オーバー・ザ・レギオス
幕間06 ニーナ・アントーク
バンアレン・デイ。
巷では男女も一般学生も武芸科生も変わらず浮かれるイベントだ。私の周りにもそれらに同調する人物もいれば、面白半分に変な噂を流したり、いらん知識を植え付けようとしたりする困った人物もいる。本来なら女性から男性へと贈り物をするのが普通らしい。しかし、私は同性の後輩たちからたくさんのお菓子を貰ってしまい対応に困った。そんな私を恨めしそうに見つめていたリグザリオと別れて寮に戻った後、同じ寮のセリナ先輩から友人のレウと共に知りたくもないバンアレン・デイ時期のおまじないを教えられ、女の子たちから貰ったお菓子の可愛らしい包みを開けることができなくなった。
そんないやな話題もそこそこに夕食を済ませた私は、剣帯を巻き、訓練着とその上に上着を羽織って寮を出た。機関掃除のない日はよくこうする。身体を動かしたりないと思ってしまうのだ。
私たちの寮がある建築家の実習区を抜け、更地の土地まで歩きむき出しになった地面の中央に立つ。周囲の空気を肌で感じながら剣帯に手を添える。
「尾行されるような覚えはないぞ」
練武館の帰り道で感じた視線。敵意はなくとも正体がしれないというだけで気持ちが悪い。
あの時はリグザリオや後輩の女の子たちがいたから判然としなかったが、この視線の主は間違いなく私を観察している。その感覚はとても不快だった。応えは即座になかった。
外力系衝剄の変化、九乃。
「うぉ!? 待った待った、敵じゃねえよ」
無言を続けようとした視線の主に剄の弾丸を放つと慌てて暗闇から飛び出してきた。
私と同じタイプの剣帯を腰に巻いていることから武芸科の生徒であることが分かった。学年は色からして最上級の六年だ。癖のある赤毛に油断のできない何かを宿した瞳を持つ長身の男。
「ならばすぐに姿を現わせば良かったでしょう。そうすれば私も無駄な剄を放たずに済みました」
警戒を解かず、いつでも錬金鋼を抜けるようにして言う。先輩とはいえ夕方からずっと私を尾行していたことになる相手だ。気を抜けるわけがない。
「手荒いねえ。だが、その態度は悪かねえ。特におれみたいな怪しい奴を相手にするときはな」
赤髪の青年は楽しそうに笑った。
どこか挑発的なその態度に錬金鋼を掴みそうになるが、呼吸の乱れに気付き気持ちを抑える。
焦っても良い、怒っても良い、焦ってもいい。しかし、どんな相手にも、どんな窮地にも、どんな苦痛にも、自分自身の中にあるリズムだけは見失ってはいけない。これは、小隊員以外の武芸科生徒を相手に特別授業の押し売りをしているリグザリオがレオ・プロセシオやその友人たちに教えていたことのひとつだった。敵がどれほど強くとも、状況がどれほど絶望的でも、自分の持てる最大限の力を発揮して対処することができるようにする。そこに勝利がなかったとしても決して全力を出すことに怯えてはいけないのだという。あまりに実力差があり過ぎる訓練相手であるリグザリオと組み手をしたとき、初めは胸を借りるつもりで、と言ったら瞬きをする間もなく昏倒させられた。最初は何が気に食わなかったのか分からなかった。それに気付く頃には、両手の数で足りないほどの屈辱的な敗北を喫していた。例え実戦でもあれほど惨めにかんじたことはなかった。リグザリオが言うには、どんなに勝ち目がない相手にも“勝つ方法”を考えて戦うようにしろとのことだった。リグザリオが言う“勝ち”が単純に相手を打ち負かすことをいっているのではないことくらいは分かった。それ以来、例え訓練でも常に“勝つ方法”を考えるようにしている。たまに考え過ぎて戦闘そのものに集中力が割けなくなってしまうこともあるが、それを自然に行えるようになることが“総合的に強くなる”ことの一歩だ、というのがリグザリオの考えだった。
だから、得たいのしれないこの飄々とした風情を装うこの青年を前にしても呼吸を乱さない。思考の動揺を剄に伝わせない。
この武芸者の男は、間違いなく私より実力は上だ。伊達にリグザリオやレイフォンという実力者たちと日々を共にしていない。この男が緊張を強いるような武芸者であろうとも剄を乱すようなことはない。
