目を閉じて、数える。
私の好きなもの。
甘酸っぱい大粒のイチゴとほんのり甘くてコクのあるクリームをつかったふわふわショートケーキ。
それから、サクサク胡桃の歯触りと香ばしさと濃厚なチョコクリームがのハーモニーがたまらないチョコレートケーキもいいね。
チョコ大好き。ダーディニアにはチョコがないらしいことが、目下の私の悩み。
それから、季節の果物をほんのり甘いコンフィチュールにしてコクのある生クリームと卵にほんのりバニラが香るカスタードクリーム使ったフルーツパイ。これは私の大得意。
ああ、口にいれたらふわーっと溶けるチーズスフレも捨てがたい。出来たてなんて、そのおいしさに涙が出るよ。これはいつか殿下に召し上がっていただきたい。きっと殿下もお好きな味だから。
お菓子だけじゃない。
よーく味のしみたおでんだって大好き。あ、絶対に芥子は添えて!柚子胡椒もたまにはいいけど。
それから、よーく脂ののった焼きたてのアジの干物!これに白いごはんとお味噌汁と糠漬けは鉄板の組み合わせ。
あー、胡椒とニンニクいっぱいきかせたマグロのテールステーキもいいね!これにキンッキンに冷たいビールなんてもう天上の至福だと思う!
熱燗だって嫌いじゃない。自家製のイカの塩辛をつまみながらちびちび飲むのは最高。もちろん、これは真冬の寒いときね。
仕事も大好き。
朝一番の厨房の空気。
磨きぬかれた台の上に季節の色とりどりのフルーツを並べたときのその光景。
きれいな焼き色にしあがったアップルパイの匂い。
明るく光のさした店内の満席の様子。
笑いさざめくその空気に、食べてくれたお客さんの笑顔。
カトラリーの音と心地よいおしゃべりの中にちりばめられたおいしいの言葉。
おうちも好きだった。
古くて隙間風があったりしたけれど、それでも住めば都。
自分で気に入った家具や食器を買い揃えてつくった自分の巣だった。
ここならば安全なのだとちゃんとわかっていた。
休みの日に、自宅のオーブンで焼くチョコブラウニー。
大家さんにおすそ分けにいって、庭の夏みかんをもらったこともある。
アルバイトのバーも好き。
いつもボサノバかジャズが流れていた。
時々、生演奏をするミュージシャンが来ていた。
きっと先輩のお店じゃなければ、私一人では足を踏み入れないようなおしゃれなお店だった。
先輩のダンナさんも、先輩も、バイトの八巻くんも、お客さんも、みんな優しい人たちだった。
たぶん、みんながそれぞれいろんな事情があって、自分のことでいっぱいだったりもしたのに、誰かが悩みを口にしたら、みんなで真剣に向き合った。
ストーカーに悩まされていた女の子のために、みんなで交代で護衛したこともあったっけ。
ここで、お客さんと対面していろいろなおつまみや料理を作ったことはすごく私の力になった。
(確かに、好きなものがいっぱいあった)
嫌なことや辛いこともいっぱいあったのに、もうあまり思い出せない。
麻耶の記憶は遠く、だんだんと薄い膜がかかってるようなそんな感じになってきている。何だろう、自分のことのはずなのに、ビデオか何かで見ている感じ。
でも、そのことが私には嬉しい。
アルティリエであり、麻耶である私……アルティリエの記憶はほとんどおもいださないけれど、私は自分がアルティリエであることを疑ったことはない。
どちらでもあり、どちらでもない今の私を、私は大切にしようと思う。
(大切に生きるのだ)
生きること。
何かを為すことなんかできなくてもいい。
ただ、私はこの世界のこの国……ダーディニアで生きていく。
(たぶんそれがアルティリエの願い)
私がなぜここにいるのか……それは、アルティリエが生まれかわって生きることを願ったからだと思うのだ。
(あの冬の湖で)
こんこん、という軽やかなノックの音とともに声がかけられる。
「妃殿下、殿下のおなりにございます」
扉が開かれる。
別に寝転がっているわけではないから、いつ開けられても困らないけれど、ちょっと目を見張った。
