「──……ぐっ!?」
全身を襲う激しい痛みが、闇へと沈んでいた意識を強引に浮き上がらせた。
身体に触れる感覚から、どうやら自分は地面に倒れていることがわかる。何とか起き上がろうとするが、どうも後手に拘束されているらしく、一人では上手く起き上がることが出来ない。少し動くだけでも傷に響くのだから尚更だ。
そんな風に悪戦苦闘していると、すぐ近くに人の気配を感じる。
「──あら? ようやく気づいたのね、『張遼』?」
「っ!?」
その声に驚いて起き上がろうとしたが、縛られながら無理に動いた所為で、全身に負った傷の痛みに悶絶する霞。
するとその姿を見ていたらしい、一人の少女が楽しそうに声をかけてくる。
「……あぁん? アンタ、誰や?」
「ふふふ……つい先程まで戦っていた相手だというのに、随分とつれない言葉ね? それとも私なんて眼中になかったのかしら?」
こちらを見下ろしている少女の姿を今一度見直す。
蒼い戦装束に身に纏い、金色の髪を横で二つに結んだ『背の小さい』少女。その少女を中心にして霞を囲うように将が並んでいることから、彼女はおそらくこの軍の総大将に位置する存在だろう。そして彼女達の背後にたなびく旗には『曹』の文字……とくれば、流石にぼけていた霞の思考も一つの結論を導き出す。
痛む傷を堪えて霞は目の前の少女に不敵に微笑む。
「ああ、アンタ……曹孟徳やったか。アカンな、夏侯惇との一騎打ちが楽しすぎてアンタのことは忘れてたわー」
そう言うと曹操の傍らに視線を送る。
霞の視線に答えたのは、胸を張りながら豪快に笑う長い黒髪の女性……大刀を携えた曹操軍の将軍の一人、夏侯元譲。
「はっはっは、張遼。華琳さまのお顔を忘れるなんて、お前は実に『馬鹿』だなぁ~」
「はっはっは…………?」
つられて笑ってしまった霞に、次の瞬間曹操軍の陣営にいた全ての人間が、揃って『憐憫』の感情を向けたことに霞は首を傾げた。戦馬鹿な性分としては特別おかしな話ではないと思ったが、周りの人間の引き攣った顔を見る限り只事ではない様子。しかし霞としてはその理由が思いつかない。
そんな自軍の反応に深々と溜め息をつく曹操。
「──少し黙ってなさい、春蘭。……それにしても張遼、あなた怪我のわりには随分と余裕がありそうね?」
「いや、かなり痛いんやけどな。……でも捕らわれの身のウチが、今更そんなこと気にしても仕方ないやろ?」
「まあ、それもそうね」
戦場において敗軍の将が待つ運命など決まっている。
女性という立場はともかく、ここまで敵対したのだから問答無用で斬られてもおかしくはないだろう。負け戦だったとしても、損害を全く与えなかったわけではないのだから、敵対した軍の総大将としては何らかの処罰をしなければ示しがつかない。
それに先程から戦場にしてはあまりに静か過ぎた。
おそらく霞の部下達の性格を考えるに、誰一人として敵軍に投降することはなかったと思われる。大将である霞が重傷で今まで気絶していたことから、かなりの確率で部下達は『全滅』していると考えていい。
(最後まで御供すると言っておきながら、先に逝くなんてズルイやないか……)
あの副官のことだから、きっと最後まで我を通したのだろう。武人としての最後を貫けたのであれば、霞としても何も言うことはない。
ならば董卓軍の将軍の一人として、霞が採るべき選択は一つだけだ。
「──ウチは降るつもりはない、はよ殺しぃ」
神速将軍と謳われた霞程の将であれば、投降を受け入れられる可能性は高い。
しかし、霞にも月に仕える将の一人としての矜持がある。洛陽までの戦いで死んでいった多くの兵達の為にも、一人だけ生き残るなんて真似はとても出来る選択ではなかった。
曹操は頑として投降を拒む霞を、腕を組みながら面白そうに笑う。
「ふむ、中々の忠誠心ね。それほどの人物なのかしら? あなた達が仕える『董仲穎』とは」