「しかも、見る目もある。上等だ」
間近までゆっくりと歩いてきた青年は満足そうに頷いた。
「おれの名前はディクセリオ・マスケイン。まぁ、ディックと呼んでくれ。君は?」
「知らないでつけ回していたんですか?」
「事情が事情なんでね。仕方がない」
「……ニーナ・アントークです」
本人が自称する通り、明らかに怪しいがここで深入りする愚を犯すほど思慮に欠けてはいない。
「お、疑ってるな?」
分かり切ったことをいう。このディックという男は、この状況で疑心を抱かせないほど人畜無害な印象を持っていると思っているのだろうか。
「ま、仕方ねえな。……どうだろうな、頼みを聞いてくれるんなら、前払いでおれのとびっきりの技を教えてやるぜ」
「技だと?」
「練武館での練習は見せてもらったぜ。双鉄鞭なんて渋い武器選ぶってところが気に入っちまった。どうだろうな?」
「……技によるな」
「絶対、欲しがるぜ」
自信の満ちた子供っぽい笑い顔をして後方に跳んで私から距離をとった。ディックの手が剣帯に伸び、それに応じる形で私も錬金鋼を抜き、復元させる。
ディックの手には一振りの鉄鞭が握られている。私のものよりはるかに大きく、人間ではなく、汚染獣のような巨大な敵を相手にするために用意されたと思える金棒の領域に届くような打撃武器だ。
「じゃあ、いくぜ」
正直、レイフォンとリグザリオが同じ小隊に居る私は、二人からいくつかの剄技を教えられている。レイフォンたちのように多彩な剄技を使いこなすだけの資質も剄力もない私には、もったいないほどの剄技の手解きをすでに受けている。ここでさらに別の剄技に手を出すことが本当に私自身のためになるのか分からない。
しかし、あの二人が知らない技を習得することで少しでも彼らに戦闘中に驚きを感じさせることができればと思い、ディックの技を見るために活剄を身体に奔らせる。
瞬間、ディックの姿が残像を残して消えた。
「っ!」
咄嗟に横っ跳びに回避するのと入れ違うように私が立っていた地点に真正面からディックの巨大な鉄鞭が振り下ろされていた。
「お、手加減していたとはいえ、初見で雷迅を避けやがるなんてな。結構、へこむぜ」
稲妻の如き速度と衝撃。完全に避けたにも関わらず、全身が痺れる感覚に剄息が乱れてしまう。
地面を叩いていた鉄鞭を振り上げ、肩に担ぐようにしながら楽しそうに笑うディック。
「練習してんの見たが、防御が得意なようだな。だけどよ、受け身ばかりじゃどうにもならない時ってのもある」
防御、レイフォンに教えられた金剛剄という槍殻都市グレンダンが誇る天剣授受者であるリヴァースという武芸者が得意とする剄技。まだまだ使いこなせてはいないが、自身が研鑽を積む技を軽んじるような言い方にわずかな苛立ちが燈ってしまった。
「攻撃は最大の防御だ。バカみたいにまっすぐに突っ走るのは、意外にお前の性に合ってる気がするからな」
私の気持ちも知らずにディックは鉄鞭を肩に担いだままゆっくりと腰をおろした。技を教えると言った手前、私にも技を見ることができるようにゆっくりとやる気だ。レイフォンに教えられたように瞳に剄を注ぎ込み、ディックの剄の流れを見た。
剄脈のある腰部、そして鉄鞭を中心に剄が波紋を描いて大気に広がっていく。だが、それは拡散しているわけではなく、ある一定の距離まで離れると新たな流れを作って剄脈から鉄鞭へ、鉄鞭から剄脈へ、というように無限循環を作り上げる。
肉体の内と外で作られた剄脈回路は、全身を奔る活剄を強化し、同時に衝剄を鉄鞭に凝縮させていく。
「己を信じるならば、迷いなくただ一歩を踏み、ただ一撃を加えるべし。……おれに武芸を教えた祖父さんの言葉だ」
その言葉と同時にディックの姿が再び消える。
今度は限界まで感覚を研ぎ澄ませていたので何が起こっているのかを見ることができた。
無限循環を作っていた剄の流れが引き千切れるように形をかえ、足と鉄鞭に吸い込まれるようにして消えた。足に吸い込まれた剄は旋剄を使用する時の剄の動きに近いものがあった。
ならば鉄鞭に流れていた剄は?
