「……ルティ」
第二王女であり、ナディル殿下の異母妹であるナディア・ユリシア姫……ナディが来たのは、ファーストダンスが終わった直後だった。
痛むつま先と攣り気味のふくらはぎを気にしながら仮玉座の隣の椅子に座ったと思ったら、まるで待ち構えていたかのようにやってきた。ナディはすごくせっかちなところがある。
(あ、これ、終わるの待ってましたね。絶対)
三分足らずの曲を踊るだけで精一杯だったので、ナディが来てくれてすごく嬉しかった。ナディとお話していれば、次のダンスに誘われることはないからだ。
「……王太子殿下、妃殿下とお話させていただいてもよろしいですか?」
ガウンをつまんで略式の挨拶をした後、ナディは、やや思いつめたような表情で口を開いた。
最初は殿下とはまともに会話ができなかったナディだけど、何度も私のところに遊びに来るうちに慣れたせいでだいぶ緩和された。なのに今は、久しぶりに顔色が悪くなるくらい緊張している。
(まあ、兄妹の親密さはあんまりないけど……)
たぶん、殿下は自分が庇護する対象ではない異母妹にどう接するのかよくわかっていない。
もちろん、私も正解を知っているわけじゃないし、そもそも正解があるようなものでもないけれど、殿下のナディへの接し方は王太子が貴族令嬢に対する時のそれでしかない。強いて言うならば、名で呼ぶことだけが特別なくらいだ。
「構わない。……ルティア、ナディアとここにいなさい。飲み物を持ってこよう」
「ありがとうございます」
大変の気の回る殿下は、私とナディを二人にしてくれる。
自分がいたらナディが話しにくいということを理解しているのと同時に、私が熱があるせいで暑く感じているから冷たいものをと考えたのだと思う。
夜会の席では何も口をつけないようにと言われているけれど、殿下が持ってきて下さるのならば話が別だ。
「どうしたの? ナディ」
どう話していいかわからない様子のナディに、私から声をかける。
「ルティ、ごめんなさい」
「え?」
いきなり謝られて首を傾げた。
「……いきなりこんなことを言って本当に申し訳ないのだけれど」
「……どうぞ」
「あのね……その……」
躊躇うナディは、何度も言いかけながらも口を閉ざす。
「……ナディ?」
仮の玉座は上座に置かれていて、皆は一定距離からは近づかない。別に仕切りがあるというわけじゃないけれど、そういうルールなのだ。
(視線は痛いくらいだけど!)
ナディは王族だから、自分から来ることができる。でも、王族ではない者は、呼ばれなければ自分からここまで来ることができない。
そして、王女であるナディが話している限り、他の人間はナディを押しのけて私に話かけることはできないのだ。
(王宮儀礼ってほんと細かいから……)
でも、だからこそ、殿下は私とナディをここに置いて席を外したのだと思う。
そうでなければ、私に過保護な殿下が私たちだけで置いていくはずがない。
(この夜会での最大のお仕事は終わりました! あとは、殿下の隣でにこにこしてるだけです)
退出しても構わないと言われているけれど、ダンス終わってすぐに部屋に戻ったら、いかにも義務のためだけに出て来たみたいだから、ちゃんとタイミングははかるつもりだ。
(それに、ちょっと牽制もしておきたいんですよね!)