「ああ……少なくとも、アンタらとは比べ物にならないくらいに『仁君』やな」
皮肉をたっぷり込めて霞は言ってやる。
読むのも馬鹿らしい檄文に書かれた内容とは正反対の人物なのだ。ただ肝心の月はともかく、詠に関してはそれほど虚偽でもないかもしれないが。彼女は親友である月の為ならば、いかなる手段をもってでも目的を遂行するだろう。
そんな皮肉などまるで気にしていない曹操は、こちらを見ると相変わらず面白そうに笑う。
「なるほど。じゃあやっぱり捕まえましょうか?」
「は?」
「ふふふ、惚けても無駄よ? あなた達の戦い方から考えて、既に洛陽に『董仲穎』はいない。おそらく戦闘開始前に、早々と洛陽を脱出したのでしょう?」
曹操の言葉に、霞は今まで保っていた平静を崩されていく。
「普通に考えれば地元の涼州方面に逃げるのだろうけど、ここは裏をかいて南へ逃げたのではないかしら? 戦場で見かけないことから賈文和とやらも一緒で、たとえ護衛がついていたとしても流石に呂布程の将はもういないでしょう? 今すぐ春蘭に軽騎兵で追わせれば、捕らえられないこともないわね」
「──っ!?」
「あら、図星だった?」
悪戯っぽく笑う曹操を見て、霞は戦慄せずにはいられなかった。
今述べた曹操の予測は、まさしく詠が考えた脱出作戦そのものだったのだから。しかもその策を読んだ上で対応する策を、この僅かな時間で思いつく。見た目の小さい身体からは、想像も出来ない程に彼女の『器』は大きく深い。
このままでは確実に曹操に、洛陽を脱出した月達を捕らえられてしまうだろう。
二人の為にも何とか時間を稼ぎたいところだが、曹操という人物の大きさに混乱する霞には良策が思いつかない……元々謀には弱いタイプなのだ。
「──ちょ、ちょっと待ったてや!?」
「駄目よ、待たないわ。──春蘭、軽騎兵を二百程率いて南方面を追いなさい」
「はっ!」
「あと念の為に涼州方面にも同様に追撃隊を組んでおきなさい……そっちは秋蘭に任せるわ。護衛が何人かついており、身なりが高貴な人物がいたらそれが董卓と賈駆よ。その二人だけは確実に生け捕りなさい、後の護衛は処分していいわ」
「了解しました、華琳さま」
次々と指示を出していく曹操に、霞は焦燥感で埋められていく。
二人の護衛を任せたのは高順という武人だが、自分が一騎打ちで負けた夏侯惇や、弓の名手である夏侯淵が相手では流石に分が悪い。彼女達の内の一人ならともかく、他に軽騎兵が二百近くついてくるならば尚のことである。それだけの数から武器を扱えない二人の少女を守り通すことなど、それこそ恋でもなければ不可能だろう。
(ゆっくり考える時間すらくれんとは、意地の悪い奴やな……)
この状況で彼女達が冗談を言う筈もなく、その手配が本気であるというのは間違いない。
このまま何もしなければ、あの健気な主君とその軍師は確実に曹操の手に落ちる。袁紹らに比べれば多少はマシかもしれないが、肝心の曹操という人物の噂もあるし、どっちにせよ碌な目に合わないことは確かだろう。彼女に仕える霞とはしては到底見過ごせないことだ。
だが脅しをかけながらもこちらの反応を常に窺っている曹操の目を見て、霞は彼女が望んでいることに気づいてしまう。
それは現状を打破するに、最も簡単で手っ取り早い解決方法……
「──わかった、降る。ウチが降るから、董卓達は見逃してくれんか……」
つまりは『敗北宣言』。
曹操は間違いなく本気だ……これ以外の選択では、彼女は諦めないだろう。敵に降り生き恥を晒すことは武人として屈辱的ではあるが、それを頑と拒んで主君を窮地に誘っては本末転倒である。
「ふふふ……賢い娘は好きよ、張遼。……ああ、春蘭に秋蘭、追撃部隊の編成はもういいわ」
「……か、華琳さま? よろしいので?」
「姉者、細かいことは気にするな。華琳さまが『いい』と言っているのだから『いい』のだ、我らはただそれに従うのみ」