ディックの攻撃の軌道上に双鉄鞭をクロスさせ、ディックの剄技を受け止める。
三振りの鉄鞭が火花を散らして衝突するも、その均衡は即座に崩された。
「……確かにすごい技ですね」
気を失っていたということに気付き、跳ね起きる。
「おいおい、頑丈にも程ってもんがあるだろ?」
ディックの驚きの声がすぐ傍で聞こえた。その言葉から察するに気を失っていたのは数秒程度だったようだ。
まだ全身が痺れているような感覚があるが、後に引くほどのものでもない。
「今の技は?」
「祖父さんの教えを基に、おれが作ってみた。中々のできだろ?」
私が興味を持ったことが嬉しいのか、満足そうに言うディック。
雷迅というこの剄技。以前にリグザリオが使用した焔神に似ていなくもない。あの時の焔神は汚染獣相手に使用したこともあり、その威力も速度も周囲へ撒き散らす破壊力も比較にならないが、レイフォンやリグザリオなら雷迅も再現することができるだろう。
†
雷迅のコツを教えてもらう代わりに私が請け負ったのは、ディックをこの学園都市の電子精霊に合せることだった。
電子精霊に逢えるかどうかは運次第だが、電子精霊と会いたいなら都市の機関部へ行けば良い。見学の手続きさえ行えば比較的簡単に入ることができる。もちろんそれは、ディックが正式なツェルニの学生であればの話だ。もうすぐ卒業だからと、確実に会うためには私を通した方が良いと判断したのだろうか。機関部で就労している者たちの間では、私がツェルニに懐かれているということはよく知られているからそれをディックが耳にしていても不思議ではない。
いつも私が使用している機関部への入り口に到着すると不意に奇妙な気配が肌を撫でた。
「気付いたか?」
「はい……」
短い言葉に緊張を含ませたディックの問いに頷く。
この辺りは夜に人が集まる様な場所ではない。人の気配はなく、街灯と入口にある非常灯だけが暗闇に色を与えている。
何か張りつめたような緊張感がこの場にあった。
「先輩……?」
傍らに立つディックはこの奇妙な気配に慣れているのか悠然と立ちながら、油断なく正面を見つめていた。
「よう、そんなもんじゃおれの後輩にも気付かれちまってるぜ?」
「……貴様、なぜここにいる?」
ディックが街灯の明かりが届かない闇に呼びかけると機械音声が返ってきた。
「おれがこの都市に縁があることを知らなかったのが、お前らのミスってやつだな」
次の瞬間、その闇から獣の面を被った奇怪な集団が姿を現した。
「こいつらは……?」
見たこともない連中だが、明確な敵意をディックに向けている。ただならぬ様子に私は錬金鋼を抜き出す。
「狙いはあいつか? 確かに面白い。だが、だからこそお前らにはやらねぇ」
「あれは我らの生みし子だ。無間の槍衾を進んだ先に現れた祝福されし忌み子……強盗風情に邪魔をされるいわれはない」
獣面の言葉にディックを見る。そこには獰猛な獣の瞳があった。
「そうだ。あれを強奪したのはおれだ。お前らの企みを壊して崩して踏みにじって奪っていったのはおれだ。だからこそ、取り返されるなんて許さん。それが強盗の道理だ。そして……」
獣面の集団を前に動じた様子もなく、むしろ喜んで肯定するディックが錬金鋼を抜いた。
「ハトシアの興奮作用を使ってうちの学生を巻き込む……迷惑だ。二度と来るな。それがツェルニの答えだ」
復元された巨大な鉄鞭を構えて、ディックが叫ぶ。