とりあえず、いろんな噂だけが先行している状態だから、ここで一つ、私たち、実はすっごい仲良しなんです! っていうところをみせておきたいのだ。
私だっていろいろ腹黒く企んだりするんです。
「ナディ、新しいガウンですね。やっぱり、オレンジ似合いますよ」
私はナディににっこりと笑いかけて、話をかえた。
「ありがとう。この髪色だから合う色は限られてるから……ルティが私にもオレンジが似合うって言ってくれたから」
素直なナディは嬉しそうにその話にのってくる。ナディは、ファッション関係の話が好きだし、流行にも詳しい。流行を作り出すタイプではないけれど、情報収集は欠かしていないのだ。
「ええ。すごく似合ってます」
ナディのガウンはピンク系統が多かった。それも、割とどピンクな色合いの物が。
もちろんナディに似合う色ではあったけれど、ちょっと子供っぽかったのは事実だ。
(同じピンクの色合いでも、もっと淡い色あいのものや、サーモンピンクっぽい色合いやグレイッシュピンクっぽいものだと違うんだけど……あとはデザインよね)
今の流行はレースが過剰なくらい使われているもので、これはある意味、財力の誇示でもある。
レースというのはほんの少しだけでもかなり高価なのだ。
実は、ナディの今日のガウンは二人でデザインを考えたものだ。
レースは流行ではあるけれど多用するのはどうかと思うので、使い方はポイントを絞った。
オレンジのガウンの色自体よりもやや淡い色合いのレースを胸元と袖口に使っている。手袋は白だけど、オレンジの小花の刺繍を散らしてある。
成人しているナディの夜会用のガウンはデコルテが開いていて、その胸元を大ぶりの首飾りで飾った。……このあたりは流行通り。基本を押さえつつ、自分なりの個性を出したっていう感じにまとめてある。
「その真珠の首飾りは、お母さまの物では?」
見たことのあるデザインだった。
白い小粒の真珠と大粒のコンクパールとで美しい模様を編み上げたそれは、ナディのお母さま……アルジェナ妃殿下の自慢の一品だったはずだ。
「そうよ。母からもらったの。もう大人なのだからって」
ナディはちょっとだけ嬉しそうだ。
何だかんだ言ってもお母さまのことを嫌いにはなれないのだと言っていた。
つまらない嫉妬……ナディの言い分だ……で、私に何かしようとしたりとか、口うるさいこととか、ナディの結婚についてああでもないこうでもないといつも文句ばかりでどんな候補も結局、却下することとか……そのくせ、嫁き遅れる心配ばかりしているのだという。
(どこの世界でも、こういう悩みは一緒なんだな)
私はあちらでは十代の終わりに、こちらでは生まれた直後に亡くしていて、母と言う存在とあまり縁がないから話に聞いただけだけど。
(少し、羨ましい……)
私には、近しい血縁関係……つまるところ、親子や兄弟や姉妹関係……だけにある疎ましく思うほどの近しさを理解できない。
あちらにおいても、こちらにおいても、『私』は家族の縁に薄いからだ。
(それでも、話だけはよく聞くから……)
口に出して言えば、あなたにはわからない、と言われるだけなので、私はそっと口を閉ざして話に耳を傾ける。そのせいで、実例だけはかなり豊富にしっていると思う。
ナディの場合、妃殿下が郊外の離宮に行かれて物理的に離れたことで、ほど良い関係に落ち着いたように思える。
近すぎると嫌なことが目に付いてお互いに細かいことで角突き合わせるけれど、離れていると互いに思いやることができるものだ。
「美しい真珠ばかりですね。さすがアルハン」
真珠、と言えばアルハンの特産で、だからなのか、アルジェナ妃殿下のアクセサリーは真珠がとても多かった。
赤い髪だと白い真珠が映えるということもある。
「白い真珠が一番人気があるのだけれど、真珠にもいろんな色があるの。中でも、これに使われているような薄紅のパールはすごく珍しいのよ。伯父様が次の誕生日に髪飾りを贈ってくださるというから楽しみにしているの」
「へえ」
「ルティのガウンも素敵ね。王太子殿下はいつもご趣味がいいわ」
「……なんでそこで殿下なんです?」
「だって、ルティの物は全部王太子殿下のご指定でしょう?」
「そうですけど……え? それ、有名ですか?」
「有名っていうか……基本、妻の身を飾る品は夫が贈るものだもの」
「……ああ、なるほど」
「基本っていうだけよ。ルティの場合は、お父様やユーリア様、実家からの献上品なんかもあるでしょう?」
「ええ、そうですね」
「でも、こういう改まった席では王太子殿下のものだけにしておくのよ」
「はい」
「……そのカフス、殿下の物でしょう?」
ナディが私のガウンの袖口を注視する。
「ええ。……殿下がつけてなさいって」
昼餐会のガウンから着替える時もリリアたちは忘れずにこれを付け替えたのだ。
幸いというか、計算通りなのか……紫水晶は、私の今日の夜色のガウンともよく合っている。
「いただいたの?」
「え、貸してくださっただけだと思いますけど?」
「わけないじゃない。使いなさいってことは下さったってことよ。それに、殿下が新しく使っていらっしゃるカフス、青玉石だものルティの色じゃない」
「え?」
「やだ。気づいてなかったの? あれ、貴女の瞳の色そのものの色合いよ。すごーくあの色捜したと思うわよ」
「え?」
「あんなに濃い色合いの青玉石は珍しいし、加工してあるとはいえかなり大きいと思う」
ちょっと、何言うんですか、ナディ! こんなところで!!