こちらの恭順にあっさりと手の平を返す曹操に、動揺する夏侯惇にそれを諭す夏侯淵。
月達を捕まえようとしたのはおそらく本気だったのだろう……が、彼女達はそれ以上に『張文遠』という武人を欲してくれたようだ。それなりの忠義には礼を以て返す、その考えには中々に好感が持てるものがある。
(全く、面白い主従やな。結果としては騙されたことになるんやけど、不思議と不快に思わ、へんわぁ……)
応急手当しかしていない傷が痛み出し、霞の意識を再び奪っていく。
そんな霞に治療の指示を出しながら、曹操達はそのまま軍議を続ける。
「ところで華琳さま。向こうで連合軍が呂布軍を包囲しているようですが、如何致しましょう?」
「董卓が既に逃げているなら、呂布もいずれ逃げ出すでしょう。私達の軍も、思った以上に死兵と化した張遼軍との戦いでの被害が大きい。それにわざわざ『龍』の逆鱗に触れることもないでしょうし、麗羽には洛陽を包囲しておくとでも言っておきなさい」
「はっ! 了解です!」
「あの麗羽達がどこまで呂布とやり合う、か……ふふふ、考えるだけ無駄かしらね」
意識が途絶えていく中、霞は相変わらず楽しそうな曹操の声を聞く。
今まで仕えていた月とは全然違うけれど、彼女もまた中々に霞を楽しませてくれそうだ。もちろんそんな考えは、投降した将としてあまりに不謹慎かもしれないが。
結局どこまでいっても、霞は純粋に一人の武人でしかない。
再び心優しい主君を戦いの場に引っ張り出すよりも、強力な覇者に従って速やかに大陸を統一した方が遥かに意義がある。そうすれば謀略に通じた彼女の親友も、要らぬ重責を荷負う必要もなくなるだろう。ただ今日までに散って逝った兵士達のことだけは、彼女らの気持ちに暗雲を漂わせるだろうが……
(……恋達も上手く逃げてくれるといいんやけど、な)
だがそこまで考えたところが限界で、霞の意識は深い闇の中へと落ちていった。
三国志外史に降り立った狂児 第九話「決着」
「か、間一髪だった……」
魯粛は流れる冷や汗を止めることが出来なかった。
連合軍が呂布軍を完全に包囲して、これは「勝負あった」と完全に寛いでいた魯粛。
そこへ太史慈達が駆けつけて魯粛にこう告げる。
「──ご主人様、呂布軍の軍氣が危険です。避難の準備を」
「は? 軍氣?」
「子義の言う通り、今は包囲されていますが……未だ呂布軍には抵抗の意志が感じられます。おそらく逆襲の機会を狙っているものかと」
「……ふむ」
その言葉に魯粛は少し戸惑う。
たしかに呂布の凄さは知っているが、ここまで完璧に包囲されている状況で脱出できるのだろうか、と。
しかし魯粛は徐州を出る際に、顧雍ら残留組から『戦場において、太史慈達の忠告には必ず従うように』と言われている。歴史をある程度知っているとはいえ、実際の戦争で何が起きるかなど予想出来るわけもない。餅は餅屋に任せるに限る。
それに現在魯粛は負傷した馬超と共にしているし、あまり迂闊な行動が取れないのもまた事実。
「……わかった。すぐに後方の西涼軍にも連絡して、公孫賛殿の陣と合流しよう」
「はい、そちらには既に義封ちゃんを向かわせました。ですので主殿、すぐにお支度を……」
太史慈達の忠告を受け、魯粛達は包囲網を布いている幽州西涼合同軍の陣へと移動する。
そして魯粛達が合流した直後、包囲していた連合軍の正面を呂布軍にぶち抜かれた。ちなみにその正面を担当していたのは、連合軍の盟主である袁紹の軍である。
「──危なかったな、魯粛」
「ええ、まさか正面の本陣が抜かれるとは思ってませんでしたよ」
合流した魯粛と公孫賛は苦笑を隠せない。
「ホント助かったよ~、魯粛さん。あのまま後方で動いていなかったら、お姉様共々呂布軍に蹴散らされていたもん。呂布が相手じゃあ、精鋭でも五百程度じゃ足止めにもならないよね?」