「ツェルニと縁を作って再びここに来ようと思っているのだろうが、そうはいかねぇ。それがここにおれがいる理由だ。お前らはイグナシスのフラスコの中でのたくってろ!」
「ほざけ!」
その言葉と同時に獣面の集団が私たちを取り囲むように動き出す。
獣面たちもそれぞれに錬金鋼を抜き、湧き立つ殺気を向けるがディックは臆することもなく前へ進んだ。
「ニーナ、入口を押さえろ。誰もあそこを通すなよ」
「はい!」
理解できない状況に困惑しているわけにはいかない。
こいつらが何なのか、ディックが奪ったというものが何なのか、ツェルニとの縁とは何なのか、分からないことだらけだ。しかし、こいつらがツェルニに危害を加える類いの輩であるのは明白。私がこの場で戦う理由などそれで十分だった。
「さあ、強欲都市のディクセリオ・マスケインが相手してやるぜ」
巨大な鉄鞭を片手に構え、ディックが獣面を挑発するように手招きする。
「狼面衆、三の隊、参る」
その言葉と共に獣面たちが一斉にディックへと襲いかかる。
ディックは鉄鞭を振り上げ、剄を収束させるや振り下ろすとともに解き放つ。鉄鞭の重量が形のない大気を叩き、剄の混じった波紋を生み出す。引き千切られた大気が不可視の大波となって狼面衆たちを弾き飛ばす。
「雑魚は引っ込んでいろ」
その言葉通りなのかはわからないが、ディックの衝剄を受け流すように低く身構えた狼面衆の一人が接近していた。その両手にはカタールと呼ばれる、刺突武器が握られており、カタールの刃にはいくつもの切り込みが施され、突き刺し、抉り取るような獣の牙を連想させる。
吹き飛ばされた狼面衆たちの影から地を這うように突進してきたその一人が、ディックの腹部めがけてカタールを突きだすが、ディックは鉄鞭を引き寄せて難なく刺突を弾いた。
そのままもつれ合うようにカタールを持った狼面衆との接近戦闘を演じるが、重い武器を使うディックに小回りの利く狼面衆は距離を取らせないように立ち回る。左右のカタールを交互に繰り出し、ディックに必殺の間を与えない。
「先輩!」
間断なく繰り返される刺突のひとつがディックの頬を裂いた。
「よそ見をするな!」
ディックが怒鳴る。言われなくともディックを心配している余裕は持てない。
最初の攻撃で吹き飛ばされた狼面衆たちが体勢を立て直しこちらに迫ってきている。
「行けっ、機関部を占拠せよ!」
カタールの獣面の言葉に、他の狼面衆たちは忠実に動く。
進路上に居る私を排除しようと、それぞれが衝剄を叩きこんでくる。
活剄衝剄混合変化、金剛剄。
レイフォンに教えられた防御の剄技。全身を襲う衝撃を体表面に奔らせた剄の膜で防ぐ。
舞い上がった爆煙を利用して近付いてくる狼面衆に不意打ちをかける。衝剄の集中砲火を受けて私が無事でいるはずがないと思われたようだ。この程度の衝剄、リグザリオの緋蜂に比べればそよ風ようなものだ。煙の向こうから現れた狼面衆に鉄鞭を振り下ろす。突然の一撃に狼面衆の一人が地面を転がる。その狼面衆の仮面が衝撃で剥がれ落ち、戦闘の騒音を押しのけて乾いた音を私の耳に響かせた。
「見るなっ!」
ディックが警告の叫びをあげた。
なにを? そう思った時にはすでに遅かった。
煙はすでに去っていたが、誰も動いていない。奇怪な紋様の入った獣面をこちらに向け、停止している。
まるで記録映像に停止をかけたようだ。
「もう遅い」
誰かが言った。誰だ?