顔がすごく暑い。絶対に赤くなってる! と思って、慌てて扇で隠す。
「それに、その靴もとっても素敵ね」
「あー……見た目はとってもかわいいんですけど、これ、結構、拷問靴なんですよ」
「拷問って……え? 大丈夫?」
「ええ。……すごく綺麗で可愛いんですけど、訓練しないと履けないんです。踵が高いから、慣れない人だとよちよち歩きになるんですよ」
「え、そうなの?」
「そうなんです。ここだけの話、私と殿下が何とかダンスを踊るための苦肉の策なんです」
「……身長差があるものね」
「ナディとエオル殿下が羨ましいですよ。あんまり差がなくて」
ナディのパートナーは双子の兄弟のエオル殿下だ。
おそらく、どちらかに婚約者ができるまではずっとそうだろう。
「双子だから……でも、エルは不満みたい」
「何がです?」
「私とパーティに出るのがよ。不満だったらさっさと婚約でも何でもすればいいのに」
「それ、お互い様になるから言わないほうがいいですよ」
「そうなんだけど……」
ナディは不満げに少しだけ口を尖らせる。
そんな他愛のない話をしていたからか、ナディの顔色が少し良くなった。だんだんと落ち着いてきたのだろう。
「……それで、どうしたんです?」
何か困ったことでもありましたか? と話すように促すと、ナディは小さく首を横に振った。
「……私じゃないの」
「ナディでなければ、エオル殿下ですか?」
「違うわ」
「では、誰の困ったことなんです?」
「貴女よ、ルティ」
「私?」
「ええ。……私の従妹……アルハン公爵令嬢であるレナーテを知っていて?」
「はい。今日の昼餐会でお会いしました」
あの食べるの大好きっぽいご令嬢ですよね。
「……もしかしたら、レナーテが後宮に入るかもしれないわ」
周囲が憚られたのだろう。ナディは扇で口元を隠して、ものすごーく小さな声で言った。
「……えーと、それは、殿下の妃として、という意味ですか?」
私も自分の扇で口元を隠して問う。
まったく聞いてない話だけど、ナディはたぶん令嬢側から聞いたのだから、間違いというわけではないのだろう。
(ナディル殿下に話がとおっているかどうかは別にして)
「ええ」
ごめんなさい、とナディが顔を伏せた。私には何もできなくて、とつぶやく声音に口惜しさが滲んでいた。別にナディの謝ることじゃないのに。
「ナディが気にすることじゃないですよ」
「でも……アルハンから、貴女のライバルを送り込むなんて」
ナディは己が王女であることをよく理解している。そして、同時に母の実家であるアルハン公爵家とのつながりを大切にしていた。
「……ライバル、ですか?」
ピンとこなかった。
(というか、私が産んだ子供しか世継ぎになれないことがわかっているのに、自分の娘を妃にというのはどういう意図なんでしょうか?)
ライバルというには最初から立場に差がありすぎる。
他の国であれば、子供さえできてしまえばこっちのものだと考えるのかもしれないけれど、ダーディニアではそれはあり得ない。
それに、昼餐会でお目にかかった限りでは、アルハン公爵もご令嬢も悪い方には見えなかった。
(悪い方っていうか……裏で腹黒く立ち回るタイプじゃないですよね、お二人とも)
人は見た目ではわからないというけれど、見た目でわかることだってたくさんある。
裏で立ち回るタイプなのは、おとーさまとか、殿下とかだろう。
「レナーテ様って、殿下のことをお好きなのですか?」
昼餐会の様子を見る限り、そういう気配はなかったのだけれど。
「……たぶん、そういう意味では別に好きじゃないと思うわ。……レナーテの好きな人を知っているわけじゃないけれど」
ナディは少し考えてから、口を開いた。
(ナディル様を好きで好きでしょうがなくて、ただ傍にいたいからってわけじゃないのか)
そういう理由で押しかけ嫁に来るというのなら、話はわかる。令嬢を殿下の第二王妃としても、今の状況では公爵家としてはまったくメリットがない。むしろデメリットの方が多い。それでも、娘の希望を叶えたいと言うのなら意味はわかる。
でも、そうでないのなら、何を考えているのだろう?