「……虎牢関での戦いなどを考えれば、最低でもその十倍以上は欲しいところだな」
それは過大評価でも何でもなく、まぎれもない事実。
魯粛達が待機していた場所は袁紹軍の後方……もちろんすぐ後ろというわけではなく、それなりに距離は離れていた……が、袁紹軍を正面から抜けた呂布軍の勢いを考えれば、その程度の距離は問題にならないだろう。
負傷した西涼軍の名代の安静を考えての処置が、危うく永遠の眠りを授けそうになったわけだ。
代理を務めている馬岱としては肝が冷えたどころではない。
「まあそれはともかくとして……どうする? 私達もやはり追撃した方がいいか?」
「董卓軍は騎兵を張遼軍にほとんど振り分けていたようですし、歩兵が主体の呂布軍を追撃するのに幽州西涼合同軍が最適なのですが……手負いの虎、もとい龍に手を出すのは愚考でしょう。私としてもお勧めは出来ませんな」
今回の本陣突破のことを考えても、まともな常識が通用しない相手である。
騎兵二万で突っ込んだら気付けば全滅していたでござるの巻、とかになりかねない。色々ともう触れたくない、というのが魯粛の正直な気持ちだった。
「だが魯粛、盟主である袁紹に対しては何とする? 私達の軍はここまでほとんど被害を受けてないし、ここで追撃しないという選択は少し無理があるぞ?」
「ああ、そのことなら平気です」
「──と、いうと?」
二人に詰問される形になる魯粛。
何やら普通に両軍の参謀役に落ち着いてしまっているのはどうしたものか。……まあこの戦いだけのことではあるが、以後は気をつけることにしよう。下手に担がれたとしても、それを活かせる程に自分の体力はあまりにも頼りない。
現に今も薬湯に頼りきっての体力維持であるし、普通に考えれば危険な戦場に出向くというリスクはかなり高い。
だがそれ以上に文書による情報ではなく、実際に自分の目で見るという情報を得られる……まさに百聞は一見にしかず。それに目的の人物の安全を確保することは、各地方の名士達の信頼を得ることにも繋がる。さらに魯家的にも商売の販路を確保できるかもしれないし、所謂一石三鳥ということだ。
多少のリスクを覚悟してでも、その為の準備を万全にしていれば試す価値は十分にある。
「現在呂布軍の動向に連合軍のほとんどが当たっている……つまり洛陽側への関心が極めて減っている、と言っても過言ではありません」
「……どういうことだ?」
「こちらに注意を派手に向けておいて、こっそり洛陽から要人が逃げ出す可能性がある……ということです。例えば首謀者である董卓とか、ね」
ここまでの抵抗を考えれば、つい最近まで董卓は洛陽にいたとみていいだろう。何せ上手くいけば勝っていた戦いだ。
だが戦況がこうまで覆されると、首謀者としては進退を迫られる。
連合軍に包囲されてから脱出するのではあまりに遅すぎるし、少なくとも開戦する前には洛陽を逃げ出しておきたいだろう。切れ者と名高い賈駆が腹心についているとのことだから、その可能性は十分にある。
そして一日二日くらい前の脱出であれば、公孫賛達の騎兵軍団を上手く使えば捕まえられないこともない。
しかし魯粛としては、彼女らにそこまで示唆するつもりはなかった。
何故なら下手に董卓を捕まえてしまうと、この戦いでの一番手柄となり袁紹達との間に亀裂が生じかねない。史実でも反董卓連合が終結した後の群雄派閥でその両者は対立しているし、どうせ北方領土での関係からいずれ戦り合う運命にある。わざわざ魯粛が存在するこの場所で戦火を煽ることもないだろう……もちろん身の安全的な意味でも。
だから史実とは多少異なるが、董卓はこの戦いで退場したことにしておくのが無難である。
連合軍の中の誰かが手柄を多く取ったかという結果で揉めるより、画竜点睛を欠いて空中分解してもらった方が何より楽だ。それに史実のような人物ならともかく、この世界ではどうも董卓は普通の仁君らしいし……あえて無残な最後を押し付けるほど、魯粛も非情ではない。