「もう遅い」
「もう遅い」
「もうおそい」
「モウオソイ」
繰り返されるその言葉は、狼面衆たちが口にしている。繰り返される機械音声は壊れた再生機のようだ。
頭がクラリとくる。鼻孔を撫でるこの匂いはなんだ……。
「ハトシアの粉末だ。惑うな、目を開け!」
またディックが叫んでいるが、その言葉の意味が分からない。
私の攻撃を受けて倒れた狼面衆が起き上がる。地面を転がった戦闘衣は白く汚れてボロボロだ。仮面が取れた頭部には黒布だけが残されている。
その顔が私を“見る”。
「っ」
私を“見た”。
そこには、黒布に頭部を覆ったその中にはなにもなかった。黒い、靄のようなものがそこに凝り、薄い黄色の、赤子の手のような大きさの光が三つ、逆三角形の形で配置されているだけだ。
「あ、れは……」
三つの光、そこに宿る不気味な気配を私は知っている気がした。
「見たな」「見たな」「みたな」「ミタナ」「見タナ」「ミたな」「見たナ」「見タな」―――――――「見たぞ」
獣面の剥がれ落ちた狼面衆が黒い空洞の中から声を放つ。
「イグナシスの恵み、遥かなる永劫、常世より来たりて幽世より参らん。我ら無間なる者の戸口に立つ者や、其は無間の槍衾を駆ける者か?」
意味を捉えられない言葉の羅列、それは誰かが言っていた言葉に似ている。
「聞くな!」
ディックの叫び声が耳を打つが、私はその言葉の先を聞かねばならない。そう感じる。
その言葉にいかほどの意味が、なにほどの力があったのか、私には分からない。だが、あいつならわかるのかもしれない。
黒い虚ろの中で光る三つのものが頭部の形を作る黒布からはみ出して、巨大になっていくのを見た。
「扉は開かれた。汝、オーロラフィールドの狭間で惑え」
それは何のまやかしだったのだろう。その言葉の後にはなにも変化はなかった。黒い虚ろはなく、落ちていたはずの獣面は元の場所に収まり、もはや私が打倒したのが誰だったかもわからなくなっていた。
「くそっ……くそがああっ!」
何をそこまで悔しがっているのか、ディックが憎悪をこめた雄たけびを上げる。
まさにその時、カタールがディックの左肩を抉った。血を噴出させながら、それでも怯むことなく目の前にいる狼面衆を弾き飛ばすと距離を取った。
腰を落とし、剄を走らせるのを見ることができたのは一瞬だった。
――雷迅
ディックの姿が掻き消え、その軌跡を光がなぞった。光を確認したその時にはすでに結果があった。
私に見せた時はとことん手加減されたものだった。
ディックが狼面衆に放った雷迅は獣面を打ち砕いていた。
凄惨な光景……そうなるはずだった。いかに安全装置がかかっていたとしても速度と質量だけで狼面衆の脳髄を粉々に吹き飛ばしてぶち撒けているはずだった。
しかし、雷迅の余韻に震える空気の中で、狼面衆の戦闘衣が渦を捲くようにディックの鉄鞭に吸い寄せられると、消えた。
後には、砕けた仮面の破片が舞い散るのみだ。
中身は? その身体はどこに消えた?