「……どうして?」
思わず、聞き返してしまった。
今日の予定にそんなことはなかったはずだ。
「……妻に会いに来るのに理由が必要か?」
目の前に、私の夫たるナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエ殿下の姿があった。
それは、相変わらず絶好調の冷ややかさだった。表情がとても険しい。
執務室からそのままおいでになったのだろう。服装が外向きのものだった。
ぶるり、とミレディと新人の侍女見習いの子が身体を震わせている。
最近の殿下は、その声と眼差しで気温を下げるのだと噂されているのだけれど、これを見るとそれもありかもと思えるから不思議だ。
陛下がお亡くなりになって、殿下はお変わりになったと誰もが言う。
これまでの誰にでも優しい殿下、はどこにもいない。
(最初から、そんな人いなかったんだけど)
今の方がずっと素の殿下に近いと思う。
「はい」
私は殿下が会いに来てくれたことがうれしくて、でも、深くうなづく。
「妻なのにか!」
殿下が、目をぱちぱちとしばたかせた。
私のその返しは、どうやら想定外だったらしい。
「妻だからです」
私は笑う。
「ちゃんと会いたかったからって言ってくれませんと」
ナディル殿下はきょとんとし、それから、釣られたように笑った。
「そうか、ちゃんと言わなければダメか」
「はい。言ってくださったら、私、もっと嬉しくなれます」
私は、はにかんだ笑みで殿下を見上げた。
立ち上がっても、まだ身長差はまったく縮まっていない。
殿下は困ったように笑って、それから私の前で膝をつく。
「……会いたかった、ルティア」
そっとまるで宝物を扱うように大切に抱きしめられた。
殿下の香水なのだろうか……どこか柑橘系の香りが周囲に広がる。
この腕の中にいれば、何があっても大丈夫なのだと思える安心感。
「私もお会いしたかったです、殿下」
自然と会いたかった、という言葉が口をついて出る。
お世辞とか、計算とかそういうものではなく、ただ、それだけの想いでいっぱいになってしまう。
びくっと殿下の肩が揺れた。
あれ?何かまずった?
「……どうかしましたか?」
「……不公平だ」
「はい?」
「そこは、名前で呼ぶところだろう」
殿下は大真面目だった。
「わかりました」
私はちょっと笑いたい、と思いながらも、そこで笑いをこらえる。
だって、ここで笑ったら絶対に面倒くさいことになる。
それから、軽く深呼吸をして、その名を呼ぶ。
「…………ナディルさま」
私だけが呼ぶことを許されている名を、唇にのせる。
大切な名を、大切に呼ぶ。
それは、とても幸せなことなのだと、私は知る。
「もう一度」
「はい」
私は素直にうなづく。
「……ナディルさま」
何度呼んでも、それは慣れることがなく。
呼ぶたびに幸せがこみあげる。
「うん」
ナディルさまは、満足そうに笑った。
それを見た新人の侍女の子がぽーっとのぼせたような表情をしている。
うん。仕方がないよね。ナディルさまはステキだもの。
ふふん。妻である私は寛大なのです。
ぽーっとしてたり、きゃあきゃあ騒いでいたりしても何も言いませんよ。
いちいちそんなことに目くじらたてていたら神経がもちません。
何たってナディルさまはすっごくモテるんですから。
「今日は一緒に夕食をとれないかと思ってね」
ナディルさまのお誘いに思わず笑みがこぼれる。
「嬉しいです」
思わずぎゅっとその首筋に抱きついて、それから少し身体を離して、ナディルさまを見上げる。
抱きついているのも好きだけど、ナディルさまの顔が見えないのは寂しいのだ。
「まあ、まだ服喪期間中だから、たいしたものは出ないが……」
「ナディルさまと夕食がとれるだけで嬉しいです」
現在は、半年前に薨去なさった国王陛下の服喪期間中である。
服喪期間は食事もいろいろと慎んだものとなる。