(そんな董卓達が、今更皇帝をどうこうしたりはしないだろうが……)
流石に董卓達が皇帝をどうするかまでは予測出来ないけれど、ここまで来て詰めを誤る賈文和でもあるまい。
個人的には史実の魯粛同様に、皇帝がどうなろうと知ったことではないし。
「……それはたしかにあるな。よし馬岱、連合軍本陣にはそのように伝令を出そう」
「わっかりました~♪ では伝令を出すと同時に、洛陽を囲うように網を張りますね。あ、魯粛さんはお姉様の付き添いを引き続きお願いします~」
そう言うと馬岱は部隊の指揮へと戻っていく。
それを見送った公孫賛は、やや難しい顔して話しかけてくる。
「ところで魯粛、桃香の軍はどうしたものかな?」
「劉備の軍ですか? 華雄軍との戦いでかなりの被害を出していたようですし、放っておいて構わないのでは?」
元々の軍の規模が一番少ないのは劉備軍だ。
黄巾の乱の際に公孫賛から五千の兵を借りたとはいえ、所詮は義勇軍程度にすぎない。平原の牧を任されたそうだが、正式な州軍である公孫賛達と、わざわざ行動を共にする必要もないだろう。
「……そうか、たしかに華雄軍と無理にかち合ったからな。軍の再編で手一杯だろうし、追撃に参加するどころではないか」
「これは無いとは思いますが、最悪洛陽内に予備兵力がいた場合の抑えにもなります。とりあえず公孫賛殿には、自分の州軍の心配だけをなさった方が得策でしょうな」
「そうだな、じゃあ私も馬岱の手伝いをしてくるよ。……ああ、念の為に今度は幽州軍からも護衛を出しておくから」
「──感謝します、公孫賛殿」
彼女の厚意に礼を返すが、とりあえず安全に関してはもう気にしなくてもいいと思う。
予測通りに董卓が逃げているのならば、洛陽に予備兵力などは存在しない……何といってもこの局面で援護に出てこないのだから、それはまず間違いない。そして包囲網を脱出している呂布達が引き返してくることもないだろうから、この戦いは連合軍の勝ちで終わることになる。他に賈駆が悪辣な策を仕掛けていたり、連合軍が軍規に則った行動を外れない限り、洛陽の民衆との間に争いなどが生まれることもないだろう。
それらの可能性も否定出来ないが、少なくとも魯粛がどうこう出来る問題でもない。
魯粛としてもこれ以上の厄介事は遠慮したいし、体調的にもなるべく穏便に……しかも迅速に目的を済ませたいところだった。
「さて……『蔡邕』殿はご無事だろうか?」
身体を襲う疲労を感じながら、魯粛は洛陽の街を見ながら溜め息を吐く。別に実際に戦闘に参加したわけではないが、数万規模の死傷者が出た戦場にいる……そのことは流石に魯粛の精神的にも堪えた。他人事とはいえ、そう何でもかんでも割り切れるものでもない。
随分と危険な橋を渡った以上、それなりの代価は是非とも期待したいものだ。
──洛陽の北東に位置する森の中。
「か、華雄殿ぉ~……」
「──ははっ、何だ陳宮。そんな情けない声を、出すんじゃない……ぞ」
陳宮の声に反応する自分の声はとても力無い。
それもその筈だろう、何せ今の華雄は生きているのが不思議なくらいの重傷を負っているのだから。一応包帯で覆ってはいるものの、負傷箇所が多いのであまり治療の意味を成していない。
一方華雄に話しかける陳宮には、衣服に多少の汚れはあっても傷らしきものは一切無かった。
「…………かゆ」
「ふっ、お前までそんな情けない声を出すな。お前は誰もが認める『天下無双』なのだ、弱みなど他者に見せるものでは……ない」
強がってはみたが、この傷では長くは保たないだろう。
あれだけ前線で戦っていた呂布はかすり傷のみ、相変わらずの武技の差にむしろ清々しさを感じる。
いつもは軽々持てる武器がやけに重い……ご主君の安全を見届けずに逝こうとしている、そんな体たらくの自分に華雄は思わず溜め息を吐く。