仮面の奥に隠された黒い虚ろの光景が脳裏を過る。
「気を抜くな!」
今一度のディックの叫び。それで戦闘がまだ終わったわけではないことを思い出す。
狼面衆を名乗る集団は、まだ周囲に居るのだ。彼らの目的は機関部を占拠することだったはずだ。目的が変更された様子はなく、狼面衆たちは入口の前に立つ私を排除しようと迫る。
油断が構えを崩させていた。
間に合わない。武器を構えなおすことも金剛剄を使うことももはや間に合わないところまで狼面衆たちは迫っている。
「ニーナっ!」
私の危機にディックが今一度雷迅を放とうとしているが間に合わないだろう。それが分かるほど私の視界は時の流れを緩やかにしていた。
変化は突如として現れた。
眼前に闇夜にあってなお深い闇が湧き出した。その闇が迫っていた狼面衆を弾き飛ばす。
その闇が確かな実体をもって形を成す。
「馬鹿なっ! リグザリオの……“月”の刃だと!?」
狼面衆たちに動揺が走る。
湧き出す闇が漆黒の大太刀の形を成し、それを手に取る者もまた闇夜を源泉として現れ出でる。
「……リグザリオ?」
そこには、顔色の悪い、幽鬼のように虚ろな表情のリグザリオが狼面衆を見据えた。
「扉を抜けたというのか? リグザリオの呪縛に囚われし、黄昏の因子と“縁”を繋ぐほどの“影”だというのか!?」
狼面衆の誰かが、もしかしたらこの場に居る全て、その向こうに居る何かが呟いた。
黒い大太刀を構えたリグザリオは無造作に、斬るという動作すら為さずに刃先を地面へと突き立てた。
ただそれだけ、リグザリオは切っ先さえ向けていない。
だが、その一動作ですべてが決していた。
数十人もいた狼面衆たちのすべてから首が、胴が、四肢が切断されていた。そして、ディックが雷迅で打ち倒したときと同じように中身が消え、戦闘衣が渦を巻いて斬線の中に吸い込まれていった。
「おい」
あとに残った静寂から私を引き戻したのはディックだった。
「今のうちに行くぞ」
「行くぞって……おい!」
狼面衆に斬られた左肩から血を溢れさせたままにしているディックが強引に私を機関部の入り口に押し込もうとする。
「今のあいつには関わるな」
「関わるなって……」
私の疑問に答えないディックに引っ張られるままに機関部の扉を潜る。
昇降機を待つ間に、ディックは簡単な止血処理をするだけで上から巻いた布に血が滲むのも気にしない様子だった。
「お前にはわるいことをしたかもしれないな」
昇降機に乗り込んだところでディックがそう呟いた。
「なにが、どうなってるんですか?」
「……エア・フィルターに守られたこの都市世界が、自然のものじゃないってことぐらいは、わかるな」
「はい」
ディックの表情には当初の飄々とした様子はない。血が抜けたためなのか、その顔には重い疲労の影がある。
「同じく、汚染獣がうろつく今の世界が自然なわけでもないってのも、わかる話だ。なら、誰が、どうして……そんな疑問の先には電子精霊がいて、錬金術師たちがいる。お前は電子精霊に関わった。否が応でも、お前は他の連中ができない生き方を強制される」
「…………」
「これは、電子精霊に見初められた者の運命みたいなもんだ。……助言できるとしたら、イグナシスの名を語る奴に碌なのはいないってぐらいだな。気をつけろ」
「イグナシス……人の名前ですか?」
「いずれ会える」
痛みでひきつる口の端を無理に吊り上げて笑うディック。それがいかにも複雑な感情を宿していることを察せられる。
「しかし、まさかいきなり呼び出せるとはな。しかも、呼び出したのが、あの“疫病神”だってんだ。とことんおれを驚かせる奴だなお前は」
「“疫病神”……リグザリオが?」
呆れたように言うディックの言葉で聞き捨てならない部分を苛立ちを隠さず問い詰める。
自分の部下を悪く言われるのはあまり気持ちの良いものではないようだ。
「そんな怒るなよ。別に悪気があるわけじゃねぇんだからよ」
「では、なぜリグザリオが“疫病神”なのですか?」
もしかしたら、ディックは私の知らないリグザリオの過去を知っているのかもしれない。あれほどの強さを持つ武芸者を疫病神だとする都市があるだろうか。
そんな私の疑問にディックは肩をすくめながら首を振った。
「あいつのことはあまり知ろうとするな」
「何故です?」
「あいつは化物みたいな強さを持ってるくせに頭ん中はおれよりガキだ。妙な勘違いをさせると暴走しちまうぞ」
「勘違いって……」
にやけ顔で言われ、私は緊張していたのがばからしくなった。
ようはディックにからかわれているということなんだろう。ディックがリグザリオを知っているのは事実なようだが、リグザリオはディックを知っているのだろうか?