「……あの、失礼ですけど、レナーテ様って公爵家で持て余されているのですか?」
扇を持ち直し、その影で再びこっそりと尋ねる。
「え?」
ナディが目を丸くした。何を言われたのかわからない、という顔だ。
「そんな風には見えませんでしたけれど、アルハン公爵に嫌われているとか?」
「ないわ。それは絶対にない。……伯父様にとってレナーテは自慢の娘よ。だからこそ、これまで再婚もさせずに手元に置いていたのだから」
「再婚?」
「……遡及離婚しているから。形式上はレナーテは未婚の公爵令嬢だけど、本当は一度結婚しているのよ」
「へえ……」
遡及離婚……過去に遡って、結婚をなかったことにすることだ。
昼餐会前に簡単に教えられた出席者のプロフィールやその後に教えてもらったいろいろな話の中にはその情報はなかったように思う。
「結婚していた相手は私たちの従弟なのだけれど……身体が弱くてね。まあ、だからこそ身内で、当時からしっかりしていると有名だったレナーテが花嫁に選ばれたの。レナーテが公爵家を差配することも考慮の上でね」
「お相手はもう亡くなっているんですね?」
「そうよ。結婚生活なんてほとんどなかったんじゃないかしら」
「……それは哀しいことですね」
「そうね。……でも、そういえば、レナーテはその時のことは全然話さないわ」
「遡及離婚をなさったのでしたら、表立って口にできることはありませんから……」
誰もが知っていることであったとしても、教会がその記録を抹消した以上、それはなかったことなのだ。口にできるはずがない。
(そこまでして未婚にした令嬢を、第二王妃にする理由はまったくないんだけど)
「……意味がわかりませんね」
「……どうして?」
「アルハンのメリットがまったくありません」
「でも、レナーテはもう子供が産めるわ。後宮に入れば、たぶん、ルティよりも先に子供を産む」
(もし実現すればそうですけど。……でも、その子供は玉座に座れないんです)
「……たとえば、レナーテ様が殿下の第二王妃になって、子供が生まれて……それで、私が後で子供を産んだら、どちらの子供が後を継ぐと思います?」
「…………たぶん、ルティの子供だと思う」
少しだけ考えて、ナディが言った。
「ええ。私もそう思います。では、ナディにわかるそういうことがアルハン公爵にわからないと思います?」
「ううん。伯父様は剣術馬鹿だけど、それはわかるわ。それに、伯父様はレオン……跡継ぎのレオンよりもレナーテに婿を取って継がせるつもりじゃないか、なんていう噂もあったくらいだから、レナーテに後宮にあがることを奨めたって聞いてちょっとびっくりしたくらいなの」
「……逆にそのせいかもしれませんね」
「え?」
「公爵は跡継ぎを替えるおつもりはないですけれど、レナーテ様を大事にしていたらそういう噂がでてきてしまった。……否定しようにも、そういうことって面と向かって聞く人間がいませんから、否定のしようがありませんよね」
「普通、聞けないと思うわ」
「でも、否定しないと跡継ぎのレオン様にも、レナーテ様にもいいことではありませんから……特定の個人の名をあげるといろいろ噂になったり問題になりますけど、殿下の名をあげるのはセーフだと思うんですよね」
噂になるだけなら年中噂になっているし、そういう話をすれば公爵の真意を察することは難しくないだろう。
「せーふ?」
ナディが可愛らしく首を傾げる。
「えーと、大丈夫ってことです。殿下の元にあがるとかあがらないとかというのは、話だけなら毎日山盛りですから、決まるまで誰も本気にしませんよ」
少なくとも、私は本気にしない。
「でも、そういう話をレナーテ様やレオン様にすれば、お二人にはちゃんと公爵のお考えは伝わると思うんです」
「そうね」
(あと考えられるのは、公爵がよっぽど殿下に心酔してる場合かな……)
その場合は、レナーテには酷い話になるだろう。
「……もし、本当にそういう話になったら私、絶対に反対するから! だから、ルティ、私のこと、信じてね」
「もちろんです」
互いに扇の陰で内緒話をする私たちの姿は、おそらく会場中の注目の的だっただろう。
それがどういう意味を持つのか……第三者の目にどういう風に映るかを私はわかっていなかった。