「……ふぅ、皆先に逝ってしまったなぁ」
そう呟いて華雄は先程の戦いを思い返す。
残存兵力を集めた呂布軍の、包囲網を脱出しようという最後の突撃。
左には張遼が抜けた場所を封鎖した袁術軍……呂布の勢いを強引に兵力差で抑えるような厄介な相手だ。それにこれまで援護に来ないことから、張遼軍は既に敗北したとみていいだろう。つまり袁術軍の後方には張遼軍を破り、士気が高揚した曹操軍が控えていることになる。
こちらは精々あと一戦が限界の状態、そちら側への突破は難しい。
反対側の劉備軍ならば打ち倒すことは簡単だろうが、その後方には幽州と西涼が合同した騎兵の大軍がいる。
騎兵の大半を張遼軍に振り分けていたので、今の呂布軍は歩兵が主体の軍……とてもではないが、逃げ切れるとは思わない。どこへ逃げるにしても騎兵の大軍を想定しなければならないが、少なくとも正面からわざわざぶつかることもないだろう。
そうなると残された道は一つ、大軍を構える袁紹軍のみである。
だが虎牢関での戦いのこともあるし、そこまで分の悪い選択でもないと思う。軍師である陳宮もその案には賛成していた。
(……しかし、敵もただの馬鹿ではなかったな)
突撃して道を切り開くことには成功する。呂布が陣頭で矛を振るっているのだから、それは当然のことだろう。
しかしここでいくつか予想外の事態が起こる。
あわよくばと連合軍盟主の頸を再度狙っていたが、前回のことを踏まえて即座に呂布という危険から遠ざけた。話によると前回の戦いで、袁紹の両翼である二将に手傷を負わせたとか。それならばその反応も無理はないだろう。
だがそれよりも問題だったのは、連合軍は呂布が切り開く前線を支えるよりも、それに続く将兵の殲滅の方を優先したのだ。
脱出を目的とする呂布軍にそれを防ぐ術はない。前を進む為に呂布は動かせず、華雄もまた戦闘において無力な陳宮の護衛に手一杯だった。今更歩みを止めるわけにもいかずに、呂布軍はじわりじわりとその数を減らしていく。
追撃に来ているのが袁紹軍のみだからこそ持ち堪えてはいるが、このまま背後に追撃を許し続ければ呂布を以てしても全滅を免れない。
そんな不安がよぎった時、後方の兵士の一部が反転する。
敵に投降でもするのかと思いきや、彼らは少しでも脱出の時間を稼ぐ為に敵陣に玉砕していったのだ。
その無謀な行いを華雄らも諌めようとしたが、今の自分達にそれを止める余裕はなかった。呂布一人ならともかく、戦闘能力の皆無な陳宮を無事に脱出させる為にも足を止めるわけにはいかない。特に脱出と護衛の両方を実行している華雄は、その過程で流れ矢などに当たり既に満身創痍である。
兵があってこそ戦える軍師が、その兵に無為の犠牲を強いている……陳宮の心境も複雑だろう。
残存兵力は次々と反転して連合軍の追撃を食い止めていく。……最終的に連合軍の追撃を振り切ったのは、呂布と陳宮、華雄を含めて僅か百名にも満たなかった。
連合軍と戦端を開く前には二十万もいた大軍を思えば、歴史的な大敗と言っても過言ではない。
「侯成、魏続、宋憲…………すまない」
軍部でも名のある将はほとんど亡くなり、今もまた自分の命が尽きようとしている。
残っているのは呂布と陳宮、それとご主君達の護衛に付かせた高順くらい……まあ董卓という一人の少女の安寧の為であれば、むしろ過剰過ぎるだろうか。怪我をしているとはいえ、五十人近くの兵士もいる。皆、ご主君の為に最後まで忠誠尽くすだろう。
具体的な将来までは予測出来ないが、それだけの人員がいるのならば何とかなる筈だ。
(せめて心穏やかに余生を過ごしてほしいものだな……)
華雄は思わず笑みを零す。
あれ程身体を蝕んでいた痛みが、全く感じなくなっている。……もう長くはない。
「ふっ、来るべき時が来たようだ……呂布、陳宮、後のことは頼む……ぞ……」
「か、華雄殿ぉ~!?」