もし、ディックのことを知っているのならば、リグザリオもあの狼面衆という輩と関わっているのだろうか。
同じ小隊の中でもリグザリオはどこか私たちを一歩もニ歩も下がった場所から見ているようなときがある。老生体や十小隊との戦いのときにわずかだがそう感じさせられた。夢を通じて見た脆弱な力しか持たないリグザリオの姿と現在の姿。あの夢と現実は関わりがあるのか、それとも……
「ここでお別れだ」
昇降機が機関部に到達するとディックは一人昇降機から出た。
もっとリグザリオのことを問いただすべきかとも思ったが、本人のいない場所であれこれ聞き出すのは卑怯に感じるのでやめておく。
「雷迅だけどな……お前はもう見た。教えてやるとも言ったが、一刀とニ刀じゃ使い方が違う。あとはお前が工夫しろ」
「先輩……」
今夜は謎だらけだ。強力な武芸者なのに私が知らなかったディック。行き成り見せつけられた技。謎の襲撃者、イグナシス……それにリグザリオ。
「久々にツェルニを歩けて、楽しかったぜ」
昇降機が上昇を開始して揺れた。
「できれば二度とあわないことを祈るが。そのときにはまた先輩面をさせてもらおうか」
それだけ言ってディックは背を向けて機関部の奥へと歩いて行った。
入口に戻ると、リグザリオがさっきよりもさらに蒼褪めた顔で突っ立っていた。
「お、おい。大丈夫か?」
さすがに心配になり恐る恐る声をかける。
「ニ……ーナ? 盗って……悪かった」
蒼い顔でそれだけ呟くとリグザリオはその場に崩れ落ちた。
「り、リザ!?」
すぐに駆け寄り、リグザリオを助け起こそうと手を伸ばす。
――妙な勘違いをさせると暴走しちまうぞ
ディックの言葉が一瞬躊躇させた。
「っ冗談を真に受ける奴があるか!」
部下が目の前で倒れたのを介抱するのは当然のことだろうに。
抱き起こしたリグザリオの顔色はこれ以上ないほど悪かった。死相というのはきっとこういうのを言うのだろう。
「……れを」
「何だ? いったいどうしたんだ? 何があったというのだ?」
これほど弱ったリグザリオは見たことがない。
いまにも尽きそうな弱々し力で手に持っていた可愛らしい小包を私に手渡してきた。
「これがいったいどうしたんだ? ……まさか、毒でも盛られたのか!?」
私の問いにリグザリオは首を横に振って否定する。
「ニー……が、羨ま、て……つい」
私の聞き間違いか?
リグザリオが弱弱しく囁いた言葉を聞き間違いだったかもしれないと反芻する。
「私がプレゼントをもらっているのが羨ましかったから……つまみ食いをした、のか?」
恐る恐る尋ねると何かから解き放たれたような弱々しい笑顔でリグザリオは頷いた。
「ほん……でき、心だった、んだほぉあっ!」
「そこで頭を冷やせ、バカ者が!」
とりあえず、私の労わり心を返してもらいたい気分になった。
いくら強くてもリグザリオは、こんなやつなのだ。たまに真面目なことを行ったり、妙に割り切りが良すぎたりするときもあるが、結局は普通なところもある男なのだ。
例え、ディックのような雰囲気からして異質な人物や狼面衆という謎の集団と深い関わりがあったとしても私が知っているリグザリオは、こういう奴だ。私にとって、十七小隊にとって、ツェルニにとって、リグザリオはこのままのリグザリオでいいんだ。