのか理解不能です。
「セリナさん。何で女子寮にリグザリオが居るんですか?」
この場で唯一、平常通りの精神状態だと思われるここの寮長のセリナさんに詳細の説明を求める。
「それは私から説明するわ」
と言いながら寮の奥から現れたのは剣帯を腰から下げた武芸科の女学生だった。
「あ、ランちゃん。もうべ「私は、都市警のランドルト・エアロゾル」ったの?」
セリナさんの人前で口にすべきではない労わりを遮って名乗った都市警のランドルトさん。
剣帯のラインを見るにセリナさんと同じ四年生らしい。
ランドルトさんは、手にしていた可愛らしいハンカチをポケットにしまうとレウにマウントを取られて滅多打ちにされているリグザリオを乱暴に引き起こした。
「ふっ、やるじゃないか、メガネ。気性の激しいニャンニャン属性まで持っているとは。この借りはベッドの上で返してや「くどいッ!」」
明らかに変なことばかり口にするリグザリオの鳩尾に渾身のストレートを放つレウ。
しかし、さきほどのマウント中の連打も今のストレートも武芸者であるリグザリオに効くはずが「ぐふぁッ!? その右、世界を狙えるぜ」あったようだ。
「つまりは、こいうわけよ」
「いえ、今の何を持って私が理解できたと判断したのですか?」
今の私は、医療科から休息を取るように言われているので早く自室で休みたいのだが。
「それでは困るわ。当事者である貴女の証言がなくちゃ、都市警としてもこの変質者を正式に逮捕することもできないのよ?」
ああ、そいういえばそうだった。
寮内のあまりの雰囲気に少し前の思考すら忘却していた。
リグザリオは、私を病院に運んだ際に誘拐犯と間違われてしまっていたのだ。
通報を受けた都市警も被害者と思われる私を特定するのに時間がかかったのだろう。
明確な証拠がない以上、リグザリオを長時間拘束することはできない。
「それでどうなの? こいつはアントークさんを病院まで運んだだけという話だったのだけど」
リグザリオの腰に結わえられた取り縄を引っ張りつつ問うランドルトさん。
それに溜息交じりで頷く。
「確かに彼は、疲労で倒れた私を病院に運んだだけです」
「本当に、本当? 運ばれている最中におっぱいとか、お尻とか、おっぱいとか、おっぱいとか触られなかった? 下着は上下とも無事だった?」
何故か、鼻息荒く食い下がるランドルトさん。
未だにレウに対してセクハラ紛い、セクハラ同然の奇天烈な発言を行っているリグザリオの状態はどうも普通ではない。
確かにこの状態のリグザリオならば気を失っている間に何かをしても不思議ではない。
しかし、私のことをリグザリオから聞いて昨夜のうちにリグザリオと会っているハーレイは特に何も言っていなかった。
「……私の方に被害はないと思います」
確証はないのだが、いつものリグザリオなら妙なことはしない……と思う。
これからの対抗戦や武芸大会のことも考えれば、不要な汚名を被せるわけにもいかない。
私以外に被害者候補がいないのならこのまま穏便にすませるに越したことはない。
「本人がそう言うのなら仕方がいないわね。…………せっかくのお手柄だと思ったのに」
ものすごく納得いかないという様子のランドルトさんは、渋々リグザリオの手錠と腰縄を解いた。
拘束を解かれたリグザリオは力尽きた様にその場に膝を着いて項垂れた。
「すまなかったな。私が心配をかけたせいで「ふ、ふひっ」……は?」
最初は空耳かと思った。いや、空耳だと信じたかった。
「お、おい、大丈夫か?」
「ちょっと、ニーナ。その変態に近付くと危ないってば!」
「あ~あ。なんかやり手っぽい新人も入ってきたし、ここらで一発犯人逮捕して点数かせぎたかったのにな~」
「ん~ちょっと強く叩き過ぎちゃったかしら?」
明らかに正常ではないリグザリオの状態にさすがに不安になる私は、とても嫌な言葉を聞いた気がした。
「ふ、ふひひひひひひひひひひひひひひひひひひひぃぃぃぃぃぃぃぃぃゃっふうううううう!!!!」
この日を境に一人の武芸者の評判は地に堕ちることになる。
根本の原因は、本人に会ったらしいが最終的に変なスイッチを押す結果になったのは、うちの寮長だったらしい。
私を病院へと連れて行ったリグザリオは、私のことをハーレイに任せると私の寮に向かったという。
寮の誰かに私のことを伝えておこうとでも考えたのだろう。
しかし、悪いことに無駄に夜目の利くリグザリオは明かりをつけずとも支障なく、暗闇を活動できるらしく、寮に侵入したそうだ。私がまだ帰っていなかったために寮の鍵は開けっぱなしだった。そして、ここで間の悪いことに生理現象で目覚めた寮長と遭遇――という流れだ。
翌日の昼下がり。大量の女性用下着をベッド代わりに寝ているリグザリオが発見された。
発見された際のリグザリオは、とんでもない高熱で魘されていたそうだが、運ばれた病院では労わってくれる医療科の看護師(女学生)はいなかったという。