元が軍の携帯糧食で構わない方なので、何を出されても文句はないのだろうが、私を気遣ってくれる。
私ももちろん、服喪期間なので保存食以外の肉、魚類を使った食事はしていない。
ただ、私のところはレパートリーが豊富なので、本宮の料理長が作ったものよりもナディルさまのお気に召すことが多いのだ。
朝食は一緒!を毎日実践していますよ。
餌付け計画はとっても順調なのです。
ただ、元々、忙しかったナディルさまだけど、最近は環をかけて忙しい様子なのが心配だった。
陛下がお亡くなりになったことで、これまで陛下のされてきた仕事も回ってきたこと。それから、それに伴うこの本宮への引越しや、エサルカルのクーデター事件の後始末や、それと関連した出兵の後始末……あげればキリがない。
仕事が後から後から湧いてくる状態なんだそうだ。
フィル=リンなんか、見るたびに真っ青な顔してる。
「嬉しいことを言ってくれるのだね、ルティア」
ナディルさまはそっと私の髪を撫でる。
優しい手つきがくすぐったくて、うれしくてじたばたしたくなる。
うん。挙動不審な言動はしないように心がけています。
私、ナディルさまの妃ですから。
「あー、殿下、そろそろ執務室に戻ってくれませんかねぇ」
ものすっごく渋い顔をしたフィル=リンだった。
「フィル=リン、久しぶりですね」
「ええ。姫さんもお元気そうで」
「はい。殿下のおかげです」
「……なあ、その二言目には惚気るのってクセ?もうクセになってんの?」
「はい?」
半眼でこっちをしらっと見ているフィル=リンに首を傾げる。
「いいじゃないか、可愛くて。私は嬉しいよ、ルティア」
「ありがとうございます?」
意味がわからないけれど、ナディルさまがにこっとしてくれたので、私もにこっと笑う。
「あのさ、砂吐きそうなんですけど!どうしてあんた達、そうなんだよ!寄ると触ると、甘ったるい空気垂れ流しやがって!!」
フィル=リンがよくわからない逆切れをおこしていて、私とナディルさまは何がなんだかわからなくて顔を見合わせた。
「……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子?」
そして、目の前のフィル=リンにひんやりとした声がつきささる。
それはまさに氷姫の吐息のごとき、凍りついた声が。
「あえっ?」
「……アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子。私、何度も申し上げましたよね?殿下や妃殿下が御気になさらないからってそんな乱暴な言葉遣いはおやめくださいと」
お使いにいっていたリリアだった。
思わず、三歩くらい後ろに下がってしまいそうな様子でにこにこ笑っていた。
王宮というところは不思議で、にこにこ笑っているときほど要注意である。
「あ、え、その……」
「何度申し上げればわかっていただけるのです?」
「あー、申し訳ない。ラナ・ハートレー」
二度としません、といわないのは、フィル=リンの誠実さだろう。
「謝る相手が間違っています」
「申し訳ございません、殿下、ならびに妃殿下」
「うん」
「はい」
私達はその言葉を受け取ったというようにうなづく。
「殿下、殿下もお悪いです。この言葉遣いを野放しにしておくなんて!」
「ああ……すまない。つい、ね。昔のままのようで嬉しくてそのままにしてしまうのだ」
「そう言うのは、お身内だけのときにしてくださいませ」
「わかった」
きりっとした表情で堂々と述べるリリアに、殿下ははっきりとうなづく。
どこか面白がる様子なのは、もう殿下にこんな風に話す人がほとんどいないからだ。
あと二週間で仮喪の期間が終わる。そして、仮喪が明けたら戴冠式だ。
殿下は正式に国王陛下となられる。
(でも、きっと、フィル=リンは次回も同じことで怒られる)
そして、きっとリリアはまた同じようにフィル=リンをやりこめる……場合によっては殿下に意見もするのだ。
(ナディルさまが、それを楽しんでおられるから)