「…………わかった」
おそらく涙で顔をぐちゃぐちゃにしてるであろう陳宮の情けない声と、寡黙ながら意志の篭った呂布の声は華雄の耳にしっかりと届いた。
視界が霞み二人の顔はもう見れないが、最強の矛である呂布は健在だ。不測の事態があれば、陳宮の頭脳で何とでも防げる。この二人が強力すれば、生き残った兵士達を率いて無事ご主君の下に辿り着くことは可能だろう。
ここで自分が力尽きたとしても、何ら問題はない。
「……ご主君、不甲斐ない……我が身を、お許し下さい……」
そう呟くと、華雄はゆっくりと目を閉じていく。
それと同時に手に持っていた『金剛爆斧』が、まるで華雄の命の落日かのように地面に落ちた。
「貂蝉、こっちで間違いないか!?」
「ええ、間違いないわん、華佗ちゃん♪ 漢女的直感によると、怪我人がおよそ五十人近く……血の匂いの大きさからして、結構な重傷者もいるようね~」
森の中を駆ける赤毛の男……華佗の問いに、ほぼ全裸の筋骨隆々とした漢女……貂蝉が答えた。
その言葉に華佗は一段と走る速度を上げる。
「卑弥呼っ! 例の材料をすぐに出せるように準備してくれ!」
「よいのか、だぁりん? 北の山で倒したこの『龍』の材料は、徐州にいる魯粛とやらに使う予定ではなかったのか? 貂蝉の話によると負傷者は五十人近く、多めに切り取ってはきたが……下手をすると残らんぞ?」
必死な顔をして走る男は、隣の貂蝉とは反対側のほぼ半裸で筋骨隆々とした漢女……卑弥呼に指示を送った。
だがその指示に、卑弥呼はふと疑問を投げかける。
以前から華佗が金銭面での援助を受けている徐州の商家。そこの主が生まれながらの疾患持ちで、その病は華佗の鍼術を以てしても治らなかった。そこで華佗は万能の薬の元になるといわれる龍の存在を思い出し、一人北の山に棲むという龍を向かったのだ。……当人には絶対に無茶をするなと言われていたが。
普通に考えれば、それは無謀極まりない暴挙でしかない。
しかし、これもまた運命だったのだろう。
華佗はその旅の途中で貂蝉と出会い、続いて卑弥呼とも出会ったのだ。……その出会いの際の詳細に関しては、大したことではないので省略する。
何はともあれ意気投合した三人は協力して、北の山に棲んでいた龍を見事に退治することに成功した。
「…………俺は医者、だ」
「華佗ちゃん?」
「だぁりん?」
足を止めることなく華佗は二人に告げる。
「どんな理由があろうとも、すぐ近くに病や怪我に苦しむ人々がいるのならば、俺は放ってはおけない。そういう人々を救う為に、俺が使う鍼術……五斗米道は存在するのだからな。……魯粛には悪いが、こちらを優先させてもらう」
金銭的な援助をしてくれる魯粛には申し訳ない気持ちで一杯だが、華佗にはこの生き方は変えられない。
その真っ直ぐな華佗の言葉に、貂蝉達は頬を赤らめ身体をくねらせた。
「ああん♪ 華佗ちゃんったら素敵ぃ~ん♪」
「どんな事態にも己の意志を曲げず、か。流石はだぁりん、そこに痺れる、憧れるのぅ!」
色々と騒ぎながらも速度は一切緩めない。
血の匂いが強くなると同時に、森の中を抜けて少し開けた場所に三人は辿り着く。
そこには傷ついた女性にしがみつき大声で泣いている少女と、流れる涙を止めずにこちらに武器を向けて警戒する少女がいる。更にその後方には傷ついた兵士達が、赤毛の少女同様に警戒心を剥き出しにしていた。
彼女らの警戒の高さから、おそらくは戦争に負けた敗残兵だと華佗は推測する。
目の前の赤毛の少女からの脅威的な威圧を感じながらも、華佗は武器などを持っていないことを両手を挙げて示す。
「俺の名前は華佗という。不意に現れた俺達に警戒する気持ちはわかるが、どうか落ち着いてほしい。俺は諸国を旅する医者の一人で、君達の──」
命を脅かす者ではなく、命を救う者だ、と。
──それが彼らと彼女らの……『運命』の出会い。