私は、ナディルさまの笑っている横顔を見ながら、自分も笑っていることに気付く。そのことがしあわせだと思えてならない。
(私はここで生きていくから……)
心の中で、先ほど数えていたあちらの思い出に別れを告げる。
(ここで、幸せになるから……)
忘れてしまうわけではないけれど、でもきっと、それはだんだんと遠くなるだろう。
「ルティア」
なんだろう?ナディルさまの声が、いつもよりちょっとだけ険しい響きを帯びている。
「はい」
「……いや、こういうことはちゃんとするべきだな」
殿下は、腕の中の私をそっと床に下ろした。
それから、私の前に膝をつく。
「ナディルさま?」
いったい何事なのか。膝をついた殿下は、私の右手をとり、その手に額をつける。
「アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーティエ」
「はい」
「このナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエの妻になっていただけますか」
それは、正式な求婚の言葉だった。
既に婚姻は結ばれているから、矛盾があるのはわかっている。
でも、これはナディルさまが、ナディルさまの意志で口にしてくださったのだ。
そのことが嬉しい。
「はい」
嬉しくて、嬉しくて、涙がこぼれる。
本当に嬉しいとき、涙が出るというのは本当だ。
「ナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエは、我が剣と我が魂に賭け、貴女だけを愛し、貴女だけを守り抜くと約する」
そう言って、ナディル様がそっと私の手に口付けた。
簡易なものであったけれど、これで誓約は成る。
次の瞬間、わっと歓声があがった。
「おめでとうございます、妃殿下」
「ありがとう」
「妃殿下、うらやましいですー、あんなステキな求婚してもらえるなんてー」
おとぎ話の中みたいな求婚だった。
女の子が夢見るそのものみたいな。
「しかも、殿下に!」
「殿下かっこいいですー」
「妃殿下、おめでとうございます」
「ありがとう」
侍女達や護衛の騎士達からも祝福の声がかかる。
「……なあ、何で今更なことやってんの。殿下」
「いや、本で読んだのだよ。私達は既に結婚して12年になるわけだが、ちゃんとこういうことはしなければなるまい。私達は年齢差があるし、生活範囲もまるで違う。そんな相手に気持ちを察せよ、というのは無理な話だ。……それに、いつも素直な心のままに私を大切にしてくれているルティアに、私もちゃんと返さねばなるまい」
私ばかりがもらう一方では続かないだろう、とナディル様が笑う。
今日は、笑顔の大安売りの日ではなかろうか。
「ナディルさま」
「何だい?」
ナディルさまはいつも私と目線の高さを合わせるために膝をついてくれる。
「私は、ナディルさまの隣に立ちます。いつも一緒です」
「うん」
「………大好きです」
愛してる、とは言えなくて、ただ大好きだと告げる。
それが私の精一杯だった。
耳元が暑かった。きっと真っ赤になってるだろう。
おかしい、33年の経験値はどこに行った!と心の中で突っ込むほど。
「うわ、あざとい、姫さん、あざとすぎる!」
フィル=リンが真面目くさった顔でわけのわからないことをつぶやいていて、ナディルさまが口元をおさえてうつむいていた。
「その表情は、反則だ」
反則?何が?
こんなに真っ赤で恥ずかしいのに。
「……ナディルさま?」
答えはなくて、私はその腕の中にぎゅうっと抱きしめられた。
なんちゃってシンデレラ END
2013.10.26 更新
実に四年半にわたる物語におつきあい、ありがとうございました。
後ほど改めてあとがきを書かせていただきます。
ただ、これだけは言わせていただきたい。
ここの、読んで下さっている皆様のおかげで最後まで書けました。
ありがとう。